綺麗事
文字数 983文字
突然ですが、私は「綺麗事」というものが好きです。
子供の頃や若い頃は嫌いでした。「偽善だ」などと物の分かったふりをして、批判したり斜に構えたりした方がカッコいいと勘違いしてました。
でも大人になり、綺麗事の大切さを学びました。
私は決して人格者でもなく、優しくもなく、正しい人間でもありません。だから、私のような人間には綺麗事が必要なのだと思います。
言霊という考え方がありますが、綺麗事を口にすれば、自分を縛ることが出来ます。
ネットという匿名の世界にいると、見ていて哀しくなるくらいに残酷なことを言う人を見掛けることがあります。
逆の方が良いのに、と感じます。
もし現実の私に会ったら、大して好い人でも優しい人間でもないことはすぐに看破できるでしょう。でも現実でなければ、言葉の世界だけの付き合いであれば、人に優しくすることは現実よりずっと簡単です。
私は「混沌譚」という物語の中で、ものすごく綺麗事を書いています。登場人物たちは強い信念を持ち、それを貫くためには犠牲を厭いません。
自分が可愛くて、怖がりで、何の勇気も持たない私が、なんて綺麗事の物語を紡いでるんだろうと自分で呆れることがあります。
でも現実では弱虫の自分だからこそ、信念を持つ人物像に憧れ、こういう物語を書くんだろうな、とも思います。
ええと、何が言いたかったかというと。
人の命について、病について、軽々しい言葉を発信する人たちは、現実の世界でも死にゆく人に対して、病を持つ人たちに対して、あんな言葉を投げかけているのでしょうか。
それとも匿名だから、幾らでも残酷なことが言えるのでしょうか。
私はWEB小説投稿サイトに作品を公開し始めて、WEB上ではいい人のふりをするのも、人に優しくするのも、現実よりずっと簡単だと感じました。
なのに何故、残酷な言葉を紡ぐ人がこんなに沢山いるのか、不思議です。偽善はダサい、ナイーブなのはダサい、批判した方が賢そう、物を分かってるように見える、そんな価値観なのでしょうか。
私は別にバカでいいな、バカと思われてもいいな、と思います。
「混沌譚」も、ただの綺麗事って言われても構わないやって思います。
現実にはただの保身的で卑怯者の人間ですが、せめてWEBの虚構の世界の中でくらい、信念を持った人間のふりをしていたいと思っています。
二〇二〇年十二月一日
子供の頃や若い頃は嫌いでした。「偽善だ」などと物の分かったふりをして、批判したり斜に構えたりした方がカッコいいと勘違いしてました。
でも大人になり、綺麗事の大切さを学びました。
私は決して人格者でもなく、優しくもなく、正しい人間でもありません。だから、私のような人間には綺麗事が必要なのだと思います。
言霊という考え方がありますが、綺麗事を口にすれば、自分を縛ることが出来ます。
ネットという匿名の世界にいると、見ていて哀しくなるくらいに残酷なことを言う人を見掛けることがあります。
逆の方が良いのに、と感じます。
もし現実の私に会ったら、大して好い人でも優しい人間でもないことはすぐに看破できるでしょう。でも現実でなければ、言葉の世界だけの付き合いであれば、人に優しくすることは現実よりずっと簡単です。
私は「混沌譚」という物語の中で、ものすごく綺麗事を書いています。登場人物たちは強い信念を持ち、それを貫くためには犠牲を厭いません。
自分が可愛くて、怖がりで、何の勇気も持たない私が、なんて綺麗事の物語を紡いでるんだろうと自分で呆れることがあります。
でも現実では弱虫の自分だからこそ、信念を持つ人物像に憧れ、こういう物語を書くんだろうな、とも思います。
ええと、何が言いたかったかというと。
人の命について、病について、軽々しい言葉を発信する人たちは、現実の世界でも死にゆく人に対して、病を持つ人たちに対して、あんな言葉を投げかけているのでしょうか。
それとも匿名だから、幾らでも残酷なことが言えるのでしょうか。
私はWEB小説投稿サイトに作品を公開し始めて、WEB上ではいい人のふりをするのも、人に優しくするのも、現実よりずっと簡単だと感じました。
なのに何故、残酷な言葉を紡ぐ人がこんなに沢山いるのか、不思議です。偽善はダサい、ナイーブなのはダサい、批判した方が賢そう、物を分かってるように見える、そんな価値観なのでしょうか。
私は別にバカでいいな、バカと思われてもいいな、と思います。
「混沌譚」も、ただの綺麗事って言われても構わないやって思います。
現実にはただの保身的で卑怯者の人間ですが、せめてWEBの虚構の世界の中でくらい、信念を持った人間のふりをしていたいと思っています。
二〇二〇年十二月一日