第2話:成宮賢がマイコンに夢中とソニー入社

文字数 3,525文字

 成宮時達は1955年、人事部の取締役になり優秀な人材を発掘する仕事をした。そう言う事もあり自分の息子にも期待していたが残念な事に一人っ子の成宮豪気は小さい時から特徴のない子で新しもの好きで特に猛勉強することもなくアメリカ音楽ばかり聞いて努力しない現代っ子に育ってしまった。そして、その後、銀行員をめざして東京都立大学を卒業し、埼玉銀行に入社。

 その後、1952年6月17日、同じ銀行の後輩の成宮桂子と結婚した。翌年、1953年10月21日に長女・成宮照子が生まれ、その2年後、1955年2月24日に長男・成宮賢が誕生した。成宮時達は、自分には子供が1人しかいなかったので2人の孫が出来て大喜びした。そして息子で果たせなかった夢を孫達にと教育費には投資を惜しまなかった。

 長女・照子は、現代っ子というか男勝りというか、あねご肌で大胆な行動をとるので、両親をハラハラさせた。負けず嫌いで勉強でもわからない所は完全に理解するまで徹底的に追求するタイプ。口が達者で語学の才能があり英語が一番好きで暗記力が抜群。下手な事を言うと、いつまでも、追求されて、彼女の術中にはまってしまう。

 でも心優しい所もあり頼もしい可愛い子に育っていった。彼女は上智大学を卒業してカリフォルニア大学サンディエゴ校に留学して米国に渡りアイビーエムに就職した。長男の成宮賢は目から鼻に抜けるという感じで、とても賢く物事の判断が早く、抜け目がない。成宮時達は多分、彼が一番俺の血をひいたのだろうと目を細めて喜んだ。天才肌で何でも直ぐ理解し集中力抜群。

 まさに天才肌という感じ。中学は学年トップの成績。特に夜遅くまで勉強していたという訳ではなくサッカー部に在籍し当時流行していたビートルズ、カーペンターズ、サイモン&ガーファンクルなど洋楽を楽しんで曲の内容を知るために英語も熱心に勉強していた。その後、1970年、東京都立国立高校に合格し英語検定試験も高校1年で2級、高校2年で1級を取得した。

 夜遅くまで猛勉強と言うのではなく集中力に優れていた。そのため勉強、音楽を聴いてる時は成宮賢が自分の部屋のドアに進入禁止と書いたほどだ。また勉強してる時、話しかけられることを極端に嫌った。その後、彼は優秀な成績で父の期待通り1973年、東京大学工学部電子工学科に合格した。大学ではコンピューター研究会を作りアメリカからの情報をいち早く入手した。

大学2年の時、最初、インテル 8080、i8080はインテルによって開発された8ビットマイクロプロセッサであり1974年4月に発表され、これからのパーソナルコンピュータ時代の心臓部に使われると予想した。続いて、そのマイクロプロセッサ・8080をCPUに使ったアメリカの1974年12月発売のAlrair8800の情報を入手しコンピューター研究会で検討。大学3年の時、コンピューターの巨人アイビーエムが発売のアイビーエム5100の情報をいち早く入手した。

 そしてアイビーエム5100はPALM「Put All Logic in Microcode」という16ビットのCPUモジュールが使用されている。アイビーエム 5100のメンテナンスマニュアルでは、このPALMモジュールを「コントローラ」と呼んでいた。PALMは直接64キロビットのメモリを扱うことができ、またアイビーエム 5100にはExecutable ROSと呼ばれるROMと合計で64キロビット以上のRAM領域があった。

 更にトグルスイッチを用いた簡素なバンク切り換え機構で運用された。ユーザーが入力したAPL/BASICインタプリタは、PALMが周辺機器を扱う別々のLanguage ROSアドレス空間に保存する事が出来るとわかり、どんでもないアイビーエムの実力に驚かされた。もう既に1時代先を走っていたのだ。ディスプレイ、キーボード、記憶媒体・磁気テープが一体となっている姿を見て、これからのパソコンの原型になると予想した。

 それから遅れること1年、1976年8月に日本初のパソコンのトレーニングキットとして、TK80を発売した。日本電気はTK-80 ・トレーニングキット μCOM80 とは、日本電気 の半導体事業部・現在のルネサス エレクトロニクスが1976年8月3日に発売した、マイクロコンピューターシステム開発のためのトレーニングキットである。高価な端末装置を必要としないという点が当時のアマチュアの目に留まりTK-80は本来の意図とは異なり相当数がコンピュータマニアに購入された。

 もう少し開発の経緯を解説すると1976年2月、日本電気は半導体事業部にマイクロコンピュータ販売部を設立し、マイクロプロセッサの販売のために開発環境の供給を開始した。しかし、顧客の元へ訪れて説明しても、なかなかマイクロプロセッサを理解してもらえない状況にあった。同じ頃、日本電気は日本電信電話公社横須賀通信研究所のある研究室から新人教育用のマイクロ
コンピュータ製品の開発を受注することになった。

 同部門の後藤富雄は部長の渡辺和也に教育用キットの開発を提案した。後藤はTK-80の主要部分を設計し、加藤明が詳細設計を行った。後藤はKIM-1の写真からアイデアを取り入れた。KIM-1はソフトウェアで現在のアドレスを表示するようになっていたが、CPUがハング・暴走するとディスプレイが消えてしまう。TK-80は555タイマーICを使ってCPUに割り込みをかけるダイナミックディスプレイを採用した事で常に現在のアドレスを表示できるようになった。

 それに加え、TK-80はCMOSバッテリ機構を搭載していた。後藤はオープンアーキテクチャであったPDP-8の影響を受けて、TK-80のマニュアルに回路図やデバッグ・モニタのアセンブリコードを掲載することにした。TK-80は1976年8月3日に発売された。当時の技術者の課長が決済できる88,500円の価格にされた。

 日本電気は1976年9月13日に秋葉原ラジオ会館にてサポートセンター「ビット・イン」を開設した。すると、多くのTK-80が電気技術者だけでなく経営者、マニアや学生などにも売れていることが判明した。成宮賢もマニアの1人として秋葉原ラジオ会館の「ビット・イン」に入り浸って情報収集していた。TK-80は月二百台の販売予測に反し、月二千台を販売。

 この成功を受けて、すぐ、他の日本のマイクロプロセッサメーカーはそれぞれのマイクロプロセッサ用に評価キットを開発した。サードパーティからは電源や周辺機器などが登場した。TK80について成宮賢が所属する東大のコンピューター研究会の仲間達も秋葉原のビット・インに入り浸るようになりパーソナルコンピューターの未来について語り合うようになった。

 当時、日本では、Altair 8800は1975年に販売されていたが、輸入仲介手数料が高いため売れなかった。アップル IIやPET 2001も同様であり高嶺の花だった。その時、日本電気の研究者から、近いうちに日本でもトレーニングキット出なくて本物のマイクロコンピューターが発売されると、内緒で、教えてもらっていた。

 この同じ年1976年にアップルコンピュータを設立したスティーブ・ジョブズが、ガレージで製造したワンボードマイコンのアップル I・スティーブ・ウォズニアックによる設計を販売、ごく少数販売したが、翌年1977年に発売したアップル IIは大成功を収め、同社の基礎を作るとともにパーソナルコンピュータの普及を促した。

 これは整数型ベーシック・インタプリタをROMで搭載しキーボードを一体化、カラービデオディスプレイ出力機能を内蔵したもので、今日のパーソナルコンピュータの基本的な構成を満たしている。アップルⅡはオープンアーキテクチャであったため多くの互換機をも生み出すこととなり、同時にシェアも奪われることにつながった。後に互換機メーカーへの警告や提訴を行ったが互換機メーカーがなくなることはなかった

 。これによってコンピューターの巨人、米国アイビーエムと異端の天才と呼ばれたスティーブ・ジョブズのアップル、日本では日本電気がマイクロコンピューターの開発競争の火ぶたを切った。1977年3月、成宮賢は東京大学工学部電子工学科を卒業し祖父の成宮時達の務めるソニーに鳴り物入りで入社した。その時に日本では1979年に本格的マイクロコンピューター
PC-8001が登場し好評を博した。
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