第3話 確かな希望
文字数 3,070文字
僅かに春の柔らかい日差しがカーテンの隙間から差し込んでいる。
「慎二、起きなさいよ!」優しく声をかける。慎二がゆっくりと目を開けると、尚子は彼に笑顔を向けた。
朝の支度はいつもシングルマザーにとって一つの挑戦だ。一人で子育てをしながら、仕事にも精を出す生活は決して容易ではないが前向きに受け止めてはいる。しかし、日本中、いや世界中の女性たちが、どうやってこの激務をこなしているのだろうか?、、と不思議に思える時がある。
慎二の朝食を済ませ、学校へと送り出し、尚子は出勤前に、いつものように鏡の前で立ち止まり自分自身を見つめるルーティーンを行う。
今日は、動きやすいストレッチが効いたグレーのストレッチパンツと白いブラウス、ネイビーのニットの組み合わせてボブカットの髪の毛をわずかな整髪料で整える。
「今日もまた私の頑張りが試される。けど、悔いのない様に生きよう!私!」鏡に映る自分に言い聞かせた。
家の外に出ると、尚子は深く息を吸い込む。新鮮な朝の空気が、これから始まる一日への活力を与えてくれた。ひだまりヘルパーへと向かう道すがら、心の中で今日のスケジュールを確認する。
今日もまた多くの人々の役に立てることへの期待でいっぱいだわ!
歩いていると、前方から高橋が現れた。高橋は尚子と同じ年齢で、ひだまりヘルパーで働き始めて直ぐ仲良くしてくれた良き先輩だ。
「おはよう、尚ちゃん!早いね」と高橋が笑顔で挨拶する。
「おはよう先輩!ゆりちゃん!新人は、早く事務所に来てないと印象悪いし、仕方ないね。」軽く舌を出した。
「ゆりちゃん、それ『アネロ』のバックパック?」
「そう!シンプルで可愛くて機能的で好きなんだぁ」高橋が徐に鞄の中から高齢者ケアの資料や薬事典、緊急時用医療用品を取り出した。
「うわ!さすが先輩!プロだ!私なんか、、」尚子は、『MUJI』のトートバックからCampusノートを取り出した。
「尚ちゃんも実用品を鞄に入れてる!2人ともシンプルな鞄!なんか私たち、似てるね!」2人は大笑いした。
しばらく並んで歩きながら、それぞれの息子の事、似ている趣味のこと、鞄や服の事等様々な話題で盛り上がったが、あっという間にひだまりの事務所に着いてしまう。
玄関先に来た時に、高橋が尚子を呼び止めて真剣な表情で言った。
「春田さんが今日は朝から事務所の筈なんだけど、こないだ言った、通りちょっと…」高橋は言葉を濁した。
「春田さん、要注意って事ですか?」と尋ねた。
「うん、覚えてたら良い!弱みを見せるとハイエナみたいに食いついてくる!マトモに相手したらダメ!屁理屈で論破してくるから、何でもハイハイ。だよ!」
尚子は心の中で高橋の言葉を反芻し、感謝の意を表しながらも、春田に対する緊張感を少し覚えた。
高橋の後に続き、尚子は深呼吸をして事務所の扉を押し開けた。
「おはようございます!」尚子の明るい挨拶が、まだ静かな事務所内に響く。
「、、おはようございます。」春田真由美が奥のデスクから顔を上げ、一瞬の間をおいてから返事をした。
尚子は初対面の挨拶をしようと、春田真由美の机へと歩み寄っていく。
「村田尚子と申します。どうぞよろしくお願い、、」春田は尚子の挨拶を制するように言葉を差した。
「あの、村田さん。こないだの田中香子さんのお宅でのことだけど…」春田の声には厳しさが込められている。
尚子は心の準備をしながら、春田の言葉に耳を傾けた。「はい、何か問題がありましたか?」
「問題があるというか…」春田は少し言葉を濁しながら、尚子の目をじっと見つめた。
「利用者にプライベートの話をすることについてなんだけど、あなた、香子さんに離婚の理由を話していたそうね!昨日、訪問時に香子さんがそう言ってたわ!」
尚子は一瞬、言葉を失った。確かに田中香子との会話の中で、自然と心を開き、自分の経験を共有していた。それが、そんなに問題になるのか?と尚子は思ったが、春田の視線からは厳しさが読み取れた。
「ええ、そのとおりです。でも、香子さんに信用してもらわないと…」
「村田さん!利用者との関係はプロフェッショナルでなくてはならないの!私達の仕事は、利用者との心のケアも含まれているけれど、自分のプライベートを話すことで利用者を巻き込むのは避けなければならないのよ!」春田の言葉は、間違ってはいない。しかし、、その言葉の裏にある意図が伝わってきた。…わざわざ、入職したての新人を朝から正論で叱る事なの?
「わかりました!今後は気をつけます。」尚子は声を落として答えた。高橋の助言通りに反論しない様にしようと思ったが、疑問が湧き上がり次の瞬間、口を突いて出た。
「多少のプライベートな話も絶対ダメなんですか?信頼関係がない、、、」尚子の反論を無視して、それに応える様に、春田が大きな声で言葉を差し重ねた。
「それと!訪問介護記録の書き方!もう少し丁寧にね!あなたの報告書は情報が足りない!具体性がない!誰が、何を、どうやって、5W1H…」春田の言葉は尚子の想いを無視し、追い詰めるだけの様に思え、尚子の心は重く沈んでいった。
何を言ってもダメだ。これが、ゆりちゃんが注意してくれていた事だったんだ。
その時、事務所の扉が静かに開き佐藤美紀が入ってきた。彼女の穏やかな笑顔に、尚子の緊張感が少し和らいだ。
「皆さんおはよう!、、あ、春田さん?朝から何かあったの?」佐藤は冷静に尋ねながら、春田と尚子の気配を察して2人の間に立った。
「あ、いえ、訪問介護記録の書き方について村田さんに話していました。」春田は少し言葉を濁しながら答えた。
「村田さん、ちょっといい?」佐藤は尚子に穏やかな笑顔を向けながら声をかけた。尚子は救われた様に自然と心が軽くなるのを感じた。
「はい、何でしょうか?」
「今日の訪問先について確認しましょう!」佐藤はそう言うと、尚子を隣の小会議室へと誘った。
小会議室に入ると、佐藤は資料をテーブルに広げた。資料には、訪問する利用者の情報、必要なケアの詳細、そして訪問介護員が注意すべきポイントが丁寧にまとめられていた。
佐藤の訪問先についてのレクチャーが始まった。
「今日同行訪問するのは、松下さんというご夫婦のお宅です。奥様の松下雪子さんは要介護3で、おむつ交換が必要ですが、夫の松下幸一さんが基本的に介護をしてらっしゃるので、幸一さんができない生活援助中心のプランになっています。しかし、夫の松下幸一さんは最近、膝の手術をされたばかりで、お二人の生活援助と奥様の身体介護にも支援が必要です。」尚子はメモを取りながら、佐藤の話に耳を傾け続ける。
「松下幸一さんは、とても気さくな方で、話し相手をとても喜ばれます。限られた生活援助の時間や必要な身体介護の時間内に限られるけど、村田さんの人生経験や人柄を活かした会話をして、利用者様一人ひとりに合わせたケアを心掛けてくださいね。そして、一定以上のプライバシーに関わる会話には気をつけて、ね!」佐藤は尚子に笑みを投げかけた。その笑みには、佐藤の尚子を支える意志が感じられ、尚子は満面の笑みを佐藤に返した。
「尚子さん、何か不安なことや心配なことがあれば、いつでも私に相談してくださいね。私たちはチームですから。」その後も、新人ヘルパーが直面しやすい困難や疑問についても触れ、いつでも相談に乗ると伝えられた。
「ありがとうございます、佐藤さん。頑張ります!」尚子は心からの感謝を込めて答えた。
2人は松下さん夫婦宅に訪問へと向かった。