第3話 煙が目にしみる

文字数 3,087文字

 『焼肉いこう』
 しばらく音沙汰がなかった彼からある日とつぜん届いたのは、たった一行のメール。ひさしぶり、とか、最近どうしていた、とか、そういう前置きなどいっさいない、(いさぎよ)いくらいの単刀直入ぶりに、思わず「はあ?」と声が漏れる。
 行くけど。もちろん。
 焼肉に誘われて断る人間がいるだろうか。いや、いない(反語)。
 『いつ?』
 こちらも負けじと端的な返信をする。すぐさま反応が返ってくる。
 『今夜は?』
 ずいぶん暇人(ひまじん)と思われているようだ。そのとおりだけど。
 『いいよ』
 『じゃあ、いつもの店で』
 『了解』

 焼肉屋といってもいろいろある。個人経営のちいさな店から、目玉が飛び出るような高級店まで。
 「いつもの店」は、個人経営ながらも市内に複数の店舗をかまえていた、お手ごろ価格の人気の焼肉店だ。それがいまでは本店の一店舗を残すのみとなっている。例のウイルス蔓延(まんえん)によって大打撃を受けたためだ。よく持ちこたえてくれた、と思う。

 待ち合わせは、十八時半。十分ほどまえに店のまえに着く。
 店は繁華街のなかにあり、周囲には雑多な飲食店が軒を連ねている。数年まえまでは賑わっていたこの界隈(かいわい)も、いまでは空き店舗が目立つ。ウイルスは収束したといわれているが、ひとの流れは以前のようにはまだ戻らない。
 ウイルスは日常を根こそぎ()ぎ倒し、深すぎる爪痕(つめあと)を残していったのだ。

 彼は待ち合わせ時間ぎりぎりにやって来た。
「よう」
 仕事帰りなのだろう、まともなスーツ姿で現れた彼を見てホッと息をつく。この男はすこぶる男前なくせにファッションセンスだけは壊滅的で、ありえない色合わせの服を平気で着て歩く。学生時代からだ。見てくれがいいのでどんな奇抜なファッションもそれなりにサマになるのが憎らしいが、道行くひとがかならず振り返るので、いっしょに歩くのはけっこう恥ずかしい。
「時間ちょうどだな。とりあえず入ろう」
 腕時計を確認してそううながす彼に、うなずいてあとに続く。どうやら予約していたらしく、出迎えた店員に名前を告げると奥の席へと案内される。早い時間のためか、いつもこうなのかわからないが、店内は空いていた。

「おれは烏龍茶、おまえは?」
「ぼくも同じでいい」
 水とおしぼりを運んできた店員にひとまず飲みものを注文すると、彼は上着を脱いでネクタイを緩める。その左手の薬指にはシンプルなデザインのリング。
 痩せたな、と思う。やつれたというべきか。彼が退院してからもうずいぶん経つはずだが、その姿が闘病生活のすさまじさを物語るようで、胸が痛む。
「好きなもの選べよ」
 メニュー代わりのタブレットを差し出されてあわてて受けとる。
 好きなもの、といっても、互いの好みはとうに把握済みだ。なにしろ学生時代からこの店を利用しているのだ。いまさらである。
 ああ、でも。
「ぼくはいつもと同じでいい。瀬名(せな)は、その、大丈夫なのか」
「なにがだ」
「味覚とか」
 瀬名は、ああ、とうなずくとなんでもないようにいった。
「問題ない。もともと大して違いのわからん大雑把(おおざっぱ)な舌だからな」
 それはそれでどうなんだ、と思うが、たしかにこの男はむかしから味にはうるさくない。なんでもうまそうに食べる。
 いつもと代わり映えのない注文を済ませると、マスクを外し、先に届いていた烏龍茶を手にとる。
 いちおうの収束宣言がなされたとはいえ、いまだにマスクをしているひとがほとんどだ。それほどまでにあのウイルスはひとびとに恐怖を植えつけていった。
「お疲れさん」
 グラスをカチンと合わせてストローに口をつける。ふっと、瀬名が笑った。
「なに」
「いや、おまえ、そうやってストローくわえるときに眉間(みけん)(しわ)寄せるの、変わってないなと思って」
 ますます眉間に皺が寄るのが自分でもわかる。
「怒るなよ。かわいいなと思ったんだ」
 思わず動揺したのがばれていないことを願いながら意味もなく指先で眼鏡を押しあげる。
「いい歳した男相手にかわいいもなにもないだろう」
「仕方ないだろ。そう思ったんだから」
 この

め、と心のなかで毒づきながらストローを(もてあそ)ぶ。

 空いているせいか、さほど待つことなく注文した肉が次々と運ばれてくる。肉が来たら、あとはひたすら焼いて食べるだけだ。
「焼肉、ひさびさだな」
 カルビを飲み込んで瀬名がしみじみとつぶやく。
「そうだな」
 ()()なく聞こえたかもしれないが、ことば以上の思いがそこには込められている。
 こうしてあたりまえのように瀬名とテーブルを囲む日がふたたび訪れたことが、どんなにうれしいか、ことばではとてもいい表せそうにない。
「瀬名が元気になってよかったよ」
 そういうだけで精一杯だ。
「サンキュ。心配かけたな」
 心配するくらいなんてことない。

と思う。

 瀬名は、ウイルスに感染して生死の境をさまよう状態に陥ったらしい。
 らしい、というのは、ぼくにはそれをたしかめるすべさえなかったためだ。重症化するまえに瀬名自身がメールで知らせてくれたのと、彼の細君(さいくん)が、瀬名の端末から状況を報告してくれたから、それを知ることができた。厳重に隔離されていたため、家族でさえ、そばで看病することもできなかったという。
 家族ですらないぼくが、見舞いになど行けるはずもなく。
 まんじりともしないで、ひたすら端末を見つめる日々が続いた。人生ではじめて神に祈った。神でも仏でも、悪魔でもかまわない。瀬名を助けてくれるならなんでもする。だから彼を助けてください。どうか。
 その願いが聞き届けられたのか、いや、おそらくは、日ごろから慈悲深い女神のような細君のふるまいが神の目にとまったのだろう。
 瀬名はこちら側に戻ってきた。
 細君からその吉報が届いたとき、ぼくはもう、ほかになにも望むことはないと誓った。

 この想いは永遠に封印する。
 だれにも明かすことはない。
 墓場まで持っていく。
 ぼくは一生、ひとりでいい。
 瀬名が生きていてくれるなら、それだけでいい。
 彼がほかのだれかといっしょでもいい。
 彼が生きて、しあわせでいてくれるなら、ほかになにも望むことはない。

「おまえのおかげだよ」
 ふいに、神妙な顔つきで瀬名がつぶやく。網のうえではハラミが食べごろになっている。彼はトングでそれをつまむとぼくの取り皿に入れた。
「治療を受けているあいだ、たぶん、おれは意識がなかった。あっても悪夢でしかない。でも、なんでだろうな。おまえが泣いているのが見えた。見えた、というのは違うのか。どういえばいいのかわからんが、とにかく、おまえが泣いていたんだよ」
 そういいながら、焼けたハラミをどんどんぼくの皿に寄越してくる。
「家族を亡くしても泣かなかったおまえが泣いているんだ。よっぽどのことだろう。どうした、なにをそんなに泣いているんだ、と聞こうにも、そのすべがない。動けないんだ。くそ、なんだよこれ、ふざけるな。おれが行ってやらないとおまえ、ひとりで泣くしかないだろう。ほかに友だちもいないしな」
 余計なひとことをいいながらも瀬名は真顔で続ける。
「気がついたら、というか、

。おまえのおかげだ」
「そんなこと、」
「もちろん、カミさんにも心配かけた。感謝している。おれを生かそうと必死で助けてくれた医者や看護師のみんなにも。おれは助かったんじゃない。生かされたんだ。おれの力じゃない。おれ以外のだれかに」
 そこではじめて、瀬名は表情を崩す。困ったような顔をしている。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「おれはおまえに泣かれると弱い」
「泣いて、ない」

 煙が目にしみるだけだ。
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