第1話
文字数 1,631文字
彼は死んだ。とにかく死んだ。
乳白色の霧に包まれて、少し先も見えない湿原のようなところを歩いていた。なんだかせせらぎのような音がするなと思いつつ、気のせいかとも考えていたら、突然、足下に水面が現れた。川なのか流れがあるらしく、水の上には風のせいか三十メートル先ぐらいまで見えていた。向こう岸にはライトのような明るい光があって、とにかく向こう岸に渡らねばならないという衝動にかられた。
水を触るととても冷たくて泳ぐ気がしないので、橋でもないかと岸を歩いて行くと霧の先にぼんやりと何か見えてきた。
それは人だった。驚いた。
それも十メートルぐらいの木船に人が乗って座っている。二十人くらいの中に外国人の姿もあって乗るすきまが少ししかなさそうだ。
船の先にひとり立っていて、長い棒を持っていた。小さい傘のような帽子をかぶっていて、傘の下の顔は皺がきざまれている。
とにかくこれに乗せてもらいたい。渡りに船だ。
と思っていると、霧の中から人が出てきて船頭に何か渡して、さっさと船に乗って座ってしまった。
先を越された。もう少ししか乗れなさそう。
その船頭に少し頭をさげ、言う。
「この船に乗りたいんですけど」
「お金いるよ」
そうか、三途の川。六文銭。
真田幸村だって旗に記していたんだ。
身体のあちこちをさがしたが、その六文銭がない。あせってもどこにもない。
そうこうするうちに、また先を越されてしまった。泣きそうになる。
「持ってないようです。六文銭」
「六文銭でよかったのは昔の話。今は六百円いるよ」
「六百円! 六百円もないです」としょんぼりする。
「カードは?」
「カード?」
「電子カード」
「電子カード使えるんですか! でも、それもないです」
船頭は少し困ったような顔をしたが、
「う~んと、それなら後払いでいいよ」
「よかった。後払いでいいんですね」と晴れやかな表情になる。
船頭は身をひいて座れるところを示したので船に乗りこむ。揺れて怖い。いちばん後ろの端に座る。これっていちばん最後の席だったのではないかと思っていると、やはりそうだったようで後ろで船頭が、
「船が出るよーっ」
と声をあげて船が動きだし、光に向かって進みだした。
よかった。やっぱり最後の席だったんだ。間に合ってよかった。
でも後払いってどういうふうに?
まあいいや。船に乗れたんだから。なんとかなるさ。となんだかウキウキしてきた。
向こう岸に渡ったあと、井戸の水をゴクゴク飲んだりして、あっさりまた生をうけた。偶然か必然か、ふたたび男性で渡瀬拓三という名をもらった。彼はすくすくと成長し、学校を卒業し、サラリーマンとなった。
その日も残業ざんまいで、また終電になりそうだった。その終電に乗り遅れまいと急いでいた。すると地下鉄におりる階段の前で、会社員らしいパンツスーツの女性が地面を這うようにして植え込み近くを何かさがしていた。なぜか気になって声をかけた。
「どうかしましたか?」
「あの、お金落として、どこにいったかわからなくなってしまったんです。自動販売機で飲み物とパンを買っておつりをにぎりしめていたらうっかり落としてしまったんです。わたし、これがないとうちまで帰れないんです」と今にも泣きそうだ。
いっしょにさがしている時間はなかった。
「いくらですか?」
「は? あ、六百円です」
「それぐらいならあげますよ」さっと六百円を差し出した。
「え、いいですよ。六百円も」
「さ、遠慮しないで。終電に間に合わせないいと」
「あ、ありがとうございます。かならずお返ししますから連絡先はここです」と名刺を素早く出してきた。
六百円と名刺は交換された。
「さ、行きますよ」
彼は跳ぶように階段をおりて、改札は電子カードで通った。
彼女が終電に間に合ったどうかは知らない。
名刺入れに入れた名刺の名前は「戸原愛」とあり、「とばらあい」の読みで、アナグラム、言葉の並べかえの「あとばらい」となっていることに気づくことはなかった。
乳白色の霧に包まれて、少し先も見えない湿原のようなところを歩いていた。なんだかせせらぎのような音がするなと思いつつ、気のせいかとも考えていたら、突然、足下に水面が現れた。川なのか流れがあるらしく、水の上には風のせいか三十メートル先ぐらいまで見えていた。向こう岸にはライトのような明るい光があって、とにかく向こう岸に渡らねばならないという衝動にかられた。
水を触るととても冷たくて泳ぐ気がしないので、橋でもないかと岸を歩いて行くと霧の先にぼんやりと何か見えてきた。
それは人だった。驚いた。
それも十メートルぐらいの木船に人が乗って座っている。二十人くらいの中に外国人の姿もあって乗るすきまが少ししかなさそうだ。
船の先にひとり立っていて、長い棒を持っていた。小さい傘のような帽子をかぶっていて、傘の下の顔は皺がきざまれている。
とにかくこれに乗せてもらいたい。渡りに船だ。
と思っていると、霧の中から人が出てきて船頭に何か渡して、さっさと船に乗って座ってしまった。
先を越された。もう少ししか乗れなさそう。
その船頭に少し頭をさげ、言う。
「この船に乗りたいんですけど」
「お金いるよ」
そうか、三途の川。六文銭。
真田幸村だって旗に記していたんだ。
身体のあちこちをさがしたが、その六文銭がない。あせってもどこにもない。
そうこうするうちに、また先を越されてしまった。泣きそうになる。
「持ってないようです。六文銭」
「六文銭でよかったのは昔の話。今は六百円いるよ」
「六百円! 六百円もないです」としょんぼりする。
「カードは?」
「カード?」
「電子カード」
「電子カード使えるんですか! でも、それもないです」
船頭は少し困ったような顔をしたが、
「う~んと、それなら後払いでいいよ」
「よかった。後払いでいいんですね」と晴れやかな表情になる。
船頭は身をひいて座れるところを示したので船に乗りこむ。揺れて怖い。いちばん後ろの端に座る。これっていちばん最後の席だったのではないかと思っていると、やはりそうだったようで後ろで船頭が、
「船が出るよーっ」
と声をあげて船が動きだし、光に向かって進みだした。
よかった。やっぱり最後の席だったんだ。間に合ってよかった。
でも後払いってどういうふうに?
まあいいや。船に乗れたんだから。なんとかなるさ。となんだかウキウキしてきた。
向こう岸に渡ったあと、井戸の水をゴクゴク飲んだりして、あっさりまた生をうけた。偶然か必然か、ふたたび男性で渡瀬拓三という名をもらった。彼はすくすくと成長し、学校を卒業し、サラリーマンとなった。
その日も残業ざんまいで、また終電になりそうだった。その終電に乗り遅れまいと急いでいた。すると地下鉄におりる階段の前で、会社員らしいパンツスーツの女性が地面を這うようにして植え込み近くを何かさがしていた。なぜか気になって声をかけた。
「どうかしましたか?」
「あの、お金落として、どこにいったかわからなくなってしまったんです。自動販売機で飲み物とパンを買っておつりをにぎりしめていたらうっかり落としてしまったんです。わたし、これがないとうちまで帰れないんです」と今にも泣きそうだ。
いっしょにさがしている時間はなかった。
「いくらですか?」
「は? あ、六百円です」
「それぐらいならあげますよ」さっと六百円を差し出した。
「え、いいですよ。六百円も」
「さ、遠慮しないで。終電に間に合わせないいと」
「あ、ありがとうございます。かならずお返ししますから連絡先はここです」と名刺を素早く出してきた。
六百円と名刺は交換された。
「さ、行きますよ」
彼は跳ぶように階段をおりて、改札は電子カードで通った。
彼女が終電に間に合ったどうかは知らない。
名刺入れに入れた名刺の名前は「戸原愛」とあり、「とばらあい」の読みで、アナグラム、言葉の並べかえの「あとばらい」となっていることに気づくことはなかった。