実験の箱

文字数 1,518文字

目を凝らして見たその箱の中には私が寝ていた。
とても安らかに寝ていた。どのような夢を見ていればそのような顔で寝れるのだろうと私は思った。
そんなことを考えていると、私は瞼をこすりながらゆっくりと起き上がった。初めて檻の中に入れられたハムスターのように、辺りを見渡しながら、戸惑い、途方に暮れていた。
けがれを知らないかのような純白の服を纏いながら、四方の壁、床と天井、どこを見渡しても全てを拒絶するような真白の部屋の中に放り込まれているのだと、私はようやく気づいたようである。箱の中の私が、私の知っている私だとしたら、私は昨日のことなんて思い出せそうもないし、この先起こりうる未来も知らないのであろう。
私は、部屋の中央をじぃっと見ていた。実を言うと箱の真ん中の部分には、赤いボタンが初めから設置されていた。そのボタンの存在に私は
ここで気がついたようだ。
私の動きはボタンを見つけた途端、停止してしまった。しかし、私はそれを数秒凝視したのち、それを避けるようにして部屋を壁伝いに歩き始めた。見なかったことにでもしているのだろう。部屋を一周したのち、私は目の前の壁を撫でる。ノックする。握った拳を叩きつけ、つま先で思いっきり蹴り上げた。
あぁ、痛そうにしている。見ているだけで痛くなってくる。落ち着きを取り戻したかと思えば、今度は全身で壁に訴えかけ、体力が切れたかと思えば何かを叫んでいた。音は全く聞こえなかったが。そして諦めと同時に隣の壁に移る。
それらの行動手順を四方の壁全てに試しているあたり、私は学習能力というものが欠如した生き物であると推察されよう。
私は観念したらしい。徐ろに体を部屋の中央へと向け、さっきのボタンが見間違いでなかったことを残念に思いながら、確実にそこに設置されているボタンに近づいた。そして観察し始めた。
ボタンの下の台座は部屋と同じ真白であったが、ボタン自体は真紅を極めていた。
私がボタンを押さなかったならば、どうなるのだろうか。私は、ボタンの目の前で腕組みし、しかめっ面を保ちながら、固まってしまった。
おい、これを「ボタン」と呼ぼうか、「スイッチ」と呼ぼうか、そんな呑気なこと考えている場合ではないぞ。
私はなんとなく箱の中へと呼びかけてみたが、私には聞こえない様子である。
私はとても考えていた。時が止まったのではないかと思わせるくらいに。私はいつまで考えているのだろうかと疑ってしまう。とても果てしない気がした。部屋の白さに溶けてしまいそうなほどの空白。
間延びしたこの時間に苛立ちを覚え始めたとき、私は組んだ腕をほどき、ゆっくりとボタンへと手を伸ばした。これを押すか押さまいか、まだ少し迷いながらといったところであろうか。指先と心が震えが、些細な揺らぎを生み出している。それでも確実に指先は空気をこじ開けていく。それなのに、あと少しでボタンに手が触れようとしたところで、私は再び固まってしまった。最後の躊躇。過去の自分への不信とも、未来の自分への恐怖とも受け取れよう。しかし、流石に疲れたのか、あるいは面倒になったのか、すぐに動き始めた。
私は、これはまたゆっくりとそのボタンを押した。するとボタンはズブズブと下の台座に埋まっていき、同時に下の台座がスルスルとせり上がってきた。やがて、台座は箱へと姿を変え、ボタンがそこにあったことの形跡など初めからなかったかのごとくの様相を私に見せつけてきた。箱の上昇は止まり、刹那の間、すべてを膠着させた。
突然、箱は意識を失ったのだろうか、その真白を失い、箱の中を透かせた。

私は透けた箱の中を、目を凝らして見てみた。

その箱の中には私が寝ていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み