第七話  混乱

文字数 3,684文字

 ルビはあの日母親の過去の告白をされてからというもの、抜け殻のようになってしまった。

 ジンを口にしても信じられないほどまずく、いたたまれなくなって抗不安薬に手を伸ばしたが、その行動に後ろめたさを感じる。タバコだけが灰皿を山にし、スペースがなくなるとコーヒーカップに吸い殻を投げ入れた。

 2日経って宅配便が届いた。そこには四角い箱と母の手紙があった。

『もし薬を断ちたいんなら、急にやめたらダメだよ!薬を割って少しずつ減らしなさい。一緒に送ったのはセントジョーンズワートというハーブティーで、ドイツでは抗うつ薬の代わりとして精神科でも処方するものだから、これで減らした薬をカバーしなさい。半年かけて薬を断つの。できれば散歩とかジョギングして体を疲れさせたほうがいいんだけど、無理ならやめておきなさい。ハーブティーがなくなったら連絡しなさい』

 まるで医者の処方箋のような手紙だったが、ルビはそこに母の愛情を十分に味わうことができた。

 お湯を沸かしてセントジョーンズワートを煮出して飲んでみると、スーッと気分が楽になり優しい感覚が全身を包んだ。部屋の雰囲気まで違って思えるほど効果のあるお茶だった。

 ルビはシャワーを浴び、ジャージを引っ張り出して着てから首にタオルを巻き、スニーカーを履いて外に出た。



――昼過ぎ2時の国道は人よりも車の方が断然多く、太陽の日差しが強い。

 ルビは何年も走った記憶がない。いざ走ろうとすると、足をどうしてよいのか、腕をどう振ればよいのか分からなかったが、とにかくジタバタと駅の方に向かって進む。
 3分もしないうちに、視界が明るくなったのを感じた。滞っていた血液が流れ始めているのだろう。歯茎がジンジンと脈打ち、背中に強い体温が感じられた。
 
 まだ5~6歳の頃だったろうか……。

 母とメロンくらいの大きさのゴムボールを持って、庭でキャッチボールをしたことを思い出す。ただのありがちな子供時代の記憶に過ぎなかったが、この前の母の告白があってから、その記憶は違う意味を持ち始めている。

 母は「もっと腰を低くしなさい」とか「私から目を話さないで投げるのよ」とか指導的で、それが子供のルビには面白くなかった。しかし母はルビに本格的にソフトボールを始めさせようとしたのだろう。自分を強くしてくれ、苦しみから開放してくれたソフトボールを自分の娘にも授けたかったのだ。

ルビは少し胸が暑くなった。

親は自分が打ち込んだことを子供にさせたくなるし、教えたくなるものなのだろう。父は文章を書くことを、母はソフトボールを自分の子供に伝えようとしたのだった。


 皮膚の下に筋肉というものをほとんどもたないルビが、気分の高なりだけで運動を始めてもそんなに甘いものではなかった。突然現れた体の拒絶反応は、「嘔吐」という形で突発的に訪れた。胸の奥からこみ上げる内蔵の排出行動は自動的で、ルビは車道と歩道の間にある排水口に黄色い液体をぶちまけてしまった。

 額と後頭部の辺りに心臓があるようにブオンブオンと血管の膨張を感じる。飲み過ぎで吐くときのものとは違い、全身に痙攣をともなう嘔吐だった。

 ルビは3度ほど強い波に任せて大量に嘔吐した。心配そうに眺めているスーツ姿のサラリーマン数人の存在に気づいたが、できれば話しかけて欲しくなかったので頑張って立ち上がり、タオルで口を拭きながら自動販売機に水を買いに行く。

 ペットボトルの水を5分おきに飲みながら、ルビの初ジョギングは”ウォーキング”に変わった。
遠くには行かず、駅とその周辺の半径500メートル内をグルグル徘徊するように歩く。もう吐き気はなく、どこか爽快感のようなものも感じている。

 足のつま先は染みるように痛み膝には力が入らない。腰の周りがズシンと重くなり体中の関節が外れそうにきしんでいる。


――体を運動させることの快感と苦痛の中で、ルビの目にはたくさんの映像が映し出された。

細く小さな中学生の母が、泣きべそをかきながら必死に走っている映像。
暗い部屋の真ん中に座り、暗い顔をして泣いている真美の映像。
酔って陽気に騒ぐ父と、それを見て笑っている祖母と母の映像。
ソフトボール部の同窓会で、家では見せない笑顔で快活な会話を弾ませる母の映像……。

 目の前に数台並べられたスクリーンで一斉上映した思い出の映像は、音を持たないサイレント映画だった。

 初めてのジョギングはさんざんだった。
 今まで感じていた全身の詰まりのようなものは取れたように思えたが、覆いかぶさってくるような疲労感と、体の各部位が自分勝手にうずうずと動いているような体感幻覚を感じる。

 シャワーを浴びたルビは、テーブルに置いてあった精神病薬の袋を3つ手に取り、乱暴にゴミ箱に投げ入れまたセントジョーンズワートのお茶を入れた。


 それからパソコンの前に座り、1ヶ月以上も放置していた新作が保存されているフォルダをクリックする。
 ワードで開いたページを見返し続きを書こうとしたが、指が震えてうまくタイピングできず。ミスを繰り返す。

 10分ほど粘ったが、何も出てこず飲みかけのハーブティーを飲み干し、コーヒーを入れにキッチンに向かった。

 次に三浦の合うときまでには、なんとかある程度形にして提出したかったが、ここ数ヶ月はいつも手ぶらで待ち合わせ場所に向かうのだった。それは、三浦の「焦んなくても書けるときに書けばいいよ」という言葉に安心を求めに行くための面会に変わっていた。

(もう少し厳しくしてくれたら……)

 それは贅沢な不満だということは理解していた。 
 
三浦は他の出版社の作家担当は違い、こんな感じの作品を書いたほうがいいとか、こういう本を読んで勉強したほうがいいとか言わなかった。多くの出版社の作家担当者は、作家のトリガーを引くサポートをするが、三浦はまったくそれをしないのだ。

 ただ、三浦がいつもする会話の脱線に対してルビは興味を惹かれて聞き入った。それはネットサーフィンで情報を貪っている時よりも健康的で説得力のある情報の集積だった。

 次回作品に使う資料の山は、パソコン内にひとまとめに保存しているが、すでに整然さを失い散らかっている。ストーリーの骨格と肉付けに使う十分な資料は集めているのだが、いざ書き始めようとすると重く感じストップしてしまう。


――大学を受験する学生には2種類いるそうだ。
一つは子供の頃から勉強を趣味にし、中学・高校の受験カリキュラムなど気にせず独自で知識を高める天才的な高い学力を持っているもの。もう一つは受験そのものをクリアするために、試験の傾向と対策を計画するものだ。

 ルビは出版というハードルをクリアする上において、大学受験の例では「後者」のやり方を選択した。

 作家デビューをするとき、出版社への持ち込みやコンテストは”大学”にあたる。ルビは出版社のハードルをクリアするために「売れる小説」を研究したのだった。
 どちらかというと半世紀上も前の古い小説が好きだったルビだが、作家を目指すためにそのとき売れている作家の作品を読み漁って分析した。

 以前ネットの小説投稿サイトへ試しに作品を配信したとき「難しすぎる」「古臭い」「読みにくい」などと、一般ユーザーからさんざんに酷評されたので、文体を削り軽い読み心地の作風に変えてみたりもした。
 そのかいあってか、三浦の勤める出版社が運営する新人賞で佳作となり、その後3万部という軽いヒットとなった。
 

 だが、いざ小説家としてデビューしてみると、自分が実践した戦略的な執筆方法をもう一度する気にはなれなかった。それはルビにとっては「苦痛」でしかなかったのだ。3万部のヒットはそれほどセンセーショナルではないが、それでも取材やインタビューを受けるようになり、週刊誌のコラムを依頼されたり、ちょっとした出版関係のパーティーにも呼ばれるようになったことで日常生活は大きく変化した。

 ルビは有頂天になることも図に乗ることもなかったが、次の作品は「本気」で書いてみるとその時点で決意していたのだった。


――しかし、ルビの”本気”は売上には繋がらなかった。
 次回作の次回作もさらに売上を落とした。
その頃は出版社にルビの方から出かけて行き三浦に合っていた。出版社では、ルビの作品を読んだ他の社員が「ルビちゃん作風急に変わったね?」とか「”次こそ”頑張らなくちゃね」とか、「どうしちゃったの?」とか声をかけられ、それがルビを苦しめるのだった。

 他の社員がルビに声をかけるたび、三浦は「いや、いいんだよ、いいんだよ!」といつも割って入って会話を静止した。しばらくして三浦は「これからは外で合うようにしよう」とルビに伝えた。

そしてルビは書けなくなった……。
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