第三章

文字数 9,943文字

「ディップディンの奴、いるか? いるなら出てこい!」
 キースの声が図書室に響き渡る。数人が「しーっ」と言ったが、ウィリアムも読んでいた本から顔を上げ、「キース君、静かに」と人差し指を唇に押しつけた。
 読書室の戸口にはキースが仁王立ちしており、ウィリアムの姿を見ると、「ウィリアムさん、ごめん!」と再び大声を上げた。
「ごめん、って、どうしたんだい、キース君」
「どうしたもこうしたも、ああっ、何から話したらいいんだろう、とりあえずディップディンはどこにいる?」
 キースはポニーテールにした頭をがりがりとかきむしり、地団駄を踏む。あまりの取り乱しように、ウィリアムは立ち上がると「落ち着いて」と代わりにキースを自分の椅子に座らせた。
「何が起こったんだい?」
「ディップディンの奴に違いない、僕が留守をした隙に……」
 実験室の鍵が壊されていた、とキースは訴える。
「で、すみません、ウィリアムさん」
「だから順番に話してくれないかな。なんで僕に謝るんだい?」
 キースは大きく息を吸い込み、「バイルシュタインです」と言った。
「寮の部屋で見るって言ったけど、やっぱりディップディンのいたずらが心配で、バイルシュタインを実験室へ持っていったんです、約束を破ってすみません」
「それはいいけど、で、どうしたんだい?」
 キースはもう一度深呼吸する。
「盗まれたんです、フラスコやブンゼンバーナーと一緒に。実験道具はまた買えばいいけど……」
 いや、本だってまた買えばいいのだ、とウィリアムは思い、それより実験道具やバーナーのほうが危ない、と青くなった。
「盗まれた……校内でなんてあるまじきことだよ、生徒が泥棒? 本当なのかい?」
「一緒に来てみてください」
 キースの実験室は寮の建物に付いた塔のてっぺんにあった。
 いち生徒であるキースが特別に実験室を与えられているのは、化学の才能を先生方が認めていることもちろんだが、噂では遠い親戚のヨーロッパに領地を持つモルダヴィア侯爵夫人の財力のおかげともウィリアムは聞いている。そんなことを頓着している場合ではなく、ウィリアムは急いでキースとともに実験室へ駆けつけた。
 荒らされた実験室を見た途端、キースが叫んだためか、すでに何人かの生徒が遠巻きにして中をのぞき込んでいる。
 実験室に入ったウィリアムは「これはひどい」と呟いた。
「めちゃくちゃじゃないか」
 床にはなにやら紙くずが散乱し、試験管が何本も台の上に転がっている。
「そのお」
 振り返るとキースが困った顔で立っている。
「ええと、いつもこんな感じなんです。ただ、こっちへ来てください」
 壁面に並んだ戸棚の扉がみな開いていた。
「薬品もなくなっているんです」
「ええっ、それは大変だ」
「でしょう? こんなことをするのはディップディン以外にいませんよ。あいつはこないだだって、僕からクロロホルムを巻き上げていったんだから」
「うーん、そうだねえ」
 そのクロロホルムで危うく命を落とすところだったウィリアムである。
 しかし、実験室の中を歩き回っているうちに、ウィリアムはなにやら不思議な気配を感じ取っていた。それはこの世のものではない、命の炎を持たないもの、つまりこの実験室に入っていろいろなものを盗っていったのは霊の仕業だ、とウィリアムは確信する。
 ところが霊には違いないのだが、悪霊でもない、精霊でもない、なぜか澄み切った心を感じさせる。
(おかしいな……この世に残った霊は、皆、未練を残したり、恨みを持ったりしているものなのに……純粋な心の持ち主が霊となって残るものだろうか?)
 一方、キースは相変わらず「ディップディンの仕業に違いない」と息巻いている。
「あいつを締め上げて白状させましょう!」
 ちょっとまった、とウィリアムは慌てる。ここで「霊が」などとは言えない、何となればウィリアムがネクロマンサーであることは内緒だから。
「締め上げる、は乱暴すぎる、とにかく一応話は聞いてみよう」
 まずはディップディンの居場所を捜さねば、と二人は後ろでひそひそ話をしている生徒たちを振り返った。
「ディップディンの姿を見たものは?」
「ディップディンはここんとこ具合が悪いって、一時間目が終わるとすぐ寮に戻ってるよ」
 ディップディンと同じ学年の生徒が情報を流す。
「え、そうなのか。僕は授業が終わるとすぐ実験室へ直行だから、知らなかったなあ」  キースは腕組みをして考え込んだ。
「そういやあ、夜、部屋に戻ると、ここんとこたいがいディップディンは先に寝てるなあ。いつもなら消灯後もどっかで悪さをしてるのに」
「じゃあ、キース君、部屋に行ってみよう」
 部屋へ行くと、なんとディップディンは昼間からベッドで寝ているところだった。毛布を頭から被り、うんうん唸っている。
「ディップディン、小芝居はよせ、バイルシュタインと実験道具を返してもらおうか」
 キースはベッドに近寄り、がばと毛布を引きはがす。
「なんのことだよ! ほっといてくれよう、僕、病気なんだ」
 情けない声を上げ、ディップディンはキースを見上げた。
「病気……って、熱があるのかい?」
 ウィリアムが尋ねると、キースは鼻声で「そうなんです、ウィリアムさん」と訴えた。
「みせてごらん」
 しかし額に手を当てると、特に熱くはない。「熱はないね」とウィリアムが宣言すると、ディップディンは今度は「おなかが痛い」とうめき始めた。
「ようするに仮病だな」
 キースは舌打ちする。
「ディップディン、何を考えている」
「ほっといてくれよう」
 ディップディンは再び毛布を被ると、驚いたことにおいおい泣き始めた。
「嘘泣きするな」
「嘘じゃないよう、怖いんだよう」
 ウィリアムは志門少年たちの会話を思い出していた。
「幽霊……に会ったって本当なのか?」
 びくり、と毛布の山が大きく揺れる。金髪の頭が少しだけ現れた。
「何があったんだい、ディップディン君」
 ジョージ・ディップディンは半分顔を出すと、堰を切ったように話し始めた。
「ウィリアムさん、聞いてください」
 以下は事実にかなり脚色が加わっているであろうディップディンの物語である。
* * *
  だってあいつ、変な奴だろ? 肌の色は黄色いし、いつもヘラヘラ笑ってるし、だから僕たちは上級生に対する尊敬ってものを教えようとしたわけ。オースチン校推奨の、さ。それでエドマンとクリスが呼び出したってわけ。今夜、僕たちの部屋に来い、ってね。もちろん教えたのはあの部屋さ、開かずの部屋ってわけ、いいアイディアだろ? で、もちろん先に僕たちが行って、そこで奴が来たらシーツの一つも被っておどかすか、あそこにある家具の一つもがたがた揺らすかして脅かそうとしたわけ。なんだよ、そんな目で見るなよ、そんなこと、誰でもやってるよ、ちょっとしたいたずらっていうか、仲間内のおふざけだよ、だろ? え? 僕のはたちが悪い? そんなことないよ、お化けのかっこして脅そうなんて可愛いもんじゃないか、ガイ・フォークスのときのあれだって、ほんのちょっとクスリが多かっただけで、それってキースぅ、お前も悪いんじゃないか? いたい! ぶつなよっ、僕は病気なんだからさあ………
 こんな調子で話されたのでは、いくらページがあっても足りません、読者の皆様、それではかいつまんで説明しましょう、つまりジョージ・ディップディンは悪ガキたちと一緒に、消灯時間の後、あの開かずの部屋へ入っていった。中は物置のようで、ネズミがごそごそとあたりを走り回り、ほこりくさかった。壊れた戸棚や椅子、足の取れた机などが壁際に並んでいて、その陰に隠れ、志門少年が来るのを待っていた。志門少年は言われたとおり、一人でやってきた。手にはランプを持っていて、志門少年が歩き回ると、光と影がもつれ合って壁に踊った。ディップディンたちは計画ではがたがたと椅子や机を鳴らすはずだった。ところが誰もなにもしない、ディップディン自身も身体が動かないことに気づいた、だけでなく声も出なくなっていた。志門少年は部屋を一周すると、そのまま出ていってしまった。「ダメじゃないか、みんな」とディップディンは言おうとしたが、やっぱり舌は動かなかった。そして扉が閉まった後……。
 ここからはディップディンの言葉で語ってもらいましょう、彼らの恐怖がどれだけだったかわかるでしょう。
「そしたら、ランプも出てったんだから真っ暗になると思うじゃないか、けど、違う、火が燃えてるんじゃないかって思った、ぶわーっと光が部屋中を駆け回って、ネズミたちがきーきー叫んで僕たちの足下を走り回った、どころか僕たちの身体に駆け上って、また駆け下りて、隣にいたクリスはネズミが大嫌いだから、白目を剥いて失神したけど、それってまだ運が良かったんだ、だってそのあとのことを見てないからさ、そのうちネズミたちがさーっと逃げていって、炎の中に人影が見えたんだ、頭巾を被って、裾の長い服を着て、修道士だってすぐ解った、言い伝えは本当なんだって、あそこに住み着いた幽霊なんだって」
 ジョージ・ディップディンはそこまで一気に言うと、大きくため息をついた。
「それからどうしたんだい?」
 ウィリアムの問いに、ディップディンは「よくわかんない」と答えた。
「気が付いたら朝だったんだ。みんな、部屋の床に倒れてて、どこも何ともなってなかったけど」
「集団ヒステリーって奴だな、それは」
 キースがきっぱりと言った。
「本当だって! 神にかけて誓う!」
 ディップディンの口から「ゴッド」という単語が出たのを初めて聞いたとウィリアムは目を剥いた。しかしキースは全く動じない。
「僕が聞きたかったのはそんなことじゃない。実験室から取ったものを返せ」
「知らないよ、そんなの、僕はあれから病気なんだ、いたずらをする元気なんてないよ!」
 少なくとも、何かの霊がここの寮にはいるのだ、とウィリアムは思った。それがディップディンの見たものかどうかは不明だが、調べる必要はある、ウィリアムは心を決めた。「キース君」と呼びかける。
「ディップディンの仕業ではないと思うよ、彼はすっかり弱っていて、そんなことをする元気はない」
「ウィリアムさんなら解ってくれると思いましたよ!」
 特上の笑顔をディップディンはウィリアムに向け、これでみんながだまされるのだなと、ウィリアムは感心した。
「実験室の道具は、誰かが使いたくて持ち去ったのかも知れないね、使ったら戻してくれるんじゃないかな? バイルシュタインもそうだろう。キース君、君を困らせたり、悪さをするためなら、器具を盗むよりも実験室を荒らすんじゃないかな? そのほうが簡単だものね」
「そういえばそうだ」
 それに、とウィリアムは付け加えた。
「盗まれた、なんて大騒ぎをすると、返しにくくなるんじゃないかな? そっと返しに来るのを待つのが一番いいと思う」
 キースは納得してウィリアムを振り返った。
「ウィリアムさん、さすが、合理的精神の持ち主ですね。じゃあ、もう少し待ってみます」
 実験室騒ぎはとりあえずこれで片が付いた、とウィリアムは思った。バイルシュタイン第3巻が無くなったのは困るが、そのうち返しに来るだろう、あんな重い大きな本をずっと隠してはおけないし、読んで面白いものでもない、キース君以外にとっては。
 そしてディップディンにはこう言うことにした。
「ジョージ・ディップディン君、今どき幽霊でもないと思うけれど、少なくともあの部屋は綺麗にしたほうがいいね、ネズミもたくさんいたらしいし。鐘突のサイモンさんに言っておこう、サイモンさんが綺麗にしてくれるだろう。幽霊だって部屋が綺麗になればどこかへ行ってしまうよ、大丈夫だ」
 心の中では別のことを考えながら。
 そして同じころ。
 黒い馬車がオースチン校へと向かっていた。扉に書かれた紋章は狼と王冠、そして盾を飾るリボンにはラテン語で「REGE LUNA」すなわち「月を支配せよ」、言うまでもなくハンター家の馬車だ。もちろん乗っているのはジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵。
「がはは、ウィリアム、離ればなれの時でもさぞや俺さまのことを考えているだろうなあ、可愛い奴、あいつの心は俺さまで一杯なのだ」
 呵々大笑するジョン・ウルフにヘンリーはいささか哀れみを感じていた。
「ご主人様は悪いかたではないのですが、いえ、すごく悪いかたというわけではないのですが、いささか神経に問題がありますからねえ……」
「何か言ったか、ヘンリー」
「いえ、なにも」
 ふん、とジョン・ウルフは鼻を鳴らした。
「いいか、ウィリアムはいつだって俺さまのことしか考えていないのだ、わかったな」
「もちろんでございますとも」
「じゃあ、黙っていろ」
「御意」
 なぜしつこくジョン・ウルフが「俺さまのことしか」と繰り返すかというと。
 読者の皆様、人間は(ジョン・ウルフは半分狼ですが)本当は不安だからこそ、繰り返し自分に「本当だ」と言い聞かせるものだからです。つまりジョン・ウルフはあの朝、ウィリアムの「別のことを考えていて、あなたの言うことを聞いていなかった」発言にたいそう傷ついていたのだった。とても外見からはそう思えないし、行動からもそう思えないけれど、一応彼も傷つくのだ。
 ウィリアムが俺さまとお茶をしながら、俺さま以外のことを考えていた? ありえない! 目の前に俺さまの顔を見ながら別のことをだって? ばかな! 信じられない! 嘘に決まっている! 嘘だ! 狼の三段論法。
 それでも心の底には一抹の不安がある。ジョン・ウルフ、自分に抱かれてあんあんよがって、何度も絶頂を迎えた相手に翌朝拒否されたことなど、生涯ウィリアム以外にいないのだ。ジョン・ウルフはもちろんウィリアムと会うまで童貞を守ったわけではなく、宿命で狼に変身するまでは若い貴族としてさんざん遊んでいた。どんな女だって意のままだったのだ。もちろんヘンリー曰くの「いささか神経に問題がある」ため、長く続いた試しはなく、しかもたいがい女の方から愛想を尽かされたものだが、そこはそれ、ハンサムで金があり、貴族であるからにしてすぐ次の相手は見つかり、何一つ不便も不満も不安も生涯この時まで無かった、と言えよう。
「がはは、だから俺さまは今日、ウィリアムのところへ突然行ってやるのだ、ウィリアムは俺さまを見てさぞや喜ぶだろうなあ」
 要するに、ウィリアムの心を確かめたくなったのだが、そんなことは口が裂けても言えない、いや、狼に変身すれば口は裂けてしまうのだが、とにかく自信がないなんて認められない故の言い訳。しかしウィリアムがジョン・ウルフを見て迷惑そうな顔をしたらどうするのだろう、この御仁。そこまで考えていないのがジョン・ウルフなんである。ヘンリーも御者台でやれやれと首を振る。
「どうでしょうか」
「なんだって、ヘンリー」
「いえ、何でもございません」
 そんな会話が続くうちに馬車はグリーンデールのミドルグリーンロードを抜け、オースチン校の塀のところまで来た。塀と言っても、元は城塞としても機能していた中世の修道院、人の背より高い石垣だ。そこの影に馬車を停めさせ、ジョン・ウルフはヘンリーに「ランタンに火をともせ」と命じた。手鏡はとっくに手に握られている。
「ご主人さま、狼の姿で入られるのですか?」
「もちろんさ、ウィリアムの奴を脅かしてやるのだからな」
 すでにジョン・ウルフの息はよこしまなことを考えて荒い。狼の姿で校内に侵入し、ウィリアムを見つけたら、人間の姿に戻るためとか何とかこじつけて、押し倒してまたあそこにあれを入れて……。
「ううう、たまらん、早くこっちへ貸せ!」
 というわけで、ジョン・ウルフ狼は馬車から飛び出して塀をよじ登り、緑の木立に消えていった。
 さて、もう一人の重要な登場人物は志門少年だが、こちらは授業が終わって、ゆっくりと校舎から出てきたところだった。もちろん実験室の盗難など知りようもない。手にはお気に入りの本を持ち、いつものお気に入りの場所で読書をしようと歩いていく。頭上には時折小鳥たちがやってきて、ぺちゃくちゃと話しかける。あそこのベリーが美味しいだの、今夜は雨になるだの、他愛もない話だが、志門少年の心は和む。実を言えば、遠い国へ来て心細かったのだ。しかしイギリスでも動物たちの言葉が解ることを知った。イギリスでは彼らも英語をしゃべっているのではないかと思っていたのだ。もちろん英語は苦労なく話せるが、緑の多いこの学校で今まで通りの言葉で話す動物たちと話していると、生まれ育った熊野が思い出されるのだ。
 四阿(あずまや)まで行くと、さっき助けた雛の親が飛んできて、礼を述べる。
「いいんだよ、ウィリアムさんにお礼を言ってくれ、彼が見つけたんだからね」
 持ってきた本を膝に広げ、志門少年は読み出した。
 そしてジョン・ウルフはと言えば。
 久しぶりに森の中の変身姿で、ジョン・ウルフは鼻をくんくんさせる。野生の血が騒ぐ。遙か太古の記憶が呼び覚まされ、うぉおおんと叫びたくなるが、じっと我慢する。狩りの本能よりも今は生殖の本能が勝っているので、木陰でぶるぶる震えている栗鼠(りす)には見向きもせず、どんどんと草の上を走る。懐かしい、そして情熱をかき立てる匂いが前方から誘っている。いた、あそこだ! 愛しいウィリアム、がはは、俺さまがわざわざ来てやったぞ、嬉しいだろう、ウィリアム、ウィリアム、ああ、胸が苦しい、お前の匂いを嗅ぐだけで、こんなにも心臓が踊り出す、お前が好きで好きでたまらないんだ、だからウィリアム、お前も俺を好きになってくれ、頼む、俺さまがお願いする、ああ、今、この姿なら素直に言えるのに……好きだ、好きだ……ジョン・ウルフの心の声は低いうなり声になって、耳まで裂けた口からウィリアムに向かって放たれるが、残念なことにウィリアムの耳には単なる脅しの唸りにしか聞こえないのだ……だから素直に本心を明かせるのかも知れぬ、などと思いながらジョン・ウルフは後足で力強く大地を蹴って、ウィリアムの背中に飛びつき、太い前足でぐっと身体を抱きしめ、長い舌でうなじを舐めようとしたその瞬間。
〈だ、だれだ、お前は!〉
 抱きしめたままでジョン・ウルフは胸の中の少年をじっと見た。ウィリアムの匂いはするが、別の人間の匂いもして、そして……。
 少年は肩越しににっこり笑ってジョン・ウルフを見つめる。
「ごめんね、僕、ウィリアムさんじゃないんだ。君は彼の飼い犬かい? とっても大きな犬だね」
 ジョン・ウルフはぱっと背中から飛びすさると, ふせの姿勢をして少年を見上げた。
〈お前……誰だ〉
 少年は膝に置いた本を閉じると、振り向いてジョン・ウルフを正面から見つめる。
「僕はここの生徒で、志門って名前だよ」
 警戒の姿勢のまま、ジョン・ウルフは鼻を持ち上げ、くんくんと少年の匂いを確かめる。
〈ウィリアムじゃないのに、なぜウィリアムの匂いがするんだ?〉
 少年は目を見開くと、自分の着ているものを確かめる。
「ああ、そうか、僕、さっきウィリアムさんの上着を借りたんだっけ。これはウィリアムさんのだから、それで君が間違えたんだよ」
 そこまで来て、ジョン・ウルフはぴくりと大きな耳を立てた。
〈お前、俺の言っていることがわかるのか?〉
 うん、と少年は片手を差し出した。
「よろしくね、犬君」
 少しばかり警戒心が解け、ジョン・ウルフは首を伸ばし、冷たい鼻面を少年の手に押しつけた。
〈不思議な匂いがするな、お前。森の匂いだ、どこか遠くの……〉
 少年はジョン・ウルフの前にしゃがみ込む。
「うん、僕は遠い国から来たんだよ、犬君。それにしても君はウィリアムさんのことが好きなんだねえ、さっき、好きだ、好きだって言ってたの、よく聞こえたよ」
 人間の姿だったら真っ赤になっていたに違いなく、ジョン・ウルフは後ずさりして鼻面を両前脚に挟んだ、すなわち狼の「恥ずかしい」。
 志門少年は笑いながらジョン・ウルフのたてがみを撫でた。
「犬は飼い主に忠実だもの、当然だよね。ところで君、ウィリアムさんに会いに来たの?」
 うん、とジョン・ウルフは頷く。
「でも犬は立ち入り禁止だよ、校長さまや門番のサイモンさんが箒で君をぶつだろうなあ」
 そ、それは困る、とジョン・ウルフ、今度はしっぽを両後脚の間に挟んだ。
「そうだ、三時になれば図書館が閉館して、ウィリアムさんは出てくるから、それまでどこかに隠れていればいいよ、そうだな、どこがいいかな」
 志門少年はうきうきしながら辺りを見回した。志門少年、熊野では犬を飼っていたのだ。
「そうだ、僕の部屋に来ればいいよ、僕の部屋は寮の入り口に一番近いし、それに僕、ルームメートがいないんだ、転校してきたばかりで空き部屋に入ったからね」
 なんだか解らないうちに、ジョン・ウルフは志門少年に付いていくことになっていた。
 寮の入口まで来ると、志門少年は「ちょっと待ってて」とジョン・ウルフを茂みに隠す。
「僕が部屋へ行って、窓を開けるからそこから入るんだよ」
 そんなことはお安いご用、とジョン・ウルフはふせの姿勢でその場に待機する。やがて志門少年の口笛が聞こえ、ジョン・ウルフは辺りを見回して誰もいないのを確かめると、三歩で部屋に飛び込んだ。
「すごいね、君、狩りとか巧そうだねえ」
 志門少年は目を丸くしながら窓を半分占閉める。そしてジョン・ウルフを入り口のすぐ隣にある大きなクローゼットへと案内した。
「ここに隠れていなよ、いいかい、三時になったらサイモンさんが鐘を突くからね、そうしたら図書館へ行くんだよ。僕はこれから用があるけど、一人、じゃなかった、一匹で大丈夫だよね?」
 ジョン・ウルフは唸って大丈夫だと伝える。クローゼットの扉を閉める直前、志門少年はちょっと考えて上着を脱いだ。そしてぽうんとジョン・ウルフの背中に放る。
「ちょうど良かった、この上着、返しておいてね」
 真っ暗になった瞬間、愛するウィリアムの匂いがジョン・ウルフを包む。ジョン・ウルフのあそこに力が宿るのも無理はない。ジョン、ウルフは大きく身震いして背中の上着を振り落とすと、上手に腹の下に敷き、前脚で押さえ込んだ。
 志門少年のことはもうすっかり頭の中から消え去っているが、それは半分獣なので許してあげてください。人間の心がもっと勝っていれば、なんで獣の言葉が解るのだろうと悩んだろうに。
 ともかく獣の本能が次にすることは言わずもがなだ。鼻面を上着に押しつけ、涎を垂らしながらジョン・ウルフは腰を動かし始める。下腹のあれを上着にこすりつけ、ハウハウと息を弾ませ、心の中でウィリアムのよがり声を再生し、再生し、なんども再生し……。
「おおぉうう、おおおおぅううう、うぉおおおぅうう」
 声をおし殺しつつ、ジョン・ウルフはこの世の天国を味わう、何度となく……。
 欲情すれば人の姿に戻るのかと思っていたジョン・ウルフだが、どうもそうでもないらしい、やはり人の姿に戻るためには本物のウィリアムでないと駄目のよう。それでも獣のままでウィリアムを思ってマウンティングするのはなかなか新鮮で、いつもと違ったよさがあり、ジョン・ウルフは夢中になって行為を続ける……エネルギーの最後の一滴まで注ぎ込む……。
 やがて涎とあの液でぐしょぐしょになった上着をジョン・ウルフは頭から被るとごろりと横になった。ウィリアムの匂いと自分の匂いが混ざり合い、ジョン・ウルフは満たされて次第に眠くなる……。腹がくちくなれば眠くなるのは獣の本能だ、許してあげましょうね。腹ではなくて欲望が満たされたからなのだけれど、まあ、同じことです、皆様。
 そして予想通り、三時の鐘の音が鳴ってもジョン・ウルフは爆睡を続けたのだった。
 やがて日が暮れて、小鳥たちの言っていたとおり、星は雲の陰に隠れ、半分の姿の月は顔を隠し、夜霧のような小雨が降り出した。雨粒は次第に大きくなり、窓の明かりが一つ一つ消え、最後の一つが消えると、オースチン校は空から下がるみっしりと濡れたカーテンに包まれ、静まりかえった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ウィリアム・クーパー・ポイズ

ビクトリア朝英国のパブリックスクールオースチン校の司書にして
悪霊を祓う魔術師。

ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵

スコットランドの貴族にしてフェンリル狼の血を引く人狼。
かなり自己チューなお殿様。

九条志門

日本から来た留学生。

キース・トランパース
オースチン校の学生。

化学オタクで実験が大好き。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み