第16話 瑠璃繁縷(前)

文字数 68,479文字

 夜が明けた。
 夜中に真琴を背負って宿を出た具衛は、只ひたすらに歩き続けていた。宿を出る時に降っていた綿雪は、今は止んでいた。が、積雪は腹に達しており、その上吹雪いている。
 季節外れの驚くべき三月雪は、日本列島各地に記録的豪雪をもたらしていたが、特に北信越、関東はひどく、雪絡みの気象記録と言う記録を塗り替える程の猛威を奮っていた。それは当然、具衛が決死行に挑んでいる奥多摩も例外なく、それどころか最もひどい地域の一つとなっている。
 何たる——
 難路か。
 山間はとっくに夜が明けていたが、積雪を嵩増しさせる綿雪が止めば、今度は吹雪く。夜な夜なその呆れた繰り返しのせいで、辺りは白昼夢の如くとにかく白かった。どれ程歩いて来たものか。フードの周りにはびっしりと、風雪に晒された痕が寒々しく残る。
 クソ——。
 やはり止めておくべきだったか。
 具衛は今更、後悔した。
 重い雪は、一歩一歩黙々と歩みを重ね続ける具衛のその足から、少しずつ確実に体力と体温を奪い続けた。早い段階で爪先の感覚がなくなった。それは想定通りではあった。
 まだまだ——。
 めげずに歩き続けていると、今度は股関節がおかしくなり始めた。一歩一歩、重い雪を蹴り上げるように押し退け続けたのだ。関節も擦り減って当然だった。
 下まで持てばいい——。
 それでも騙し騙し、粘り強く進んでいると、次に膝に力が入らなくなって来た。下り坂の雪道で、二人分の重さを支え続けた膝である。
 ——ヤバい。
 膝は体重をしっかり支えなければならない荷重関節であるにもかかわらず、人体最大の関節にして非常に不安定で適合性の悪い関節と言われる。それを靱帯、筋肉、腱などで安定させて、無理矢理にでも動かせるようにしているものだから、疲労しやすく耐性も決して高くない。人の足は膝から衰える。これを患う事は、つまりは致命傷であった。
 膝を庇うようになると、限界は早かった。足首を捻り転倒すると、
 し、しんどい。
 いつの間にか心肺機能も限界が来ている事に気づかされた。
 背負っている真琴の着衣は、一応万全を期したつもりだ。着衣で悩ましいのは体の中心から遠い部分で、特に手足である。よってその悩ましい四肢には、特殊ゴム仕様のカバーをつけておいた。発熱による発汗やそれに伴う冷えを起こさないように配慮したそれは、実はつけ心地が良くない。背負われて動かない病人に、果たしてどれ程の効果があるのか。凍傷にならない、との受け売りを知識としては保有していたものの、実際には具衛も使った事がない新たな技術がもたらした装備だ。つまりは、半信半疑にして未知数の物であった。
 い、急がないと——。
 つまずき、正面からダイブするように転倒した具衛だったが、これは深い新雪が幸いした。転倒によるダメージは殆どなかったが、気力体力は限界に近く、中々起き上がれない。その背中では、真琴が薄く意識を繋いでいる。雪中に埋もれた事で、今は吹雪いているその轟音が少し和らいだ。風が遮断されると不意に暖かさを感じる。
 起きないと——
 こうやって凍死するのだ。ビバークするのであれば、かまくらを作るぐらいでなくては山中の厳冬期では命を繋げない。だが、
 力が、入らない——。
 起き上がれなかった。
 少しすると、何処からともなく音が聞こえて来た。が、しばらくすると、また聞こえなくなる。
 何の——
 音か。
 雪の中で、ぼんやりまどろんでいると、また聞こえて来た。
 携帯——か。
 それに気づくのに、しばらくかかったようだ。ようやくその場に座り、スマートフォンを見ると、真純の着信歴が立て込んでいる。事前に位置探索アプリをインストールしていたため、山中で具衛の足が止まった事が分かったのだろう。
 それにしても驚いたのは、その画面に記録された外気温だった。マイナス一七℃と表示されている。
 ウソだろ——。
 下山開始前は、マイナス一桁レベルだったと記憶していたのだが。誤表示か、とも思ったが、よくよく考えて見れば、東京とは言え奥多摩だ。山を越えれば秩父山中であり、この豪雪の悪天候ならありえる話ではあった。現実として夜通し、降り積もったり吹雪いたりしている。特に吹雪いている時の寒さは、辛いの一言に尽きた。吹雪けば当然、それだけ気温が下がるのだ。体感気温は、風速が一m毎秒速くなる毎に一℃低くなる、と言われる。吹雪いている時は、単純にそれだけ寒さが加算される事を思うと、体感レベルでは厳冬期の北海道と同レベルの寒さと言っても過言ではなかった。
 その中で、ホワイトアウトなのだ。山を下りて来た感覚はあったが、果たして方向があっているのか。甚だ怪しかった。事前に一本道である事は確認していたが、あれでも地図にない脇道に入ったりしてはいないか。と、言われると自信がない。それ程の疲労で意識は朦朧としていた。
 真純に折り返そうとしたところ、寒さで電池がやられたらしく、電池残量がなくなってしまっている。画面から表示が消えると、
「あ——」
 具衛は、動かす事が既に億劫になっているにも関わらず、その頭で思わず天を仰いだ。何分、それなりに使い古したスマートフォンである。やむを得なかった。
 それにしても、少しまずい。これでは真純が心配してしまう。
 早く戻らないと——
 が、立ち上がろうにも、身体に力が入らなかった。座っていると、尻から寒さが這い上がって来る。益々動けなくなる条件が満たされて行く事は理解していたが、もうどうにも動けなかった。
 ——大丈夫?
 そこに真琴の声が聞こえた、ように思ったのだが、肩越しにその顔を少し伺ってみると、真琴は目を閉じたままだ。一方で、自分の呼吸の荒さだけが耳についた。
 周囲は何処もかしこも真っ白だ。山間を貫く山道を歩いているため、標高がそれ程高くない奥多摩の山中ならば、傍には当然樹木がある筈なのだが、視界が極端に悪く数m先も見えないのだ。ややもすると三次元的感覚すら失いかねない、そんな真っ白闇だった。
 ますます——
 まずい。
 強まる遭難、そしてその先にある死。だがその状況が、つい心地良過ぎて身動きが取れない。夜通し寝ずに歩き続けたのだ。疲労に負けて寝てしまいそうだった。
 少し、休むか——。
 真琴の装備は万全だ。大丈夫な筈だ。少しぐらい休んでも罰は当たらないだろう。ついにうとうとし始めると、顔に触れる物があった。それが邪魔で、気が散る。それと一緒に、また音が聞こえて来た。スマートフォンは、先程電池が切れた筈だ。もう他に音を出すような物はないのだが。
 ——煩わしいな。
「——ぅぶ?」
 するとまた、何かの音が耳についた、ような気がした。
 ——声?
 先程錯覚したそれか、と真偽を確かめるべく目を開こうとする。が、辛うじて開こうとする意識がまだ残っていたその目の瞼が、早速凍り始めていて開かない。ちょっとした力で開く筈が、それすら振り絞る力がなく、気力も萎えている。
 その瞼を、今度は乱暴に叩かれた、ように感じた。
 痛!
 まどろんでいた意識が戻されると、
「具衛さん」
 今度はしっかりと聞こえた。
 意を決して目を開くと、その目の前にごわつく登山用グローブをつけた手がふらふらしている。驚いた具衛が思わずその手に片手で触れると、触れた途端、安心したかのように脱力した。その脱力した手を支える事が出来ず、手が絡んだまま一緒になって地面に落ちる。すると今度は、肩越しにある真琴の頭が具衛の頭を擦り始めた。
「大丈夫?」
 その声に反応して顔を捻ると、目を閉じたまま、静かで細い息の合間を縫ったような真琴が僅かに鼻で笑っている、ように見えた。お互いのフードが邪魔をして、表情は分からない。
 一度地面に落ちた重い腕を緩々と上げ、そのフードをはぐると、
「具衛さん——大丈夫?」
 今度は、表情と声をはっきり捉えた。具衛の異変に気づいた真琴が声をかけていたようだ。想像通り目は閉じていたが、穏やかな顔をしている。
「ちょ、ちょっと休憩を——」
 息が辛くて、後が続かない。
 が、それで安心したのか、
「そう」
 真琴は、然も素気なく答えた。
 その顔が力なく笑っている、ように見える。またその手が、今度は身体の側面で何かを求めて喘いでいた。それを握ってみると、もじもじし始める。それに合わせて指を絡めると、ようやく安心したのか、また脱力した。
「あったかい——」
 そんな筈はない。グローブ越しで熱は遮断されている。外から熱が伝わるようでは、この寒さではとっくに凍傷になっている。
 急がないと——
 只でも過酷な環境下に加え、真琴は病人だ。出発時の容体からして、既に身体の感覚はおかしくなっている事だろう。朝を迎え、薬の効果も切れる頃だ。が、立ちあがろうにも、すっかり足が萎えてしまい、立ち上がれなかった。
 ——まずい。
 慌てて余った片手で足を摩り始めるが、触っているその感覚からして既に怪しくなっている事に気づく。具衛は固唾を飲み込んだ。
 こ、ここまでか。
 ビバークしようにも、四肢に力が入らない。判断ミスだった。真琴の病状が気になり、ついオーバーペースになってしまった。更にその勢いで、体力の限界まで攻めてしまったのだ。結局潰れてしまい、風前の
 ——灯か。
 遭難死の状況が満たされつつある。
 そうか、灯火——
 真琴の手を一度放し、思い出したように、足の側面ポケットに入れていた発煙筒を取り出した。が、これが中々着火しない。着火させる手の力が残っていなかった。
「どうか、した?」
 また細く掠れる声で、真琴が問いかけて来る。
「いや、発煙——」
 と言いかけて止めた。これでは身動きが取れなくなった事を公言するようなものだ。着火も止める。では、
 ——どうする。
 助かる道を模索しなくては。三人分の命だ。首を突っ込んだからには、完遂しなくてどうする。
「ありがとう」
 その一言は、具衛の脳を痺れさせた。気がつくと、一度放した筈の真琴の手がまた握られている。
「もう、充分だよ」
 悟ったように言う真琴は、状況を把握しているようだった。
「私、幸せだった」
 また目を濡らしている。その睫毛にびっしり霜がついていた。
 ま、まずい——
 この寒さで身体から体表に出る水気は厳禁だ。目の下まではネックウォーマー、目にはゴーグルをつけさせていたのだが、ずれて隙間から冷気が入ってしまっている。余りきっちりつけて顔に変なしみがついても悪いと思う気持ちが、装着時にバンドを緩くさせたのだ。今思うと、これもまた浅慮に他ならなかった。その目を覆う涙が、凍傷を呼び込んでしまう。
「あなたと、一緒だった、から」
 ——ダメだ。
 ここで感情的になっては。
 この寒さでも、生きてさえいれば目が凍る事はないが、感極まって溜めに溜めた涙が瞼や睫毛にくっついてしまうと、弱った身体ではそれが凍りついて目が開けられなくなってしまう。目が開かなくなると、脳が休まり睡魔が押し寄せる。いくら服装に注意を払っているとは言え、この極寒の野晒しでの昏睡は余りにも危険過ぎる。真琴に対しては、辛いだろうがなるべく寝ないよう言い聞かせ続けた道中ではあった。が、ここに至っては、真琴どころか自分すら危うい。せめてその涙を拭き取ってやりたかったが、タオルは真琴の身体の前面を覆っているリュックの中で、取り出す体力はとても残っていなかった。
「真琴さん、しっかり!」
 苦し紛れのその声も、情けない事に息絶え絶えだ。当然、その甲斐もなく真琴はまた涙を流してしまった。目尻を流れた涙の筋に早速霜がつく。また不覚にも、その目元の美しさに見惚れてしまった。その霜に、仏軍在隊時に属した山岳部隊の訓練中、たまに見かけた氷瀑の美しさを思い出す。
 どんな時でもこの人は——
 その氷瀑のように、気高く美しいのだ。
 今日の真琴は、すっぴんだった。宿で温泉から上がると身動き取れなくなったとかで、流石に化粧する気力もなかったようだ。そう言えば、ここ最近具衛は、真琴の外出用の化粧姿を見た記憶に乏しかった。化粧映えする真琴は、確かに如何にも仰々しい睫毛や、真紅の口紅なども良く似合ってはいたが、
 やっぱりこの人は絶対——
 薄化粧こそよく似合う。時と場所を忘れて、そのすっぴんに引き込まれた。
 よくよく思い出せば、越年前後からこちらと言うもの、真琴と会う時は何かとばたばたし通しだったのだ。だからこそのすっぴんなのだが、落ち着いてそれを見る事が出来なかった事が、最期の心残りになりそうだった。
「ホント、ありが、とう」
 この只ならぬ状況で、礼を重ねる女のその透き通るような美しさに我に返る。生体反応的観点としては乏しいと言わざるを得ないその肌の美しさは、雪女でないならば、文字通り死に化粧の美しさだった。
 ——じょ、冗談じゃない!
「でも、ごめん、な——」
「真琴さん!?
 具衛が慌てて身体を捻ると、真琴の瞼は既に凍りついていた。
「真琴さん! しっかり!」
 慌ててレスキューハーネスを外して真琴の正面に回り込み、両手袋を取って素手でその顔や額に触れて体温を確かめるが、すっかり冷え切っている。そのままネックウォーマーの中に手を突っ込み首筋も触れてみたが、保温している筈が、具衛の手よりも明らかに冷たかった。
 ——低体温!
 温度管理が難しい四肢はゴムパッケージで万全を期したが、ボディーは通常装備だ。立ち寄った登山用品店に全身を覆えるそれがなかったため、止むなく吸汗仕様の速乾性インナーを重ね着させていた。が、やはり、発熱を伴う病人には装備が太刀打ち出来なかったようだ。解熱剤の効果が切れてまた発熱し、それに伴う発汗量がインナーの仕様を上回ったのだろう。
 腕時計を確かめると、既に朝の九時を回っている。往路の積雪量なら、とっくに踏破を見込んでいた時刻だ。予想を覆す復路道中の積雪に伴い、どうしても歩速が低下せざるを得なかった事が全ての原因だった。
「あなたを、巻き込、んで——」
 ——クソ!
 危機管理の匙加減を誤った。全ては寒波レベルの目算を間違えたせいだ。想定外とは情けないが、つまり自然が軽々と人間の浅慮を超えて行った、と言う事だった。想定外を考慮し、出発前にもう少し時間を割いて装備の充実を図るべきだったのだ。つい真琴の容体が気になり、気持ちが突っ走って装備品の収集にかける時間を惜しんだ結果が現状に繋がって
 ——しまった。
 やってはいけない場面での、失態。
「最期に、答、え——」
 真琴は、透き通る程の美しさを湛えた穏やか顔のまま、動かなくなった。
「真琴さん! 真琴さん!?
 片膝立ちした具衛が、今にも脱力しそうで頼りない真琴の頭を片手で抱き抱えながら、余った片手をその背中に回して摩りつつも身体を揺する。
「もう一踏ん張りですから! しっかり!」
 それでも反応が返って来ず、慌てた具衛はすぐに両手で背中を摩り始めた。すると、すっかり力を失った真琴のその首が、なす術もなくがっくりと後ろに落ちる。文字通りの氷肌の如き美顔が、具衛の目の前で無造作に天を仰いだ。
「真琴さん? 真琴さん!?
 具衛の顔全体が、小刻みに震え始める。
「真琴——!」
「うわっ!」
 激しく跳ね起きた具衛が驚いた顔で周囲を見渡すと、吹雪は止んでいた。それどころか、雪すらない。状況が飲み込めず目を瞬いていると、傍の椅子に座った真純が及び腰で具衛を見ているではないか。
「具衛さん——分かる?」
 白を基調とした清潔感のある二〇畳程度の部屋の、
「ベッド、の上?」
 の、ようだった。
 いつの間にやら、薄い青色のパジャマのような物を着ているそれは、病院の患者衣らしい。
「覚えてないの?」
 真純も、いつの間にか軽装になっていた。少しの間、記憶を探るが、
 ——全く、
 思い出せない。
 傍にある窓から外を見ると、七、八階程度の高さから見る市街地の景色は、雪に覆われており真っ白だ。積もりそうな雪ではないが、やはり雪がちらついている。状況がある程度進んでいる事は何故かすぐに分かった。が、復路の山道で転倒した後の事が思い出せない。
「真琴さんは!? お母様は無事なんですか!?
 瞬間で顔を険しくした具衛が、遠慮なく真純の両肩にしがみついた。
「うわわわ!」
 慌てた真純が、更に及び腰になる。
「真純さん! 真琴さんは!?
 形振り構わず真純に追いすがる具衛がベッドから落ちそうになるのを、どうにか押し返した真純がベッドに戻した。
「ちょ、ちょっと! 落ちる! 落ちるよ!」
 呆気なく押し返された具衛が縮こまって身体を固くし、うなだれながら目を閉じる。片手で両こめかみを挟み脳裏の記憶を探るが、やはり思い出せなかった。
「だ、大丈夫。助かったよ」
 一息ついた真純が分かりやすくも端的に答えると、
「そ、そうでしたか」
 そこで具衛は、盛大に溜息を一つ吐いて落ち着きを取り戻した。そのままベッドの後に脱力し、その調度品で頭を打つと、普通に頭を打った程度の痛みが普通に頭に伝わって来る。
「痛たたた」
「具衛さんも、その様子だと大丈夫そうだね」
 良かったよ、と安心した真純が語った救助の経緯は、具衛にとって殆ど初耳の事ばかりだった。
 真純が待機していた所、これはつまり、具衛が真琴の愛車で山道を突っ込めるだけ突っ込んで乗り捨てた前線基地だったのだが、そこから具衛が転倒して、スマートフォンが電池切れになった現場までは、一km程度の距離を残すのみだったらしかった。具衛のスマートフォンのデータが取れなくなった真純は、その少し前に前線基地に到着していた医師以下、高坂総合病院の救急スタッフ一同と共に、意を決して猛吹雪の中をラッセルで迎えに行く事にした。のだったが、迎えに行くまでもなくその約一〇分後には、鬼気迫った具衛の方が凄まじい勢いで、残り行程の三分の二以上を踏破して来て合流したそうだ。素人とは言え、数人がかりでラッセルするような積雪にして猛吹雪の中を、である。一見して、荒れ狂うかのように猛々しくも突き進んで来た具衛に、その場の者は目をひん剥く程驚いたと言う。
「ホントに覚えてないの?」
「——ええ」
 言われてみればあの後、一念発起して下山を再開した事は、何となく既視感的に思い出したものだが、それでも合流時は全く思い出せない。
「呼び止めても歩き続けてたから、止めるのに一苦労だったんだよ」
 追っつけで自治体の救急車も一台駆けつけており、その全員で取り押さえないとどうしようにもなかったそうだ。挙げ句の果てには、
「鎮静剤を打つ始末でさ」
 で、今の今までよく寝ていた、と言う事らしい。
「今は?」
「日曜日の昼過ぎ」
 丸一昼夜、寝ていたようだった。
 ち、鎮静剤——。
 それが使用される状況を、見守る側の人間としての経験は有していた具衛ではある。それは戦地であり、警察署内であり、ちょっとした修羅場だったものだ。何らかの事情や原因で覚醒状態に陥った人間は、そうでもしないと止められない。
 それを、俺が——?
 そこまで荒ぶるなど、覚えがなかった。その出自故、人生の早い段階から観念的に生きて来た具衛である。
「具衛さんが目を覚ましたら、先生を呼ぶよう言われてるんだ」
 席を外すそうとした真純の腕を、具衛が慌てて取った。今は自分の事よりも、真琴の事が何よりも気になる。
「真琴さんの具合はどうなんですか!?
「だから、大丈夫だって」
 肺炎になりかかっていたようだが、結局発症しなかったらしい。インフルエンザも喉も迅速な処方が功を奏し、回復傾向なのだそうだ。
「とは言っても、」
 やはり重症肺炎に陥る寸前程度には衰弱しており、一応ICUにいるらしかった。
 救急車と合流後、二人はそのまま高坂総合病院まで搬送された。朝を迎えた都市部の交通網は、一応走れる程度には回復していたようで、搬送には具衛が爆走した往路程の時間はかからなかったらしい。が、それでも、
「普段の倍はかかったらしいよ」
 とは、都市部の雪害の怖さである。
 具衛の奮戦は言うまでもないが、その状況に合わせて、医師が救急車で前線基地までやって来た事は大きかった。結局のところ、具衛と医師のその連携が適切な処置の開始を早め、真琴の病状の深刻化を食い止めたのだった。
「母さんは、昨日の夕方には割とけろっとしてたんだけどね」
 とは言え真琴は、搬送時は殆ど昏睡状態で、有無を言わさずICUに担ぎ込まれたらしい。
「そうなんですか?」
 諸々の症状に加え、最終的にはやはり低体温症が少し足を引っ張ったようだった。
「まあ、それでも。若かりし頃は、相当鍛えてたようだし。ある程度、基礎体力の貯蓄が物を言ったようだよ」
 で、今は落ち着いている、と言う。
「そうでしたかぁ——」
 具衛はようやく合点がついたように、また大きく溜息を吐いた。
「インフルエンザの回復が顕著なら、明日にでも一般病棟に移るそうだよ」
「——良かったです」
 無意識とは言え、救助を完遂出来た事は何よりだった。転倒した時は正直、
 ダメだと思った——
 限界に来ていた筈なのだが。何がそうさせたのか、よく思い出せない。
「心配してたよ?」
「はい?」
「具衛さんの事。意識が戻らないって言ったら」
「そう、ですか」
 とは言え具衛は、救急車内の診断であっさり過労と診断されたため、そのまま一般病棟だったらしい。
「まぁ、救助の際のまさかの大捕物で、鎮静剤打ったせいだって説明したら笑ってたけど」
「お、大捕物?」
「取り押さえようとした人間を、まとめて何人か投げ飛ばしたんだよ? 覚えてないの?」
「——全く」
 結局、リミッターを振り切った無茶をした、と言う事らしい。寝不足と過労に加えて鎮静剤を打ったため、その反動で爆睡していたようだった。
「あちゃぁ——」
 具衛は堪らず片手で額を打ち、顔を顰めた。
「まぁ、その分だと心配ないね。簡単な検査はあるだろうけど」
 ここまで説明すると、
「納得したようだし、先生呼んで来るよ」
 真純はようやく解放された、と言わんばかりに立ち上がる。
「——あ」
 かと思うと具衛ににじり寄り、只ならぬ事を小声で囁いたものだった。
「お腹の赤ちゃんも、多分大丈夫だろうって」
 訳知り顔でウインクする真純に、具衛は絶句し言葉が出ない。
「ホント、具衛さんには感謝に尽きないよ。僕は今日はこれで帰るけど、改めてお礼させてもらうから」
 覚悟しといてよね、と捨て置くように言って広い部屋の端にある扉を開けると、真純は嬉しそうに手を振りながら部屋を出て行った。
 感謝だとかお礼だとか覚悟だとか、
「なんだそりゃ——」
 呆気に取られる具衛は、重大事に思い至った。真純が知っているのであれば、高坂宗家の主要人物は知っている、と言う事だ。
「ま、まずい——」
 あのご両親に、何と顔向けをしたものか。
 具衛は広い個室で一人、顔を青くした。
 加えて、
「日曜の——昼!?
 予定では、昨日の午後には帰広している筈で、その夕方には勤務先施設で宿直業務に就いている筈だったのだ。慌ててスマートフォンを探すと、いつの間にやら、頭の後ろに充電済みの状態で置かれている。表示を見ると、確かに日曜日だった。
「うわ」
 丸々一直、無断欠勤した事になる。
 具衛は両手で頭を抱えてうなだれた。

 しばらくすると、真純と入れ替わりで医師が入って来た。具衛に真琴の処方薬を手渡し、リモートで診断していたあの男性医師だ。具衛より一回り程度年長の、細面ながら何処か武骨な壮健さで、かつ豪放気なその医師は
「お具合は如何ですか?」
 などと口にしながら、人懐こそうな笑みでニコニコと、それでも如才なく診察に入る。少し簡単に診られたが、
「流石に頑健でいらっしゃいますなぁ」
 のんびりと感心して、あっさり翌朝の退院を命じられた。寝ている間に検査は済ませたそうで、ちょっとした擦り傷以外に異常は見られなかったらしい。
「あ、あと右足首に軽い捻挫、ですな」
「はぁ」
 転倒した時に捻ったせいだろうが、こちらが申告していない捻挫を中々どうして良く分かるものだ。内心感心していると、
「婚約者の方の容体も——」
 と言われ、思わずむせかえった。
「婚約者?」
「そう伺ってますが?」
 真純さんから、と言う医師に
 余計な事を——
 具衛は密かに歯噛みする。
 真琴の方も、総じて後遺症めいたものも心配されず、予後も順調らしい。
「母胎のお子さんの事もありますので、産婦人科と連携しながらですが、」
 一週間で退院見込み、との事だった。「お子」と言われると、より強くそのイメージが押し寄せて来る。
 俺が、子供を——。
 今は、それはともかく、
「そうですか」
 真純に聞いて一安心してはいたが、やはり医師に聞くと、より安堵するものだ。そこは職業柄の説得力なのだろう、とまた感心したが、後は散々だった。
 リモート中に「周囲を憚らず口移しなど中々出来ない」だとか、「着衣のセレクトは中々見事なもので感心したが、着替えが大変だったろう」だとか、「長年救急やってて患者に投げ飛ばされたのは初めてだ」とか。
 ずけずけと——
 痛いところを突かれたもので、今更ながらに、宿ではリモート中だった事を思い知らされる。他意はないようだが、
「流石に特殊部隊上がりの方は、違いますなぁ——」
 などと、おそらく真純から吹き込まれたのだろう情報をネタに延々喋られると、
「インフルエンザ患者の口をあれだけ吸ってもうつらない」
 止めを刺され、更にむせ返った。
「いやいや、結構結構——」
 ぐいぐい無遠慮に食い込まれ、その無遠慮に呆れた具衛は、両目に片手を宛てがい天井を仰ぐ。その無遠慮な声は、最低限の一線は守るようでとりあえず敬語なのだが、音色はまさにがなり系で、人を食ったような趣きは
 ——滝川さんの親戚かよ?
 具衛が知る警視庁の骨太刑事のそれを彷彿とさせたものだった。
 大体が、口移しを仄めかしたのはこの医師だったのだ。真琴の喉は殆ど閉塞寸前で、切開する術がないのなら
「口移しでも何でも、無理矢理にでも薬を捩じ込むしかない」
 と言う医師の指示に過ぎなかったそれは、その時点で真琴の命を最も追い込んでいた症状だった。咽頭蓋炎はまさに危機一髪だったのである。宿で具衛が「口移し」を躊躇していたら。更にはその薬が効かなかったなら。真琴は宿の時点で間違いなく窒息していたのだ。それを如何にも、色沙汰めいた言い方で冷やかすなど大概である。
 何処にでも、
 ——いるなぁ、こんな人。
 などとたじろいでいる具衛に、その骨太医師は最後の最後で、更にとんでもない止めを刺した。
「後で、会長ご夫妻がお見えになりたいそうです」
「ええっ!?
 またもや絶句の具衛である。
「もっとも予後がよろしければと言う事で、今は私が預からせて頂いておりますが——どうされますか?」
 などと言ってはいるが、
 よくもまあ、抜け抜けと——
 翌朝には退院を命じられた、予後に何ら心配がない身なのだ。会わない口実を探す方が難しい。医師は、この土壇場の一連の目撃者であり、
 ——楽しそうだなぁ、この人。
 具衛が苦虫を潰していると、それが伝わったようだった。
「ご心配には及びません。大変感謝しておられます。お嬢様の予後の良さは、紛れもなくあなたのご活躍があってこそですから」
 まあそこは少し盛っておきましたから、などとけたけた笑われたものだ。
 それはともかく、事実として件の温泉宿周辺は更なる豪雪に見舞われ、未だに孤立状態らしかった。積雪は今や屋根の軒下に迫り、山道は除雪すら出来ない有様だと言う。車が通れるレベルまで雪が引くには、どんなに早くとも一週間から二週間単位で物を言わなければならず、救援物資を輸送しようにも手立てがない、とか何とか。
 とは、一連の具衛の決死行は常に尻に火がつきっ放しだった、と言う事の裏打ちでもあった。例えば、宿へ向かう手段にもたついていたら。或いは、宿からの出発を躊躇していたら。どちらにしても手間取った分だけ積雪が嵩み、真琴は宿から脱出出来なかっただろう。それは危急の状態にありながら、医療過疎地で自らの自然治癒能力に命運をかけざるを得ない事態に陥る事を意味していた、と言う訳だ。
「宿に取り残されていたならば、本当のところ、どうなっていたか分かりません」
 インフルエンザは薬で抑える事が出来ても、肺炎はどうなっていたか分からない。咽頭蓋炎に至っては、常に窒息の危機に瀕していたのだ。そうなれば母体はおろか、少なからず胎児にも悪い影響をもたらした事は
「まぁ、間違いなかったでしょうな」
 と、医師は言い切った。
「あれ程の大雪の猛吹雪の中を、その細い身体で人一人背負ってよく歩けたもんです」
 我々など、数人がかりでほんの数百m歩くのが精一杯だった、とは医師の謙遜ではないだろう。素人ならば、数分で遭難するような状況下だったのだ。
「あなたはそれを、一人で歩き通した訳ですから」
 その事実は何であろうと不動だ。その一事に関しては大功の一言に尽きるのだ。と、持ち上げておいて、例え他のファクターが後で物議を醸そうが、
「頼られて役目を果たした分だけ大物振っておくものですよ」
 などと見え透いた口振りで好奇の目を湛えて薄く笑う医師は、真純をネタ元に明らかに具衛の微妙な立ち位置を理解した上での確信犯である。
「腹が減ったでしょう?」
 院内食を持って来させる、と、とりあえず好奇心を満たしたらしい医師は、言う事を言うとさっさと部屋を出て行った。
 面会の認否は、結局どちらも口にしなかったが、流れとしては間違いなく襲撃される方向である。と、言っても昼飯時だ。とりあえず、
 飯でも喰わせてもらって——
 一息つく事にした。
 その前に、一二なく早速武智へ連絡を入れる。それこそ昼時だが、無断欠勤しているのだ。どの面下げて、ではないが、とりあえずスマートフォンの電話帳を開き、武智をコールする。電話向こうの人物が出て、いの一番に謝罪をしようとしたところ、
「おー、大変だったのう」
 などと、鷹揚な声が聞こえて来た。
 具衛が訝しむと、
「高坂の大奥様自ら、連絡をくださっての」
 美也子により、事情は承知しているらしい。
「そう、でしたか」
 随分と手回しが良い、と思っていると、武智はそれを上回る事を口にしたものだ。
「その大奥様立ってのご依頼で、お前は昨日つけで首になった」
「——は?」
 何の悪戯かそれは、などと瞬時に頭に血を上らせ始めると、
「まあ、詳しい事は高坂様か大奥様に聞け」
 わしはちょっと忙しい、などと武智はさっさと畳んでしまったものだった。
 ——な、
 何だそれは。
 一方的に切られた電話の向こうから聞こえて来るのは、只々、話中音である。首になった、と言う事は、
 無職か——。
 契約満了を果たせなかった、と言う事だった。それは如何にも、
 ——情けない。
 いくら自由の身になったとは言え、契約事に疎漏を来たすなど、これまでの具衛の人生においては、中々有り得ない体たらく振りである。と、言う事は、
 山小屋も出て行かないと——
 などと、思い始めた。
 元はと言えば昨春の時点で、ほんの少しだけ残ってしまった父の負債を完済するために、武智から融通して貰った仕事であり、住居である。負債も完済し職も失えば、引き続き住み続ける事の大義を失う。
 ——残念。
 近々真琴がサカマテに復帰する見込みであり、また以前のように山小屋に真琴が立ち寄る事も合わせて復活するのか、などとぼんやりとした青写真を描いていただけに、ショックは大きい。特に春から初夏にかけての景色などは、人嫌いの具衛が人に勧めたくなる程だったのだ。
 桜から新緑へかけての麗かな日々。日差しも風も穏やかで心地良い山間の秘境は、まるでここが故郷だと錯覚するような懐かしさを感じたものだ。昨春などはそれを一人で堪能しては
 何だ、何もいらんな。
 それまでの激務から一変した開放感に、山小屋の縁側でぼんやり本を読んだり、惰眠を貪っては最良の平穏を満喫したものだった。
 が、今となっては、その平穏も何処か寂しい。真琴を知ってしまってからと言うもの、その一欠片が埋まっていなくては、最良など有り得なくなってしまった。
 その女に、
 求婚された——
 のだ。
 宿を出発する直前に、追い詰められた真琴が口走った一言に、まだ答えていない事を思い出す。もっともあの場で答えるつもりなど、それをせがまれた瞬間から考えもしなかった。生命に危機が及んでいる遭難者は、余程安全安心が確保された状況下でない限り、救助が完遂されるまでは決して安心させてはならない。気が緩むと、身体が脱力するのだ。一度緩むと、只でさえ擦り減っている状況に加えて切羽詰まっている。普通、取り戻す事は難しい。となると、むざむざ目の前で絶命を目の当たりにする結果を招く。
 だから、例えすぐに答えをくれてやりたくとも、励まし続ける一方で安心させない。その意義と重要性に託けて、その場では答えを保留していたのだが、結局のところ逃げだった。
 嬉しくない訳がない。あれ程の美女にして聡明で財力も申し分ない、と来ている。世間の男が聞けば、怨嗟の的だ。要するに、
 ——自信がない。
 と言う事だった。
 一歩引いて考えれば考える程、二人の環境は有り得ない程に違う。この先の将来を確約されている真琴に対し、具衛などは明日の着る物、喰らう物、住む所を心配しなくてはならない。そんな有様の二人である。冗談抜きで、先刻首になってしまった、と言うおまけつきなのだ。こんな状況で、どうやってあの女傑を娶れと言うのか。自分の何処をとれば、あの女傑が欲するものを持っていると言うのか。
 さっぱり——
 理解出来ない。唯一考え得る、と言えば、
 ひも——か。
 としか、自分の価値など見出せなかった。が、それは流石に
 あ、有り得ん。
 どんな苦境も、曲がりなりにも自分の足で歩いて来た人生である。負債に追われ続けた男は、特に他人の施しには敏感だった。それは貧者のつまらない意地や見栄、と言ってしまえばそれまでなのだが、その節度をはみ出す事を、実は大それた行動力を持つ一方で普段は小物と言う、このチグハグな男は最も恐れた。お互いの尊厳を重んじる関係でない限り、所帯など構えられない。それは相当早い段階で、父母と言う身近な反面教師から得た教訓でもあった。
 が、あの女傑と
 ——対等?
 それを望む事自体に、今の自分の立ち位置では相当な無理がある。
 そもそもが何だってこんな
 ——デカい一人部屋に?
 然も特別室めいた個室に押し込められているのか。立って半畳寝て一畳で、それなりに満足出来る人生を生きて来たと言うのに、今この状況そのものこそ、まさに分不相応にも程があると言うものだった。一角にはちょっとした応接セットまであるではないか。どんな階層の人種が使う部屋なのか、それで分かろうものだ。
 これこそ有り得ん——。
 一体一泊いくら取られるか分かったものではない。今更ながらに不安になって来ると、昼食が届いた時にでも
 さっさと退院させて貰おう——
 と、身の回りの物を確かめ始めた。
 ベッドから降りてみると、医師の言う通り右足首に少し痛みが残っており、しかも固い。ズボンの裾を上げてみると、包帯が巻かれ湿布が貼られているではないか。合わせて膝や股関節も、何も施されてはないものの、何処となく力が入らず頼りなかった。どうやら相当無理をしたらしい事を思い出すと同時に、年齢を痛感させられる。何せもう、四〇前のオジンなのだ。
 あの美貌なら、どんな燕でも
 寄って来るだろうに——。
 何でよりによって、このなけなしのオジンなんぞに求婚したものか。思えば思うほど謎は深まるばかりだ。
 謎と言えば、合わせて部屋の何処を探してみても、スマートフォンと財布以外、所持品が消え失せている。つまりは、着替えを入れていたいつものリュックがないのだが。何処にいったものか。
「うーん」
 思わず片手で頭を掻きむしっていると、部屋をノックする音が聞こえた。昼飯が届いたらしい。
「どうぞ」
 が、その返事と共に入って来たのは由美子である。
「ご無沙汰致しております」
 相変わらずの折り目正しさで深々と立位の最敬礼で傾首するその淑女を見るのは、正月明けの武智邸で、涙ながらに真琴の窮状を訴えられた時以来だ。
「こ、こちらこ——」
 真琴を助けた事よりも、身籠らせた後ろめたさが断然優っている具衛である。また何を言い出されたものか分からず、途端に緊張感をみなぎらせては、由美子に合わせてよそよそしくも姿勢を整え返礼していると、
「——そ?」
 続けて後から入って来た二人の老夫婦の姿に絶句し、その場で立ち尽くした。
「もうお加減はよろしいようですな」
 高坂次任と、
「流石に頑健でいらっしゃいますこと」
 高坂美也子その人である。
 その不意打ちの来訪に只々驚く中で、とりあえずその顔色にどうやら険は見えない。この二人からすれば具衛などは、恩による合縁と言うより因縁による奇縁とした忌々しさだろう。何とか相反する要因で相殺出来ないか、などと思案を巡らせるが、それは普通相手がいない時に落ち着いて考える事であり、
「あ——」
 いきなりの俎上で情けないばかりに目が泳ぎ、言葉が出なかった。戦々恐々とはこの事と言わんばかりに立ち尽くす具衛を尻目に、続けて二、三人の小間使いの者が入って来る。瞬く間に、一角の応接セットに三人前の重箱とお茶を用意したかと思うと、微かに衣擦れの音を残して静々と部屋を出て行った。
「お昼はまだと聞きました。よろしければご一緒させて頂きたいのですが?」
「合わせて、積もるお話もしとうございますし」
「いや、しかし——」
 本当に困ったと言わんばかりの顔を憚らない具衛は、如何にも腰砕けの小物感満点である。
「よもやお忘れとは言わせませんよ?——武智中尉殿」
 が、美也子のその一言は、まるで何かの暗示のように、具衛のスイッチを入れた。
「まさか——」
 急に姿勢が改まり体幹が据わり始めた具衛に、美也子が目を細める。
「私のような者を、覚えておいでとは——」
 勝手に名乗った「アノニマ」とは言え、武智の名跡を出されてはいい加減な事は出来ない具衛である。実のところ、厳しい軍務の土壇場で観念的な具衛を支え続けたのは、恩人にして文字通り本家本元の主のその名を汚してはならない、と言う意地と見栄でしかなかったのだ。
 それが未だに身体に染みついている。条件反射のように顔つきが引き締まる具衛が、何やら泰然と熟れて来ると、
「逆にあなた程思い出深い方は、他にいませんでしたよ?」
 それに対して嘯いてみせた美也子が、小さく目配せして次任を促した。
「うん——」
 小さく一度頷いた次任は、瞬きの度に少しずつ顔を綻ばせる。
「不破様——どうぞお掛けくださいまし」
 まだ室内で控えていた由美子が、応接の椅子を引きながらも、固まりかけた場を動かすと、
「立ち話も、何ですな」
「そうそう。お加減が宜しければ、お掛け頂ければ嬉しいのですが」
「——では、ご一緒させて頂きます」
 三人は銘々口を開きつつ、テーブルを囲み座り始めた。

「あれから二〇年と少しですが、お元気そうで何よりです」
「そんな事まで——恐縮です」
 高校三年の一学期に天涯孤独となった具衛は、武智が送り込んで来た弁護士の山下と知り合った事で、早速後の展望を見据え、なけなしの金を元手に渡仏した事は既に書いた。
 が、渡仏後から仏軍入隊の間には、ちょっとしたエピソードがある。貧困層で世の歪みを同年代より多く見て成長して来たとは言え、治安の良い日本で暮らして来た事の弊害は大きく、いきなりの渡仏は、未成年の具衛にはやはり少し冒険が過ぎた。そんな世間知らずの日本人の若者は、到着したばかりのパリでいきなり身包み剥がされる、と言う強盗被害に遭い、パリの警察署に保護されたのだ。なけなしの全財産を失った後、泣きっ面に蜂の具衛を引き取ったのが、在仏日本大使館の職員だった。
 大使館としては、年端も行かないこの如何にも危うそうな軟弱者など後難の憂い以外の何物でもなく、さっさと帰国させる手筈を整えていたようだ。それをすんでのところで止めたのが、当時駐仏大使の美也子だったのである。強盗被害の折の負傷で、あざまみれの腫れぼったい顔をした当時の子供染みた具衛が、
「外人部隊に入る」
 と言って笑わない者がない中で、美也子が出した条件はユニークだった。
「毎月一通、私宛に必ず手紙を寄越しなさい」
 その温情に答えた具衛は、ものの二、三年のうちに目紛しい成長を遂げると、今度は美也子の方が具衛を頼る事になった。当時仏大統領だったアルベール遭難事件の発生に伴う決死隊への志願依頼である。日本人隊員の決死隊参加が日仏の有効な外交カードとなり得ると判断した美也子は、当時既に山岳兵としてスペシャリストの尊称を手にしていた具衛を動かした。具衛の決死隊参加を決定づけたのは、他ならぬ美也子だったのである。
 当時まだ在隊五年未満のアノニマ隊員だった具衛は、本来であれば外人部隊の「厳格なアノニマ」の原則に則り、外部との接触を断たねばならない身だったのであるが、そこは上手くやっていたものだった。実は実家の負債返済絡みで、武智の顧問弁護士たる山下とも定期的な連絡を怠らなかった具衛である。
 以後、美也子が国連軍縮大使に就任した事を契機にその文通は終わったのだったが、それでも実に五年、
「やり取りした殿方です。忘れる訳がありません」
 美也子は、実の夫の前で抜け抜けと言ったものだった。
「そんな、大使——」
「気にしないで頂きたい」
 美也子は今でこそ流石に年齢には抗えず高齢女性を呈してはいるが、それでも実年齢よりも一回りは若く見える見事な淑女振りである。その二〇年前ともなれば、美貌の女性大使として仏国でも俄かにちやほやされた存在だった。そこはやはり、真琴の母である。それを思い出し、憚る具衛の前で次任は気にも留めずに言った。
「逆に何故文通をやめたのか、そちらの方が気になる」
 具衛の記憶を遡れば、確か美也子は駐仏、軍縮両大使の任期中は、単身赴任だった筈である。妙な事でも言われると、妙な事になりかねない。が、美也子は、
「つい、頼り過ぎてしまう事を恐れたのよ」
 フィクサーらしからぬ情を滲ませ言ったものだった。
「今回が良い例です。知っていると、何度も何度も頼ってしまうでしょう?」
 世の中、ギブアンドテークが原則だと言うのに、
「あなたは相変わらず欲がなくて」
 困ったものです、と美也子は口を濁した。
 実は、仏軍の次に日本警察の特殊部隊アドバイザーに就任したのも、他ならぬ美也子の依頼が発端だった。仏軍の契約を五年延長し、その二期目の契約満了が近づいたある日。再延長するか否か判断する前に、明日の見通しすら不安定だった具衛は、とりあえず元気なうちに、渡仏後の心的支援に謝意を述べるべく美也子を訪ねた事があった。訪ねた先は、ジュネーブに構える国連軍縮会議の日本政府代表部である。当時、そこの大使だった美也子に、アポ無しで訪ねる事など有り得ないにも程がある事に加えて、何かの合間を縫うようにバタバタと訪ねた具衛を、美也子は追い返すどころかやはり歓待したものだ。
 日本警察の特殊部隊の実情を聞かされたのはその席での事だった。実戦が余りに少なく、訓練ですら実弾を撃つ事すらままならない隊員を「鍛え直しては貰えないか」と言う美也子の憂いに答える格好で採用された後の顛末は、既に書いている通りだ。
 因みに何の因果か、具衛も美也子も任期を残り少なくしていたこの頃、真琴はパリにあるフェレール財団のシンクタンク「フェレール平和基金」にいたりする。日本に失望し、傷心の真琴が大成する足掛かりとなった場所だ。その真琴が真純を伴い、具衛と美也子がこの時顔を合わせた国連ジュネーブ事務局へ後を追うかのようにやって来るのは、その二年後の事である。新進気鋭の国際関係学研究者として名を上げ始めた真琴が、国連傘下のシンクタンク「国連軍縮研究所」へ赴任するのを、当時の美也子は予見していたかも知れないが、具衛は当然知る由もなかった訳だ。
 似たような所で似たような事をする母娘は、今思えばやはり母娘としたものだった。人生一〇〇年時代にして、まるで社会的階層が異なる具衛と真琴にとっては、二年の誤差はニアミスと言えばニアミスかも知れない。そんな二人が出会うのは、そこから更に約八年を要する。この八年がなければ、間違いなくこんな展開にはならなかっただろう事を思うと、つくづく人生の不思議に感じ入る具衛だった。
 そんな邂逅を懐かしむ具衛の前で、
「頼ってばかりで、本当にあなたには頭が上がりません」
 美也子が深々と頭を下げると、次任も黙って続く。
「いや、そのような——」
 具衛も慌ててチャンネルを戻すと、深々と頭を下げた。何せ、大切な愛娘を孕ませているのだ。いつスイッチが入って雷が落ちるものやら分かったものではない。真純の拉致事件にせよ、真琴の救出にせよ、そんなものはたまたまが重なって具衛に白羽の矢が立ち、たまたま成功しただけの話である。具衛からしてみれば、感謝される事の
 意味が——
 分からない。功など、あってないようなものだった。
 それからしばらくは、ぽつぽつ世間話を交わした事ぐらいしか覚えていない。三人が三人とも、それぞれの思惑で身動きが取れない三つ巴のような状況になっているようだった。具衛の思惑と言えば真琴の妊娠しか頭になく、どう謝るか、いつ言い出すか。それだけである。
 こんな事なら、
 のっけに拝み倒しとけば——
 などと、今更後悔して止まない。しかし、こんな状況下でも、
 ——クソ。
 重箱が美味かった。腹が減るのは正常な証だ。おそらく高坂家お抱えの料理人によるものだろうそれは、箸を止めるタイミングを悩ませた。
 一方で次任と美也子の思惑など、具衛には分かる筈もない。日本経済を牽引している企業グループの創業宗家の人々の考えなど、庶民が逆立ちしたところで分かる訳が
 ——ない。
 と言えば聞こえとしては素直だが、結局のところ、何を言われて咎を追及されるか。その一事であった。それには真琴の妊娠以外にも、国産戦闘機の件もそうであるし、フェレールとの業務提携の事もあるし、裏で暗躍するような人間でもないくせしてとにかく、
 首を突っ込み過ぎ——
 たのだ。如何にも、世相を毛嫌いする自分らしくない。それどころか、見事に逆を行ってしまっているではないか。
 いっその事「責任を取れ」と凄まれた方が気楽で、生殺しのような現況よりは良いと思い始めると、ベッドの枕元に置いていたスマートフォンが素気なく鳴り始めた。
「申し訳ありません」
 慌てて席を外した具衛が着信を確かめるが、知らない登録外の番号だ。とりあえず応答せずに、バイブモードにして放置する。しつこかったが、しばらくすると切れた。
「出なくてもよろしくて?」
「ええ。登録外の番号からで。またかかって来るようなら——」
 などと説明している矢先、また着信する。ベッドの上で、鈍い連続した震音が三人の耳を突き始めると、
「ちょっとよろしいかしら?」
 その瞬間で、何事か思い当たったような美也子が、具衛にスマートフォンを見せるよう求めて来た。
「はい」
 それに従った具衛がそれを渡した途端、美也子は眉を寄せ表情を曇らせる。合わせて和装の内ポケットから自らのスマートフォンを取り出して何かを表示させると、二人のスマートフォンを並べて具衛に見せた。
「高千穂です」
 一方の画面上には、着信中の電話番号が、もう一方のそれには、電話帳登録上の電話番号が表示されていたが、どちらも同じ番号である。
 つまり電話番号を、
 ——覚えてんのか?
 と、言う事らしかった。
 この時代にそれを記憶しているところなどは、流石の切れ具合である。それは良いとして、どうしたものか戸惑っていると、
「今更あの男が、あなたに何を言ったものか。少し興味が湧きますこと」
 美也子は応答する事を促した。合わせて次任も頷く。
 これはもしや——
 その様子に、夫妻の思惑を知るきっかけになる可能性を直感した具衛は、あえてスピーカーモードで受話してみた。
「もしもし、不破ですが?」
 わざと、名前を先にぶつける。
 間違い電話ならこれで振り落とせるし、故意なら故意で反応が試せる。
「俺が誰だか分かるか?」
 しかしてその声は高飛車で、何らかの意図を持って電話して来た事を確定させた。確かに聞き覚えのある、どすの利いたがなり声である。
「外務大臣の高千穂隆介さんですか?」
 何やらきな臭さを感じ始めた具衛は、高坂夫妻を前にぐいぐい絡み始めた。電話向こうの声が、素直に感心する。
「じゃあ、何で電話して来たか分かるか?」
「二日前の金曜日に、下手大臣に国家公安委員長室に呼び出され件ですか?——仲間になれって言われたんですが」
 具衛は、この際どんどん推定事実をぶつけた。それを相手が認めてしまえば、それはつまり何らかの罪が成立する状況となる。この際、この賊を葬る事が出来るネタを仕込めれば、と瞬時に考えた。そうすれば真琴や真純など、高坂の人々の苦しみが少しは軽くなるかも知れない。
「ふーん。流石に少しは察しがいいな。真琴をたらし込むだけの事はある」
 が、自分がネタで葬り去る、と言う事は、逆恨みを買う、と言う事だ。こう言う相手は、それを逆手に取って傍若無人となる事を、具衛は嫌と言う程仕事上で経験して来ている身である。
 随分と——
 舐められたものだ。それでも淡々と、あえて小物を装いながら話を引き出し始めた。
「もう寝たのか?」
 が、話が途端に性的に傾くと、内心ぎくりとした。
「確かに良い身体をしてるが、それ以上に声が良いだろう?」
 この下衆な男にしてみれば、話の切り口のつもりなのだろうが、一人でそれを言われる分には、意に介さないぐらいの図太さは持ち合わせている具衛だ。が、如何せん目の前にその両親がいるのだ。急転直下、顔色を変える老夫妻を目の前に、具衛は思わず固唾を飲んだ。それと同時に、高千穂の衰退振りの早さを感じ取る。
「ご用件は? 冷やかしだけなら切ります」
 このまま高千穂に暴言を吐かす事は、個人的には何ら苦にはならないが、老夫妻の反応は予見出来ない。見るからに苦虫を潰しており、やはり聞くに堪えないようだった。いくらいがみあっているとはいえ、実の娘の秘部を晒されるのだ。嬉しく思う親などいよう筈がない。それに対する同情と合わせて、無意識の内にその忌々しい声が聞こえて来る自分のスマートフォンを壊されかねない、と思った具衛は、話の先を促した。
「せっかちなところまで真琴に似て来たか?——まあいい」
 悔しくも、真琴の内外を少なからずこの下衆は知っている。それを聞かされる度胸は備わっているつもりだが、それを聞かされる両親の無念を思うと、不肖ながらに腹が煮えた。
「で、どうするんだ? 俺についてくれるんだろうな?——それともまさか、断わると言う選択肢が存在し得るのか?」
 その有無を言わさぬ物言いは、
 相当——
 追い詰められている事を裏づける。
 声色こそ優位性を醸し出してはいるが、水面下では溺れかかってもがいているイメージが具衛の脳に浮かんだ。下手が告げた回答期限は明日の夕方、の筈である。それを待ち切れず、その首魁がわざわざ、社会的地位の低い具衛のような小物を手に入れる事に躍起になっている。
 つまりはそれだけ、
 ——手が足りないらしい。
 その裏返しであった。
 その獲得工作が、安易な脅迫にすがらざるを得ない事に、高千穂一派の力の衰退と疎漏を垣間見ざるを得ない。首を切った元秘書が大それた跳ね返り方で捕まり、悪事はだだ漏れになりつつある。権力を握っている時は、その有無を言わさぬ絶対的な力でまかり通ったものだが、落ちぶれると転落は殊の外早い。あっと言う間に求心力を失い、文字通り丸裸にされてしまうと、後に残るのは見窄らしい浅ましさを纏った負け犬でしかなかった。
「断ったら、どうなりますか?」
 あえて受ける事の条件は聞かなかった。聞いたところで、どうせ方便だ。高千穂に残されているのは、精々はったりでしかない事が手に取るように分かった。使える手駒が、急速に手元から消えているのだろう。
「何分手駒が少なくなってな。出来れば有能な駒として雇いたいんだ。分かってくれんか?」
 高千穂は、電話向こうでそれをあっさり認めた。事実なのだろう。でなくては、高坂宗家の当主夫妻が、現に同席している状況下の具衛になど電話をかけてくる筈がない。何せ自分の野望のために、高坂グループを蝕んだ男である。特に美也子としては、忌々しい事この上ないだろう事は、鈍い具衛でも想像に易しかった。操っていた筈が、いつの間にか操られるどころか足元が蝕まれていたのだ。その怨念を思うと、他人事ながらに恐ろしい。
「それでも嫌だ、と言ったら?」
「その時はお前の周りの人間が、困った事になるだろうな」
「それは、どう言う意味で?」
「いくら弱ったとは言え、お前ら下々の人間の一人や二人、消す事ぐらい訳ないんだよ、俺は」
 そこまで話を引き出すと、具衛は何も答えず電話をぶつ切りにした。脅迫事実の担保はこれで充分である。合わせて即座に、てきぱきと着信拒否の設定をした。
「お耳に障るような話をお聞かせしてしまい、申し訳ございませんでした」
 着座のまま深々と頭を下げると
「それは構いませんが——」
「録音済みです」
 美也子の意を察した具衛が、頭を上げるなりその言を被せる。美也子は、小さく溜息してみせた。
「士別れて三日——」
 美也子はその後の句を省くと、
「あなたはもう、二〇年ですものね」
 目を細めたものだ。
「即ち更に刮目して相待すべし——」
 美也子の後の句を引き継いだ次任が語ったそれは「男子三日会わざれば刮目して見よ」と言う、中国の三国志が元となった慣用句だ。が、
「——で?」
 良識ある凡才の次任は、腹は太かったが、細かい事は苦手な御大尽だった。
「あなた様と来たら、もう——」
 それに美也子が呆れ、
「ついでと言っては何ですが、この鈍いお方に説明がてら、あなたの見解をお聞かせ願えませんこと?」
 具衛に説明を求める。
「——では、僭越ですが、」
 それを受けた具衛は、今後の展開の私見を語り始めた。
「あくまで推測の域を脱しませんが——」
 高坂グループの上層部によるインサイダー取引で、既に金融庁の証券取引等監視委員会が犯則調査を行っている展開に加えて、警察は警察で、高千穂の秘書による真純拉致事件を端緒に、その元親玉の黒い噂に漕ぎ着ける余罪を掘り下げている筈である。
 一方で検察は、証取委の告発待ちだが、水面下ではおそらく既に情報提供を受けて、高千穂を突き上げるネタを掘り下げている事も、まずまず固いだろう。
「そこへ、二日前の金曜日に、」
 現役国家公安委員長によって具衛がもたらされた、二件の脅迫事実を確定づける出来事が起きた。過去に担当した事件捜査時に受けた時効前の脅迫事実と、この度高千穂一派に入るよう脅迫された事実である。その録音データは検察修習中の真純に託しており、
「大掛かりな合同捜査が始まると思われます」
 と、言う事を匂わすには充分な状況だった。お互いネタを掴んでいるのであれば、権力の中枢に斬り込む検察の捜査力と、経験豊富な刑事達をそれなりに有する警察の組織力を生かさない手はない。検察は太い情報元を、警察は一派の一人を取り押さえているのだ。
 そして今日、たった今、
「高千穂本人の脅迫事実が取れました」
 時節は三月。通常国会開会中の現職国会議員、それも現役閣僚二人を逮捕する事が出来るネタである。検察も警察も、飛び勇んで喜ぶ垂涎もののネタである事は間違いなかった。
「でも、国会会期中じゃあ、内閣は渋るんじゃないかしら?」
 美也子の指摘はもっともである。
 現職閣僚のスキャンダルは、支持率に多大な影響を及ぼす重大事だ。もみ消されるか、逮捕自体を先延ばしにされるか、
「どちらかじゃありませんこと?」
 と言う見解はもっともだった。
 本来、国会会期中の現職国会議員の逮捕に関しては、所謂「不逮捕特権」が物の見事に当てはまる。現行犯を除くと、国会の議決なくして捜査機関は、会期中の議員を逮捕出来ないのだ。が、逆を言えば、議決さえ得る事が出来れば逮捕出来る訳だが、それはあくまでも建前上の筋道である。
 本音は、水面下での権力がダイレクトに物を言う。それが巨大与党に守られた議員ならば尚さらで、政府内や党内、更には派閥自体やその中での力の大きさが物を言う訳だ。大抵の場合その大きさは難儀なもので、それを相手取り逮捕に漕ぎ着けたいのであれば、それを覆すムーブメントは必須である。無理なら揉み潰されてあえなく終わりな訳で、そうなってしまうと捜査する側も公務員の事。即刻人事に影響が及び、最悪の場合、首が飛ぶ。議員も捜査員も共に国家権力を握る者同士。そのぶつかり合いは、まさに「やるかやられるか」の瀬戸際なのだ。
「それに関しては、今後真純さんと打ち合わせる予定です」
「あら、また何か策があるのですか?」
 美也子が悪戯っぽく笑むと、具衛は思わず縮こまった。国家の表裏でそれを駆使して来た豪腕を前に、
「策などと、言えるものではございませんが」
 それを口にする事がどれ程の事か。それでも具衛が語るのには訳があった。
「確かに、放っておいてもそのうち御用になる事は目に見えていますが、」
 そこまで待っていては、最も気になるのは、他ならぬ美也子の身の振り方だった。グループ上層部を巣食った元凶となった高千穂の、これ以上の傍若無人を、操られかけていた美也子が許す筈もなく、下手をすると
 ——直接手を下しかねん。
 加えて、刺し違える事すら有り得ると具衛は思っていた。
「武門の習いは、今日日見逃す事は出来ません」
 昔でさえ、ややもすれば喧嘩両成敗だ。両家の遺恨の大きさは計り知れない。そして美也子に限らず、高千穂の形振り構わぬもがきは、浅からぬ縁を持つ高坂と高千穂両家を延々苦しめる。更に言えば、その毒を過去に喰らった真琴や、その一子たる真純の苦悩を思うとやり切れなかった。
「首を突っ込んでしまった以上、黙って見ていられません」
「しかしあなたの被害が、その突破口になってしまうと——」
 おそらく生涯、高千穂の逆恨みを買う事になる、とは、美也子は流石にその辺りの機微には聡かった。傲慢な者は、万事他人のせいにしたがるものだ。特に、一見して貧相で何ら力を有しないような具衛に足元を掬われたとあっては、高千穂のプライドが許さないだろう。
「それで、大使と元総理の間柄も、辛うじて体裁が保たれると思いたいのです」
 つまり、高坂を発端として高千穂を切ったのではなく、あくまでも体裁としては、余罪捜査の果てに浮いて出た膿、と言う格好が、
「ご両家にとっては宜しいのではないかと。——いささか出過ぎた事を言いますが」
 と、言う事だ。
 美也子の力の所以は、この元首相によるところが大きいのである。これをいきなり断たれる事の危うさを、具衛は危ぶんだ。その良い例が、急降下する高千穂に他ならない。
「それは——確かにそうではありますが」
 美也子は、少し収まりがつかないようで、言葉を濁した。
 やはり——
 身から出た錆は、自分で始末をつけたいようだ。しかし自ら手を下してしまうと、苛烈極まった挙句美也子自身は愚か、その周囲が後に只ならぬ苦悩を抱え込むような気がしてならない。
 ——それは、いかん。
 そのための、国家機関である筈だ。
 自ら毒を吸い出しては、吸い出した者が毒に犯されてしまう。こんなどうしようにもない男のために自ら業を背負う事はない。少なからず、既にそうなってしまっている人々が存在するのだ。これ以上はプロに任せれば良い。
「出過ぎついでと言ってはなんですが——」
 具衛は畳みかけた。
「何でしょう?」
「風の噂で、これを最後にご勇退されると伺いました」
 あえて二人に向けて言う具衛に、老夫妻は小さく失笑する。
「我々はもう、充分に年をとりましたからな」
 それを次任が肯定して答えたところを見て、具衛はある思いを確信した。
「私はお二方から見れば、まだまだ年端も行かぬ青二才ですが——」
 改めて頭を下げると、
「だからこそ、浅い、青い、拙い視座だからこそ見えるものもあるとご容赦頂きまして、少しお耳を拝借させて頂きます」
 伏し目がちに、淡々と語り始める。
「——お二方と、お嬢様とのご関係の事です」
 すると、具衛がそれを口にした瞬間、夫妻の雰囲気が何処か一瞬、揺らいだように見えた。
 ——やっぱり。
 反応を示すと言う事は、関心があると言う事だ。それも敏感になる程に。そしてそれは、悪い感情である
 筈がない——
 と信じたい。
 一方で実娘の真琴は、こと親子関係に関してはすっかり冷静さを失っている。昨年末のあの夜、真琴に相談された時も、美也子の為人をそれなりの年月をかけて知っていた具衛には、俄かに信じられない思いだった。具衛の知る美也子は、確かに世間一般ではフィクサーとして恐れられた美也子だったが、その実、気働きの優れた人でもあった。しかしやはりそれは、外部から見た美也子でしかなく、家庭内での愛憎と言うか確執めいたものをネットなり真琴なりに見聞きした時には、そのギャップに少しばかり驚いたものだ。
 何が——そうさせるのか。
 これまでは理解出来なかったのだが、それも今対面してみて、何となく分かってしまった。
 具衛がそれなりの年月をかけて知った美也子とは、高校を中退後、生き死にをかけて渡った仏国の大使館で、その無謀さに失笑が絶えない中、只一人、年端も行かない貧相なその男の志を見抜き、当たり前の一人前扱いを憚らなかった人だ。その貧相な男の行く末を案じ、約五年間も文通をすると言う、酔狂な律儀さを持った人だ。
 そもそもが、いくら仏軍でアノニマによる偽名を使っていたとは言え、当時はパスポートの情報を知り得る立場だった人なのだ。その一風変わったファーストネームを、その才知が忘れる訳がない。何せ今の時代に、他人の携帯番号を一々記憶しているような几帳面さを持っている頭脳の持ち主だ。真琴が梅雨時に知り合った具衛の素性など、美也子の情報網からすれば、とっくの昔に知り得ていた筈だ。その上で昨年末まで黙認するなど、何故不自然と気づかなかったのか。
 世間が恐れるその辣腕が、高千穂の動きが怪しくなるのを見兼ねるや、実はそれを食い止めるよう、武智家に由美子を遣わせてけしかけさせたのではないか、とさえ、今更ながらに思えて来る。具衛は、元仏大統領遭難事件における救出の立役者であり、その口実を持ってすれば高千穂の悪巧みなど優に覆せる手駒を隠し持ちながら、その只ならぬ力の大きさに怯み持て余していたのだ。その具衛を見兼ね、由美子を遣わす事でけしかけたのではないか。
 その証左が、その後間もなく発生した真純拉致事件後の、迅速的確なグループ内調査と称した粛清劇だ。高千穂と接点を有していたとは言え、その元秘書の失態を察知するや否や、反乱分子を僅か半月の内に大量処分するなど常軌逸脱にも程がある。いくらなんでも、多少は下準備していなくては出来ない所業だ。大抵の企業であれば、処分の根拠は司直の決、またはその起訴など、捜査機関や司直の判断を拠り所とするものであり、何らかの段階の区切りを得た上で社内処分を科すのが一般的である。と、したものなのだが、それを鑑みると、そこにあえてすがらなくとも揺るぎないレベルで下調べがついていた、と考える事に無理はないだろう。
 真琴の窮地にも、企業立病院とは言え多忙を極める救急医と高規格救急車を動員させたのは、間違いなく他ならぬ美也子の指図だろう。またそれに伴い、具衛が仕事をすっぽ抜かした事にならないよう武智に手を回したのも美也子だ。御大尽ともなると、そうした細事は大抵執事などの従者に一任してもおかしくないものだが、あくまでも親としての筋を通そうとする機微が垣間見えるようであり、その在り方と美也子の雰囲気は、具衛の中では違和感を感じない。
 そして今日、スマートフォンのスピーカー越しに高千穂の下卑た声で語られる娘の恥辱に、瞬時で顔色を変えた美也子である。全ては決して思い過ごしではない、と思いたかった。
 要するに、距離の取り方が難しい家柄故の苦悩だったのだ。高貴な富豪の家柄故に、並々ならぬ系譜を紡いでいる武門故に、世間体の厳しさは言うまでもない。それに負けない強さを養うためあえて辛く当たるとは、獅子の千尋の谷の慣用句そのものである。厳しさ故の優しさとは、古今東西難しい。言葉では理解出来ても、感情としてそれを受け入れ、理解出来るようになるには長い年月を有する。それまでに親子関係が破綻するケースは、人文史を紐解けば腐る程あるだろう。大抵の人の親とは、その形や多少こそ様々なれど、我が子に愛情を有している筈なのだ。
「人間ならば、その善性を信じたいものです」
 とするならば、この豊かな知性を有する家の人々の事である。言葉さえ重ねていけば、その拗れた関係を修復出来ると思ったのだ。とどのつまりが、一見血が通わぬように見える厳しい親子関係も、平たく言ってしまえば、
「それもまた転じて、過保護に見えてしまうのです」
 何処にでもある、誤解が誤解を招いた故の悲しさなのだ。
 具衛の一人語りを黙って聞いていた夫妻は、しばらく身動ぎもしなかったが、どちらともなく溜息を吐いたり、目を動かしたりし始めると、
「まだ決めていなかった真純さんの事件のお礼の件ですが、」
 具衛は更に畳みかけた。
「今、決めました。無粋を承知で言わせて頂きますと、今回のお嬢様の件も合わせて一緒に頂きます」
 虚を突かれた夫妻が、
「まあ」
「ほう」
 などと素直な感嘆を漏らす中、
「他は何もいりませんが、この際ですから図々しくも、あえて高坂宗家のお家大事を解決した者として、その意を汲み取って頂きたく上申させて頂きます」
 具衛は抜け抜けと、言い募ってみせる。
「随分と仰々しい事」
「まあ、聞こうじゃないか」
 やはり少なからず気分を損ねていた美也子が声色に僻みを滲ませると、それをやんわりと次任が咎めた。
「お礼の筈なのに、意見なのですか?」
 その多少なりとも、捻くれた論い方が、
 ——母娘そっくりだ。
 とは口にしなかったが、具衛が口にした謝礼は、果たして夫妻を戸惑わせるのに充分な
「意見ではなく、決まり事です」
 だった。
「今日からお亡くなりになるその日まで、一日最低一回以上、お嬢様と会話をしてください」
「ええっ!?
「ほう?」
 驚きと興味を示す夫妻に構わず、
「直接話しをする事が難しいようでしたらメールでも構いません。むしろ最初のうちは、声色が伝わらない分、その方が良いかも知れません」
 具衛は淡々と続ける。
「そんな——無理です。そんな事」
 それまでの苛烈な美也子を知る人々が今この有様を見たら、きっと噴き出した事だろう。その子供染みた戸惑いを隠そうとせず、困り果てたように眉根を寄せて首を何度も横に振る姿は、明らかに現代日本に君臨したフィクサーのそれではない。
「他の事になさい。——あ、してくださらないかしら」
 言葉にも明らかな動揺が出始めると、堪らず次任が噴き出した。
「いやぁ——見事見事!」
「何がおかしいんです!」
「これがおかしくないと言う人が、我々の知人の中にいるかね?」
 美也子が拗ねる中、次任はひとしきり笑うと
「中々どうして、策士ですなぁ。真琴や真純が一目置くだけの御仁であらせられる」
 素直に感心を示し始める。
「何かにつけて物や金の価値に偏った今日日の事。このような変わった要求をされた事は、いつ以来ですかなぁ」
 恐らくそれは、真琴が幼児の頃まで遡るのだ。他人に寄り添うための決まりや言葉は、挨拶、感謝、謝罪などに見られる社会に寄り添う道徳だ。そうした事の規範意識を、今でこそ頑固な老夫妻のこの二人といえども、若かりし頃は、それなりの愛情をもって幼児期の真琴に諭した筈なのだ。
 それを金目の謝礼の代わりに要求する事の価値が、具衛には手に取るように理解出来た。高坂宗家にしてみれば、金目の謝礼の方が楽だろう事を思うと、それは法外な要求とも言える。それはその事情に接する者でなくては思いつかない事であり、出来ない事でもあった。それを今この瞬間のみ、その事情に踏み込む事を許される立ち位置にいる具衛が、金と天秤にかけて躊躇なく踏み込んだ。それだけの事だ。具衛にしてみれば、只、真琴の人生の憂いを少しでも取っ払ってやりたい。それだけだった。
「そもそもがお礼であって、人の家に妙な呪いのような決まり事を作るなど——」
 美也子は尚もしばらく抵抗を示したものだったが、
「母さん、いや美也子さん」
 次任が名前を呼んで窘めると、美也子は目に見えて固まった。
「我々は、最初からやり直す機会を与えて貰ったんだよ。有り難く乗っからせて貰おうじゃないか」
 なぁ美也子さん、などと次任が重ねて言うと「何です思い出したように」などと、具衛の目の前で小競り合いを始める。それがこの二人では、特に美也子などは、有り得ない程に子供染みた駄々捏ねだった。この夫妻でさえこのような、
 可愛らしさがあったもんだな。
 思いがけないそのやり取りに、その娘たる真琴と同様の一面を垣間見た具衛は、やはり似た者同士の母娘である事を強く確信する。
 一方で、その微笑ましさに迂闊にも噴き出しそうになってしまい困った。堪り兼ねた具衛が、ごまかすための咳払いをすると、また思いがけず、目の前の二人の方が如何にもばつが悪そうに収まってしまう。自分の失笑をごまかすためのそれが、逆に更なる滑稽を呼び込んでしまい、
「ふっ」
 と、具衛の口が堪え切れず、小さな失笑を漏らした。
「あ、いや——」
 それにより美也子が僻む事を思うと肝を冷やしたが、美也子は美也子で、小さく悪態を吐いたものの、最後は何処か往生した様子を見せてくれたものだった。それがまた、世間向けの様子とは明らかに異なる可愛らしさであり、具衛はその素顔にまた母娘の血を確信する。
「必ず、守らせます」
 夫婦で小さくつんけんやり合った挙句、次任が代表してまとめた。
「因みに守らなかったら、どうなりますかな? 何か罰でも?」
 調子づいた次任が、何やら突っ込んだ事をつけ加えると、具衛はまた小さく失笑しながらも、
「いえ。只、守って頂ければ——とにかく声を届けて頂きたいのです」
 暗に真琴の心情を掻い摘み始める。
「最初はお互い戸惑うでしょう。喧嘩になるかも知れませんし、無視されるかも知れません」
 そう、最初は子供と同じだ。きっと通じない。そこまで拗れた関係だからなのではない。甘えを許さず、厳しさを求め、突き放したからこそ、そこから先の関係が構築されていないだけの事なのだ。
「それでも言葉にしないと、伝わらない思いと言うのが、人間社会には絶対にあると思うんです」
 分かりやすい外殻に決めつけられやすい目に見えない想いは、誤解が先行しやすいものだ。そこに隠された深い愛などは、例え子供でなくとも、言葉を紡いで伝えないと届きにくい。
「明確な言葉のコミュニケーションは人間の特権です。これを放棄するのは余りにも惜しい。しかも親子間でそれがなされないのは、余りにも悲しいものです」
 誰しも惑いやすいのに、表情も固く言葉も紡がないのでは、何が伝わると言うのか。負の感情以外の何がもたらされると言うのか。
「ですから、そのお二方の過保護とも言うべき深い想いを、思う存分言葉で伝えて頂きたいんです」
 日本人特有の慎ましさとでも言うべきか。高坂夫妻のような戦前後世代ともなると、愛情表現をためらいがちだ。安っぽく語れ、とまでは言わないが、それでも日本人は様々な関係性においてそれを伝える事を憚り、我慢し、ややもすると悪とさえ捉える向きがある。
「順番として、子に愛を伝えるのは、親の役目の筈です。あの年までその分かりにくい親の愛に気づかず、拗ねておいでです」
 正しく伝えて良い関係性において、それが伝えられないとは、悲劇と言わずして何であろうか。
「ですから、思う存分——」
 今となっては、これ程の大仕掛けでしか、愛を伝える術を持たなくなってしまった夫妻である。だから、
「この取り決めのせいにして——」
 精々盛大に伝えれば良いのだ。
「これまで伝える事が出来なかった分を——」
 熱苦しく伝えれば良いのだ。
「それは、ご両親の特権でもある筈です」
 親の正当な愛情を喜ばない子などいよう筈がない。正々堂々、精々親である事をひけらかして、散々にこれまで溜めに溜めた想いをぶつければ良いのだ。
「分かった。分かりました」
 具衛の物静かながらも、熱のこもった取り決めを理解した次任は、しっかりと受け止めた、と言わんばかりに深く頷いた。
「参りました」
 お噂はかねがね耳にしていたが、確かにこれは中々大した御仁だ、などと三味線を弾き始める。
「つきましては、順番が違うのは重々承知してはおるのですが——」
 何分、滞っていた期間が長い分「一筋縄では行かない事はご理解頂きたい」などと前置きした次任は、
「その愛情とやらを伴侶として、我が娘に伝えては貰えませんか」
 一足飛びに先走った事を言い始めた。
「い!? いや、それとこれは——」
「同じです!」
 腰が引けたと見るや、押し黙っていた美也子が逆襲を仕掛ける。
「あの跳ね返り娘が、随分とあなたに熱を上げているようです」
「しかも、少し先走っておられるご様子、でしたな?」
 次任も悪乗りし始めると、具衛は急に全身に冷や汗を覚え始めた。
「あえて責任云々は取り沙汰致しません。それはどうやら、真琴の方が望んだ結果のようですから」
 すっかり息を吹き返した美也子が、
「私共と致しましても、曲がりなりにもこれまであなたが熱弁された通りの愛娘です」
 常の落ち着きで迫り始めると、具衛が頭をテーブルに押しつけ
「申し訳ございません!」
 絶叫したのと、美也子の次なる
「ですからあなたには、しばらくの間、日本を離れて頂きます」
 その一言が被った。

 次の週末。
 気がついたら三月も中旬に入っていた。病院で目を覚ました翌日、具衛は予定通り退院した。手持ち無沙汰だったのはその日だけで、その翌日からは落ち着かない日々の連続だった。
 先週末に実施する予定だった筈のクルーズ船の検証の実施とその事情聴取。真純に託していた国家公安委員長絡みのボイスレコーダーの件の事実確認のための事情聴取。新たに追加された外務大臣からの脅迫事実の確認とその事情聴取。これらのために、警視庁や東京地検を行ったり来たりで朝から晩まで官庁通いを続けたものだ。
「とりあえず、終了らしいよ」
 と、真純に言われて東京地検を解放されたのはお八つ時である。
「警視庁は終わったの?」
 警視庁の方は、昨日夕方に解放されていた。それを知らない真純ではない。最後に裏口まで送られた時にそう言ったのは、殺し文句の前の定石である。
「じゃあ早く行ってあげないと」
 遅い、と怒っているらしかった。忙しい真純でさえ、仕事帰りに一、二度立ち寄っていたのだ。それを具衛が出来ない、とは
「『どう言う事よ?』って言わんばかりだったよ」
 口にはしていないものの、見るからに苛立ちを募らせている、とか何とか。具衛は小さく溜息を吐くと、敷地内に駐車させてもらっていた真琴のアルベールに乗り込み、首都高速の中央環状線へ向かった。高坂宗家から、移動手段は「けちるな」と言われている。不測の事態を鑑み、リスクのために金を惜しんでいる場合ではない状況下に、今の具衛はあった。移動どころか生活全般が、もうそんな感じである。
 先週末から、事態はまさに風雲急だった。
 真純の拉致事件関係で、横浜に検証立会いに来た先週末。温泉宿で一泊して帰広するだけだった筈が、蓋を開けてみれば検証はなくなり、予期せぬ豪雪に加えて一六年前の遭難事件の再現である。その上何故か、いきなり首になり職を失い、退院後そのまま拉致されるかのように、当然の趣きで高坂宗家に連れ去られた。
 落ち着かない豪邸暮らしに加えて、待っていたのは捜査機関による事情聴取である。その食いつき振りは凄まじく、退院翌日から朝に晩に連日連夜聴取の刑と来たものだった。とは言え、夜は常識の範囲内であり、具衛が現職の頃のような昼夜を分たずの無茶振りとはかけ離れたものではあったのだが。まあ具衛としては、自分で書類を作らなくても良い事の快楽を感じたものだった。
 司法官憲にとって書類作成とは、それ程までに負担であり格闘だ。例えば、ある「文言」を「入れる」か「入れない」か。入れるのなら「何回」入れるか。入れないのなら「他の表現」で良いのか。それで意図した事は伝わるのか。それで良かったとして、では他の書類との整合性は保たれているのか。その「文言」が独りよがりの決めつけとなり、他の矛盾を生み出しては事実固めを台無しにするのではないか。等々、挙げれば切りがない。犯人を捕まえただけでは、事件捜査は終わらないのだ。未解決事件は別として、逮捕までの労とその後の労は、同じどころか実は後者の方が比重が重い現実が現場にはある。先の公判を睨み、犯人に対する正当な量刑を獲得するための書類作成は、一言一句レベルの繊細さが常につき纏うのだ。そんな事情を良く理解している具衛ではある。
「今は無職だろう。暇潰しと言っちゃあ何だが、毎日来てくれると助かるんだが」
 と、滝川は苦笑しつつも、明け透けに言ったものだった。それは一気に事実を固めたい捜査側の思惑でもあり、いち早く解放されたい具衛のそれでもあったのだが、その利害の一致のお陰で、今や各事件の扇の要となってしまっている具衛は、肩が凝って仕方がない。何せ、検察警察が目論んでいる高千穂一味による政財界を巻き込んだ不正の限りに対する事件化の、その取っ掛かりとして、具衛に対する脅迫事件が選ばれてしまったのだ。
 捜査側にしてみれば、大規模事件の捜査の進め方として、犯人に余罪が多く見込まれるようなら、犯罪事実を組み立てやすい簡潔明瞭な事件こそその突破口に相応しい。それで逮捕したならば、後は人質司法の名の通り、余罪事件で再逮捕に継ぐ再逮捕でとにかく被疑者を勾留し続け外部と遮断。それにより、証拠の散逸を防ぐと共に事実固めを行う事こそ肝要である。
 よって、その突破口の事件被害者たる具衛を失う訳には行かない捜査側は、実際に黒い噂に絶えない高千穂サイドの動きに敏感になり、まずは早速護衛を寄越したものだった。外出は制限され、外出時には端正で分かりやすい格好の、如何にも日本警察の護衛然とした二人の私服が、着かず離れずでつき纏う。
 わ、煩わしい——。
 我慢出来たのは二日間だけだった。只でさえ宗家で「借りて来た猫」の状態なのだ。外に出たら少しは
 ——い、息抜きしたい。
 と思っているところへ、出たら出たで事情聴取で官庁通いである。加えてその道中が護衛つきでべったり、とあっては堪ったものではなかった。移動の足は高坂宗家が手配したハイヤーであり、その助手席と後部座席に一緒に背広の私服つき、と言うVIP待遇である。
 逆に——
 目立って仕方がない。
 よって移動中の護衛は、早々に遠慮して貰う事にした。これ程目立ってしまっては、的が動いているのをわざわざ教えるようなものだ。具衛にしてみれば、人が増えれば増える程、逆に危ういと感じてしまう。それは信用面であり技能面であり。護衛と言う名のメリットが、即座に「未知数の人間に纏わりつかれるデメリット」と言い換える事が出来てしまう程の具衛のステータスでもあった。一言で言ってしまえば、背中を預ける事が出来ない者達など、
 ——足手纏い。
 と言う事だ。そもそもが、特殊部隊員の先生になるような男である。
「俺は良いので、高坂の人達についてあげてください」
 それを警視庁で滝川に陳情したところ、
「まぁ、それもそうだな」
 すんなりと受け入れられた。
 被害者対策とは、何も本人に限定されない。その害悪が向かう可能性がある事物は全てその対象である。で、具衛に張りついていた人間は、各拠点の固定配置に回される事になった。これはこれで、具衛と警察の利害が一致したものだ。具衛は動き易くなるし、警察は護衛のローテーションが緩くなる。合わせてそうした事情は、宗家夫妻にも報告した。
「まぁ、言われてみれば——」
「そうでございますわね」
 事件の主宰は検察にして警察だが、宗家に関わる人間の采配はこの二人、更に言うと実質的には美也子の手中にある。過剰なまでの護衛は、美也子が出所である事は容易に想像出来たものだった。
 具衛はその代わりとして、移動を要する場合には、真琴のアルベールを使わせて貰う事にした。雪道を爆走した後だと言うのに、車体が汚れた他は何ともなかった真琴の愛車である。具衛は退院早々、入念に洗車してやった。勿論、手持ち無沙汰だった事もあったのだが、もしこの車がなかった事を思うと背筋が凍る。真琴を助けた、功労者ならぬ功労車の一台である事は間違いなかった。
 そうは言っても、具衛に高級車を乗り回す趣味はなく、宛てにしたのは極めて優秀なAIナビである。走行中の異常や有事は勿論の事、無人駐車中の異常も記録し報告するようなナビは、下手な人間の護衛や監視よりも、確実で信用出来るとしたものだ。
 移動に難がなくなれば、後は移動先や拠点の方が気になるところだが、そこには警察が張りついていれば、そもそもが高千穂の息がかかった者など、具衛に言わせてみれば高が知れていた。その手管は、昨年末の素人レベルに毛が生えた反社会勢力組織による襲撃が物語っている。現役から退き、その腕が錆びつき始めているとは言え、切れはしないが存分に突いたり叩きつけたりする事が出来る屈強な棍棒のような。未だにそんな世を穿ったかのような旺盛なスキルを持つ具衛からすれば、高千穂の脅威など文字通り赤子の手を捻るような物だった。決して慢心している訳ではないが、具衛が積み重ねて来た経験値とは、そうしたレベルなのだ。
 実のところ具衛は「棒術」を得意としており、外人部隊では「棒を持たせたら最強」とまで言われたものだった。フェレール家の別荘で、棒を手にジローをコテンパンにしたのも、実はそうした経緯があったりする。そんな事で、自身に向けられる害悪など、
 加減が難しい。
 下手に襲われてしまうと殺し兼ねない。そうした心配をするばかりであった。何せ屈強な棍棒にしてその使い手、である。
 それよりも何よりも、恐らくは美也子が、元首相である高千穂の父に釘を刺しているだろうから、高千穂が下策を講じる可能性は低い、としたものだった。それによって自らの包囲網を確実に認識したであろう高千穂は、首を洗って待つ状態に他ならない。これ以上の悪足掻きは、悪戯に罪状を増やすだけなのだ。要するところ高千穂が、自身のつまらない意地や見栄で下手な行動に出ない限りは、何事も起こらない筈であった。今回の件で一時的に失脚こそすれ、それなりに人脈を有するろくでなしだ。しばらくすれば、父の威光を傘に復活するであろう事もまた残念ながら固いだろう。ならばさっさと罪を認め、司直に付した方が身のためだが、そこまで割り切る事を高千穂のプライドが受け入れられるかどうか。高千穂サイドの観点で物を言えば、そんな状況下であった。
 で、一週間でようやくその状況が固まりつつあり落ち着いた、
 ——って言う言い訳が、
 真琴に通用したものか。一応俄かに湧き上がった不安定な状況を、それなりに足場を固め、それなりの安定を構築していた、と言えば、
 通用する——?
 ようなしないような。
 そんなこんなで全く慣れない分不相応の、何かと落ち着かない日々を約一週間過ごした具衛は、入院中の真琴に会いに行っていないどころか、連絡すら取り合っていなかった。
 二人の間でのやり取りは、未だに一応文通による、と言う状況から動いていない。真琴が電子媒体で納得出来る状態になるようならば、具衛としてはいつでもそれに応じる用意はあるのだが、現状変更の連絡はなかった。要するに、全ては真琴の意向に添っている事である。入院先から手紙が送られて来ないのであれば、とりあえず差し迫った話はないのだろう、と都合良く捉えた具衛だったが、つまるところ全ては言い訳だった。
 真純が言うところ、真琴は「苛立っている」と言う事だったが、それはもっともだろう。何せあのプライドの塊にして、人嫌いで特に男嫌いの女傑が、年下の頼りない柔な男に求婚したのだ。それだけならまだしも、一見して世も羨む数多くのステータスを持つ完璧に近いような女であるにも関わらず、それに対して選択の余地などあろう筈もない男からその答えを先延ばしにされ、理由も知らされず何の音沙汰もないまま放置されている、とあっては、よく考えずとも
 ——ヤバい。
 としか言いようがないではないか。それに加えて、真琴はせっかちと来ている。
 具衛は今更ながらに黙って一人、生唾を飲み込んだ。何か口にすれば、それに応じたAIのアルの口車に乗せられ、迂闊な事を吐いてしまいそうだ。それが記録されてしまう事を考えると、独り言すら憚られたものだった。
 こう言う時は——
 高規格車も考え物だ、と具衛は盛大に嘆息する。結局、独り言も吐けず、代わりに溜息ばかり吐き出していると、大した渋滞にもかからずあっさり病院に着いてしまった。具衛が週頭に退院したばかりの高坂総合病院、である。駐車場に着くと、とりあえず受付へ向かった。もう一般病棟に移り、経過観察中とは聞いていたが、居室は確認していない。受付の女性職員に真琴の部屋を尋ねたところ、一応調べる様子を見せたが、
「お尋ねの方は該当ありません」
 と返答されてしまった。面会謝絶者に対する応対である。実は受付で居室を確かめなくとも、大体その部屋は目星がつくような真琴の身分である。恐らくは具衛が入院していた特別室か、更にランクの高い部屋があるのであればそうした部屋だ。が、目的階はおろか、目的の部屋以外には入室出来ないような昨今の進んだセキュリティーを導入している病院である。力業を繰り出す訳にも行かず、具衛は免許証を呈示し名乗ってみた。
「恐れ入りますが——」
 が、やはり同じだった。つまりそれは、真琴が面会許可者として具衛をリストアップしていない、と言う事を意味している。
 要するに、
 ——やっぱり。
 怒っている、と言う事だった。そうこうしている間にも、背後に人が並び始める。やむを得ず、具衛は一旦退いた。
 面会謝絶を希望していない普通の入院患者に対する面会は、事前に身分登録していればすぐに当日有効で面会カードが発行され、病棟へ入る事が出来るようだ。企業立病院であり、グループ社員やその関係者が多いためなのだろう。よくよく見ると、グループの社員らしき人々などは、社内のセキュリティーカードをカードリーダーにかざして入棟したり、中には顔認証で入棟する人々もいる。大多数は、特に受付を介する事もなければ、よくある面会カードをぶら下げる事もなく、まごつく具衛の前を然も当たり前のように通過して行っていた。事情を知らない具衛のような田舎者だけが受付職員を拗らせている、と言う情けなさである。
 ——参った。
 流石は高坂、としたものか。中々隙のないシステムを構築している。兎にも角にも、受付の目の前には鉄道の駅に見られる自動改札ゲートが設置されており、それをクリア出来ない者は、ロビーにすら入る事が出来ないのだ。
 とりあえず具衛は、一旦車に戻った。車内でまずは真純にショートメールを送ってみる。しかし、
 こんな時に限って——
 返信がない。忙しいようだ。
 ——かと言って。
 高坂夫妻には、とても連絡など出来る筈もない。一応、連絡先は交換させられてしまっているのだが、とても具衛から連絡出来るような相手ではなかった。と、なれば、
 残るは——
 真琴、である。が、その前に、
 ——待てよ?
 真琴の病室近辺にも、被害者対策で警察の私服が入っている筈だった。と、言う事は、滝川に連絡すれば何とかなる、と考えたが、やはり止めた。妙な頓智を働かせて中に入れば、真琴は余計怒る一方だろう。
 やっぱり——
 正面突破しかない。まずはショートメールを送ってみた。が、
 ——やっぱり。
 音沙汰がない。
 で、仕方なく電話をかけてみた。具衛の方から真琴に電話をかけるのは、これが初めてである。既にそれ以上の関係性を築いていると言うのに、妙に緊張して動悸がし始めた。そして予想通り、延々鳴らし続けるも
 ——出ない。
 とりあえず、一度切る。
 何か——
 息が詰まる。気を落ち着かせるため、とりあえず深呼吸した。で、またかける。今度は、具衛が入室していた辺りの部屋を眺めながら待っていると、その辺りのレースのカーテンが一瞬揺れた、ように見えた。
 気づいてるよなぁ、そりゃあ。
 こっちは国内では走行台数が限られるスーパースポーツクーペで乗りつけているのだ。外を見れば目につきやすく、あえて無視しているようだった。それでも粘り強く呼び続けていると、勝手に切れて話中音に変わる。切られたのか、そう言う設定なのか。
 具衛はまた車から出て、真琴の部屋の直下辺りまで歩いて近寄った。本当は余り目立つような行動はしたくはないのだが、真琴が応答しないのだから仕方がない。具衛は三度、電話をかけた。これで出なければ、
 ——直に呼んでみるか。
 そんな事を企んでいると、また切れる頃合いになって、電話向こうの呼び出し音が途絶え、音が消えた。話中音でもなければ、応答する素振りもない。
「——もしもし?」
 声をかけてみたが、やはり反応がなかった。小さく嘆息して電話を切ろうとすると、またカーテンが揺れる。僅かな隙間を作ったようであり、具衛を伺っている視線のようなものを感じ始めると、
「何の御用でございます?」
 冷えた感情のない分かりやすい声が耳をついた。が、真琴の声ではない。
「お見舞いに伺ったのですが、真琴さんは——」
「伏せっておいででございますよ」
 由美子、の声だった。相変わらず専属のおつきをやっているらしい。
「容体がお悪いのですか?」
「そうではありません」
 具衛の事をそれなりに知るこの家政士から焚きつけらたのは年始の事だ。ここでまた、何を言われたものか。高坂の人々は主従問わず女が強い事を、具衛は宗家暮らしの一週間で感じていた。由美子に対しては、苦手意識はないのだが、その声を聞くとつい背筋が伸びてしまう。
「では、お見舞いに伺いたいのですが?」
 すると少しして、
「本当は、お会いしたいようですが」
 と言う、由美子の推測のような思わせ振りの後ろで
「勝手な事言わないでよ!」
 と、聞き慣れた声がヒステリックに怒鳴っていた。その子供染みたやり取りに、本人のステータスとのギャップでつい噴き出してしまう。すると由美子が、それをそのまま真琴に伝えたようで、電話向こうで少し離れた所にいる声が、
「人の気も知らずに笑ってんじゃないわよ! 帰れ!」
 と、また怒鳴った。引き続き部屋を見ていると、ベッドの傍にある厚手のカーテンが、乱暴そうに締められる。
「もう私の手には負えませんので、後はお二人で話し合ってくださいまし」
 由美子が苦笑しながらも「受付には伝えておきます」と添えると、そのまま主人を差し置いて電話を切った。

 同日、約五分後。
 具衛が訪ねた部屋は、やはり自分が入院していた部屋である。週頭に退院するまで約二日間だが、自分が使っていたベッドの上に、今は真琴が上半身を起こして座っていた。具衛が退院した後、ICUから一般病棟に移って来た真琴が入れ替わりで入室したらしい。
「クリーニングもせずに、そのまま使ってるんですよ」
 由美子が具衛にこっそり耳打ちしたその声が、真琴にも届いたようで、
「ちょっと! 余計な事を言わない!」
 過敏に拾い上げるそれに苦笑した由美子は、そのまま扉の方に足を向けた。
「小一時間、一息入れさせて頂きますよ」
 大事なお話があるでしょう、との思わせ振りな捨て台詞を残して部屋を出て行く由美子にも、一々真琴が何事か噛みついた後は、只でも広く静かな室内が、一層耳につく程の静寂さを帯びて来る。
 ベッドの上に座っている絶世の美女は、あからさまに目を怒らせ、口を歪め、顔を背けていた。その分かりやすい反応が、具衛から深刻さを奪い、つい顔を綻ばせる。
 言い訳は絶対——
 通用しそうにない。具衛が悪い事は自分自身納得している。それをとやかく言うつもりはない。自分のような小物の事でこの美女が心を乱している事が、くすぐったくもあり、申し訳なくもあり。その原因が、自分に向けられた好意、と言うから、具衛は立腹している本人を前にポジティブな戸惑いを噛み締めたものだった。
「カーテン、開けますね」
 とりあえず、先程閉められた厚手のカーテンを開ける。まだ夕方前であり、カーテンを閉めるには早い。一週間前の豪雪は何処へやらで、窓の外で春本番を控えた空は春霞が立ち込めていた。
 真琴は何も言わない。そっぽを向いたままである。カーテンを開けた具衛は、部屋の片隅に置かれていた丸椅子をベッドの傍に持って来ると、そのまま座った。やはり真琴は無反応である。
「すみませんでした」
 具衛は早速、頭を下げた。何から謝ったものか分からず、例えその理由を説明しても「それだけ?」と吊し上げられる事は目に見えている。それならまとめて謝る、とは都合が良過ぎるらしい。とにかく真琴は、無視を決め込み相変わらずである。
「すみませんでした」
 一度頭を上げていた具衛は、重ねて頭を下げた。今度は頭を下げたまま、反応を待つ。が、背中を折り、自分の太腿に目を落として、何回瞬きしたか分からなくなっても、真琴は反応を示さない。ベッド傍の棚上にある置き時計の秒針が耳につく程の静けさの中で、真琴は呼吸音一つ出さず、黙って目を怒らせたまま一定の間隔で瞬きをしていた。
「すみま——」
「うるさい!」
 三度目の正直か、真琴が具衛の言葉を上から被せると、
「あんたなんか!」
 掛け布団の上に置いている自らのスマートフォンに手を取り振り被る。
「うわ! 待った!」
 それを慌てて中腰になった具衛が、その手を取り押さえた。しばらくすったもんだするが、二人ともそれなりの使い手の割に子供染みた小競り合いである。結局、地に足をつけている分、具衛の力が勝り、腕を取り抑えられる格好となった真琴は無念そうに脱力した。が、具衛は腕を掴んだまま力を緩めない。油断しようものなら、人を投げ飛ばす事など造作もない屈強なる女傑の事だ。正確には、手を離す事が出来なかった。
「放してよ」
 ようやくほんの少し、建設的な言葉が真琴の口から出始める。
「じっとして貰えるのなら」
「分かったわよ」
「本当ですか?」
「くどい!」
 気を吐き出したタイミングを見計らって、具衛は真琴の手を放した。が、スマートフォンはその手には戻さず、具衛寄りの掛け布団の上に置いた。真琴がまた投げそうな素振りでも見せようものなら、確実に真琴よりも先にそれを取り上げる事が出来る位置である。
 結局——
 間合いが詰まった。先程は腰を上げないと真琴の手を取れなかったが、今なら座ったままでもそれが出来る。が、謝る以外、何を言えば良いか分からず、黙す他なかった。よもやこの状態で、真琴が待ち焦がれていると思われる「返事」を言う訳にもいかない。
「本当に、すみませんでした」
 結局、また頭を下げた。許して貰おうとは思わない。が、無視されていては、文字通り話にならない。真琴の何かの言葉を引き出すために、具衛は頭を下げ続ける他に術がなかった。
「バカの一つ覚えね」
 言葉の勢いはようやく弱くなって来たようだが、内容は相変わらず容赦ない。間合いこそ詰まったが、相変わらず真琴はそっぽを向いたまま、目を怒らせ、口を歪めていた。が、一つ変化が現れ、少し目が潤っており赤みを帯びているように見える。それでもやはり結局、言葉を持ち合わせない具衛は、言われっ放しに甘んじる他なかった。
 何も言い出せない男と、何も言いたがらない女しかいない室内は、具衛がたじろいで生唾を飲み込む音が耳につく程静かである。それが聞こえた筈の真琴は、普段ならそれで噴き出しただろうが、今日は全く通じない。
 この状況を甘んじて受け止めていた具衛は、身体こそ真琴の方に向けていたが、顔は少しずらして窓から外を見ていた。
 あれから——
 一週間。都内はもう植え込みに残雪が残る程度だ。が、奥多摩などは、流石に雪は止んだようだが、まだまだ車が通れず孤立しているらしい。
 ホントに——
 良かった。そう思うと、不意に顔が緩む。そこを、
「何がおかしい!」
 真琴に掬われてしまう。そっぽを向いている筈なのだが、この辺りの察しの良さは流石である。決しておかしいのではない。大体が、そこまで分かるような真琴の筈なのだが、今は当然、そうした配慮はない。
「良かったな、と」
 思っていた。本当にそれ以外に他意はなかった。無理をした甲斐があったと言うものだ。結果論だが、宿に残る選択をしていたら、真琴の命は本当に危なかったのだ。
「お元気そうで、本当に良かったです」
 今は何を言われたとしても、具衛はそれで良かった。生きる事は可能性だ。死んでしまっては何もならない、と言う現実を目の当たりにして来た具衛である。
「本当に——」
 改めて、勝手にしんみりとしたものだった。が、
「何が良かったものか!」
 今の真琴には通じない。それどころか、
「雪道を一人嬉しげに先行で宿に入って——」
 インフルエンザと知らずに長湯して体調を悪化させ、死線を彷徨った挙句胎児の命をも危険に晒した。その上で、
「口移しはされるわ、服は剥ぎ取られるわ!」
 恨み節を羅列されたものである。
「ぶっ!」
 具衛は、緊張で口内に溜まっていた生唾を、また誤嚥して噴き出した。今、この瞬間まで正しい事をしたと信じ込んでいた具衛である。しかしそれは、非常時の山中での常識であり、そうした事物に馴染みがない人間であれば、あの時の具衛の行動は異常どころか性犯罪者だ。真琴にしてみれば、自己の迂闊と他人からの恥辱でプライドがズタズタのところへ、
 止めの——
 求婚の放置である。
 ——うわ。
 ここへ来て具衛は、自らの至らなさを思い知らされた。
「ホント、すいません!」
 具衛は堪らず、今度こそ本心で謝罪した。真琴にしてみれば、つまりは自責と他責でそれなりにタフなメンタルを要する状況のまま病室で放置された、と言う事である。それを具衛にぶつけたくとも、求婚の返事を待つ側の人間が、その相手にホイホイ連絡出来る訳がないではないか。
 ——ダメだ。
 具衛は己の鈍さを呪い、頭を下げ続けた。それなりに真琴の為人を分かって来ていたつもりだったのだが、本当につもりだったのだ。
 まだまだ全然、
 ——理解してやれてない。
 ではないか。
「——そうじゃない」
 真琴はまた、それをあからさまに否定した。今度のそれは、建設的な声色である。その少し落ち着いた声に釣られて具衛が顔を上げると、やはり真琴はそっぽを向いたままだ。が、顔は何かを堪えては、目を見開き、口を真一文字に結んで僅かに震えているようだった。呼吸も少し大きくなっている。
「どれだけ心配したことか——」
 その声が、少し震えていた。が、やはり、部屋の何処かを懸命に睨みつけながら、そっぽを向き続けている。
「私はいつも——」
 自分の不明をあなたに負わせて、危険な目に合わせてしまう。真琴の口から出始めたのは、思いがけず具衛に対する謝罪だった。
 迂闊な女の懇願のために、只でさえ危険な夜の山道を、それも猛吹雪で豪雪の難路を、身重の女を背負わせ下山させてしまった。無茶な依頼続きで欠勤が相次ぎ、ついに仕事を首になる不名誉を負わせてしまった。その上宗家に軟禁されるかのように押し込められ、自由を奪ってしまった。更に、実家や女の災厄を払うため、わざわざ身代わりで事件の被害者になるかのように、身を擦り減らすような役目まで負わせてしまった。いくら詫びても足りないと言うのに、バカな女は相変わらずの高慢ちきで、自らが吐いた土壇場の世迷言のせいで、連絡したくても結果が怖くて連絡出来ない自らの不明を、一方的にその相手に押しつけてしまった。その癖、いざ目当ての相手がやって来ると、素直になれず当たり散らしてしまった。挙句の果てに、泣き落としを晒す体たらく。それでも只々頭を下げ続け、女に謝罪を繰り返す男。
「いつもの八つ当たりよ」
 喉が締まり、声が高くなるが、努めて平然を装っては何かを堪えている。そうした姿に男が弱い事を知らない女はいないだろうが、真琴と言う女はいつもそれを忌み嫌っていた。この場においても、やはりそのブレない潔さが、具衛の何処かを突く。
「本当に。ごめんなさい——」
 真琴は尚も、そっぽを向いたままだった。が、気がつくと両目から大粒の涙が両頬を伝っており、それでもそれを拭おうとしない。まるでその様をわざわざ晒しては、それを繕う事を自ら戒め、罰を受け入れるかのようで痛々しい。言葉に拙い具衛が、そんな真琴に思いを寄せていると、ふと、随分前に真琴から言われて響いた言葉を思い出した。
「お礼を言わないと気が済まない時は、ストレートな感謝を伝えておくもの——ですよ?」
 具衛がそれを真琴に言うのは、自分自身でも少し生意気に思えたが、きっと真琴は覚えている筈だ。しかして、具衛のその一言に驚いた真琴が、ついにぐずぐずの顔を具衛に向けた。
「謝罪されると、相手の気持ちが台無しになるでしょう?」
 花火大会に向かう車中で聞いたフレーズが、素直に記憶に蘇る。今こそまさに、真琴があの時口にしたその言葉の意味が、良く理解出来た。謝って貰うために尽くしたのではない。喜んで貰いたいからこそ、尽くしたのだ。
「な、何よ。ここへ来てまた、人の過去を穿つような事言って」
 そう言いながら真琴は、急に落ち着きがなくなり、首を振り始める。顔を拭いたいようだ。
「真琴さん」
 それを具衛が遮るように呼び止めた。手近に拭く物が見当たらず、少し困惑気味の真琴が堪らず手で頬の涙を拭き取った。が、具衛はその手すら取り、ぐずぐずの顔と向き合う。
「な、何よ」
 感情の高揚で鼻も緩くなっており、いつもの自信に満ち溢れた女と同一人物とは思えなかった。加えて、すっかり回復しているとは言え、やはり入院中の身である。いつもの健康的な美しさで眩いばかりの真琴と比べると、何処となく暗さがあったものだ。着ている物こそ良さそうな部屋着だが、顔は先刻からすっかりぐずぐずだ。髪もそれなりに整ってはいるが、やはり常よりは艶がないような。ミディアムの濃い美しい赤色のそれが、何処かパサついているような。それを真琴の言葉で言うならば「体たらく」と言う事になるのだろうが。
 ——それでも。
 具衛はそんな体たらくの真琴に、事ある毎に見惚れて来たのだ。恐らく世人には絶対に見せないだろうこの体たらくの真琴を、具衛が見るのはこれが初めてではない。思えば高千穂がちらつくようになった頃から、真琴は自らの業に押し潰されそうになっては、情緒不安定になる事が増えた。その思いがけぬ弱さに接する時、自分は何故か真琴を抱き抱えていた。それは真琴が求めて来たからなのだが、具衛は具衛で、真琴から素顔を晒しても良い相手として認められているようで、嬉しかった。
 でも、そう言えば何にしても、具衛から抱き締める事はなかった。暴走の末の膨張と、冷静さを取り戻した後の収縮を繰り返していた真琴に対する感情は、ここへ至っても、心奥の何処かで貴賤の差由来の気後れがあった事は認めざるを得ない。そうした潜在意識が、何処かでブレーキを踏ませていたようだった。
 が、ここへ来て、やっと分かった事があった。真琴が他人に見せつけるのは、神々しいばかりの美貌だけなのだ。それに付随する取っつきにくさを、悪意を含んだ邪な輩に好き放題論われては勝手な人格を作られてしまい、それに合わせて少し捻くれた姿を見せていた。そんなものはまさに、真琴の外面の限られた一面でしかない。たまに発作的に現れる長年の鬱積をぶちまけるかのような偏屈の極みは、具衛だけに許され向けられる真琴の「特別な」体たらくなのだ。
 まさに今も、何に腹を立てているのか分かりにくい気難しさで、きっと思い当たる事の全てに腹を立てているのだろう。が、それに寄り添う事を許されるのは、何故か地球上では自分だけなのだ。だからこそ、真琴はいつも自分に対してのみ、飾り気のない「上から目線」のタメ口の中に、何処かしら照れを含ませている。そんな真琴に胸が一杯になる自分がいて、それがブレーキを踏んでいる筈の自分を突き動かすのだ。
 自分の何処を見れば、その只ならぬ好意に至るのか。その理由は未だに分からず、不思議で仕方がなかったが、もう分からなくても良かった。
「ちょっと——」
 いつまで持ってるのよ、と真琴が、いつまでもその手を取って放さない具衛を訝しみ、手を振り払おうとする。それほど手を取っていた事を気づかされた具衛は、その手を放さず、逆にぐずぐずの真琴を気にする事なく感情に任せて、そのまま正面から抱き締めた。
 俺が好きなら——
 もう良いのだ。
 確かに今でこそ、開けっ広げの分かりやすい好意を向けてくれてはいるが、将来は分かったものではない。特に二人は、その社会的格差の大きさでは類を見ないのだ。今は良くとも恐らくいつかは、目が覚めた真琴の方が物足りなさを感じ始める事だろう。何せ自分は、何も持っていない甲斐性なしなのだ。呆れた真琴がせっかちな本領を発揮して、早々に離婚を口にし始めるのは目に見えている。それがあっと言う間に来るのか。何年後かに来るのか。今の具衛には分からない。でも、例えそれまでの間柄なのだとしても、
 それまで許されるのなら——
 それでいい。出来る事なら、
 この世に生あるうちぐらいは——
 傍に寄り添う事を許される男でありたい。
 人嫌いの男が、生涯の伴侶を認めた瞬間だった。
「あなたに『不破』の名前は似合いません」
 何処の馬の骨から派生したとも知れぬ、吹けば飛ぶような取るに足らない家なのだ。その一言で、具衛の腕の中にいる真琴が一瞬大きく痙攣する。
「『高坂』の名跡こそ、あなたに相応しいんです」
 それを軽々しく手放すべきではない、とつけ足すと、小さく震えていた真琴が何事か言いかけたが、しばらくして大きな溜息を吐き出した。
「——やっぱり、ダメか」
 何かを悟り、諦めたような悲しげな声が小さく漏れる。それを見て取った具衛が、
「でも——」
 真琴が何かを言ってしまう前に、楔を打つように、静かに諭すように、丁寧に口を動かす。
「私は畏れ多くて、高坂の名跡を名乗る気には、とてもなれないんです」
 どうしましょうか。と、そんな、如何にも真琴を掬い上げるような後出しすると、俄に俯き萎れていた真琴が、今度はぎこちなく身動ぎした。
 二一世紀も五分の一が過ぎたと言うのに、戸籍法や民法のしがらみを脱する事が出来ないでいる日本では、未だに認められていないそれは、
「夫婦別姓の判例を作るって事?」
 国を相手取った訴訟で勝ち取らなくてはならない。今度はそれを口にした真琴の方が、喜び勇んで勢いよくも、例によって具衛の首筋に飛びついて来た。
「あた!」
 危うくベッドから落ち兼ねない勢いのところを、具衛が身を挺して受け止める。真琴の頭が軽く顎に入った分だけ脳が揺れたが、朦朧とした訳は当然それだけではなかった。
「危ないですよ」
 まだ病人でしょ、と窘めると、
「誰かさんに似て、素直じゃないからよ」
 今度の声は一変して弾んでいる。
「私なんかでいいんですか?」
「あなたじゃないと嫌なのよ」
「今は盛り上がってるだけでしょ?」
「大丈夫よ。この先も一人で勝手に、ずっと盛り上がってるから」
「今は何を言っても盲目ですか」
「ずっと刮目してるわよ」
 軽妙なやり取りの中にも、何処か吹っ切れたような。そんな真琴の躊躇しない想いが語彙の端々に溢れていて、少しくすぐったい。
「ホントですか?」
「相っ変わらず、いざとなるとつべこべうるさいわね」
 もっとスマートな事言えない訳? と、こんな時でも明け透けな苛立ちを見せては、とにかく嬉しそうな真琴である。
「じゃあ——」
 結婚、してもらえますか。
 出し惜しむかのように、最後に言ったそれに、
「『じゃあ』って何よ『じゃあ』って!」
 噛みついた真琴が噴き出した。
 が、具衛としては、額面通りののんきさではなかったりした。最後の最後まで、真琴に再考の機会を与えたかった。そのつもりが、真琴の躊躇しない想いを躱し切れず、ついに間の抜けたような語彙として口を出てしまったのだ。本当は、もっと引き延ばしたかったが、具衛自身が堪え切れなかった。とにかく、嬉しそうな真琴の姿に幸せを痛感する。それに、尽きた。
「まあ、もう何でもいいわ」
 と、噴き出しついでに投げ遣りながらも
「——そもそもそれは、私が言い出したんだけど」
 嬉しそうでいて、揺れる声で嗚咽し始める真琴が、愛おしくて仕方ない。
「こう言う事の選択権は、やっぱりあなたに委ねたいんです」
 そう言う真琴とは、何もわざわざ具衛のような在り来りな人間を選ばすとも、求めればいくらでも違う事物を望む事が出来る身なのだ。
「今なら、まだ間に合います」
 だからこそ、まるでその可能性に義理を立てるかのような。そんな手順を怠らない具衛が言う事を言うと、例によってしがみついている真琴のその頭を撫で始めた。
「じゃあ、仮に私が撤回したら、あなたはそれで納得出来るの?」
「仕方ない、と思うでしょうね。心は縛れませんから」
「そんな煮え切らない事で大丈夫? 頼りないんだけど」
「これが私ですから」
 来るもの拒まず去るもの追わず。そんな達観で生きて来た具衛だ。が、この後に及んではどうしても、もう一言つけ加えざるを得なかった。
「でも、あなたに対する想いは、終生変わらないと思うんです」
「思う?」
「先の事は分かりませんから」
「そう言うとこ、ホントらしーわ」
 少しはTPOで盛った言い方出来ないの? と言う真琴は、ぐずぐずの声を震わせながらも笑っている。
「世人が羨む方と一緒になる事の覚悟ってのを、少しは察してくださいよ」
 特に何も持たない、まさに資がない具衛がそれをするのだ。今後もたらされる精神的苦痛は、想像を超えて来るものになるだろう。真琴が具衛の生活レベルに合わせるのなら話は別だが、そうではないとなると、具衛にしてみれば突然異世界に投げ出される感覚に近い。更には極端な話、真琴に向けられている世間の偏見が、そっくりそのまま具衛に向く可能性すらあった。
 あえて軽口を叩くように吐いたつもりが、
「——そうよね」
 それをやはり、敏感に察した真琴が少し声を落とした。その素直な反応に、また胸を締めつけられる。
「言ってみただけですよ」
 内心で、調子に乗ってつまらない事を吐いた自分の迂闊を、具衛はこの瞬間で即座に改めた。
「だからこそ、許されるのなら、あなたの苦労をその傍で、少しでも軽くしたいんです」
 病める時も健やかなる時も。出会って一年にも満たない間柄だが、それを傍で見て来た具衛なのだ。
「そうは言っても、今は気持ちが盛り上がってるから」
「だから盛ってませんって。これが私と言う人間です。さっき言いましたよ?」
「そうだったわね」
「これでも、とても嬉しいんです」
「まあ、今はそう言う事にしといてあげるわ」
「私の気持ちとしてはずっとですよ」
「今はね」
「ずっとです」
 そんな年端も行かない男女のような青臭いやり取りの中でも、もう迂闊を踏まない。すると、真琴が少し落ち着きを取り戻して来た。
「人生の大事だって言うのに——」
 宿でもそうだったが、どうして私達二人はこうもひどい時にそれを語るのか。呆れる真琴に、
「日常は、非日常の積み重ねですから」
 具衛があっさり答えた。
「何か心得てる感じが生意気」
 それをすぐに真琴が噛みつく。
「——でも、あなたはそうやって生きて来たものね」
 が、一人で勝手に納得したようで、しばらくそのまま固まった。
 まるで何かを噛み締めるかのように、具衛の首筋で小さな呼吸を続ける真琴は、一七〇弱の上背を誇るスタイル抜群で見映え最高の女傑である。が、だからと言って、何も男のように肩が張っている訳ではないようで、思いがけずその角が丸い事に、具衛は今更ながらに気づかされた。
 実家でも俗世でも突っ張って生きて来たその女傑が、決して晒す事のないか細さ。それを相変わらず目の当たりにさせられる具衛が、その両手を女の肩に回す。つい、どんな顔をしているのか見たくなったのだが、真琴は何も言わず顔を背けた。やはり見られたくないらしい。そのついでで思い出したかのように、
「私はもう答えてるんだけど」
 何処か少し拗ねたような口が、物を言った。
「あれは世迷言じゃないし、改めて口にするまでもないわ」
 とは宿での事だろう。如何にも真琴らしい断定の一方で、今の体幹は何処かしら頼りなかった。
「私も今、言いましたよ」
 お待たせして済みませんでした、と具衛がそれに答えると、
「全くだわ」
 反射で噛みつく真琴の喉が、また変な音を出す。意を決した具衛が力任せに真琴を引っぺがすと、喜怒哀楽の哀以外のような顔、と言えば何となく折り合いがつくような表情の女が、目を潤ませていた。
「見るな!」
 薄化粧の頬を涙が幾重にも伝った跡がくっきりと見え、目元もぐじゃぐじゃで、いつもの真琴からすると見れた物ではない。
「怒ってるのかな、と思って」
 私は鈍いので直接見ないと分からないものですから、と説明臭い具衛の言い訳に、
「何よ。嫌味ったらしく笑って」
 真琴は堪らず、手で涙を拭いながらも精一杯顔を捩って抵抗する。が、具衛はその手をも取って、無理矢理それを止めさせた。
「大丈夫です。私にとっては、どんなあなたも素敵です」
 だから何があっても隠し事はなしですよ、と、目と鼻の先にあるその目を覗き込む。宿では切迫した状況下で、それに往生させられたのだ。
「もう一人で抱え込むのは終わりです」
 どんな真琴も受け止めてみせる。それはあえて、口にはしなかった。それを念頭に態度で示して行けば、いくつかのファクターの先にある人生をも変える事が出来る。とは、世によく言われる格言でもある。その真琴の人生を、心安らかなものに、
 ——俺が、変えてみせる。
 密かにそんな決意を含んだ具衛の口振りに、真琴は少し痒くなって来たらしい。恥ずかしそうに小刻みに震えながらも、顔だけで具衛のうなじに噛みつく勢いで、また飛びついて来た。
「あ、危な!」
「手を取られてるんだから仕方ないじゃないの!」
 反射で憎まれ口を被せるところが、また真琴らしい。が、またあっさりべそをかき始めた。
「すいません」
 とりあえず謝ると、
「とりあえず謝るな!」
 すかさず見透かされて食いつかれる。それでまた、その手を解放する代わりにその頭を撫で始めると、
「思いがけずSよね、ホント」
 どんだけ泣かすか最低男が、などと只ならぬ恨み節のオンパレードが始まってしまった。「あの時もこの時も——」などと、その優れた記憶力で泣かされた過去を詳らかにし始める真琴のそれは、殆ど呪文である。古今東西、男は女のそれには勝てないようになっているのだ。
 これで今後の主導権は、名実共に真琴のものだった。
 ——これでいい。
 自分はその傍で支える事が出来れば、それで幸せなのだ。
 そんな具衛の耳元で、立板に水の如く暗唱される呪文が、少し経つと不意に止まった。黙って聞いていた具衛に、
「私に主導権があるって言ったわよね」
 真琴が何かの念を押す。
「はい」
 それを手放しで追認する具衛に、
「今の、言質取ったわよ」
 一々それをする真琴が、また如何にも真琴らしい理屈っぽさで、つい鼻から失笑が漏れてしまった。
「今、笑った!?
 それを過剰反応した真琴が顔を起こすと、冗談めかしく具衛の首を絞め始める。
「悪気はな——」
 言い訳を吐こうとすると、そのまま薄く紅が乗ったその口で、口に蓋をされてしまった。
「ちょっとぐらい寝込んだらいいのよ、あなたなんて」
 もううつらないかクソ、などと悪態を吐きながらも、器用に具衛の口を吸い続ける真琴が、そのどさくさで
「一生放さないから覚悟しときなさいよ」
 また、強烈な呪文を吐く。それに対して、具衛が律儀にも、
「望むとこ、ろ、です、とも」
 やっとの思いでそれだけ返事をすると、後はお互いの口を貪るだけだった。

 気づいたら、時を忘れてお互いに口を吸っていた。いい加減にしておかないと由美子が帰って来ると思ったが、中々離れられない。昼日中からディープキスなど、それまでの真琴からすると有り得なかったが、色々と抑えつけて来ていたのだ。止められなかった。
 ついに二人の間では自発的に止める事が出来ず、無理矢理にもそれを止めさせたのは、看護師による検温だった。部屋のドアをノックでそそくさと離れた二人は、わざとらしく身繕いをしたのだが、具衛はそれで事なきを得るのだろうが真琴は検温だ。俄かに身体が火照っており、体温が平熱を超えてはいないか。少し気がかりだったが、結果は平熱だった。が、顔色が赤い事を指摘され、
「特に自覚症状はありませんが」
 と、しらばっくれる。長時間の抱擁でのぼせたなどと、口が裂けても他人に言える訳がなかった。
「実はちょっと、怒られてましたんで」
 それを具衛が、愛嬌を振りまきながらも頭を掻いては「ははは」と爽やかな笑みを浮かべ、真琴に対する追及の手を緩めた。具衛はそれで役目を果たしたものと思っているのだろうが、真琴としては、実は内心穏やかではない。
 この男は人嫌いと言う割に、人との間合いの取り方が非常に熟れている。その上、暑苦しさ皆無の臭みのない爽やかさは、高いレベルで抜群の安定感があり、おまけに何処かしら浮世離れした素朴さが加わるのだ。現代型の強いストレス社会に塗れた女達が見れば、典型的な癒し系に他ならなかった。余程偏った趣味を持たない女でない限り、大抵その外見はストライクゾーンである。仮に求められたならば即刻操を捧げる事が出来る、としたものだろう。
 私が——
 そうだったように。
 真琴が女の本能的観点で感じて来た具衛は、そんな男だった。男嫌いで鳴らした真琴でさえ、初見でその外見に好印象を覚え、その後一か月もしないうちに、七夕の神社で押し倒された時には性的欲求を覚えたのだ。詐欺師詐欺師と連呼して来たのは、裏を返せば照れ隠しもあった。そうでも言ってないと、暴走し兼ねない自分がいた。
 この男に——
 良い印象を持たない女がこの世に存在し得るのか。真琴が具衛に対して先走るようになったのも、事を急ぐかのように取り乱し始めたのも、全ては具衛本人すら制御出来ておらず気づいていない、意外な程に端正な外見と熟れた為人が原因だった。確かに銀幕の俳優と比べると、余りにも素朴で比べるまでもない。が、その着飾らない嫌味のなさと、傍に置いた時の只ならぬ安らぎは、経験した事がない心地良さで驚いたものだ。噛めば噛む程に味が出る。真琴ともあろう者でさえ、くさやの旨味のような中毒性を感じ始めると、結果的に山小屋の縁側に通い詰めては止まらなくなってしまった。つまりは「至上の地味」とも言えるその為人に早い段階で落ちた、と言う事だ。
 そうした異彩を放つ男が、その印象を裏切らない程度の常識を持ち合わせていれば、一定程度の年月を社会に揉まれ、それなりに分別を培って来ている中高年層に受けない筈がなかった。
「あら。それはしっかりなさらないといけませんねぇ」
 真琴と具衛の間柄は、二人に関わった院内関係者の間では、真純のせいで入院当日から婚約者と伝えられてしまっている。表向きには真純を叱りつけた真琴だったが、内心では実は安心した向きがあった。お陰で具衛に下手な手出しをする者もないだろう、と思ったそれは、つまりは焼き餅だ。
「いやぁ、面目ない事で」
 くしゃりと笑んだ具衛に、熟年看護師が嬉しそうに微笑みながら退出した様子は、やはりその眼鏡に適った、
 ——と見るべきね。
 と真琴は思った。万人受けするその外見に、この先も気苦労させられるようだ。
 こんな調子で——
 嫉妬に暴走する事なくやっていけるのか。不意に自信がなくなる真琴だった。
 大抵の女達が好意を覚えるその外面が、確かに良い事は認める。が、それは、この男の思いがけない高い資質の、ほんの一部に過ぎないのだ。以前、真純の拉致事件で世話になった警視庁の滝川が、あの荒事専門の厳つい形をしている男をして「羊の皮を被った狼」と言わしめるような具衛である。その狼の相を垣間見た時、どれ程の女達がそれに慄く事なく、この男を理解し受け止める事が出来ると言うのか。萌える一面だけを切り取り、下卑た想像を巡らせる女達が忌まわしかった。
 それは如何にも、
 ——都合が良過ぎる。
 許せなかった。
 上澄みだけを掬われ、慰み物にされる悔しさを散々に受け続けて来た真琴である。そうした目を具衛に向ける女達も面白くなければ、愛想を振舞う具衛もまた面白くなかった。実は波乱の人生を歩んで来たこの萌える男を、本当に理解出来る女は、
 私だけ——
 なのだ。
 そうであるならば、具衛は芸能人のように肖像を武器に世に売り込むような「商品」ではないのだから、その存在を享受して良いのは、
 ——私だけよ。
 と言っても良いのではないか。お互いにプロポーズしたような間柄なのだ。お互いはお互いだけのもの、と言い放っても良いではないか。やっと、人生の大方半分をかけて、やっと見つけたのだ。
 ——私だけのものよ。
「良かったですね」
 そこへ突然、具衛が嬉しそうに言った。
「何が?」
 俄かにご機嫌斜めの真琴の声が、暗く鋭くなっていると言うのに、具衛はやはり嬉しそうだ。
 何が——
 良い事などあったものか。頭に血を上らせている真琴に、
「予定通り、明日退院出来そうだと看護師さんが」
 具衛は朗らかに笑みを浮かべた。疑心暗鬼で邪推を募らせていた真琴は、それを全く耳にしていない。愛想を振りまいていたのは、
 ——私の事だから?
 と、何となく理解した真琴は、少し安心して小さく嘆息すると、表情を緩めた。
「誰かさんが早く見舞いに来てくれないから、危うくその前に退院するところだったわ」
 主治医からも、そう聞いてはいる。この分だと、後で最終的な退院許可が出る事は間違いなさそうだった。それもこれも第一級の功は、この萌える男のお陰なのだ。世の大多数の女達は、この萌え男が、これ程までに頼り甲斐がある事など知る由もないだろう。
 今は、自らの腹の上で組んだその手の下から伝わって来る温もりが、とても穏やかでとても幸せだ。一週間前に死線を彷徨ったとは思えない。全ては、今目の前にいる具衛のお陰なのだと思い至ると、不意にまた何かが込み上げて来たものだった。
「で、一応明日退院見込みのようだけど、何を持って来てくれたのかしら?」
 照れ隠しで、そんな現金な事を言ってみると、
「ああっ!」
 具衛がオーバーに頭を抱えて仰け反った。すっかり忘れていたらしい。
 まあ、別に。
 今日は何物にも代え難い、人生指折りの誓約を交わしたのだ。一度にそれ以上を望むと、罰が当たり兼ねない。
「まあ、それはもういいわよ」
 と、建前では、少しだけむくれてみせた。
「明日、迎えに来てくれるんなら許してあげるけど?」
「それは勿論」
 一二もなく返事をした具衛が、只々微笑ましい。
「アルで迎えに来ます」
 今は愛車を託しているこの男が、驚くべきドラテクで同乗した真純を腰砕けにした事は、まだまだ記憶に新しい。見舞いに来た真純から、その無茶振りを聞いていた真琴だった。
「雪道で真純と一緒にリアルジェットコースターをしたあのアルでね」
 それなりに肝が据わっている真純をして、そう例えさせた程の暴走である。
「すみません」
 具衛は素直に、乱暴に扱った事を詫びた。その素直さが、また嬉しい。
「私に謝られても。私はそのお陰で助かったんだし」
 実は真純に聞かずとも、一般病棟に移って暇を持て余していた真琴は、そのドライブレコーダーのデータを所携のタブレットで確認していた。具衛が驚くべきドラテクを有していた事は意外だったが、要するに道中で二人が何を話していたのか。それが気になったのだ。
 が、聞いて失敗したと思った。息子も息子なら、今目の前にいる当時の運転手も運転手で、その溢れそうな思いは心臓に悪く、不覚にも泣けてしまったのだ。覗き見は良い趣味とは言えず、それは胸の内に秘めておくとした真琴だったが、土壇場で語られた二人の思いは、しっかり胸に刻み込んだのだった。
「普段のあなたの運転は信頼してるから。まあ無茶苦茶は、有事の時だけにしてよね」
 一緒に暮らす事になるのであれば、名義は真琴でも、具衛が運転する機会も増えるのだ。それにしても、何処でテクニックを磨いたのか。と言う素直な感想の答えはやはり
「軍で」
 と言う事らしかった。
 行軍は、車両も伴う事が頻繁である。車の免許も、最初に取ったのは日本ではなく仏国だったそうだ。何年も整地されていない道を走り回れば、
「誰でもそれなりに——」
 上手くなる、らしかった。リアルでラリーをやっているようだった、とか何とか。もっとも、砲弾が飛んで来るところが競技とは決定的に違い、
「それなりに上手くならないと、命に関わるもんですから」
 とは、大人しそうな形のくせして、本当に詐欺師である。
「ふーん」
 真琴などは、その高規格クーペでぬかるんだ川土手道に突っ込み、身動きが取れなくなったうっかり者だ。だから具衛のそれは、手放しで賞賛に値するものだった。
「でもしばらくは、また私だけが使う事になるのか」
 そんな愛しい詐欺師も、近々日本を離れる。と、耳にしたのは二、三日前である。話のソースは、やはり真純だった。よって具衛本人からはまだ聞いていない。それをせっかちな真琴は、本人の口からそれが語られる事を待てず、つい漏らした。
 高千穂一味の牙城を突き崩す突破口の事件の被害者である具衛は、被害関係者の中では最も立場が脆弱で危ういのだ。何せ具衛以外は高坂の面々である。捜査側としては、被害の事実さえ固めたならば、あとは出来る限り目のつきにくい所へ行ってくれれば言う事なし、と言う状況であった。そうすれば、犯人側からの報復の的を一つ排除出来る。
 しかして具衛は、高坂宗家の計らいもあり、とりあえず仏のフェレール家を訪ねる予定のようだった。今や、フェレールグループと高坂重工の密約の肝心要でもある具衛だ。その身柄をフェレールに押しつけてしまえば、フェレール側から余計な詮索をされる事もなく、高坂宗家としても捜査側としても都合が良いものだった。
「いつ、日本を発つの?」
「重ね重ね、報告が遅れて申し訳ありません」
 具衛は「来週中には」と柔らかくつけ加える。
「来週——」
 折角、お互い想いを遂げたと言うのに、いきなり離れ離れだ。それも具衛らしいと言えばそうなのだが、やはり少し寂しい。本人を目の前にまだまだ照れが強い真琴は、とても言えたものではないが、事件さえなければ散々甘えられると思っていたのだ。
「まあ、何年もって訳じゃないしね」
 精々高千穂が収監されて、落ち着けば帰国出来るだろう。数か月程度の別れだ。
 我慢——出来る。
 自分に言い聞かせた。もっとも真琴の方も、高千穂の一件で蝕まれ粛清の嵐で並みいる重役が吹き飛んだグループ上層部の、その一席を宛てがわなければならず、サカマテ立て直しの任が迫っている。今度は社長で返り咲かなくてはならないのだ。もっともその役はピンチヒッターのつもりであり、具衛が帰国する頃には退任するつもりでいる。何せ出産を控えている身だ。
 が、具衛は更に、思わぬ事をつけ加えた。
「実は、レガから誘われてまして」
「レガって——スイスの?」
 山岳国が誇るNPOの航空救助隊であるそれは、フェレール家を訪ねた帰途の遭難通信で、具衛が世話になった相手である。
「ドクターヘリのパイロットにならないか、と、昨日連絡があったんです」
 フェレールに厄介をかける手前、その立ち位置の格差に尻込みしていた具衛が意を決してジローに連絡をしたところ、いきなり言われたらしい。昨今のパイロット不足は固定翼、回転翼を問わず深刻であり、世界中の国や組織がその育成と確保に頭を抱えている。それはレガといえども例外ではなかったようで、あのブリザードの緊急着陸以来、ジロー経由で具衛の素性を調査していたらしかった。
「色々タイミングが良いな、と笑われたもので」
 と、具衛は笑ったものだったが、真琴からすれば驚きでしかない。確かに具衛は、勤め先だった施設の雇用契約の更新を悩んでいたし、親がこさえた負債もようやく完済して自由になったばかりだった。幸か不幸か勤務先は契約満期を前に退職させられ、国内にいる事が好ましくない状況も発生したのだ。それはまるで、具衛を日本から追い出すネタが小出しにされて行くかのような。そんな状況だった。
 だとしたら——。
 先程交わしたばかりの結婚の約束はどうなるのか。
「どうしましょうか?」
 真琴の心の声と、具衛の肉声が見事に被った。
「どうって、何が?」
「だから、私のパイロットの件ですよ」
 具衛は、あっさり言ったものだ。
 ——やっぱり、そうよね。
 具衛にとっては、まずははっきりしない結婚よりも明日の糧を得るための仕事だろう。兎にも角にも、現時点で無職なのだ。正直、具衛の収入など宛にするまでもない財持ちの真琴だが、他人の施しを嫌うこの男は決してそれで納得しない。それは、今までのその生き様が物語る頑固な節度だ。
 昨年末にこっそり山小屋に置いて帰った小切手など、恐らくは景気良く他人に譲渡したか捨てたかしている事だろう。過去にもそうした前科がある男なのだ。もうそれは別にどうでもいい。既に自分の手から離れた財であり、どうなろうがその小切手の源となる当座の金など、錬金術で殆ど労せず積み上げた財でしかない。ある程度の年齢に達して、それなりに人間的な厚みが出来たならば、慈善家にでもなる時の原資のつもりでとりあえず貯めていただけだ。もう、小切手の事は良い。
「それって、何年行く事になるの?」
 訊いた瞬間、自分の間抜けを後悔した。今、この場で分かる訳がないではないか。しかして具衛は、更に思わぬ事をつけ加えた。
「回転翼である程度実績を積み上げた後に、固定翼へ切り替える可能性もあるそうでして——」
 固定翼機のパイロット不足は、回転翼機に比べると更に深刻だ。ヘリに比べると速度も速く、機器の装備や設備も煩瑣になり、技術的養成に係る時間と費用負担が大きいためだ。更に、プライベートの「自家用操縦士」資格ならいざ知らず、具衛が求められる資格は業務用の「事業用操縦士」である。それは車の免許で言うところの「二種」資格に相当し、取得にかかる労は当然大きい。仕事で空を飛ぶのだから「技術」に加えて「経験」求められるのだ。只、回転翼資格を持つ者が固定翼資格を得ようとするケースでは、一定程度の過程が免除され、一から取得するよりは早い。とする具衛の説明は、つまりキャリアを重ねるには相応の時を要し、
「永住する事になるかも知れません」
 と言う事だった。それ程レガが、具衛の腕を評価し興味を持ったと言う事だ。何せ紛争地で砲の中を潜り抜けながら飛んで来た男である。固定翼機の切り替え時にはそれなりの中年だが、このスカウト自体が、それを上回る期待をレガが示したと言う証左でもあった。
「じゃあ——」
 結婚は、どうするのか。真琴は、まずそれに触れて欲しかった。真琴とすれば極端な話、具衛と一緒なら何処だって良いのだ。実家にはいたくもないし、正直なところ日本には愛想を尽かしている。通算で一〇年程の欧州暮らしの経験もある事ではあるし、別にスイスで永住する事になったとしても全く構わない。
 ただ——
 一言、結婚や出産に対する配慮が欲しかった。男が仕事を大切にする気持ちは理解出来る。男は古来、原始の頃から一家を支えるために、糧を求めては命懸けで狩猟して来たのだ。だから男は女よりも身体的に屈強であり、それにステータスを求める向きも分からないではない。
 でも——
 女にとって結婚と出産とは、男以上に一大事なのだ。特に出産などは、文字通り身を削るもので、死をもつき纏う重大事なのだ。いくら真琴が経産婦で、加えて若々しく体力があるとは言え、医学的分類では高齢出産者と言う現実。
 だから——
 第一声くらい、まずはそれに対する配慮があっても良いと思うのは、決して求め過ぎではないと思うのだ。大体が男は、その辺りの繊細さが大なり小なり乏し過ぎる。初婚でそれを真琴は、高千穂から散々に煮え湯を飲まされたものだったが、高千穂程ではないにしても、やはり
 この男も——
 そうなのか。
 許されるものならば、何度男になりたいと思った事か。世の男達の不甲斐なさを見る度、その不躾な目に晒される度、同族から妬まれる度、男になれたらどれだけ楽かと思ったものだ。それは、今この瞬間でも心の何処かにある無念である。それが具衛と出会った事で、ようやく女で良かったと思えるようになって来た、と言うのに。
「——結婚はどうするの?」
 真琴の問いかけは、殆ど幻滅に近かった。
「だから、その事を今相談してるんですよ」
「はぁ?」
 具衛の矛盾めいた言動に、真琴は急転直下で顔を険しくする。
「さっきはパイロットの事って言ったじゃない!?
 何言ってんのよ、とそっぽを向いた真琴は、あからさまに拗ねてみせた。
「すみません」
 しかし具衛は怯まず、それどころか図々しく真琴の手を握って来るではないか。
「放しなさいよ。もうっ! 放せ!」
 一気に機嫌をそこねた真琴が、その手を振り払おうとしたが、何度か乱暴に手を振っても、手業を使って解こうとしても、不思議と具衛の手は解けなかった。その上、
「余りジタバタしたら、お腹の子がびっくりします」
 下腹部に手を置くではないか。
「なっ——」
 何を白々しい。瞬間沸騰した怒りに任せてその手をも振り払おうとしたが、大きく嘆息して止めた。
 真琴が認識している今までの具衛は、どちらかと言うと、こうしたスキンシップを得意としない筈だった。真純の拉致事件の時や先週の温泉宿の時の具衛は、どう考えても逸脱しており、はっきり言って暴走していた。それが有事だった事を鑑みても、だ。
「あなた、こんな事する人だったっけ?」
 代わりに真琴は、そんな素直な疑問を吐いてみた。分を弁え、付かず離れずで飄々としている。そんな、何処となく観念的で淡白な男だった筈ではないか。
「——じゃ、ありませんでしたよ」
 やはりそこは、具衛も自覚しているようだった。では、今のこれは何なのか。真琴がまた口を開こうとすると、一足早く具衛が開いた。
「あなた以外でこんな事、恥ずかしくてとても出来ませんよ」
 ここへ来て、しれっと言ったものだ。真琴が口を尖らせる中、横目で盗み見たその屈託のない笑みが、悔しいが良い顔をしていた。
「どんなあなたでも、私にとっては素敵なんです」
 だから何か、我慢出来ないんです、と思わぬ暴露が、僅かな油断の隙を突いて真琴を貫く。
「な、何をまた図々しい」
 それを素直に受け止められず、相変わらずそっぽを向いている真琴に、
「真琴さん」
 具衛が柔らかく、また名前を呼んだ。
「何よ。もうその手には乗らないわよ」
 詐欺師が、などと、にべもない真琴のそれは、照れ隠し以外の何物でもない。名前を呼ぶ事も呼ばれる事も、未だに抵抗感が強い真琴なのだ。が、具衛は、その表情同様にそんな屈託を全く感じさせない。相変わらず淡々飄々として、名前の呼び方一つでつまずいている自分を軽々と超えているスマートさですら、今は何だか忌々しく思えて来る。
 そんな苛立つ自分を、真正面から受け止め続ける具衛が、構わず続けた。
「私は情けない事にこの歳で初婚なので、正直結婚がどう言うものなのか良く分かりません」
 私は万事が行き当たりばったりの体当たりで生きて来たので、と言うと、
「悪かったわね。こっちはこの年で二回目のこぶつきの偏屈よ!」
 真琴は毒を吐く時だけ具衛に向いて、吐き終わるとまた器用にそっぽを向く。
「それにあなたは、出産も控えた身です。でも私はそれに関して、世間一般で言われている漠然とした事しか分かりません」
 ふと具衛が、真琴が触れて欲しかった事に触れたかと思うと、後は毎度の如く、盛大な後出しじゃんけんのようだった。
 真琴の出産が大変な事は、よく理解しているつもりだ。今でこそ、真琴はサカマテ経営陣の立て直しを担う予定だが、産前までの代役ならば、その後の仕事に関しては、場所や職種に拘らず自由にして欲しい。折角自由を手に入れたのだから、家に籠っても良いし、世界を舞台に飛び出しても良い。云々。
「世界に飛び出せって——」
 そう言う具衛は、スイスのレガに居座るつもりなのではないのか。それならずっと別居でもするつもりなのか。真琴がそう吐きかけると、
「そのためのレガでの就職なんです」
 具衛が上から被せた。
 今やパイロット不足は世界に拡散している。特に回転翼は、空飛ぶ車や大型ドローンなどの実用化が目前に迫っており、その操縦が自動化されるまでのパイロット需要は、天井知らずの可能性を秘めている。つまり、世界各地で通用する職を具衛は、
「レガで身につけたいんです」
 と、言う事だった。
 軍機ではそれなりの飛行経歴を有する具衛も、民間機では皆無だ。だから、何処かで何年かは経験を積んでおく。それには、飛行実績、技術ともに民間レベルでは世界指折りとも言えるレガの採用は打ってつけだ。つまり、レガで何年か実績を積めば、後は真琴の都合で何処へ行こうと
「私も一緒に帯同出来るんです」
 と、言う事らしかった。
 一方で、真琴の仕事が多忙を極めるようなら、自分が主夫になってもよいとも言う。何にしても、真琴の財に甘んじて自堕落に見られる事だけはしたくない、とか何とか。
「何? 結局、男の安っぽいプライドかしら?」
 辛辣な真琴の止めは、しかして物の見事にブーメランになった。
「私がバカにされるの良いんですが、私の体たらくで、あなたがバカにされるのは我慢ならないんです」
 結局言いたい事は、そう言う事だったらしい。要するに、真琴がどう転ぼうとも、自分はそれなりのステータスを保持したまま、真琴の都合に添う事が出来る都合の良い男になる、と言うその計画は、
「まあ、ない智恵をよく絞ったもんだけど——」
 その言に反して、結構染みてしまった。
 真琴が溜まりに溜まった女の幸せを、ここぞとばかりに求めて元を取ろうとしているその傍で、浮つく事なく先を見据える具衛は、流石にそれまでの半生で公に尽くして来た者の手堅さだ。見た目は浮世離れ感が強く、如何にも頼りなさそうに見える
 くせに——。
 拗ねていた自分がバカみたいではないか。これではどちらが初婚か分かったものではない。自分の何処かに、未だこの男を侮る向きがあった事を思い知らされるその裏で、それをごまかすために、
「それは、自分の立ち位置を高めるために、私のプライドを利用している、とも言えないかしら?」
 また重ねて辛辣な事を吐く。悪い癖だ。分かっていながらも止められない。その自らの体裁を保とうとする捩じ曲がったプライドこそ、まさに忌むべき偏屈であり天邪鬼だと言うのに。
「私にはそう思う向きは全くないんですが、まあ世の中には、そう言う穿った目もあるでしょうね」
「あ、今、どさくさ紛れに私の目を穿った目、とか言わなかった?」
「何にしても私は、あなたを落とすような夫ではありたくない。それだけなんです」
 真琴さん大事な話ですよ、と、最後には逆に窘められてしまった。すっかり、真琴の捻くれ具合を見透かされてしまっている。
「結婚と出産を控えて大変な時のあなたに、私の計画を平行させても良いでしょうか?」
 そしてついに「結婚」と「出産」と言う、真琴が欲しかったフレーズと共に核心を突かれてしまった。自分には理解出来ていない気苦労もきっと多いだろうから、そう言う事も踏まえて遠慮なく、ためらう事なく教えて欲しい。一つひとつ、意識を共有しながら一緒に歩んで行きたい。などと痒い事を捲し立てた挙句、
「以前も言いましたが、あなたの事に関しては、私は欲張りですから」
 あなたの幸せを構築するために、ベターではなくベストを求め行きたい。と言う、普段の拙さを全く感じさせないその真摯な心情の吐露は、真琴を激しく動揺させた。
 初婚のくせに。これまでの人生の半分は天涯孤独で、家族に縛られずに生きて来たくせに。このしっかりとした結婚観はどうした事か。と、思ったところで、考えを改めた。この男は天涯孤独になった後も、家族を見捨てず愚直に負債を返済し続け、その名誉を救ったではないか。天涯孤独の自由人のくせして、他人のために何度となく、一肌も二肌も脱いで来たではないか。それは人嫌いを公言しておきながら、人に寄り添う事を忘れなかった外見不相応の侠風を追認させるもので、
「流石は詐欺師ね」
 この瞬間、天邪鬼の捻くれ者を密かに感服させた。
「まあ、言葉では何とでも言えたものだけど——」
 そんな男が言う事なのだ。もう、認める他に術がないではないか。事実この男は、そうやって事ある毎に真琴を驚かせ続けては、真琴の中で大きな存在になって行ったのだ。
「——それを、さ。先に言いなさいよ先に。丁寧に話そうとするのは理解出来るし、嬉しいんだけど」
 女はやっぱり、真っ先にそれが聞きたい時もある。と言いかけて、ふと驚いた。最近自分は、随分と女を意識し始めたようだ。昔から同族嫌悪で、女でありながら女を嫌い抜いていた自分が、随分と女々しくなったものである。
 それもこれも——
 年下のくせに、一見頼りなさそうに見えるくせに、妙に腹が据わっているこの男のせいだ。
 しかして具衛は、
「それは——」
 あなたがせっかち過ぎるんです。と、どんなに辛辣な嫌味を吐かれても、動じるどころか余裕綽々で楽しんでいる様子すらある。
 ——もう、ダメだ。
 すっかり骨抜きにされてしまった。
 我ながら、流石は偏屈の自分が選んだ男だ、と密かに自嘲した真琴は、
「まあ、いいんじゃないかしら」
 相変わらず顔は背けたまま、一瞬だけ具衛に目を配せた。その目を、相変わらず柔らかく佇んでいる男の穏やかな目に、しっかり捉えられてしまう。
「一つ条件を追加したいんだけど」
 素直になるのに、まだまだ切り替えが下手クソな真琴である。口で上手く言えない分は他の部分で示すとしたもので、尖らせている口を開くと、
「何なりと」
 屈託なく答えた具衛が、ヘソを曲げている自分のその辺りに置いているその手に、自分の手を重ねた。
「この子のためにも相応しい父であり、夫であって欲しいんだけど」
 と、自分で言っておきながら、真琴はそろそろ痒さが限界だ。いい加減、小っ恥ずかしくなって来た。以前の自分では有り得ない程の惚気なのだ。今ここで、退院の最終判断のために担当医が来ようものなら、のぼせた顔のせいで延期になるのではないか。真琴は堪らず盛大に顔を背けて逃げた。が、恥ずかしさで小さな震えが止まらず、全く格好がつかない。これも、以前の自分では有り得ない程の乙女振りである。
「そうあるように努めます」
 静かながらも具衛が言い切ると、自分の曲がったヘソの辺りに置かれていたその手が、静かに離れた。同時に、盛大に背けている頭を抱き抱えられる。
「な、何よ」
 子供染みた事して。舌鋒に事欠かない自分が、その程度の憎まれ口を吐くので精一杯だ。
「いえ。こうするのが何となく正解なのかなぁと思いまして」
 こう言う事は理屈じゃないでしょう、と言うその男のその手が、早速優しく髪を撫で始めた。
「生意気」
 とりあえずの体裁を忘れず、どうにか断末魔を吐いておく。その後はまた、具衛の胸に頭を預け切って目を閉じた。
 サカマテでの後始末を済ませてしまえば、後は具衛の計画に寄り添うだけだ。後はそれに任せて自分は好きにすれば良いだけだ。
「——色々と、預けてもいいのかしら?」
「ええ」
 また言質取っといてください、と先読みされてしまうと、つい失笑が漏れ出た。
「レガの何処の拠点に行くの?」
 預け切ってしまうと、悪い癖が出ないらしい。真琴は甘えついでに、素直な思いを俎上に載せ始めた。
「ローザンヌの予定です」
 レガは本部があるチューリッヒの他、スイス国内に十数の拠点がある。その西部、レマン湖北岸のその観光都市は、国内向けには連邦最高裁が設置された司法首都の役割を担う。国際的には、国際オリンピック委員会(IOC)他スポーツ団体の本部が置かれ、中々賑やかなものだ。
「じゃあ、言葉は大丈夫ね」
「ええ」
 スイスの西部地域、人口比率的には同国人口の約二割は、公用語の一つであるスイスフランス語を使う。同語は隣国仏国の仏語と比べても殆ど差異がなく、仏語が使える者ならば言葉に不自由する事はない。
「イヴォワールとも、そんなに離れてないし。遊びに行くには不自由しないわ」
 フェレール家が夏季の邸宅を構えているイヴォワールは、レマン湖南岸の仏領であり、ローザンヌとは直線距離で三〇km程度だ。頻繁に通える距離感だった。
「やっぱりイヴォワールに居候するの?」
「いえ、ローザンヌで探します」
 職務上、拠点の近くに住む義務があるらしい。
「そう」
「どんな家がいいですか?」
「山小屋みたいな家がいいな」
 真琴は即答した。二人を交流を育んだ、あの箱庭のような情景に佇む慎ましやかな小屋は、荒んで色々と見失いかけていた自分を、何十年分も巻き戻してくれたのだ。そんな環境でこれからの人生を、最愛の家族と暮らせるのなら。
「探してみます」
「なかったら建てちゃいなさいよ」
 小切手で、と言ってみた。
「すみません」
 すると、予想通りの答えが返って来て、真琴は満を持して噴いた。フェレール家に譲ったらしい。 
「——だと思った」
 大金ともなると、それこそいよいよ天下の回り物感覚が強いものだ。使えないのであれば、使える人間に譲った方が様々な価値を見出すものだし、それは投資に似ていた。
 事実具衛は、フェレール大統領遭難事件で得た褒美を惜し気もなく他人に譲った事で、事実上それ以上の物を得ているのだ。それが結果的に今の二人を結びつけたのだから、その気前の良さは愛しかった。
 ——それでいい。
 真琴の財は当座だけではないし、切り崩せば瞬く間にそれなりの現金を用意する事が出来る。只、この男に、その心配をする必要性はなさそうだった。
「最初はちょっと大変よ?」
「そうなんです」
 スイスは物価が高い事で有名である。一般的に日本と比べても二倍、三倍は当たり前だが、一方で所得が高い事でも知られたものだ。収入が得られるようになれば具衛の事である。食べて行く分は不自由しない程度の富を築くだろうが、何せ今は実家の負債を完済したばかりで、殆ど貯金がないと来ている。
「でもあなたは、やり繰り上手だから」
 大丈夫。と、真琴は小さく嘯いた。それを実際に山小屋で実践していた具衛なのだ。
「また陳皮茶こさえたり、バイオ洗剤使ったり、干し肉や燻製を作ったり——ですか?」
 じゃあ米糠持って行かないと、との最後の呟きに、真琴はまた軽く噴き出した。
「そうそう」
 本当に楽しみだ。今度は自分も一緒にそれが出来る。真琴はくつくつ笑いながらも、少しの間その想像の余韻に浸った。が、
「さて、と——」
 程々にしておかないと、いい加減由美子が戻って来るか、主治医が訪ねて来るだろう。真琴が具衛の両肩に手を置いて顔を上げると、一瞬その手に違和感を感じた。
「ん?」
 即座に顔を顰めた真琴が、大した肩幅を持たない具衛のその両肩を、改めて服の上から触れてみる。具衛の服装はいつも通りの冴えないライトダウンジャケットに綿パンだったが、ダウンジャケットは入室後に脱いでおり、上衣はやはりいつもの薄手のジャージ姿になっていた。その薄い質感とは異なる厚みをジャージ越しに感じるのだ。何か、ある程度の厚みを有する柔らかい物が、両肩に載っているようだった。触っていると、それに合わせて僅かに具衛が顔を歪めているではないか。
「ちょっと、何これ?」
 何故肩パッドのような物を入れているのか。合わせて、少しばつが悪そうな顔をする具衛を見逃さなかった真琴は、手早くジャージのファスナーを一気に下まで引き下ろした。
「なっ!?
 慌てた具衛が、身を捩って真琴の手を躱すと、
「あら。宿では有事に託けて、か弱い女をあられもない姿にしたのに?」
 釣り合いが取れないわ、と、ねちねち口撃し始める。瞬間で思い出したのは、一週間前の思いがけない辱めだった。
「いや、これは見せるようなものでは——」
「私だってそうよ!」
 確かに好きな男の手による事であり、そうした意味では全く問題にするつもりはなかった。だからと言って、同意もないまま何をやっても良いものではない。
 隠すなんて怪しいわ。また何か良からぬ事でも企んでるのかしら。などと捲し立てた挙句、
「あの行為をもってして、強制わいせつの違法性が果たして阻却されるかしらね?」
 あなたの見解が聞きたいわ、と、真琴は俄かに法律論争に持ち込んだ。
「緊急避難、は——」
 具衛の口から漏れ出たそれは、古くから存在する「必要は法をもたない」と言う一般原則をして認められた、犯罪不成立の制度の一つである。が、
「現在の危難に対して、他に手段がなくやむを得ず、と言えるかしら?」
 真琴が語った一部を切り取っただけでも、具衛の行為は先走り感が強く、避けようとする損害のためとは言え、生じさせた損害が大き過ぎるのだった。あくまでも結果論だが、長時間の山道踏破を経ても、真琴が健康を取り戻した事を鑑みると、その出発前の時間短縮のためとは言え、男の具衛が女の真琴の身包みをひっぺがす、と言う鬼畜めいた蛮行は、宿の女手を頼みにする方が無難で正当なものだったのである。
「何? 勝負する?」
 法律論争になって弁護士に勝てる者など、同業者以外で存在し得るのだろうか。
「私はすっぽんぽんにされたのよ。それを上だけ脱がせる事で示談しようって言うんだから、格安だと思わない?」
 その言い分の裏で、具衛のあの時の行為を実は認めていた真琴であった。緊急避難は、被害者の同意が得られればその時点でも成立する。が、どの時点だろうと密かに同意していたなどと、口が避けても言えたものではない。要するに、女としての体裁上の問題であった。いくら何でもあそこまでされて全く羞恥心を帯びず、平然としていられる女などそういるものではない。例え具衛に感謝しているとは言え、この程度の悪ふざけは許されても良いだろう、と勝手な解釈をした真琴だった。
 すると、渋々ながらも具衛が、
「仕方ないですね」
 ジャージを脱ぎ始めた。脱ぎ始めると、流石に思い切りの良い具衛である。その下のタートルネックと合わせて、一度にアンダーシャツも脱ぐと、あっと言う前に上半身を露わにした。その意のままにぱっぱと服を脱ぐ具衛を、真琴は悪戯っぽくも得意気な顔をして眺めていたものだったが、そうしていられたのは一瞬だけだった。
 ウソ——。
 両肩に載っていたのは厚いガーゼである。その表面が薄っすら血で滲んでいるではないか。内側は相応に出血している事が間違いなさそうなそれは、わざわざ確認するまでもなかった。あの夜、豪雪が降り積もる吹雪の山道を、意識朦朧の自分を背負ってこの華奢な男が無茶無謀な決死行をしたのだ。まともに装着すれば、レスキューハーネスはこんな事にはならない筈である。恐らくは、母体に対する締めつけを気にして、ハーネスを緩くしていたのだろう。その分揺れる母体を、具衛が自らの身体を呈して上手く吸収しながら歩いたのだろう。只でも厳しい状況下で、その呆れた配慮のためにハーネスが擦れて、肉を切ったのだろう。
 それだけではない。今は痕になっているが、一見して引き締まった筋骨の表面は、ちらほらではあるがいくつかの古傷が刻み込まれていた。声が出ない真琴が、黙って具衛の両肩を掴んでその身体を反転させようとする。それを察した具衛が自発的に背中を向けると、その背中もやはりちらほらではあるが、いくつか大小の古傷があった。一見して爪大の物もあれば指大の物もあり、大きい物では掌の半分大だ。切創、瘢痕、青痣など、その数は表裏を合わせると一〇前後ある。
「ごめん」
 真琴はその背中に額を押しつけ、迫り上がる声を押し殺しながら言った。具衛程の手練れの士でも、いやそうであるからこそ過酷な現実と向き合い、傷を刻みながらも生き抜いて来たのだ。
 何で——
 気づかなかったのか。
 昨年末、その剥き身に散々甘えた筈なのに。全く見ていなかった。不思議と顔はまるで傷がなく、所謂熟女受けしそうな萌え男のくせして、その精悍な身体つきはどうした事か。分かっていたようで、自分はまだまだこの男の事を分かっていなかった事に、また打ちひしがれた。これでは、その顔に萌えているその他の忌まわしい女達の事をとても悪く言えたものではない。知ったか振りしていた自分が情けなくなった。
「ホント、詐欺師だわ」
 そう嘯く声が、また揺れる。合わせてその背中に額を擦り寄せた真琴は、手も添えてゆっくり撫でつけ始めた。
「これはあなたが思ってるような、勇ましいものじゃないんですよ」
 堪り兼ねた様子の具衛が、恥ずかしそうに身動ぎする。
「木の枝に引っ掻かったとか、転んで岩にぶつかったとか、中には当たったなんてのもありますが——」
 要するにドジの痕跡、と言う事らしかった。
「もう、いいでしょう?」
「嫌だ」
 真琴がその肩を掴んで食い止める。
「もう少し、このまま——」
 その痕を感じていたい。
 例えそれがドジの証なのだとしても、それはこの男が生きて来た痕跡だ。そもそもがこの男は、過去の武勇を誇るどころか語りたがらないのだ。その気質が、その痕跡を重い物にする。甘えるばかりではダメだと分かっていても、真琴は中々その背中から離れられなかった。
「人が来ても知りませんよ」
「構わないわよ」
 もう、二人の想いは固まったのだ。精々二人の仲を見せつけてやれば良い。
「もう、何か、ね」
 止められないのだ。
 そう言ってこの男を誘惑した昨年末を思い出しても、もう動揺しなかった。そんな事でも吐いてないと、滞った想いがまた暴走しそうだ。
「生きててくれてありがとう」
 お陰で、こうして巡り会えたのだ。
「私、ホント、今幸せだ」
 具衛ではないが、何かを乗り越えて口にし始めると止まらなくなる。
「自信があるの。私の方が絶対、あなたの事が好き」
 自分の吐くその言葉の、何と拙く感情的な事か。そうした青臭い言葉を吐いても違和感がないような青春期など、真琴には全くなかったのだ。それがまさか、巡りに巡ってこの年に至って、やっとやって来たかのようだ。今までの鬱憤を晴らすかように、幼稚な感情が次々と口に迫り上がって来てしまう。
「怖いくらい幸せって、こう言う事なのね」
「どうしたんですか、また?」
 今度は具衛の方が痒くなって来たようだ。先程散々痒くさせられたのだ。思う存分反撃してやる。
「幸せにしてとは言わないわ。もう十分幸せだもの」
 これ以上の幸せを、この男から得ようとしてはならない。与えられる幸せは必ず何処かで無理が生じ、色褪せて行くのだ。
「あなたらしく、私らしく、一緒に幸せになって行こう」
 互いを尊重し、共にそれを築いて行く過程にこそ、パートナーと生きる人生の醍醐味があるのであり、豊かな営みとなる筈なのだ。
「私は、片方の犠牲がもたらすような歪んだ幸せは認めない。献身も搾取も、私は両方我慢ならない。お互いが幸せじゃないと私は嫌なの」
 ダメだ。これだけ浮ついた事を吐いても、まだまだ全然吐き足りない。
「私も、あなたとの事に関しては、信じられないくらい強欲なのよ」
 それを先に口走っていた男は、宿で迂闊な女を介抱した時も、つい先程も、迷いなくそう言い切った。真琴はそれを修正したのだ。腹を括ればどこまでも突っ走る俠客のような男なのだ。牽制しておかないと、再々無茶をされては堪ったものではない。
 真琴はその止められない感情そのままに、額を擦り寄せるている具衛の背中を吸い始めた。
「ま、真琴さん!?
 具衛の声が裏返り、背中が痙攣して反り返る。逃げようとするのを腕を腹に回して巻きつけた。
「いい加減にしないと、ホントにそろそろ人が来ますよ!?
「だから構わないって」
 欧米じゃこんなの当たり前よ。私はお互いが幸せじゃないと嫌だから。などと真琴が捲し立てては嘯くと、
「分かりました。よく分かりましたから」
 堪り兼ねたらしい具衛が、絡みつく真琴に手業を使い始めた。が、時が経ち過ぎていたらしく、その瞬間でドアがノックされる。
「うわっ!?
 具衛が情けない悲鳴を上げる中、
「はーい、どうぞー」
 真琴が悪戯っぽく、普段にない軽口でそれに応じてみせた。どうやら自分のような偏屈者でさえ、蜜月期の惚気と言うのは存在するらしい。
 その砕けっぷりを振り返る程の余裕振りで暴走中の真琴が、流石に具衛から離れると、入室して来たのは由美子と主治医だった。
「まあ——」
「これは、また——」
 二人の入室者が好奇の目口を向ける中、
「いや、これは、その——」
 などと、言い訳三段重ねの具衛が、絵に描いたようなしどろもどろで失笑を誘い始める。
「先生、この人のガーゼを替えて頂けませんか?」
 その中を朗らかにリクエストした真琴に、他三人が同時に視線を向けた。時を止め、目を瞬く面々に、
「何?」
 疑問を呈すと、三人が三人「いや、その、何と言うか」などと曖昧に答える。
「先生、お願い出来ますか?」
 流石に痛々しいので、と真琴が重ねて頼んだ事で、ようやく金縛りから解放された入室者が動き出した。真琴の主治医も、具衛を診た滝川二世である。その主治医が、毒気を抜かれたような生返事で出直すのを確かめた真琴は、まだ何処か軽く動揺している由美子に
「私達、ホントに婚約したから」
 また、朗らかに宣言した。
「ええっ!?
 い、いつでございますか、と更に動揺する由美子を、
「あなたが気を利かせて部屋を出た後よ」
 そのために部屋を出たんでしょう、と、あっさり言って退ける真琴である。
「ねえ?」
「ま、まぁ」
 相変わらず上半身裸の具衛に、屈托ない笑顔を向けたかと思うと、
「あ、そうだ。爺婆にもメール送っとこ」
 具衛の前に置かれていたスマートフォンを取り返し、早速突き始めた。
 先月来、度重なる高坂の窮地を救い続けた事で与る筈だった返礼の代わりに、妙な決まり事を押しつけた誰かさんのせいで、実家の両親から安否確認めいたショートメールが送られて来るようになったのは週頭の事である。煩わしくてまだ一度も返信を送った事などなかったが、この際だ。ちゃっちゃと打ち終え送信すると、呆気に取られる具衛を前に、
「もう投げつけるような事はしないから、返して貰うわよ」
 柔らかい笑みを浮かべて袖引き出しの上にそれを置いた。
「あ、あのもしかして、爺婆とは——」
 恐る恐る口を開く具衛に
「爺婆は爺婆よ。もう文句を言わせるつもりもないしね」
 真琴は吹っ切れて、また笑った。

 翌日午前中。
 具衛が病院に迎えに行くと、真琴は予定通り退院した。
「あなたの運転で横に乗るのは久し振りね」
 口数は少ないが、何処となく表情が柔らかい。具衛の運転で高坂宗家に戻ると、そのまま具衛が居候している部屋へ入った。昨年の真琴の誕生日に、具衛が贈ったアングレカムが窓際にあるその部屋は、昨年末から真琴が籠城している部屋だ。
「ベッドを、使わせて貰ってました」
 真琴が病院で、具衛が使っていたベッドをそのまま使っていたように、具衛もそうしていた。とは言え、リネン類は毎日交換されており、真琴の匂いを感じようにも感じられる事はなかったのだが。それでも何となく、同じ物を共有したかったのだ。
「随分とお気に召されたようね。爺婆様に」
 真琴は窓際の椅子に座りながら、アングレカムを嗅いだ。
 真純のお陰で、宗家中に「真琴の婚約者」と言う噂をばらまかれてしまっていた具衛は、真琴より一足早く退院後、既成事実化したその噂に忠実に反応した家政士達に、有無を言わさず真琴の部屋へ押し込められた。それを宗家の当主夫妻も特に咎めなかった、と言う事は、つまり具衛の立場を認めたと言う事だ。明らかに先走った噂である事は理解していた筈だが、
「本当に、あなたは大した詐欺師だわ」
 いくら長年確執を抱える親子間とは言え、こうも野放図に娘が使っている部屋を男に宛てがう筈がない。と言う真琴の見解は、早速その日の夕食でも実証された。
 週末休みの夕食時に、宗家の居間に集まったのは、宗家夫妻と真琴と具衛、真純と千鶴の二組の婚約者カップルに加えて、真琴の実兄である高坂利春(こうさかとしはる)の七名である。
「あーあ。すっかり浮かれちゃってるわ、これは」
 隣に座る真琴から、呆れ気味の呟きが聞こえて来る。
「大体が、うちの実家は素食なんだけど」
 それにしては目の前に居並ぶのは、研ぎ澄まされたような和膳のいくつかである。
 が、それがもたらした静謐は、俄かに始まった会食の一品一品、膳が進むうちに、誰からともなく漏れ始めた声によってじわじわと亀裂が入り始め、酒量が嵩んで来ると物の見事に打ち破られた。
 つまりは、非公式の「顔合わせ」と言う事らしい。
「私は何も聞いてないんだけど」
 真琴が言うところによると、高坂の冠婚葬祭は、古い家らしくそれなりにうるさいそうだ。が、
「こんなに砕けたのは、見た事ないわ」
 然も嬉しそうに呆れたものだった。
 全ては当主夫妻の計らいらしいその志向は、天涯孤独で堅苦しい事が苦手な市井の民である具衛と、実家との確執故、古臭い仕来りを嫌い抜いている真琴に、最大限の配慮をしたものだったそうだ。具衛の離日は来週であるし、真琴のサカマテ社長就任も間近に迫っている。その忙しさに加えて、具衛は家柄と言う観点では余りにも厚みがない。高坂と比べると、何も具衛でなくとも大抵の家柄は、その他大多数の塵芥に過ぎないのだ。そんな諸々の配慮の塊がこの有様、と言う事らしかった。
 真琴の兄利春を具衛が見るのは初めてだったが、父次任に似て大柄で中々強面である。が、その形の割に、
「いやぁ、めでたいめでたい!」
 酒も手伝ってか、気さくに場を盛り上げており、父次任と泣き笑いしては随分な様だった。中々の好漢であり、真琴の暴露話を始めるなど、真琴と小競り合いが絶えなかったが、終始、
「本当に具衛さん、あなたのお陰ですよ」
 この顰めっ面の小難しい般若女が、こんないい顔をするようになるなんて、などと泣き笑いする様は、それなりに周囲を感動させたものだ。
 最も強く印象に残ったのは、
「あんな母を見た事がない」
 と、真琴が呟く程の、美也子の穏やかな表情と、それを気にする真琴の姿だった。仏軍時代、駐仏大使だった美也子との文通で、その善性に触れていた具衛としては、美也子のそれは当たり前だったが、真琴の立場では、何十年もの確執を持つその実娘である。美也子に向ける真琴の目口は、普段はまだまだ皮肉山積で容赦なかったが、この時は何処かしら微笑んでいたものだった。
「ホント、具衛さんのお陰だ」
 真琴の反対隣にいる真純が、具衛に身体を寄せて囁いたが、その場は面々が「良かった」とか「めでたい」とかを連呼するばかり。
 結局そのまま、晩餐は主旨に触れる事なくお開きを迎えてしまい、
「何の会だったのかしら?」
 食後部屋に戻った二人は、顔を突き合わせて笑ったものだった。
 でも、こう言う志向の顔見せは、如何にも私達らしくて
「——良かったわ」
 と、真琴がまた柔らかく笑う。
 ホントに——
 良い顔をするようになったものだ。
「そうですね」
 具衛がぼんやり見惚れていると、真琴がそのまま両腕を具衛の首に巻きつけて来て、そのまま室内のソファーに座らされた。照れてぎこちなく顔を背けた具衛を、真琴が身を乗り出して追いかけて来る。
「ちょ、ちょっと、」
 私、歯を磨いてませんから、と慌てて仰け反った具衛だったが、
「私だって同じよ」
 何言ってるの、と噴き出す真琴に容赦なく唇を奪われた。

 週が明けて、三月も中旬に入った。
 相変わらず高坂宗家で居候中の具衛の離日が、週末に決まった。のだが、特に緊張感なく、相変わらずのんびりしている。殆ど身一つで生きているのだ。神経を使うのはパスポートぐらいのもので、後は公の手続きと、携帯電話と銀行口座の解約準備、
 ——ぐらいだし。
 まるで他人事のような日々を送っていた。
 それよりも、高坂宗家での居候の方が肩が凝って仕方がなかった。いくら様々な所を転々と移り住んで来た身とは言え、ここは家柄の格式が違い過ぎる。何気なく肩を揉んだり叩いたり、首を回したりしていると、四六時中離れようとしない真琴が小さく噴いて
「肩、揉んであげよっか?」
 などと言っては、身重の身体であるにも関わらず、何度となく肩を揉んでくれた。
「お、怒られますから」
 普通はどう考えても逆だ、と恐縮するのだが、
「私がしたくてやってるんだからいいの」
 真琴は柔らかい印象を帯びるようになった一方で、毅然気丈たる振舞は相変わらずだ。
 こんな調子で何事もなければ、万事真琴のペースで事が運ぶ二人の時間も、もうしばらくすると一旦終了とあって、寸暇を惜しむように二人は一緒だった。
 高千穂事件の事もあり、邸内から出ようとしない二人は、春めいて来た庭を飽きもせず何時間も散歩したり、座って休んだりした。周囲もすっかり二人の間柄を認知しているため、立ち位置がはっきりした分、二人は全く躊躇しなくなった。
 そんな惚気た日々を過ごしながらも、具衛の離日が迫る一方で、真琴の方も慌ただしく事が動き始めている。予後も全く問題ないため、サカマテの社長就任は三月下旬の連休明けに決まり、既に一〇日を切っていた。それに合わせて専属家政士である由美子他、周囲は慌ただしくなっているのだが、当の真琴本人は、具衛同様実にのんびりとしたものだ。
「だって、あくまでも代役だから」
 本格的に腰を据えるつもりはないため、荷物は少ないらしい。
「それよりも、あなたの事よ」
 真琴はとにかく、離日が迫ってものんびりしている具衛を気にしているようだった。
 確かに具衛は、本好きである事を知った次任の配慮で、宗家の書斎立ち入りを許された事を良い事に、真琴の散歩につき合う以外は書斎をうろついている。で、手当たり次第に読み漁っては、相変わらずの読書三昧をこんな所でも堪能しているのだった。挙句の果てには、真琴を巻き込んで書斎に入り浸る始末で、肩どころか身体が固まって強張る有様だ。それには流石に呆れた真琴が、
「身動ぎもせずに読んでるからよ!?
 ハシビロコウか、などと容赦なかった。
 ここ数日は、そんな真琴の突っ込みが当たり前の日常だったが、後何日かするとそれもしばらくお預けだ。
「山小屋の片づけはどうするのよ?」
「半日もあれば十分です」
 元々自分の物は殆どなく、掃除は行き届いている。半日どころか二、三時間もあれば十分だ。それで、離日する前日に戻る事にした。武智にも「気を遣うな」と言われている。具衛の几帳面さを知っている、親代わりの武智故だ。
 で、掃除終了後は、鍵の返納がてら武智邸に赴き、そのまま泊めて貰う事になっていた。
「じゃあ日本を離れる前の日が、うちを発つ日って事ね」
「それよりも、真琴さんこそ広島の仮住まいは大丈夫なんですか?」
 具衛にしてみれば、その方が心配だった。具衛は身一つの「男」なのだ。何とでもなる。が、真琴は身重の「女」なのだ。何とでも、と言う訳には行かないだろう。広島のマンションは既に売却している事でもある。
 しかし真琴は真琴で、
「大丈夫よ」
 と、余裕たっぷりだった。それどころか、
「私もあなたにくっついて、武智さんのお宅に挨拶に伺うから」
 などと、こちらも中々周囲を拗らせている。
「しかし——」
 そんな事をやっていても良いのか。そう言いかけた具衛に、
「うちを出た後、午前中だけ私とつき合ってくれない?」
 真琴は被せて、更につけ加えた。
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