桜は花開く

文字数 5,803文字

開  桜 000 000|0

裾花清流 000 000|0

 最終回、7回表の開桜の攻撃。

 ワンナウト1、3塁という重大な局面を迎えている。

 バッターは代打の左打者、本郷。

 カウントは2ボール1ストライク。

 ここで緋田恵が投手交代を宣言した。

(帰りたい……)

 漆原優は重たい足でマウンドへ向かった。

 どうあがいても投げるしかないのだ。

 マウンドでは、落ち込んだ表情の鈴が待っていた。

優先輩、ごめんなさい……。
しょうがないよ。あとはなんとかやってみる。
お願いします……。

 鈴は優にボールを託してマウンドを降りた。

 ベンチに戻っていく鈴に、裾花清流のスタンドから拍手が送られる。温かい拍手が、かえって鈴にはつらいものに感じられた。

お疲れさま。
迷惑かけちゃった……。
そんなことないわ。鈴ちゃんはよく投げた。自信持って。
でも、これで点を取られちゃったら……。
大丈夫よ。優ちゃんを信じましょ。
 ピッチャーに入った優の代わりに、ライトは松原雅がついた。
ふーん、あの子ピッチャーできたんだ。
このカウントで左に左をぶつけてくるのか。あの監督もけっこう大胆な采配するね。

 投球練習が終わり、プレイがかかった。

 すでに2ボール。二つ外せば満塁になってしまう。

(外から入ろう)
(ういっす)

 優はクイックでストレートを投げ込んだ。

 アウトコースに大きく外れてスリーボールになる。

 満塁になる可能性が出てきて、観客がいっそうざわつく。

 開桜の応援団もすさまじい勢いで声援を送っている。

(次も外……なんとか入れてよ……)

 悠子は祈るような気持ちでサインを送った。

 優は外いっぱいを狙って投げるが、低めに完全に外れてしまった。

ボールフォア!
よっしゃ、満塁だ!
すみません、もう一回タイムください。

 主審がタイムをかけた。

 内野陣がマウンドに集合する。

今すぐマウンド譲りたいっす……。
どうしたんだ……いつも1イニングだけなら完璧に投げられるのに。
こんな状況で回ってくるとか思ってなかったんで……。
って言ってもミオっちも鈴ちゃんも降りちゃったし……。
あの。
夕日、どうしたの?
ここはもう開き直ってど真ん中勝負でいきませんか。相手は8番だし、満塁だから打ち損なえばゲッツーでチェンジですよ。
おお、言うねえ夕日ちゃん。それも一理あるよ。
わたしも、コース狙いすぎて押し出しになっちゃうよりはその方がいいと思います。
確かにな。バッテリーはどう思う?
まあ、打たれて点取られた方が後悔はないよね。押し出しは絶対いつまでも残るし。
――と、あたしらはこんな意見だけど優は?
みんながそれでいいって言うなら、とにかくストライクだけ取りにいきます。
決まりだね。みんな、転がったらなにがなんでもゲッツー取ろうぜ。
任せてください!
頑張りましょう!
よーし、0点で抑えよー!

 みんなで「おー!」と声を合わせた。

 守備陣が散っていき、優と悠子だけが残った。

あれだけ頼もしいバックがついてるんだから、なんにも怖がることないよ?
怖いっすよ……。
……もしかして、周りに何か言われることが?
 優はこくっと頷いた。
ここで負けたらあの親父、絶対「礼の夏を終わらせやがって」とか言ってきます……。
打たれたらそれは相手が上手かったってことにしておけばいいんだよ。もし礼がお父さんに何も言えないっていうなら、私ら全員で抗議してやる。
悠子先輩……。
でも、まずは投げてみなきゃわからないからね。思いっきりミット開いて構えるから、全力で投げてきて。
はい……。
 悠子は走ってホームへ戻った。マスクをかぶってしゃがむ。
(優があそこまでナーバスになるなんて……。これも夏の怖さか……)
開桜高校、選手の交代をお知らせします。8番、矢口さんに代わりまして、ピンチヒッター、倉橋さん。
(すごいところで回ってきちゃったな……)
(今度は右の代打……)

 悠子は、代打倉橋の様子をうかがった。

 線はシャープだが、素振りの様子から長打が打てるバッターだと予測した。

 スクイズはせず、打ってくる。そんな気がした。

 だが万が一ということもある。

 ファーストの夕日とサードの美晴はやや前寄りに守る。

(よし、ストレートこい!)
(開き直って……)
 優は全力のストレートを投げ込んだ。――が、高めに外れてボール。
(打たせれば、あとはみんなが守ってくれる……)
 そう自分に言い聞かせて2球目を投げるが、またも高い。2ボールになって客席が大きくざわめく。
(優……)

 礼には祈ることしかできない。


 優はプレートから離れ、ロージンバッグに触れた。センター方向を向いて天を仰ぐ。

(おかしいよ……こんなの私じゃないって。ど真ん中なんて超絶楽なコースじゃん。なんで入らないんだよ……)

 まだ4球しか投げていないのに呼吸が上がる。

 足がカクカクと、小刻みに震えている。

 自分の体じゃないかのようだった。

(どうすればいいんだ……)
(……待てよ。この状況だし、ストレートだと無意識に力で抑えようとしちゃうんじゃないか? それが余計な力みにつながって……)

 悠子は、ここまでのサインがすべてストレートなのを思い返した。

 ――試してみる価値はある。

(外にスライダー)
(あれ……まっすぐ勝負だったんじゃ……)

 悠子がミットを叩いて「さあ来い!」と声をかけてきた。

 いいから投げてこいという意志を、優は感じた。

(やるしかないんだよな……)

 優は大きく息を吐き、スライダーを投げた。

 やや真ん中寄りだったが、低めいっぱいに決まった。

ストライーク!
やっと入った……。
(優の場合、こっちの方が適度に力が抜けていいのかもしれないな)

 ストライクが取れたことで、優の気分は若干だが楽になった。

 2球目もスライダーだ。

 外角やや高めだったが、倉橋が見送った。

ストライクツー!
(立ち直ってきてる……)
押し出しは無理だな。打つしかないよ、クーちゃん。
頼むぞ……。
(最後もスライダーでいこう!)
(頼れるのはこいつだけだ……)

 優はセットポジションを取る。

 ふう、と息を吐き出す。

 それから足を上げた。

 外角にスライダー。

 ――真ん中に寄った。

(甘すぎる――)

 倉橋がスイングした。

 快音。

 打球が優の左足の横を抜けた。

 優は振り返った。

 桜が追いつきそうだが捕りづらいバウンドだ。

(あれじゃ捕っても――)

 打球が跳ね、回り込んだ桜の顔めがけて飛んだ。

 桜は後方に倒れながら捕った。

 ――そして、倒れきる直前、ほぼ仰向けの状態からセカンドへ送球した。

 山なりのボールを奈緒がキャッチ、セカンドフォースアウト。

 奈緒は全力でファーストへ送球する。

 矢のような球が夕日のミットを鳴らしたのと、バッター倉橋が駆け抜けたのはほとんど同じタイミングだった。

(どっちだ……?)
 1塁塁審が一歩前に踏み込み、全身を使ったジェスチャーで右手を振った。
アウト――!
やった! 守り切ったぞ優!
優ちゃんやったね!
チェン、ジ……?
そうだよ! 0で抑えたんだよ!
よかった……。
 座り込みそうになった優を美晴が支える。そこに、もう一つの手が加わった。
優、ありがとう。よく投げてくれたわ。
姉貴……。
あなた、泣いてるの……?
だって……だってぇ……。
ああもう、よしよし。よく頑張ったわ。
 礼と美晴に支えられ、優はベンチに戻っていった。
やれやれだな。
さすがに終わったかと思ったぜ~。
つーかお前、すごすぎだろ。倒れながら捕って投げるってプロかよ。
いや~、もう全部本能でやってたよね。自分でもわけわかんなかったもん。奈緒ちゃん、マジでナイスフォロー。
ま、お前がアクロバティックなことやらかすのには慣れてるしな。とりあえず戻ろうぜ。
 遅れてベンチに戻った桜と奈緒を、全員が笑顔で出迎えた。スタンドは割れんばかりの拍手喝采だ。
先輩たち、本当にありがとうございました!
よかったねぇ、負け投手にならなくて。
そういう言い方はやめとけ。
いやー、二人とも本当にありがと。有言実行、かっこいいよ。
でしょ? やっと三振の分を取り返したわ~。
それどころかお釣りが返ってくるくらいよ。すごいファインプレーだったわね。
桜、奈緒、優を助けてくれてありがとうね。
ありがとうございました……。
そんなかしこまらなくていいって。それよりサヨナラ決めようぜ!
そうね。やってやりましょう。

 選手たちが円陣を組んで声を出す。

 それを、緋田恵は見つめていた。

(こういう時は、無理に入らない方がよさそうね……)
 一方、大チャンスを大ファインプレーで潰された開桜は意気消沈気味だった。
(こうなったら延長に持ち込んで決めるしかない……)
(あんなゲッツー食らうなんて想像もしなかった……)
7回のウラ、裾花清流高校の攻撃は、8番、ライト、松原さん。
っしゃー! 行ってきます!
おい、ああいうチャンスつぶされたあとのピッチャーは失投しやすいぞ。甘い球は逃すなよ。
了解です!

 先頭打者、雅が左バッターボックスに立った。

 雅はさほど緊張していなかった。

 もともと緊張感には強いタイプだ。初めての練習試合でいきなり打席に立たされても平然とヒットを打っている強心臓の持ち主。

 それは、この場面でも変わらなかった。

(このバッターは今日初打席か)

 川船美咲が初球を投げる。

 外角低めを狙ったボールが、少し高くなった。

 攻撃時の落胆が、美咲のメンタルにわずかだが影響を及ぼしていた。

 それを、雅が逃さず振っていく。

 逆らわない流し打ちで三遊間を破るレフト前ヒット。

マジか……。
(奈緒先輩の言う通りだったな。ちょい甘かった)
雅ちゃんすごい……。誰が相手でも打っちゃうね。
頼もしい1年生ね。
(この回で決めましょう)
(よーし)

 9番の奈緒に回った。

 8、9、1番と左バッターが三人つながっていて、右投手に対してはやや有利。ここが勝負どころなのは間違いない。


 美咲がスライダーを投げてきたが、奈緒は変化をよく見極めて送りバントした。打球は1塁方向に転がる。ファーストの草壁真尋が出てきて処理。1塁をアウトにしてワンナウト2塁と状況が変化した。

(あとは任せたぞ)
1番、セカンド、一ノ瀬さん。
ここで回ってきたか~。
(ファインプレーした奴か。嫌なバッターに回ったな)

 開桜がタイムを取り、内野陣が集まった。

 彼女らが話し合っている間に、桜はいったんベンチへ引き返す。

まだインコース使ってきますかね?
制球力は落ちていないので充分考えられますね。
あたしがバントしたのも内角低めのスライダーだったぞ。
するとここ一番で使ってくるかなぁ。

 開桜のタイムが終わった。

 桜はバッターボックスへ歩いていく。

(敬遠はなし、と)

 ランナー1、2塁にして水崎美晴と勝負する手もあったが、ゲッツーが取れなければサヨナラのランナーを得点圏に置いて好打者の漆原礼と勝負することになる。

 敬遠して結局負けたとなれば後悔は計り知れないものになるだろう。

 だったら、勝負したい。

 一ノ瀬桜からは三振も二つ奪っている。

 勝算はあった。

お願いします!
(アウトコースからね)
 最初は外いっぱいのストレートだった。正確に決まってストライク。
(球威も落ちてないな~。ホントすごいピッチャーだわ)

 2球目も外角低めのストレート。

 スイングするが空振り。

 ツーストライクになった。

(くそ! 当たらん!)
ああ、追い込まれちゃった……。
どうもストレートに合わせきれないみたいね。
…………。
桜せんぱーい!! 絶対打ってくださーい!!
(優ちゃん……?)

 ベンチのみんなも驚いた顔をしていた。

 優がこんな大声を出すところを、誰も見たことがなかったのだ。

桜先輩なら打てる! 決められますよ!
(やっぱり、次のマウンドに上がるのが怖いのね……)
…………。
いいとも。絶対に決めてやろうじゃないの。
 桜は構えた。
(勝負するか、1球外すか……)
(遊び球はない! 間違いなく勝負に来る!)
(ここだ!)
(よしっ!)

 美咲の足が上がった。

 右腕から放たれる渾身の1球。

 桜が踏み込み――

(――当たり!!!)

 バットが音を響かせた。

 強く転がった打球が1、2塁間を破る。

抜けた!!
回せ回せ!!

 言われるまでもなく3塁コーチャーの皐月が全力で右腕を回している。

 雅がサードベースを蹴って一気にホームへ突っ込む。

バックホーム――――ッ!!
(間に合って――!)

 ライト太刀川雪乃から好返球が送られてくる。

 浅上桐子が構えた位置へボールが一直線。

(届くッ!!!)
 ――しかし、捕球よりほんの一瞬早く、雅がヘッドスライディングしていた。伸ばした左手がホームベースの角に触れる。直後、桐子のミットが雅をタッチ。すべてを主審がしっかりと見極めていた。
セ――――フ!!!
 球場は大歓声に包まれた。
よっしゃあああああああッ!!
勝った! 勝ったぞ!
やったわ……!
 青葉が優に抱きついた。
優さんサヨナラですよ! 優さんが勝ち投手ですよ! 笑顔見せてくださいな~!
あ、青葉ちゃん痛いって……。
よかった……。
全員で勝ち取ったベスト8ね。
…………。
美咲……。
あーあ、負けちゃった! いい勝負だったのにね!
美咲先輩、ごめんなさい……。
なに言ってんの、みんな頑張ったよ! 胸張って整列しよ!
 笑いかける美咲だったけれど、涙は隠しきれなかった。大げさにごしごしとこすって、上を向いた。
全力は出し切ったよ……。

 両チームが整列し、挨拶と握手が交わされる。

 緊迫した好ゲームに、客席からはスタンディングオベーションが巻き起こる。

 拍手はなかなか鳴り止まず、終わるまで裾花清流の校歌は流れなかった。

 ホームに横一列に並んだ裾花清流のメンバーは、晴れ晴れした表情をしている。

 両チーム通じて唯一ホームに返ってきた雅は、感極まって大泣きしていた。

桜、最後のボールなんだったの?
内角低めのストレート。スライダーがずっと頭にあったんだけどさ、今日のあたしってまっすぐに全然合ってなかったじゃん? だから三つ続けてくるって思って他の球は全部捨ててた。
よく捉えたわね。
不動の1番だもん、ここってところで打てなかったらおしまいじゃん?
あなたのおかげであの二人も救われたわ。
優先輩、泣かないで……。
よかったぁ……よかったよぉ……。
うん、よかったよかった。開桜との桜対決にも勝てて最高ですわ。
本当にありがとうね、一ノ瀬桜さん。
どういたしましてー!
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登場人物紹介

朝山 鈴(あさやま りん)

裾花清流高校1年生。右投げ右打ち。ピッチャー。

サイドスローの投手。しなやかな肩と肘を使った柔軟な投球を得意とする。中学時代は味方の守備に足を引っ張られ、試合に勝つことができなかった。

外浦 朝陽(とのうら あさひ)

裾花清流高校1年生。右投げ右打ち。キャッチャー。

中学時代に鈴とバッテリーを組んでいて、朝山と朝陽でサンライズ・バッテリーと呼ばれていた。

結城 まこ(ゆうき まこ)

裾花清流高校1年生。右投げ左打ち。セカンド。

ピッチャーのモーションを読み取り、持ち前の俊足で盗塁を確実に決める。だいたいテンションが高い。

広野 皐月(ひろの さつき)

裾花清流高校1年生。右投げ左打ち。ショート。

打撃、守備ともに堅実なプレーを重視している。控えめであまり目立ちたがらないタイプ。

高池 凪(たかいけ なぎ)

裾花清流高校1年生。右投げ右打ち。サード。

中学最後の大会で左腕を負傷し、まだ回復しきっていない。

松原 雅(まつばら みやび)

裾花清流高校1年生。右投げ左打ち。

バットコントロール能力が高くボール球でもヒットにできる技巧派。外野ならどこでも守れる。

漆原 礼(うるしばら れい)

裾花清流高校3年生。左投げ左打ち。レフト。

野球部キャプテン。身体能力が高くセンス抜群。クールな振る舞いから、校内では男女問わず隠れファンが多い。

新海 澪(しんかい みお)

裾花清流高校3年生。右投げ右打ち。ピッチャー。

チームのエース。速球と緩いボールを使い分ける本格派右腕ながら、肩の調子に不安を抱えている。

岩見 悠子(いわみ ゆうこ)

裾花清流高校3年生。右投げ右打ち。キャッチャー。

正捕手で長距離バッターでもある。相手の様子を見ながら配球を決め、野手に守備位置の指示を出すチーム随一の頭脳派。

一ノ瀬 桜(いちのせ さくら)

裾花清流高校3年生。右投げ左打ち。セカンド。

俊足巧打、広い守備範囲を持つ攻守の要。ハイテンションで味方を盛り上げたりからかったり忙しい。

天城 奈緒(あまぎ なお)

裾花清流高校3年生。右投げ左打ち。ショート。

広大な守備範囲を持ち、一ノ瀬桜とのコンビで鉄壁の二遊間を構築している。出塁率も高い。

神村 青葉(かみむら あおば)

裾花清流高校2年生。右投げ右打ち。センター。

2年生ながら4番を任されている。商店街のアイドル的扱いを受けているのでおっさん達が試合の応援に駆けつけてくる。

赤羽 夕日(あかばね ゆうひ)

裾花清流高校2年生。右投げ右打ち。ファースト。

当たればでかいロマン砲。一方、守備は堅実で難しいバウンドもきっちり処理する。

漆原 優(うるしばら ゆう)

裾花清流高校2年生。左投げ左打ち。ライト。

キャプテン漆原礼の妹。やる気の波が激しく、いつもはぐだっとしているが試合では頭脳をフル回転させてプレーする。

水崎 美晴(みずさき みはる)

裾花清流高校2年生。右投げ右打ち。サード。

バント職人。小柄だが強肩を持ち、深い位置からでもアウトが取れる。

緋田 恵(ひだ めぐみ)27歳

裾花清流高校野球部監督。

最初に赴任した高校を県ベスト4まで連れていくなど指導力の高さを評価されている。裾花清流高校は赴任2校目で2年目。

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