第1

文字数 1,949文字

「姐さん、そこ座んな」
 言われるがまま茶店の縁台に腰を下ろし、卯乃ははたと我にかえった。
 見ず知らずの男は店の親仁に冷や水を二つ注文すると、無造作に腰掛をまたいで後ろ隣りに座りこむ。
 葦簀掛けの店の先には、初夏の日差しを浴びて賑わう浅草橋界隈が広がっていた。威勢のよい棒手振りに巧みに棹を操る水夫(かこ)たち、着物をはだけて荷を舁く人足衆。誰も余所事に構う暇もないが、それでも物見高いは人の常。男女がひとつ縁台に並んで腰かけていれば、どんな仲かと勘ぐられても文句は言えない。
 それを知ってか往来に背を向けて座る男に意表を突かれ、卯乃は肩越しに相手の風体をうかがい見た。思っていたよりも若い横顔に思わず二度見する。
「茶飲み話がしたいなら、吉原の昼見世でも冷やかしてきたらどうです。兄さん」年甲斐もなく蓮っ葉な口をたたきながら、卯乃は右の手首にからみつく火照りを袖口に隠した。橋の上で男に手荒く腕をつかまれたことを思い出して、思わず顔まで熱くなる。「さ、櫛を返してくださいな」
 騒がれたくなければ取った物を返せと言外に匂わせる。それを柳に風と受け流し、得体の知れない男は朱塗りの櫛を目の高さにかざした。
「なにも川に捨てなくたってよさそうなもんだ」
 独り言めいた呟きに、卯乃は背筋を強張らせた。
 押し黙る卯乃と男の間に冷や水の椀が運ばれてくる。気まずさに耐えかねて名を尋ねると、男は依市(よいち)と名乗った。神田横山町の損料屋(そんりょうや)だという。衣類や布団などの生活道具を客の必要に応じて貸し出し、その賃料を得る商いだ。
 櫛を眺めていた切れ長の目がすっと空気を薙いで卯乃をとらえた。。
「道具が悪さをするわけじゃなし。物に当たるのは筋が違やしませんか」
「なにを言うかと思えば。たかが櫛一つにお節介なお人だこと」
「そのたかが櫛一つに、あんたまるで鬼の首でもかっ切りそうな勢いでしたよ」
 口幅ったい言葉をさらりと言ってのけて、依市は冷や水を卯乃に勧めた。
 仕方なく茶碗をとって口に含むと、水は冷たいというほどもなく、昂った気持ちに静かに滲みる。  
 疲れた、と卯乃は目を閉じた。掴みどころのない相手に虚勢を張り続けるのももう億劫だった。半ば投げやりに「見逃してくださいな」と頭を下げかけた時、
「気まずい経緯があるなら、この櫛をうちで引き取ってもいいですよ」
 思わぬ提案に卯乃の息が止まる。
「だめよ、返して。それは……」捨ててしまおうと、確かに思った。
 蔵前の豪商と呼ばれる家に嫁ぎ、何事も夫と婚家に一髄に仕えてきた。だが、待望の跡取り息子を産んだのも束の間、子は卯乃の乳房を含むことなく身罷った。医者にも生来子供のできにくい体質と告げられていた。絶望と負い目に生きながら朽ちていく日々。何があっても共白髪まで添い遂げようと笑ってくれる夫がいなければ耐えられなかっただろう。その言葉を拠りどころに十年、生きてきたのだ。それなのに。
「それはあたしの物じゃない。亭主がよその女に産ませた子供の為に買ってきたのよ」
 居間の手文庫の中にそっと隠されていた小さな赤い櫛。七つの女の子の髪あげの祝い。子供の物ながら品の良い、高値(こうじき)な品だ。子供好きの夫が嬉しそうに櫛を求める姿がまざまざと目に浮かぶ。
 卯乃の知らないところにある幸せな親子のかたち。心の堰が音もなく切れた。
 捨ててしまわなければ。これはある筈のない物。あってはならない物。
 濁った水が体の内から溢れ出し、卯乃を押し流す。ほとばしる勢いのまま家を飛び出し――浅草橋の上で、見知らぬ男の手に心を引き戻された。
「……馬鹿だ、あたし。櫛を捨てたって何にもなりゃしないのに」
 尽くしても身を削っても、拭えない後ろめたさに絡めとられて。いつしか夫の心さえ見えなくなって。
 小さな櫛は、何かを躊躇うように、けれど卯乃に見つかることを見越して仕舞われていた。櫛の存在を打ち明ける言葉を、夫は何度、卯乃のために呑みこんだのだろう。
「だからあの時、ほんとは……」櫛もろとも己も捨てちまいたかった。やるせない思いが胸の暗がりから浮かびあがる。
「何かを捨てるってのは、そりゃあ後ろめたいもんさ」
 低く陰る声音に、卯乃は自分と同じ後悔をかすかに感じた。
 そのまましばらく思案気に眉を寄せていた依市が、不意に肩を揺らした。口の端をひょいと上げる。
「この櫛を捨てても持って帰っても、あんたの気は晴れないだろう。じゃあいっそ、亭主に言ってやりな」
『あんな櫛は捨てた。あんたの子は私の子だ。だから一緒に、もっと良い櫛を見立てに行こう』
 亭主の死ぬほど驚いた顔が見られるぜと依市は請け合う。卯乃は目を丸くし、それからふき出しそうになる口元を袂で隠した。
「それは女冥利に尽きる口上だね」
 涼しい川風が真昼の町を吹き抜けていった。
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