第13話 徳吉の二百年前の古民家

文字数 1,468文字

一週間後、秋月街道の徳吉にある崎田さんの御宅へ、手土産を持って、約束した朝十時に着いた。居間に上がると、コーヒ―が出てきた。心優しい奥さんである。親父さんは小柄で、少し偉そうだが、奥さんには気遣いの様子が窺えた。昔気質の夫唱婦随のスタイルなのだろうか。
 色々なお話を伺った。長行(おさゆき)校区の古川の町内会長をされている。長行市民センター二十周年記念誌が、三月に発行されており、数部持っているということで、一冊頂戴した。
記念誌の中の史跡マップに、秋月街道が紫川の東岸に表示されている。小倉から南下してくる秋月街道は、紫川に突き当る。現在、桜橋が掛っているが、昔は存在しなかった。三叉路を左折し、東に進み、数キロ先の加用橋の付近で、川の浅い川底を、西岸に渡っていた。そして呼野宿の方へ進んで行った。
 徳吉という所は、山添いに、大昔から村落を形成していた。古代道の両側に古い家々に人々が住んでいる。私は最初、此処が徳力宿と、信じ込んでいた。よく住所標識を見ると徳吉となっている。徳力は隣の地区だった。
 徳吉の崎田さんは、村の端に、広い敷地を持ち、後の山も所有されている。古川城趾といわれた遺跡の石垣があるのを、前回訪れたとき確認した。歴史に興味がある私に、崎田さんは小倉郷土史会昭和四十年出版の小倉区西谷の歴史の本を貸てくれた。三岳城があり十四世紀より長野氏が治めていた。一五六九年、毛利勢に攻められ廃絶した。紫川の東側を、古川とか西谷とか称していた。江戸時代より前からの、古い歴史を持つ地区である。
 本には、藩政時代の西谷村の、農家の生産力を町・反・畝・歩の面積で表示し、米の収穫高を石・斗・升・合・勺の容積数で、記載されてある。村方頭と庄屋が、藩へ報告する資料なども載っていた。江戸時代の税の仕組みを知るには、貴重な資料本である。
 崎田さんの住んでいる古民家は、二百年前に建築された貴重な物で、堂々たる構えである。茅葺きの屋根だが、現在は赤トタンで覆われ、屋根の上に飾り屋根が乗せてある。
 「家は高祖父の還暦祝いに建築したもの。また、何か偉いことをしたのでしょう、庭に生前碑が残っています」と言い、四国四十八ヵ所のお堂を設立し、百名以上の連判状が保存されており、広げて見せてくれた。個人の連判状の現物を初めて見た。朱肉で押した印鑑が、毛筆の名前の下に鮮やかに並んでいる。
崎田さんの興味深い話が続く「母親が病弱で、竃の火を見詰めることが多かった。ある日突然、『山の中のお地蔵さんが、雨の当たらぬ所へ置いておくれと、訴えている』と言う。確かに、持ち山には地蔵さんがあった。父が裏山へ小さな安置所を作り、水や花や線香をあげた。「お地蔵さんが盛んに礼をする」と竃の炎を見ながら母は言う。病弱だった母親が、段々元気になってきた。
 「私が子供の頃、腹痛と高熱が出て、床に伏せた。竃の炎は、『してはならぬ所で、小便をしたな。其処へ行き、謝り、塩を置いてこい』と、お告げがあったと母は言う。その通りにすると、私の具合は忽ち良くなった」と体験を語る。「狐憑きの人が、取り除いて」と頼みに来る。母は竃の火で地蔵さんのお告げを伝える。その通りにすると、狐がいなくなった。「母は数々の悩みを、竃のお地蔵さんのお告げで、人助けをした」、と崎田さんは思い出を語った。
 昼頃になり、奥様が、ぜんざいを出してくれた。「正月に餅を六キロつき、親戚や近所に配った」という。昼ごはん代わりに一緒に美味しく頂いた。夫妻は、面倒見の良い人で、地域では人望のあるお人柄のようだ。
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