BLOCK10:ハッシュ関数は霧箱の夢を見るか

文字数 11,084文字

「悲劇ってこういうことをいうのね」
 内閣調査庁、グレーのタイトスカート姿の鳴門の上司・氷室調査官はため息をついた。
 新淡路市、官庁街区、内閣調査庁庁舎。その高層建築の窓すらない黒い外壁はあらゆる傍受を遮断するための特殊素材の壁で、それゆえにその外観は漆黒のモノリスを思わせ、そのとおり『新淡路モノリス』という異名を持っている。ただその外観が要素として決定した時にそのままでは異様だと言うので赤いイルミネーションでデジタル標示の時計を表示する時計塔機能を付与されている。それがまたいかにもモノリスのようで不気味な存在感をはなっているが、それもまた新淡路市の華やかな未来都市の風景の一部になっている。防衛・安全保障合同庁舎の帆船のような意匠の建物とともに22世紀現代建築は凝った意匠が経済的に実現できるため、官庁街も華やかである。そのなかで唯一意匠がほとんど施されていない無愛想なのは財務省・歳入庁合同庁舎だけである。彼らがそういう庁舎を選んだのは、少しでもそれを使うとあらぬ疑義をかけられ職務に響くためである。それはかつての東京に財務省大蔵省があった時代からの彼らのポリシーである。陰気でジメッとしたその旧庁舎のあまりのみすぼらしさから『エリートの財務官僚はきっと実際にはそこで執務せずホテルを借りて執務している』などという俗説が流れたが、彼らはそれすらもしていなかった。彼らの執務風景は質素そのものであり、彼らと議論を交える予算請求側に与えられる椅子もパイプ椅子であった。その執務風景に彼ら官僚は美学すら感じていた。本当の彼らの公僕としての仕事はそうあるべきだと。
 そのオペレーションルーム。外界は外部監視カメラから作られる現実で表示されている。
「東京旧首都圏の対消滅弾頭攻撃。それでネットワークへのスピリットバックアップを多くの人間が行っていて、義体さえ用意できれば復旧できるとはいえ、それでも失われたものは多い。情報世界は物理世界の代替でしかないですからね」
 外を見る。VTOLやエアバイクの空中車列がせわしなくすぎていくのが代替現実で表示されている。
「犯罪国家との『和解』を喜んでしまい、その核保有を認めた次は核の限定使用を認める羽目になり、その結果限定的核戦争が勃発してしまった。ミサイル防衛も弾道ミサイルの限定的な攻撃に対抗できるだけなのにそれを信じてしまって、そのあげく限定的核戦争で100万単位の人間が死んでしまった。それでマヒしてしまって対消滅弾頭も開発して、しかもそれを都市攻撃に使ってしまった。人間はどこまで愚かなのかしら」
「むなしくなりますよね。その犯罪国家との和解を人々は喜んだ。これで戦争が終わる、と。しかし少しも終わってなかった。そもそもその和解に何の根拠もなければ和解した双方に和解をする資格もない。拉致された人々もそのまま、贋金づくりやハッキング、マネーロンダリングに武器取引、他国内での要人暗殺といった犯罪行為も国家主権でやったことだから手出しできない。その指導者を追い出し体制を変えて犯罪を清算するのも武力衝突が嫌だからと及び腰、しかもその隣国の大統領の『和解の立役者』という名誉欲のために『核を放棄する』という言葉だけですべて不問にしてしまった。その国ですら『不可逆に解決した』と外交問題を解決したはずなのにすぐに反故にしてるのに、『核放棄』という口約束を信頼した。その代償は当然高くついた。なんでも思いつきで決める米大統領がさらにその被害を拡大した。でも結局はすでに日本も経済が行き詰まっていたし、世界的にも対テロ戦争で行き詰まっていたから、限定的核大戦は結局不可避だったんでしょう。でも限定的といっても核戦争は核戦争です。犠牲になった人々はたまったものではない。でも彼ら犠牲者は声を上げることができない。生き残った人々は『国破れて山河あり』と生存バイアスで言ってまた廃墟から始めたんです。経済の発展と、見たくないものを無視し存在しないことにして、できれば見たくない暗部やその犠牲者は目に見えないところで処理されてほしい。人間の命さえもその例外ではない。結局『不運だった』『お気の毒』。それだけで済ませて自分さえよければ問題ない。自分の周りさえよければ。そして自分さえよければ『人権』や『平等』『生命尊重』を言う。実際見殺しと棄民を肯定しているのに。人間なんてそんなもんです。むなしくなるけど、所詮人間なんてそんな存在です。そして女性の社会進出もオートメーションも国際化も高齢者のアシスト技術による社会復帰への投資も全ていやがって、福祉を削り、人件費を削ると言いながら実際は不払いをし続けたかつてのわが国。あの高齢化の中で国際社会での居場所さえ失ってその後どれだけの苦難に遭ったのか、それすらももう忘れている」
「……鳴門君も鬱積してたのね」
 一気に話した鳴門に氷室はため息まじりに言った。
「そりゃしますよ。歴史に学ばないにもほどがあります。ここまでさんざん我々が警告していたのにアメイジンへの家宅捜索も内偵も限定的に済ませろとか。実際アメイジンで働いている現場の人たちも、とてもかわいそうですよ。アメイジンにもまともな理想があったはずなんです。少なくとも私はそれを覚えています。でもそれが今や国家を脅かすことで利益を最大化する狂気の経済複合体になってしまった。現場のアメイジンのクルーの気持ちを思うと胸が潰れそうです。彼らは顧客と言いながら一般市民のために日夜働いている。理想も夢も、働く喜びもそこにある。それなのにその組織が全体ではこんなことになるなんて」
「旧首都圏の復旧にも時間がどれだけかかるかわからないわ。でもこの捜査段階でアメイジンの関与が明らかになりつつある。アメイジン・アジアフルフィルメント事業部への家宅捜索もようやく認められそう。それにその家宅捜索のための情報はシファたちが急襲したヨットで押収したストレージで明らかになりつつあるわ。アメイジンの組織内でなにが起きてこうなっているかの全容解明まであと少しよ」
「そうだと願っています。現実にはアメイジンの職場で働く多くの人々は立場が弱い障害者や高齢者も多い。アメイジンを潰したら彼らに代わりの職はおそらく見つからないでしょう。障害者雇用と言いながら、現実には内部障害や心の障害の一部は未だに偏見をもたれている。そしてそういった人々の人権と雇用者の『契約の自由』という人権がぶつかり合い、大概は契約の自由が勝ってしまう。しかもそれを防ぐ方法を22世紀になっても未だに人類は見つけていない。ベーシックインカムもないよりはマシなのに未だになくせというものもいる。いつそれを受けなくてはならなくなるかの自分の運命に対する想像力も無い。だから建部警部や羽佐間副センター長の例がよい例、成功例としていまだに話になってしまう。あれが当たり前になっていないのはおかしい。22世紀になっても。そして人類はまた対消滅弾頭すら使ってしまった。見せかけの平和にとびつき、実際に始まっている戦争を認めず、しかもその戦争に負けていっているのにそれを少しでもダメージコントロールして犠牲者を減らそうとしている人に唾を吐きかけてもなんとも思わない。むしろそれが民主主義の自由と勘違いしていた」
「まったく人間に絶望したくなるわね。結局、私たちがどれだけ言っても、結局はそういう戦争と復興と過剰生産による行き詰まりと戦争の悪循環はまったく止められないのかしら」
 二人はため息をついた。
「でも、アメイジンの家宅捜索は難しいわよ。アメイジンはクラウドのアメイジン・ウェブ・サービス(AWS)上に主要な業務システムを構築している。サーバを押収したところでそれが解明出るとは思えない。AWSのセキュリティをこじ開ける必要が必ず出てくる」
「そうです。そこでこのプランを立てました」
「まさか、新通貨ファインコインへの再通貨作戦なんてものじゃないでしょうね」
「悪い冗談ですよ。それに通貨作戦は覇道です。我々がゆくべきは、王道、正面突破なのです」

    *

「というわけで鳴門さんからの作戦オーダーが来てる。正面ホロパネルに出すわ」
 表示が浮かぶ。
「アメイジンAWSのハッシュ関数の解体? そんなことできるの?」
「羽佐間副センター長がヨットで発見した技術資料から見つけ出したわ。アメイジンのセキュリティは量子論でいう『霧箱』みたいな量子論的重ね合わせをハッシュ関数の生成に使っているらしい」
「難しいわね」
「でも、それをまるっと解体してしまえば、アメイジンの手の内はすべてわかるわ」
「じゃあ、あのグラファイトの言葉の謎も?」
「ええ。きっとそうなるわ」
「でも、私とミスフィの計算パワーでは足りないかも。量子論的に決定できない確率論の部分を確定するには、デジタル物理学に基づいた衝突検出演算が必要になる。ミスフィと並列処理してもキツいかも」
「正直そうね。この計算ができたら、いまタイムトラベルの疑似自由化を目指すタシケント議定書のために計算しているデジタル量子マトリックスの演算導出も可能になってしまうかも。それぐらいの難易度ですもの」
「でも、できる方法があるというわけね」
「そう。それがゼロ、大湊実験場のウイングナイト・アショア施設のメインシステムとの3基同時並列演算作戦というわけ」
「でも」
 シファは口ごもった。
「今度はこういう結果につながらないでしょうね」
 シファの眼にはホロパネルに移る旧首都圏の広大な廃墟と、未だにそれに降り続く破壊嵐の様子が映っている。
「それは私たちにはわからないわ。因果がどう巡るか、それは歴史にならないとわからないところはある」
 戸那実もうなずいた。
「でも、だからシビリアンコントロールがあるのよ。文民統制は私たちを縛るだけのものじゃない。国民から選ばれた代表に統制を受けることで、私たちはその国民の英知を信じて任務遂行に専念できる」
「英知、なのかしら」
「選挙制度はそういう疑念をいつも抱かせるわ。いろんな選挙制度あり、これまで何度も背制度改革されてきた。でも、予断や偏見なく見れば、選挙ってのは国民の集合知をはかる上で最もましな制度よ。ただこれまで選挙制度ではなく、選挙に関わる情報公開制度や議員の仕事の実績評価がうまく機能していなかったし、議員もそれが機能することを恐れていたから、そこが機能するように今ですらなっているとは思いにくい。でも、にもかかわらず、選挙制度そのものは最もましな制度よ。株主総会のように一部の人間の発言力に重みをつけるとか、あるいは独裁や専制よりもずっとまともよ」
「そうは思えない後ろ暗い政治史があるけれどもね」
「でも」
 戸那実は区切った。
「それでも信じましょう。シビリアンコントロールを。恐れて何もしないことは見殺し、棄民と同じことになる。私たちはそれを最も恥とするべきよ。私たちは敵を攻撃する力を与えられているけれども、それは味方、そしてなによりも国民の財産と生命を守るためですもの。それは私たちが艦隊官として宣誓した通り。国民や困っている人をただ見殺しにするなら、私たちはただの税金と燃料の泥棒でしかない。ときには危険を顧みず身をもって責務の完遂に努めなくちゃ」
「……そうね」
 シファはうなずいた。

     *

 シファとミスフィが母艦〈ちよだ〉を発艦し、東を目指す。
「関東地方が……」
 まだ関東地方は対消滅爆発の後の破壊嵐にさらされていた。それをシファたちは高高度から見下ろす。時折嵐の中でも活動できる数少ないVTOLの衝突防止灯のフラッシュが見える。救難救助活動がまだ続いているのだ。上空ではAWACSがその救難機の航空管制をしている。
「気候をこれだけ時間がたっても乱し続けるなんて。なんてひどいものを使ってしまったの? 人類は」
 ミスフィもうなずく。
「作戦実施は統合行政システムSAISメインバックボーンを利用します。そのなかでも最優先ラインを確保、大湊基地のウイングナイトアショア・ゼロとシファとミスフィを並列接続させます。しかしそのためにシファとミスフィは主機・時空潮汐機関の出力を最大かつ安定的に稼働させるために太平洋上・硫黄島付近IPで量子プロトコル接続により演算を開始します」
「さあ、量子論の向こうへシファとミスフィはいけるか」
 シファとミスフィは犬吠埼沖を通貨、太平洋上を加速していく。
「BBNX-072シファリアス、BNX-072ミスフィオス、時空潮汐安定化速度まであと200,180」
 カウントダウンが行われる。
「太平洋上航空路、全区間開通。航空路安全確認。シファ、ミスフィ、安定化速度到達。ウイングナイトシステム、全演算アレイ・オープン。システムモード・拡張に固定」
 飛翔するシファが胸のクリスタルに触れる。
「ついにウイングナイトシステムの最後の封印を解く」
「え、あれ、封印だったんですか」
「ああ」
 宮山は唇を結んだ。
「シファの本当の姿を、これから俺たちは見ることになる」
 戸那実も熱海も、みんなその意味がわからない。ただ機付長の沖島だけがうなずいている。
「安定化速度到達。飛行姿勢安定。データリンク。転送エラー率許容範囲内。並列演算を開始します」
 シファとミスフィの稼働率グラフがぐんと上昇する。それにウイングナイト・アショア・ゼロの稼働率グラフが加わる。この3基が複雑な計算を使ってこれまでの物理学ではプランク領域とされて確定できない、確率的にしか言えなかった領域の範囲を少しずつ追い詰めていく。そしてその演算結果をいくつもの経路遮断装置を使ってアメイジンの基幹システム・アメイジンAWSにたいしてのアタックに使う。逆探知されることはない。経路遮断もそうだし、アタックに使うゲートも地理的にも論理的にも分散している。ただアタックを大量に行うとアメイジンのシステム管理部門が気付いてしまう。その大量にアタックを行ってどれかが当たるというやり方は古い上に逆探知のリスクを背負う。そこでシファとミスフイとゼロはアタック前にその破りたい鍵を生成しているハッシュ関数の特徴を割り出す演算をできるだけ行い、最小限のアタック数でハッシュ値を予知してしまうのだ。こんなことが出来るとは思えないだろうが、シファたちに実装されている演算装置、量子コンピュータの次の装置はすでに時間軸すらもわずかに跳躍して演算しているのだ。そうでなければここまでの高速演算は無理である。それ以前にこの一連の事態のきっかけとなった通貨介入作戦だって無理である。通常はあり得ない話そのものなのだが、シファ級はそれを可能にしてしまう。だから多くの人間が恐れ、揶揄しながら何とか自分の意のままにしようとしたりその周りの人間を攻撃することで彼女たちの判断を乱そうとしてきた。事実それでシファは判断が揺れることもあった。しかしそれでも人間が判断するよりは圧倒的な短期間の錬成にもかかわらず冷静に判断することが出来る。
 だからこそ、シファは自分が許せないのだった。気付いた通貨作戦への疑問をちゃんと糺さなかった。疑問に思っていたのに疑問のままにしてしまった。
 ――-これでは人間と同じじゃないの。
 私が機械として生まれ、育ち、生きてきた意味が無くなってしまう。
 私にはこの事態を解決する最後までの重大な責任がある。誰がどう取り繕うとも。
 その結果の東京旧首都圏の対消滅弾被爆と言う悲劇はシファの心に深く差し入っていた。壊滅でも消滅でもない。被爆なのである。人々は消えてなくなることも出来ず、様々に体も心も家族も引きちぎられて苦しみのたうち回っているのだ。
 いくらスピリットバックアップで多くの人が魂を情報化していてサーバに退避させ、今は義体さえ用意すればここに戻れるとしても、人間の生きるという事はそんなもので復旧はしない。健康で文化的な生活を営む権利、幸福を追求する権利、基本的な人間としての生活と尊厳はすでに重大に侵害されてしまったのだ。この事件でどれだけ多くの人が運命を狂わされたか。
 そのことが胸に突き刺さる強い痛みとなっているシファなのである。
 そしてその彼女に通信が入る。
 さまざまなAIたちからのメッセージだ。
 みな、シファたちに演算リソースを提供したいと申し出ている。
 国際共同高エネルギー研究施設や時空潮汐力研究施設のといった学術研究施設の主演算装置の管理AI。
 みな、シファと同じ思いなのだ。

     *

「アメイジンの現場の社員も大勢東京旧首都圏で被爆している。アメイジンはこれでも被害者を装い、アメイジンポイントから発展させたファインコインを使い続け、それを拡散させ続けている。それにフェデレーションはこの対消滅弾攻撃についての犯行声明を発表していない。……いったいフェデレーションもアメイジンも何が目的なんだ?」
 ホロパネルが並ぶ内閣調査庁オペレーションルーム。津軽海峡の鈍色の空にウイングナイト・アショア「ゼロ」の建物がそびえ、そのセンサーが空を睨むように見上げているのがモニターに映る。
「一つの目的で統合されて行動しているか、あるいは同時に発生した事象を互いに好機と見てそれぞれにそれを利用しようとし、それで事件が拡大していっているのか、あるいはすべて全く関連性のない事案なのか」
 調査官の一人がつぶやく。
「それはもうすぐ明らかになるわ。でも空母〈かつらぎ〉の様子がわかった。修理後の公式試運転で横須賀から出港していて難を逃れていたわ。そのまま旧首都圏の救難任務に当たることになる。空母〈レッドトワイライト〉はまだシンガポールに係留されて処分保留だけどもうフェデレーション側の戦力ではない。あとの戦力は空母〈ブルースカイ〉と、シファたちが遭遇した民間BN-X〈グラファイト〉とその他民間軍事会社PMCの艦艇だけ」
「だから対消滅弾頭攻撃を行ったのかな。〈かつらぎ〉が復帰したら彼らは間違いなく置い詰まる。軍事的な実力で猛威を奮ってたのに制圧されるし、その次は犯罪組織としての検挙が待ってる。だからそれを防ぐために」
「因果関係としては有り得そうに思えるけど、確証はないわ。シファたちの作戦成功をまちましょう。3つの説、全てが統合された作戦と、それぞれの思惑が一致したけど連携はしてない説、そして関連性がない事件が連続している説があるけど、そのどれもあのヨットで発見されたストレージの分析がまだ途中なので、否定も肯定もできないのが実情だもの」
「総理は事態収拾と報復作戦の実施をお考えのようです」
「報復ね……。報復よりもまずは救難救助とさらなる攻撃の阻止が優先よ」
「でもこの戦後復興の計画の内々の準備もはじまってます」
「それは楽観的すぎるわ。まだ押し込まれる可能性だってあるのに」
「これ以上悪くなりますかね」
「ならないようにシファたちががんばってるのよ」
「AWSの使っているハッシュ関数へのアタックが推論どおり成功し始めています」
「さすが羽佐間さんの演算アルゴリズムが効いてるわね」
「高度数学の勝利ですね」
「そう。ナチスのエニグマ暗号を破ったのも強奪作戦ではなく世界初のコンピュータ・コロッサスと数学の勝利だった」
「でもこうなると本当にタイムマシンも可能になってしまうわね。未来を限定的に予知することと量子論的な振る舞いを決定してしまうことは同義だもの」
「そうなります。タシケント議定書の実現がまた近くなりました」
「でも人間は未だにこんな愚かな争いをしている。しかもシファにはむき出しの敵意を持った存在のBN-Xグラファイトまで現れてしまった。いったいどうなってしまうのかしら」
「わかりませんね。でも、我々は我々の職分を全うする使命があります」
「そうね」

     *

 シファとミスフィは安定飛行したまま演算を続けている。
「アショアの制御センターの中の様子、送られてきたわ。そういえばウイングナイト・アショアって有人のコントロールセンターの制御を受けていたわね」
 ミスフィが電子音を返す。
「アショアのコントロールセンターはアショア本体から少し離れてるのね。今みんなで食事取りながら監視してる。いいなあ。お腹空いたなあ。私も」
 ――こんなときなのに。
「こういうときだからお腹すくのよ。なかなかキツイもの。これ終わったらビールも飲みたいなー」
 ――ワガママよ。
「だって、こんなハードな仕事してるんだもの。おわったら自分にご褒美ほしいわよ」
 ――そういえばそうね。私も香椎と。
「……怖いこと言わないで」
 ミスフィがくすっと笑う。
「本当に怖いわよ! それ!」
 シファは震え上がる。

 シファたちの作戦をモニターしている母艦〈ちよだ〉の戦術情報センターで、香椎がくしゃみをした。
「どうした、香椎。珍しく風邪でも引いたか?」
 宮山司令が聞く。
「なんで私が風邪ひくのがめずらしいんですか! ひとをバカ風邪引かないみたいに言わないでください! でもシャワー浴びた後髪乾かすの甘かったかなあ」
 戸那実が笑う。
「それはきっとだれかが噂してるのよ」
「そうかも。でもなー、思い当たる節ありすぎて。でもこのくしゃみ、なんか変な予感するのよね」
「えっ、なにそれ」
「……ミスフィかなあ。最近忙しくていろいろできてないのよね」
 戦術情報センターのみんなが、顔を見合わせた。
「……怖い考えになるから、この先のことはやめておきましょう」
 戸那実が震えている。
「そ、そうですね。あえて触れないってことに」
 熱海も何度も強くぶんぶんとうなずいている。
「それより、熱海! カシス准将の手紙、まだ読み終えてないの!?」
「ひいいい、と言いたいところだけど」
「え、まさか」
「読み終わったよ。ほんと、すごい手紙だった」
 みんな熱海に注目する。
「僕らが現在までどうきて、どこにいて、どこにいくのか。そういう話だったんだけど、ものすごい精度でこの事態も予測していた」
「で、解決はどうなるの?」
「それが、なんというか、うーん」
「はっきりしなさいよ」
「……解決は、結局できない、って」
「えええ!」
「でも、カシス准将の結論はそうだった」
「ディストピアじゃない」
「そうなっちゃうよね。こう話すと」
 熱海は帽子を取り、頭をかいた。
「でも、読み終えて、ディストピアだって結論なのに、不思議に清々しかった。そして希望があった」
「なにそれ。意味わかんない」
「僕にはわかんないよ。文章って、物語って魔法の一瞬なんだな、としか思えなかった」
「……魔法」
「だってそうでしょ。みんな物語を読む本当の理由ってそこだと思うし。一時はやった異世界に飛ばされてチートでハーレムな体験する話も、それ以前に旧日本軍が勝ったー大和が勝ったーゼロ戦強いー、っていう話も、それ以前の女子高生が異世界に飛ばされれビキニ鎧着て活躍する話も、そしてスポーツ選手の努力根性友情の話も、みんな現実世界の解決しようのない苦しさ、生きづらさを少しでも緩和して、それで解決できないそれにまたたちむかうための大事なものだったんだよ。むしろそれが全くだれも書けなくなったとしたら、この世は心底病みきって復活しようがない深刻な危機だと思う。現実逃避と断ずるのはたやすい。でもそれはある意味、その冷酷な現実を反映した、とても批評的な存在でもある。だから物語が、たとえ日記のようなものであっても書かれて、読まれるっていう社会は、まだ本当の絶望の手前で踏みとどまれているんだと思うよ。そして物語を書くことは、それ自身でいろんな社会的機能を果たしているんだと思う。それに拙い上手いはあるのかもしれないけどそれは僕にはよくわからない。でもどれも大事な物語として尊重されるべきだと思う。カシス准将の手紙の最後はそういう物語論も含んでいたよ。そして、最後の結びの言葉がとても印象的だった」
「なんだったの?」
「それは、ね」
 熱海は思い出している。
「カシス准将、クーデターの疑惑かけられて長い間宇宙要塞に幽閉されてたけど、その幽閉の時代にどういう事考えてたかよくわかったよ。カシス准将も、すごく聡明で優秀だけど、熱い血の通った人間だったんだな、ってわかった。人間だから、ああいう強さもあるんだろうなと」

     *

 シファとミスフィは飛翔を続けている。そしてアショア・ゼロの演算も続いている。

「ハッシュ関数のハッシュ値生成の実質無効化に成功しました。これでアメイジンAWSへアクセス権を確保、そしてその特権昇格にも成功しました」
「アメイジン管理者側の対応は?」
「まだ偽装に気づいていないようですが、時間の問題で対応されるでしょう」
「今のうちに我々の推論のエビデンスになりうるデータの確保を」
「シファたちが最大スループットで実施中です。エラー率許容範囲内」
「進捗率50%」
「アメイジンの経営行動戦略関係のストレージのデータを抽出完了」
「アメイジンAWSとのセッション切断」
「セッション終了。接続時間3分12秒、転送量129.243ヨタバイト」
「さいわいアメイジン管理側の遮断操作前にセッションを正常終了できました」
「でも彼らがログを分析したら、この作戦はバレるわね」
「それは回避不能ですね。でもその前にアメイジンアジアへの正式な家宅捜索と関係者の検挙を実施するしかないです。分析を急ぎましょう」
「セッションクローズ。シファ、ミスフィ、現IPで待機」
『ダークスター、承知』
 シファの近くに百里基地から飛び立った戦闘機がエスコートのために接近してくる。
 シファは翼を揺らして合図を送り、ミスフィとともに戦闘機と編隊を組んだ。
 戦闘機パイロットが親指を立てる。サムズアップという合図だ。
 それにシファはうなずくと、くるりとミスフィとともにきれいなエルロンターンをスパッと決めて応えた。

 新淡路、内閣調査庁。
「分析結果、出ました」
「分析結果を既知のデータとマージします」
 アルゴロイドたちが一斉に動き出す。
「レポを自動生成しています」
 調査官たちが生成されていくレポを読んでいく。
 その表情がみな、みるみるうちに変わっていく
「ええっ、そういうことだったの!!」
「そうなりますね。この結果は」
 オペレーションルームは重く沈鬱な空気に包まれた。
「とにかく、シファたちを帰投させましょう。もう私たちの取りうる作戦は一つしかない。不安はなくなった。でも、あまりに残酷な現実ね、これは」
「ええ。でも、我々はこれを免れることはできないのです」
 氷室調査官は、うなずいた。
「官邸に機微情報扱いでこのレポを送ることにします。おそらくこれで、私達の作戦が裁可されるでしょう。ほかに方法がないですもの」
 鳴門は怪我して治療中のまま肩から吊っている腕をさすりながら、言った。
「所詮、血塗られた道ですね。どの道も」

〈つづく〉
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登場人物紹介

シファ(シファリアス)

 BBN-X、時空潮汐力特等突破戦闘艦シファリアス級の1番艦、ネームシップ。最新鋭の心を持つ女性サイズ女性型戦略型宇宙戦艦。第2次近代化改装を受けて搭載する武装や機器とシステムプログラム・ウイングナイトシステムがアップデート、大幅に刷新された。

 大学時代から内閣調査庁調査官・鳴門と恋仲にある。新淡路大学卒業後幹部教育隊を経て、独力で行動可能な戦艦である自身を指揮の執れる1佐格を持っている。しかし搭載する行動支援システムZIOTの支援がなければ自転車にすら乗れないほどの運動音痴。「ウイングナイト」「クールな守護天使」のはずがいつのまにかポンコツ戦艦呼ばわりされるに至っている。

ミスフィ(ミスフィオス)

 シファ級の2番艦、姉妹艦で妹に当たる。女性形女性サイズ戦艦。BBN-Xになるための近代化改装をまだ受けていないためにBN-Xと呼ばれる。艦番号73。

防衛大学校卒業、幹部教育隊を経て第99任務群配属後に香椎2尉と恋仲となるが、どういう恋愛をしているかは不明。というかレースクイーンの刑ってなんだ? そういうところが周りからは怖がられている。

 通常の言葉を話すのが嫌いなのでいつも同意と否定の電子音とメッセンジャーの文字で会話する。失声症に近いかも知れない。だが戦艦としての武装の他に、超音波域の波長の叫び声でさまざまなセンサーを麻痺させる音響麻酔能力を持っている。耳もシファと違いエルフ耳のような形状になっている。

 他にもいろいろとミステリアスな要素を持っているが、その実、姉であるシファを強く敬愛している。

戸那実3佐

 シファとミスフィの所属する第99任務群の指揮幕僚。司令の宮山空将補を支え、シファとミスフィの作戦を立案・支援する。

 防衛大学校首席卒業の才媛なのだがいろいろと素行不良なことがあって(とくに整理整頓が苦手。それでもいっっぱんじんに比べればきちんとしているのだが)、それで指揮幕僚課程を進んでいても出世の目はないと思われていたところを宮山司令にスカウトされて現在の配置にいる。以前は重巡洋艦〈みくま〉に乗り組んでいたがそのあとずっとこの99任務群に所属している。

 視力が弱点で眼鏡着用なのだが、コンタクトレンズや視力アシストを使っている時も多い。

香椎2尉

 陸戦のエキスパートだが現在第99任務群に所属、〈ちよだ〉にセキュリティ担当として乗り組んでいる。そのままでは練度がなまるので連合艦隊司令長官附で陸戦用新装備の試験の仕事もしている。いつもパワードスーツ搭乗用の迷彩レオタードでうろうろしていたり、異常なほどの大食らいだったり、なかでも豪華プリン好きであきれられているのだが、それでも敬愛されているのは彼女が苛烈なUNOMA(中央アジア暫定統治機構)の武装警察軍の任務の中、最大の窮地から多くの部下をその名指揮によって救い出した英雄であることと、とぼけながらも聡明なところを垣間見せるギャップによるのかもしれない。

 ミスフィの恋人でもあるが、ミスフィとどういう恋愛をしているかはほかのみんなは怖くて聞けない。

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