パレットの誘惑

文字数 2,817文字

 先輩、今日は海を描いたんだな。

 青色のグラデーションが続くパレットを見ながら思った。
 白色を混ぜた場所は、少し迷うように何度も筆の跡が残る。
 きっと、その白は波しぶきだろう。

 先輩のパレットを洗う係は争奪戦だった。
 私が今日、その役目を得たのは運でしかない。
 争奪戦を繰り広げている後輩部員たちが、委員会の用事で抜けたから。
 私にはその用事が無かっただけだ。

 美術部で一学年上の先輩。
 彼女の人気は静かだ。
 歓声が上がるような派手さはない。
 先輩が通ると、廊下ではため息のさざ波が起きていく。
 そして先輩は、その現象を自分が起こしたものではないと思っている。

 自分の美しさに無自覚な先輩。
 彼女に憧れるだけの、ただの後輩。

 先輩は、おそらく私を個体識別できていないだろう。
 私は、パレットを洗うと言い出す後輩の中の一人だ。
 それでいいと思っている。
 大人になったら消えていく、思春期の間だけ生まれる感情。
 それなんだと思う。
 だけど、触れてみたいと思う自分もいるのだ。
 スカートの裾からのぞく膝の裏。
 夏服の袖から出ている二の腕。
 襟足に続く首筋。
 そのどれかに、いや、どれもに触れてみたい。
 大人になったら、消えていくのだろうか。
 思春期を越えたら、消えていくのだろうか。
 それは自信がない。
 それに、消えなくてはならないのだろうか、という疑問もある。
 大人になったって、思春期を越えたって、別にいいじゃない。
 私はそう思う。
 自分で自分を否定することもないと思う。 

「よしっ!」

 私は、水道の蛇口に手を掛けた。
 そろそろパレットを洗って帰らないと、下校時間が来てしまう。

「何の決意なの?」
「うわあっ!」

 思わず大声を出してしまった。
 カランカランと軽い音を響かせながら、シンクにパレットが落ちる。
 誰もいないと思っていたから、あまりの驚きに心臓が口から出そうだった。

「ごめん、そんなに驚くと思ってなくて」

 先輩だった。
 困ったように下がる眉尻が綺麗だった。

「いえ、こちらこそ、すみません」
「なにが?」
「パレット、まだ洗ってないんです」
「気にしないで。自分でも洗えるのに、ありがとう」

 先輩は、籠からブラシをパレットの上に置いた。
 私は頭を下げる。
 先輩は私の左側に立ったままだった。

「ちょっと待って」

 先輩が、蛇口を捻ろうとした私の手を止めた。
 重なった先輩の右手は、ひんやりしていて気持ちがいい。
 触れた左手は、しばらく洗いたくないくらいだ。

「これ、好きなの」

 先輩は、シンクに広げたパレットに左手の指先を伸ばした。
 乾燥で固まり始めた水彩絵具に触れる。
 青、少し薄い青、もっと薄い青。
 先輩が触れた絵具の表面が、むにゅっとへこんで行く。

「好きな理由、訊いてもいいですか?」
「だって、唇みたいなんだもん」

 先輩はパッと瞳を開き、目尻をキュッと下げた。 
 いたずらっ子のような微笑みだった。

「唇?」
「そう、唇」

 先輩は、蛇口の上で重ねた右手を離し、指先を私の顔に伸ばしてくる。
 人差し指の先が、私の唇に触れた。
 絵具と同じ感覚で、唇の表面を、むにゅっとへこませてくる。

「ほら、似てない?」

 先輩が、にっこりと笑う。
 え?
 今、何が起こってる?
 私はパニックになりながらも、神様に感謝していた。
 パレットを洗う係になれただけでも運が強いと思っていたのに。
 私、強運すぎるだろう。

「似てるかも、ですね」

 私は、先輩に唇をつつかれながら答えた。

「でしょう?」

 嬉しそうな先輩を見ながら、私も微笑んでしまう。
 夕暮れが近づき、誰かが廊下の電気をつけた。
 先輩の唇が、つやつやと光る。
 私は、その輝きから目が離せない。

「私のも、触ってみる?」
「……やめておきます」
「どうして?」
「止まらなくなりそうなので」

 正直な気持ちだった。
 ついさっき、自分の指向を自覚したばかりなのに。
 こんな誘惑、歯止めが効くわけがない。
 きっと、私は突っ走る。
 個体識別されていない後輩の一人なのだ。
 落ち着け、私。

「誰にでも、こんなことすると思ってる?」

 先輩が顔を伏せた。
 悲しそうに揺れる睫毛が、先輩の頬に薄く影を作る。
 失敗したかもしれない。
 私が自分に自信を持っていなくても、先輩は私を識別しているのかもしれない。
 その可能性に気付いた。

「そんなこと思ってません」
「『止まらなくなりそう』って、どのくらいまで?」
「え? いや、その」
「私、キスまでなら、平気」

 先輩が、伏せていた顔を上げた。
 目の前にくる先輩の美しい顔面。
 そして、想定外の言葉。
 私の心臓が、もうかなりおかしい速度で動いていた。

「そんなこと言われたら、本当にしますけど」
「うん、あなたなら大丈夫」
「先輩、私のこと、知ってます?」
「実は知ってる。あなただけは分かる」

 先輩が、にっこりと笑った。
 ああ、もう無理。
 私は、重なったままだった手を握り、指を絡めた。
 絡まっていない方の手は、先輩の頬に伸ばす。
 先輩が、頬に触れた私の手に、自分の頬を寄せてくる。
 私の手のひらの中に、先輩の肌が隙間なく流れ込んできた。

「いきますね」
「うん」

 私が顔を近付けると、先輩が瞳を閉じた。
 先にお互いの鼻先が触れてしまい、目を閉じたままの先輩が、そっと顔を傾けてくれる。
 私は、きちんと着地するギリギリまで目を開けておき、唇が触れた瞬間にそれを閉じた。
 
 先輩の唇は絵具よりも、しっとりした感触だった。
 私の唇は大丈夫だっただろうかと急に気になる。
 リップクリームとか、まめに塗るほうじゃない。
 先輩が期待する感触だといいけど。
 心配になりながら唇を離す。
 たぶん、五秒もなかったと思うけど、体感では五分くらいあった気がする。

「絵具に似てましたか?」
「似てなかった。なんか、しっとりして気持ちよかった」

 ほっとした。
 よい感触だったなら、よかった。
 ちょっと信じられない展開だったけど、自分に強運を贈ってくれた神様に感謝したい。

「パレット、明日からは自分で洗うから」
「分かりました」

 色に向き合い、迷った先輩の痕跡が見えなくなるのは、ちょっと寂しい。
 先輩が私を見て、クスッと笑った。
 そんな気持ちが顔に出てしまっていたらしい。

「家で使ったパレット、洗いに来る?」
「はい! 行きたいです!」
「前のめりすぎない?」

 先輩が声をあげて笑った。
 こんな表情もする人なんだと思った。
 今日はよく喋るし、いつもの先輩と全然違う。
 もしかしたら、私の隣だからなのかもしれないって、うぬぼれたくなる。

「さっさと洗って、帰ろうか」
「ですね」

 私は蛇口をひねった。
 勢いよく流れた水が、パレットの上に落ちていく。
 ブラシの先で絵具を洗い始めると、先輩が私の腰に自分の腰をぶつけてきた。
 私も自分の肩を、そっと先輩の肩に押し付けてみる。
 水流に混ざった青の濃淡が、楽しそうに蛇行しながらシンクの底を流れていった。


<完>
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