第31話 不輝城から迷い出た男のこと

文字数 1,433文字

 不輝城で生まれ育ったが、城門から出たあと戻れなくなり、ドリンルーに落ちついたという男がいたらしい。亡くなってからもう二十年にもなるそうで、その男は生まれた時から村にいたと証言する人もあって、真偽もなにもないのだが、孫だという青年の聞かせてくれた小話は、なにか手触りのあるものに思えたので、ひとつここに記しておく。

 その人は、昼間に片付け忘れた用事を思い出して、日が暮れてから城門を出た。おそらく、薪を運んでおくとか、林道に出てきた枝を打っておくとか、そのようなことだっただろう。身に着けていたのは毛織の外套一枚、その下はよくあるジオーネ(胴の前側にヤニや膠で固めたフェルトを張った作業用の胴着。下に柔らかい麻や毛の下着を着る)で、ベルトに野良仕事用の鉈を吊り、くるぶしまでのヤギ革の靴をはいていた。明かりをとるのに、青銅のカンテラを一つ持ち出していた。それが彼の全財産になった。
 用事を終えた戻りがけ、どこかで獣道に入ってしまったのか、行けども行けども知った場所に出なかった。止まっているとなにか迫ってくるような気がして居たたまれず、おとなしく朝を待つこともできなかったそうだ。せめて星でも見えればと思いながら、細いくせにどこまでも続くような道を歩きつづけた。
 腹具合からすると、真夜中ごろであったそうだ。彼の耳は、頭上でさわぐ葉擦れとは違う音を捉えた。さらさらと途切れなく森の底をひたすそれを、彼は水音と思った。川があれば、星が見える。少なくとも、辿っていけば湖に出られるに違いない。そう思って、彼は音のする方へ向かった。
 進むほどに、音源が水であるとは思えなくなっていった。一向に強くならず、聞こえ方も、定まった流れというよりは病人の呼吸のような乱れたものに感じられたのだ。けれど、ほかに何とも言いがたく、湖に出るという希望は捨てがたかった。彼は進んだ。そして、森は不意に開けた。
 それはたとえば、オジログマなどの大型の獣の塩場のような、ぽっかりと空いた広場だったという。樹冠を青白く光らせて、星明かりがさしていた。木立のあいだから影がしみだし、闇溜まりを作っていた。とうとうと流れて、夜の底を隠していた。何かおかしい――何か――
 カンテラの灯の下で、さらさらと闇がさざめく。それが無数の黒い蝶の群れであることに気付いたとき、彼は「あっ」と小さく声をあげた。とたん、足元から暗闇が吹きあがった。鳥の羽音、風の声、銀鎖のきしり。蝶のはばたきが折り重なってそんな音になることを、この世の誰が知っていただろう。下翅にある鋼色の玉模様が星のようにまたたいていた。ひとつひとつが、見知った誰かの目のように思えて、彼は「待ってくれ!」と叫び、叫び、叫びながら、その蝶を追いかて走りだした。
 そのうちにカンテラの油は切れてしまったが、蝶の翅が火の玉のごとく光って、うっすらと足元が見えていたという。息が切れて、肺が燃えるようになり、渇いた喉から血が出るまで走った。いつまで蝶が見えていて、いつから見えていなかったのか、定かには解らなかったそうだ。彼は夜が明ける頃にドリンルーの谷へ出て、早起きな羊飼いに助けられた。
 ちょうどその朝、長いこと村の風見番をつとめた老爺が亡くなったところだったので、彼はその後継ぎとみなされて、村に迎え入れられることになった。

 この体験を語ったという人は、たしかに風見番ではあったらしい。村人の証言とどちらが本当のことなのか、余人には判じがたい。
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