#4 散歩道

文字数 5,197文字

お嬢様が目覚めてから早三ヶ月、四畳半ほどの部屋を宛てがわれた陽一は毎朝、悪夢で目を覚ましていた。それは、寝言で「はい、お嬢様、ただいますぐに」と(うな)されるといった具合である。そして陽一の朝は早い。早朝から部屋の掃除に汗を流し、御主人様である御嬢様のために、働く、働く、働く、である。といっても未来では掃除や洗濯は全て機械任せであるので、それを主に監視しているにすぎない。

では、陽一が流す労働の汗とは何であろうか。それは焦燥からくる冷や汗のようなものだろう。勿論、囚われの身となってからは何度も脱走を試みたものだが、その都度、全身を貫く痛みが陽一の心をも捕えたことだろう。今では十分に懲りたはずで、そのような心持ちは全く消え失せた——少しだけ、ミクロ単位でなら残っているかもしれない。

お嬢様の午前中は学習ロボットによる指導を受け、今では高校生くらいのレベルにまで達しているらしい。それでも最初に通うのは小学校からとなっている。つまりは、どんどん頭でっかちな人間に育っていくのではないか、と不思議に思う陽一である。そして午後は昼食を挟んでの運動である。今の御嬢様にはこれが一番重要な事だろう。なにせ、つい三ヶ月前に、初めて自分の体を自分の意志で動かし始めた訳である。頭では分かってはいても、そうそう自由自在に、とまではいかないようで、この運動、というか訓練は毎日欠かす事の出来ない重要な日課となっている。が、それこそ陽一がここにいる理由なのである。

午後の運動は単純な遊びのようなものから始まるが、その遊び相手とは、それ専用の装置があり、その補助として陽一が付きっ切りで見守っている、という訳である。だが、補助と言っても想像以上に辛い労働のようである。例えば、御嬢様がフラフラっと転びそうになっても、お遊び装置は何もしてはくれない。そんな時、その落下地点に素早くかつ的確に体を忍ばせ、衝撃吸収器と化さなければならないのである。その実例として、遊びに夢中の御嬢様の体がフラッとした瞬間、猛ダッシュをかました陽一は豪快なスライディングで御嬢様の元に参上。しかし、御嬢様には何事もなく、体を支えるために踏み出した片足で、寝そべっている陽一の背中を踏みつけただけである。その感触が気に入ったのだろう、

「お馬さんごっこがしたい。馬になれ、陽一」と子供らしく発想したようだが、その表情は無邪気——ということにしておこう。これに、

「はい、ただいま」と、すぐに四つん這いになって御嬢様を待つ陽一である。そこには誇りとか自尊心などは見られず、「そんなものは()うの昔に窓から捨ててしまった」と、どこか遠くの風がそう囁いていた、ようだ。

「おい、お馬さんが人の言葉を話すわけがないだろう。どうなんだ、陽一、いや、馬、馬、馬、馬鹿?」

子供というのは、無垢であるからこそ本質的には残酷なのかもしれない。それでも一応、情操教育なるものも一通り受けているはずだが、それはあくまで人間社会に対するものであり、陽一のように存在自体が危うい者には、法も常識も適用されないのだ。よって、なにをどう言われようが、

「はい……、ヒヒーン」と従うことしか出来ないでいる陽一である。そんな心のうちは、さぞかし、と思いきや、その歪みきった表情とは裏腹に、結構平気のようである。そこはそこ、ほれ、おじさんであるからにして、巧みな心の持ち方を心得ているのだろう。それは何度も修羅場を(くぐ)ってきたに違いない。

しかしその技、『ここにいるのは俺であって、俺ではな〜い』を使い過ぎると、現実に戻って来られなくなるという。それを最近多用している陽一は、果たして大丈夫なのだろうか。しかし、誰も陽一のことを心配する者は居ないので、問題は存在しない、としておこう。

◇◇

部屋の中を這いずり回ること数時間、腰が、背中が、それよりも人としての尊厳が、俺が、陽一が、おっさんが人間性を失い、馬人生を謳歌している頃、次の段階となるチャイムの音が鳴り響く。それは、陽一にとっては唯一となる外出の時間である。でも、そうは言っても、実のところは御嬢様を伴っての『お散歩』である。そう、始終(しじゅう)部屋の中に籠ってばかりではない、御嬢様には外で元気に運動する必要があるのだ。

そうして、お嬢様の半歩後ろを歩く陽一である。いつ何時(なんどき)御嬢様がスッ転んでも良いように、その身を投げ出す準備と、人生を投げ捨ててでも守らなければならいない宿命を背負う陽一である。

その陽一の目には、かつて自分が居た世界と、そうそう変わらない光景が見えていた。それは歴史が一巡して元に戻ったとも言えるだろう。ほんの千年ほど前までは、確かに古代人からしたら『未来的』でキテレツ建造物に溢れていたようだが、それでは落ち着かないと、21世紀風に再設計されたそうだ。何事も度が過ぎれば弊害をもたらすということだろう。

さて、御嬢様の方は、というと、本来ならまだハイハイをしているお年頃である。それが一応フラフラしながらも、しっかりと大地を闊歩しているわけであるので、それはそれで大したものであろう。しかし、時々振り向いては陽一の存在を確認している様は、所詮はお子ちゃまといったところか。陽一が近づけば、「もっと離れろ」と言い、それで距離をとれば、「あまり離れるな、馬鹿か」と、どこまでも子供の様であるが、それらを軽く聞き流せる程のゆとりは、残念ながら底をついてしまっている陽一でもある。それは、御嬢様の言葉にいちいち、「はい」とか「すみません」と真顔で返事をしている様子は——痛々しくもある。

痛々しい序でに、前方から歩いてきた背の高い男から、いきなり渾身の一撃を食らった陽一である。それでよろめきながら、「何しやがるんだよぉぉぉ、この野郎!」と、心の中で叫ぶことしか出来ないでいたが、どう見ても相手の故意であるのは明らかである。それというのも狭くはない通りを、まるで酔っ払いのようにフラフラと陽一めがけてドーンと来たからである。その瞬間、陽一は相手を睨んではみたが、そのあまりにも人相の悪さに、サッと視線を逸らしたのは言うまでもない。それに、フラ嬢様連れとあっては出来るだけ揉め事は避けたいところだろう。せいぜい、「いつの世にも情けない奴は居るんだな、可哀想な奴め。今度会ったら全力で逃げてやるからな」と心の中で悪態を吐くことで遣り過そうとしたが、

「おい! ポケットの中に手を突っ込んでフラフラと歩いてるんじゃねえ」と凄む相手である。この時、陽一は両手をブラブラとさせていたが、それを言い返しても始まらない、どの時代にもこんな奴は一定数いるものだから相手にしたら負けだ、と心を落ち着かせつつ、

「申し訳ない、次からは気を付けるよ」と頭を下げる陽一である。これに、チッと捨て台詞を吐きながら不満げに去って行く男である。これで難を逃れた陽一は自分の成長を確認したかったようだが、そんな自分になれたのか、それともそんな気概も無くなってしまったのか、と悩んだ末、フッと冷たい視線を送る御嬢様にムカついてしまう陽一である。これが昔であれば、「生意気だぞ、そんな目で俺を見るんじゃない」と言い放っていたところだが、それさえもグッと飲み込み、その勢いをどうしたものかと無意識に両手をポケットに突っ込んだ陽一である。すると——ナンダコレハという具合に左のポケットから紙片の出現である。それにサッと目を通したものの、すぐに丸めてしまったが、何故か文面が気になり始めたようだ。そこで、

「御嬢様、トイレに行っても宜しいでしょうか」と、少々上擦った調子で言ったところ、

「その辺で済ませば良いのでは」との御返事。そこで早速、その場でズボンを降ろそうとする陽一である。勿論それは本気ではなかったと思いたいが、もしかしたら(はや)る気持ちがそうさせたのかもしれない。勿論、それに、

「冗談も通じないのか、本当に馬鹿だな」と、またまた冷めきった視線を送る御嬢様である。しかし、その視線を見ることなく頭を下げたまま、

「では、行って参ります。あっ、そうそう御嬢様。その間は決してこの場を離れないようお願い致します、絶対ですよ、何かあったら困りますから、ね」と言いながら既にイソイソと離れていく陽一である。その様子に、「そこまで我慢しなくてもいいのに」と思った、かもしれない御嬢様である。



トイレに行くフリをして物陰に隠れた陽一は、早速さきほどの紙を広げ、フムフムと一読。そこには、『人権を取りもどせ』とか『告発』などの文字がデカデカと書かれており、その対象は陽一のような『人であって人にあらず』の者のようだ。確かに虐げられし過去の人物、即ち奴隷のような扱いを受ける人たちが悪行三昧の企業を訴えるぞ、と手を挙げ、その決起集会が近々、というより、もう始まるらしい。なら、それを知らせようと人目を欺いて陽一に因縁を吹っ掛けてきた、と考えれば先程の出来事も納得の陽一である。思えばあの男は古い顔立ちをしていたな、と我が身を振り返ることなく、男の意味不明な行動も俺を誘ってのことで、たぶん仲間が欲しかったのだろうと推測したものである。が、それに参加するかどうかとは別問題であると、冷めきった陽一の心は動かない。

何かをするために何かを訴えたところで何かが変わる訳ではない、それは時代が変わろうとも不変の摂理。どうせ小さな集まりでは、埃が一息で消し飛んでしまうように、俺たちはミジンコのような存在なんだと、今までの経験則から未来の欠片も見付けられない、見つけられるはずがない、と運命に迷子の陽一である。しかしこれには、そもそも陽一のような存在が少ないという前提と思い込みによるもので、現状を把握できている訳ではない。先程の男のように、ただ人相が悪いだけで陽一と同じ運命を辿っているなどと分かるはずもなく、まして擦れ違う人達の首元を一々確認する訳にもいかないだろう。それでは、実際のところはどうなのかというと、それは誰にも分からない、いや、例の企業だけが知っていることであり、真実は例によって闇から闇へ、の世界だろう。それが例えニッチ(隙間市場)であっても、人が絡む案件は大抵、大きな利益を生む利権が渦巻いているはずだ。

ところで、集会なんぞには参加しないぞと決め込んだ陽一ではあるが、集会場所を記した地図を睨みながらウンウンと唸っては、そこまでの道順を考えていた。それは、参加はしないが誰も行かないとは言ってはいない、俺にもたまには気晴らしが必要なんだ、と行く気満々になったようだ。しかし、それには問題があり、陽一だけでフラフラと街を彷徨うことは出来ないのである。そう、そんな自由も権利も金も女も酒も未来もラーメンも、今の陽一には何一つとして手の届かない高嶺の花なのである。ただし、許可が得られれば話は別である。そこで早速、スタスタと御嬢様の元へ駆け寄り、

「御嬢様、お願いがあるのですが、少し寄り道をしたいのですが、お付き合いして頂きたいのですが」と頭を下げる陽一に、

「はあぁ、たまには気分転換したいと、そういうことですか」と、目を逸らしながら話す御嬢様である。それでも、そんなに嫌そうな態度ではなさそうな、これはいけるかも、という期待を匂わせながら、「嫌です、帰ります」とツレない返事である。これに、普段ではあれば尻尾を巻いて引き下がる陽一、のはずが、今日に限っては、いや、今だけは欲望が抑えきれない駄々っ子の陽一、とみた。

では、陽一はどのような手を使うのだろうか。例のアレか、それともコレか。いいや、陽一はおっさんである。見た目は子供でも実年齢は赤子同然の御嬢様を攻略する(すべ)を『おっさん』は既に身につけているのだ。それは、

「御嬢様、そこは御子様大歓迎の場所でして、もしかしたら……いいえ、きっとプレゼントが貰える(かもしれない)のです。しかし……そこに行かれないのなら……残念です、また今度……ですかね。はい、分かりました、それでは帰りましょうか」と、『損をしましたね、御嬢様』的な顔を(うかが)わせる『おっさん』こと陽一である。

大層立派な家に住んでいる割に『無料』という言葉に弱みを持つ親子である。その性分を突く戦略を行使した陽一であるが、ふと、親子という言葉がどこか不自然に思えたようだ。それは、今まで一度も父親の存在を見たことがなかったせいだろう。たぶん母子家庭なのか、それとも今時分なのか。しかしそれ以上、家庭の事情に首を突っ込まないのが『おっさん』であり、人は人、俺は俺の陽一である。

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登場人物紹介

スライム

異世界でスライム生を謳歌している俺。

ゴーレム

異世界で少女を守りながら戦う俺。

ゴーレムの創造主
自称、魔法使い。ゴーレムからは魔法少女 または 魔法おばさん または ……

エリー

エルフの私です。
エルフの里で育ち、エルフの母に姉と弟、それに友達も皆、エルフです。
耳は長くはないけれど、ちょっとだけ身軽ではないけれど、
すくすくと育った私です。
だから私はエルフなのです。

ステンノー

ゴルゴーン三姉妹の長女

エウリュアレ

ゴルゴーン三姉妹の次女

メデューサ

ゴルゴーン三姉妹の三女

シルキー

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