第6話 それは伝記なのか創作伝記なのか
文字数 3,308文字
徳川家康であれ坂本龍馬であれ、歴史上の人物がその本のタイトルにそのまま付されていれば、日本人ならそれは準拠とまではいかなくとも或る程度史実に沿った伝記、と、解釈するであろう。
たとえばその本のタイトルが「徳川家康」や、「坂本龍馬」など名前だけがタイトルになっていれば、その本は或る一定レベル作者が努力し史実に沿って作品を書いたと解釈する。
それが日本人の常識であって私もその範疇の限りである。
仮に現実から逸脱しているフィクション物であれば、「創作徳川家康伝」なり、「創作坂本龍馬伝」なり、これは伝記ではなく架空の物語ですよ、フィクションの伝記ですよ、と、読者が受け取れるような題名を以て出版されるべきである。
と、言うのも日本人の常識でありこの点でもまた私はその範疇の限りである。
もう少し話を拡げると、浜松市のマスコットキャラクターは「出世大名家康くん」と命名され、高知県のゆるキャラは「坂本龍馬くん」、と、どちらも愛らしくユーモラスに二人の人物をデフォルメしている。
これ等のことから私が何を言いたいかと言うと、フィクションの伝記であれその人物をデフォルメしたものであれ、それが史実に沿わないものであればその人物の名前だけをタイトルにすることなど有り得ないし、また有ってはならない、と、言うことだ。
ところが何と、その有り得ないことが現実に起こっていたのだ。
クォン・ビョン著・斉藤勇夫訳、かんよう出版刊行の「朝鮮王朝最後の皇女 徳恵翁主」が、その問題の作品である。
韓国ではベストセラーとなった作品らしいのだが著者自身がはしがきに、「ただ一部登場人物の性格と行動、若干の場面は小説的不確実性のため再構成したフィクションである。特に徳恵翁主の脱出場面に関する描写は総て小説的フィクションである」、と、記しているのだからこの作品は明らかに創作伝記なのである。
しかも序文には、「彼女の痕跡は赤坂にも、松沢病院にも、大磯別荘地にも、対馬島にも遺っていた。彼女の孤独な霊魂は頬を掠めるそよ風からも時には錆びた金網の隙間からも私の心を呼び覚ました」、と、あり、正確無比な伝記の著者と言うよりも宛ら霊媒師のようである。
それなのにまるで一般的な伝記のように人物名だけがタイトルになっているのは何故か?
色々と考えて自分なりに結論は出しているのだが、その前に著者がどの辺りをどうフィクションにしたのかを列記してみる。
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一、宗武士伯爵は妻の徳恵翁主を寵愛していたと言う日本に存在する記録もある中、彼が徳恵翁主を冷遇していたとする点。
二、宗武士伯爵は終戦間際形式的に招集を受け内地勤務のほぼ事務兵役であったのに、喜び勇み日本軍人として出兵していったとする点。
三、徳恵翁主の先天性知的障害並びに先天性精神疾患を、日本に来てから日本人に虐められたせいで発症した統合失調症にしている点。
四、数戦直後爵位を剥奪され収入も無く、益してや国民皆保険制度など未だ無かった時代に於いて、宗武士が費用も手間も掛かるのに、妻の徳恵翁主を当時唯一日本に存在した精神科のある松澤病院に入院させたことを、隔離或いは幽閉していたかの如く表現している点。
概ね以上のような点がフィクションの部分であるが、先ずここで申し上げておきたいことが、私は反日でも、嫌韓でもないと言うこと。
私は韓流ドラマや映画も見るし、日本の時代劇も戦争映画も見る。
強いて言えばアンチ反日、アンチ嫌韓の、その両方であると言えよう。
言い方を替えると、私は争うこと或いは憎しみ合うことを好まない、と、言うこと。
つまり私はこのエピソードで史実がどうだったかを追求したい者でもなく、「徳恵翁主」と言うこの作品を批判したりまた讃美したりする者でもない。
私が言いたいことは唯一つ。
創作伝記が伝記と誤って出版されたのは何故なのかと言うことだ。
私のスタンスはまったくいつも通りだ。
この創作伝記を伝記とした誤りから生まれるもうひとつの文学について、私は読者諸兄と語り合いたいだけなのだ。
否、或いは誤って、と、言う表現は適当ではないのかも知れない。
何故なら原作者はそのことを百も承知で、創作とはせずにこの作品を一般的な伝記と明言しているのだから。
それに元々この作品は日本人向けに出版されたものではない。
何となれば何処の大書店に行こうが在庫は一冊もないからだ。
私もこの本は取り寄せてやっと手に入った。
恐らく在日韓国人或いは朝鮮人のファンに向けての出版だったのだろう。
何れにせよ私が読んだのは日本語版で、原語である韓国語版でも当然この作品は「創作伝記」ではなく、「伝記」として扱われていることだろう。
即ち韓国内ではこの原作者さえフィクションであると明言するこの作品を、史実に沿った伝記と認識することが当たり前の常識なのだ。
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ひょっとすると仮にフィクションであっても、伝記に創作と冠を付すこと自体韓国では非常識なのかも知れない。
そう言う意味では日本の常識は韓国の非常識であり、また韓国の常識は日本の非常識なのである。
殊にこうした日本統治時代の韓国文学と言うものは、史実云々よりも当時の歴史は斯く有るべし、と、言う大前提の下に書かれなければな
らないのてあろう。
私はこのエピソードを書く前週に一週間を掛けて自宅周辺のレンタルビデオ店に出向き、この小説と同じタイトルの「徳恵翁主」と言う
映画を探してみたが、やはり存在しなかった。
ネット検索したら直ぐに見付かるし、予告編ならユーチューブでも見ることが出来る。
またネットなら日本語字幕版をレンタルしたり、買ったりするコンテンツは存在する。
しかし韓国内ではかなりヒットしたこの作品が、店舗ベースでは日本語吹き替え版は勿論のこと字幕なしの韓国語ソース版でさえ、日本国内ではレンタル用供給も店頭販売も一切されていない。
新大久保韓流街の専門店でさえ扱っていないのだ。
即ち店舗では需要がないから商業ベースに乗らないのだろう。
つまりこの映画も小説同様、日本人向けではなく韓国国内向けのものなのだ。
映画の内容を掻い摘んで言うと、この映画作品もフィクションであり、日本の歴史専門家やアドバイザーにしてみると、ストーリーはかなり史実から歪曲している、と、言うことになるだろう。
これもまた史実云々よりも当時の歴史は斯く有るべき、と、言う大前提の下に創られていることは言う迄もない。
その他にも色々と存在する日本統治時代の映画やドラマの作品を調べてみたが、概ね同様の結果であった。
韓国作家が描く日本統治時代の作品は、総じてそう言ったものなのだ。
そしてそうでなければ韓国国民は受け入れないのだろう。
畢竟その逆の日本で受け入れられる日本統治時代の韓流小説やドラマ或いは映画と言うものは、何一つとして存在しない。
それを一番証明しているのは、日本の地上波放送に於いて国営民放の別を問わず、日本統治時代ものを一切放送していないと言うことだ。
それ等作品は確かに史実と言う点からは日本人に取って歪曲したものなのかも知れないし、納得のいかないものなのかも知れない。
しかしそのことよりも、韓国の国民が自分達の都合に合わせて創作した「創作伝記」を、一般的な「伝記」として楽しむようになったのは誰のせいなのか。
或いは韓国の国民がそんなレトリックをリアルだとするようになってしまったのは、果たし
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て何処の国のせいなのか。
今我々日本人が最も考えなければならないのは、そのことではないのだろうか。
やはりこの「徳恵翁主」と言う作品は韓国の国民に取って、「創作伝記」ではなく、歴とした「伝記」なのだ。
こうした誤りではない誤りもある。
そしてそこにこそ、もうひとつの文学が存在する。
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