第1話
文字数 3,135文字
そろそろだと思っていたら案の定、きみからの着信があった。
それは午後、昼休みが終わってすでに仕事を再開したあとのことだったので、画面に表示された着信だけ確認して、次の15時の休憩時間になってから電話をかけ直した。
3コールめで君は出た。
『蓮見?』
「うん、さっきはごめんね。仕事中だったから」
『いや、こっちこそ、悪い』
ふだんから訥々とした話しかたをするきみだけど、ことさら元気のない声でぼそぼそと謝るきみに、ぼくは自分の口許が緩むのがわかった。込みあげてくる笑みを気取られないように気を付けながら、おもむろに水を向ける。
「どうした? なにかあったのか」
われながら白々しい台詞だと思う。きみは少しためらったあと、おずおずと用件を切り出してきた。
『あの、さ、蓮見、今晩、なにか用があるか』
「今日? いや、空いてるけど」
『会えるか?』
「いいよ。ついでに晩飯食べようか」
『ん、いつも悪いな』
「なにいってるんだよ、水臭いな」
待ち合わせの場所と時間を決めて通話を終え、端末をしまいながら喫煙所へ向かう。きみの声を聞いたあとは無性に煙草が吸いたくなる。たまたま通りがかった同じ部署の女性社員が、ぼくを見て意外そうな顔をした。
「蓮見さん、なにかいいことでもあったんですか」
「どうして?」
「なんだか、すごく楽しそうな顔していますよ」
ぼくは笑った。
「うん、ちょっとね」
*****
待ち合わせ場所は、駅通りにある居酒屋だった。ぼくは騒がしいところがあまり好きではないけれど、きみは反対に、静かな場所や落ち着いた雰囲気の店が苦手で、そんな互いのあいだをとって、きみと会うときにはたいていいつもこの居酒屋になっていた。
よくある賑やかなチェーン店ではなく、席はひとつずつ仕切りで隔てられていて、だけど完全に個室というわけではなく、周囲の声や物音が聞こえてくる。それも会話を遮るほどではなく、店内に流れるBGMの一部のようで、ちょうどいい。
きみは先にきていた。
「お待たせ」
「いや」
席は和風の座敷ではなく座り心地のいいソファで、いちいち靴を脱ぐ必要がないところが気に入っている。
きみの向かいに座り、おしぼりを運んできた店員に生ビールを注文する。べつにビールが好きなわけではないが、いきなり焼酎やカクテルを頼むときみがぎょっとした顔をするから、とりあえずビールを飲むことにしている。
きみはすでにビールと、いくつか料理を注文していた。
「年明けに会って以来かな」
「そう、だな」
ぼくの言葉に、きみは少し考えるように眉をひそめてから小さくうなずいた。
最後にきみと会ったのは1月13日の夜だ。覚えている。それなのに語尾をぼかしたのはもちろんわざとだ。今日は4月10日。あれから約3ヶ月が経つ。
ぼくは片手でネクタイの結び目を緩めながら、約3ヶ月ぶりに会うきみを観察する。きみは人と目を合わせるのが苦手で、ぼくと会っているときにもいつもうつむきがちにしているので、咎められる心配はなく、遠慮なく眺められる。
柔らかそうな、茶色がかった少し癖のある髪は自然なかんじに整えられていて、形のいい耳を緩やかに覆っている。きゅっと引き結ばれた唇は、おそらく緊張のためだろう、かさかさに乾いているようだ。
濡らしてやりたい、と思う。
そんなよこしまな気配を感じ取ったかのように、きみは顔をあげてぼくを見た。やさしい、甘い顔立ち。髪の色と同じく、色素の薄い瞳は、心のなかが透けて見えるのではないかと思うほど濁りがない。生まれてまもない赤ん坊のような目をしている。
その瞳がふいに泣き出しそうに潤んで、ぼくから逃れるようにふたたび伏せられた。身体が疼く。
店員がビールの入ったジョッキを運んできた。ついでに刺身とサラダを追加で注文して、ぼくはきみに声をかける。
「きみはなにか頼みたいものはないの」
「え、あ……じゃあ、揚げだし豆腐をひとつ」
そうして店員が去ると、ぼくはビールの入ったジョッキを持ってきみに差し出す。きみは半分ほど中身が残った自分のそれを手に取ると、おずおずと近付けてきた。ふたつのジョッキが軽くあたってカツンと音を立てる。
「乾杯」
きみは泣きそうな目をしたまま微かに笑った。
料理が運ばれてきて、しばらくのあいだは当たり障りのない会話をしながら互いに箸を動かしていた。
きみは揚げだし豆腐が好物で、ここへくるたびにかならず注文する。そうして、形が崩れないように細心の注意を払いながら豆腐に箸を入れて、まずはゆっくりと半分に割る。それはまるで、実験のときにプレパラートを扱うような慎重な手つきだと、いつも思う。神経質なきみらしいやりかただ。
豆腐をきっちり四等分に分解し終えると、きみはぽつりとつぶやいた。
「おれ、また、ふられたんだ」
ぼくは黙ってきみを見つめる。だれに、なんて野暮なことは聞かない。そんなことはわかりきっている。
「もう何回めかな。蓮見にこの台詞いうの」
5回めだ。だけどぼくは肩を竦めて違う台詞を口にする。
「さあな」
「いいかげん、呆れるだろ」
「いや、そんなことはないよ」
きみは笑った。くしゃりと顔を歪めて笑った。乾いたきみの唇がひきつるのを眺めながらぼくはビールを飲む。
「おれ、ほんと、だめな男だ」
「そんなことはない。相手に見る目がないだけだ」
それは本心からいった言葉だった。とたんに、きみは小さな子どもみたいな心許ない表情になる。
「蓮見、おまえほんと、やさしいよな」
「ぼくが?」
「ああ。ふつうなら、とっくに愛想尽かしてるだろ」
自嘲するようにいうきみは、ほんの少しの衝撃を受けただけで粉々に砕け散ってしまいそうな危うい気配を漂わせていた。薄く開いたままの唇がわななく。
きみはさながら脆くてきれいな硝子細工のようで。
守りたい。
壊したい。
相反する感情が胸に渦巻く。
きみはそれを知らない。
嵐のように逆巻く激情をビールを流し込んで抑制し、なに食わぬ顔をしてぼくはうそぶく。
「なにいってるんだよ。友だちだろう。そんなことで愛想尽かしたりするわけないよ」
友だち、という単語にきみは弱い。つい数秒まえまでこの世の終わりみたいな顔をしていたきみの頬に、ほんのりと朱が差す。きみはアルコールにそう強くない。ぼくにいわせれば水と変わりないジョッキ半分のビールでも、きみにとっては確実に酔いがまわる代物だ。そんなアルコールに加えてもたらされた「友だち」という言葉にきみは酔った。
きみは自分の価値を知らない。
決して派手ではないけれど、整った甘い顔立ちは他人から好意を持たれるにじゅうぶんなのに、人見知りをするために相手にはなかなか気付かれない。けれど、異性である女性のなかには目敏くそれに気付いて積極的にアプローチをしてくる場合もあって、ぼくの知る限りではこれまでに5人、きみに近付いてきた女性がいた。
異性から好意を向けられると、きみはあっさりとそれを受け入れてしまう。だけど長続きしない。付き合いはじめたあとも、きみは変わらない。交際相手を特別扱いすることはなく、自分の生活を優先させる。その生活のなかに恋人は組み込まれていない。女性がそれで満足するはずもなく。ある程度の期間が過ぎると別れを切り出されるのがお約束になっていた。
そのたびにきみは傷付く。
きみは人見知りをするくせに実は寂しがりやの甘えたがりで、愚かにも、自分でそのことに気付いていない。学生時代からそうだった。おそらく、ぼくだけがそれを理解している。
それは午後、昼休みが終わってすでに仕事を再開したあとのことだったので、画面に表示された着信だけ確認して、次の15時の休憩時間になってから電話をかけ直した。
3コールめで君は出た。
『蓮見?』
「うん、さっきはごめんね。仕事中だったから」
『いや、こっちこそ、悪い』
ふだんから訥々とした話しかたをするきみだけど、ことさら元気のない声でぼそぼそと謝るきみに、ぼくは自分の口許が緩むのがわかった。込みあげてくる笑みを気取られないように気を付けながら、おもむろに水を向ける。
「どうした? なにかあったのか」
われながら白々しい台詞だと思う。きみは少しためらったあと、おずおずと用件を切り出してきた。
『あの、さ、蓮見、今晩、なにか用があるか』
「今日? いや、空いてるけど」
『会えるか?』
「いいよ。ついでに晩飯食べようか」
『ん、いつも悪いな』
「なにいってるんだよ、水臭いな」
待ち合わせの場所と時間を決めて通話を終え、端末をしまいながら喫煙所へ向かう。きみの声を聞いたあとは無性に煙草が吸いたくなる。たまたま通りがかった同じ部署の女性社員が、ぼくを見て意外そうな顔をした。
「蓮見さん、なにかいいことでもあったんですか」
「どうして?」
「なんだか、すごく楽しそうな顔していますよ」
ぼくは笑った。
「うん、ちょっとね」
*****
待ち合わせ場所は、駅通りにある居酒屋だった。ぼくは騒がしいところがあまり好きではないけれど、きみは反対に、静かな場所や落ち着いた雰囲気の店が苦手で、そんな互いのあいだをとって、きみと会うときにはたいていいつもこの居酒屋になっていた。
よくある賑やかなチェーン店ではなく、席はひとつずつ仕切りで隔てられていて、だけど完全に個室というわけではなく、周囲の声や物音が聞こえてくる。それも会話を遮るほどではなく、店内に流れるBGMの一部のようで、ちょうどいい。
きみは先にきていた。
「お待たせ」
「いや」
席は和風の座敷ではなく座り心地のいいソファで、いちいち靴を脱ぐ必要がないところが気に入っている。
きみの向かいに座り、おしぼりを運んできた店員に生ビールを注文する。べつにビールが好きなわけではないが、いきなり焼酎やカクテルを頼むときみがぎょっとした顔をするから、とりあえずビールを飲むことにしている。
きみはすでにビールと、いくつか料理を注文していた。
「年明けに会って以来かな」
「そう、だな」
ぼくの言葉に、きみは少し考えるように眉をひそめてから小さくうなずいた。
最後にきみと会ったのは1月13日の夜だ。覚えている。それなのに語尾をぼかしたのはもちろんわざとだ。今日は4月10日。あれから約3ヶ月が経つ。
ぼくは片手でネクタイの結び目を緩めながら、約3ヶ月ぶりに会うきみを観察する。きみは人と目を合わせるのが苦手で、ぼくと会っているときにもいつもうつむきがちにしているので、咎められる心配はなく、遠慮なく眺められる。
柔らかそうな、茶色がかった少し癖のある髪は自然なかんじに整えられていて、形のいい耳を緩やかに覆っている。きゅっと引き結ばれた唇は、おそらく緊張のためだろう、かさかさに乾いているようだ。
濡らしてやりたい、と思う。
そんなよこしまな気配を感じ取ったかのように、きみは顔をあげてぼくを見た。やさしい、甘い顔立ち。髪の色と同じく、色素の薄い瞳は、心のなかが透けて見えるのではないかと思うほど濁りがない。生まれてまもない赤ん坊のような目をしている。
その瞳がふいに泣き出しそうに潤んで、ぼくから逃れるようにふたたび伏せられた。身体が疼く。
店員がビールの入ったジョッキを運んできた。ついでに刺身とサラダを追加で注文して、ぼくはきみに声をかける。
「きみはなにか頼みたいものはないの」
「え、あ……じゃあ、揚げだし豆腐をひとつ」
そうして店員が去ると、ぼくはビールの入ったジョッキを持ってきみに差し出す。きみは半分ほど中身が残った自分のそれを手に取ると、おずおずと近付けてきた。ふたつのジョッキが軽くあたってカツンと音を立てる。
「乾杯」
きみは泣きそうな目をしたまま微かに笑った。
料理が運ばれてきて、しばらくのあいだは当たり障りのない会話をしながら互いに箸を動かしていた。
きみは揚げだし豆腐が好物で、ここへくるたびにかならず注文する。そうして、形が崩れないように細心の注意を払いながら豆腐に箸を入れて、まずはゆっくりと半分に割る。それはまるで、実験のときにプレパラートを扱うような慎重な手つきだと、いつも思う。神経質なきみらしいやりかただ。
豆腐をきっちり四等分に分解し終えると、きみはぽつりとつぶやいた。
「おれ、また、ふられたんだ」
ぼくは黙ってきみを見つめる。だれに、なんて野暮なことは聞かない。そんなことはわかりきっている。
「もう何回めかな。蓮見にこの台詞いうの」
5回めだ。だけどぼくは肩を竦めて違う台詞を口にする。
「さあな」
「いいかげん、呆れるだろ」
「いや、そんなことはないよ」
きみは笑った。くしゃりと顔を歪めて笑った。乾いたきみの唇がひきつるのを眺めながらぼくはビールを飲む。
「おれ、ほんと、だめな男だ」
「そんなことはない。相手に見る目がないだけだ」
それは本心からいった言葉だった。とたんに、きみは小さな子どもみたいな心許ない表情になる。
「蓮見、おまえほんと、やさしいよな」
「ぼくが?」
「ああ。ふつうなら、とっくに愛想尽かしてるだろ」
自嘲するようにいうきみは、ほんの少しの衝撃を受けただけで粉々に砕け散ってしまいそうな危うい気配を漂わせていた。薄く開いたままの唇がわななく。
きみはさながら脆くてきれいな硝子細工のようで。
守りたい。
壊したい。
相反する感情が胸に渦巻く。
きみはそれを知らない。
嵐のように逆巻く激情をビールを流し込んで抑制し、なに食わぬ顔をしてぼくはうそぶく。
「なにいってるんだよ。友だちだろう。そんなことで愛想尽かしたりするわけないよ」
友だち、という単語にきみは弱い。つい数秒まえまでこの世の終わりみたいな顔をしていたきみの頬に、ほんのりと朱が差す。きみはアルコールにそう強くない。ぼくにいわせれば水と変わりないジョッキ半分のビールでも、きみにとっては確実に酔いがまわる代物だ。そんなアルコールに加えてもたらされた「友だち」という言葉にきみは酔った。
きみは自分の価値を知らない。
決して派手ではないけれど、整った甘い顔立ちは他人から好意を持たれるにじゅうぶんなのに、人見知りをするために相手にはなかなか気付かれない。けれど、異性である女性のなかには目敏くそれに気付いて積極的にアプローチをしてくる場合もあって、ぼくの知る限りではこれまでに5人、きみに近付いてきた女性がいた。
異性から好意を向けられると、きみはあっさりとそれを受け入れてしまう。だけど長続きしない。付き合いはじめたあとも、きみは変わらない。交際相手を特別扱いすることはなく、自分の生活を優先させる。その生活のなかに恋人は組み込まれていない。女性がそれで満足するはずもなく。ある程度の期間が過ぎると別れを切り出されるのがお約束になっていた。
そのたびにきみは傷付く。
きみは人見知りをするくせに実は寂しがりやの甘えたがりで、愚かにも、自分でそのことに気付いていない。学生時代からそうだった。おそらく、ぼくだけがそれを理解している。