第1話

文字数 1,999文字

「雀は死ぬまで暴れるぞ」
父が言ったとおり鳥籠に入れた雀は激突を繰り返し血塗れになった。私が小学校低学年ぐらいだったか、赤茶色の小さな塊が物凄い速さで暴れ飛び籠をガシャンガシャン鳴らして揺らした。私が血の塊を見ている間に父はさった。もともと家に居ない人だったが、その日を境に顔を見ていないし今も知らない。箪笥の引き出しに見覚えのない真っ赤なブラジャーが私の下着と並んでいるのを眺めながら夫と母の顔を思い出していた。父の顔は霞んだ先で輪郭ぐらいしか捉えることが出来なかった。母の上唇が捲れあがり左の八重歯だけを覗かせた顔。目の毛細血管が切れ白目の縁が赤い。私に向けた顔。夫が買ってきたのだろう。総レースの赤いブラジャーは私には小ぶりのサイズだ。まだ付いたままの値札を確認しながら、夫は女の私より女らしいとつくづく思う。夫の下着をもとに戻して部屋中に置かれた大小様々の植物達に葉水をやる。朝昼晩の私の大切なルーティンだ。そういえば母は植物には全く興味を示さなかった。友達の玄関ポーチにはパンジーや何かしら手入れの行き届いた鉢植えが並んでいたが、うちの玄関にはときおり目も開いてない仔猫数匹を詰めたビニル袋が置き去りにされていた。母が野良猫に餌をやっていたからだろう。私のうちは猫屋敷と呼ばれていた。あの猫達がどうなったのかは知らないが家に取り残された母と私にとって毎晩タライいっぱいに猫まんまを作り、私達も鰹節ご飯を一緒に食べるという決まり事のようなものは必要だったのかもしれない。霧吹きで丁寧に葉を濡らしながら南のベランダから入ってくるレースカーテン越しのひかりに私は植物達には良い環境だとひとりごちた。
 夕飯の支度も一緒にやりたがる夫の為、冷凍してある鶏肉を解凍し台所にやりやすいよう材料を並べておく。仕事から帰ってきた夫はすぐさまスーツを脱ぎ捨て手を入念に洗いコットンのネイビーのエプロンをつける。私にはお揃いのベージュ。夫が選んで買ってきたものだ。夫は鼻歌まじりに私の支持を待つ。この台所では夫が紺色かと思ったが私に与えられたベージュのエプロンに夫はよくわかっていると私は自分を納得させた。母は私が手伝うことを嫌がったし、私を台所から追い払った。今ならその気持ちがわかる。私は夫の好きなオムレツの卵液に育てているスィートマジョラムをたくさん混ぜ込んだ。夫はあまりレタスを食べない。眠くなる成分が入っているかららしいが、この香草も眠気を誘う。妊婦にもよくない成分。それと制淫。夫は勿論知らない。オーブンを開けるとローズマリーの香りが膨らむ。低脂肪高タンパク。夫の好む素材。
 父からの仕送りがたえて母は化粧をしなくなった。日本酒で作っただとか今回は焼酎で作っただとかよくわからない手製の化粧水を塗り込み、挙句の果てにはシャッターの降りっぱなしのガレージの隅にほってあった鉢植えのアロエを食べ出した。化粧水作りで余った酒をちびちび舐めアロエをそのまま齧りながら群がる野良猫を日がな眺めては猫の額に隠れるノミを潰していた。血を吸ったノミは膨れ上がっているからすぐに捕らえられる。酒を呑む母の目の縁よりも白目の赤は鮮明だ。
 母と近所に住む同級生の父親の噂はすぐまわってきた。きっちり判を押した回覧板みたいに。血統書付きの毛足が長いグレーの猫を飼っている寺田さん。シルバーがかった青い目の猫。寺田さんのお父さんは夜でもサングラスをしていたが、昔流行った寺尾聡の真似なんだろうと思っていたし髪型だってそっくりだった。寺田さんのお父さんの車に乗り込もうとする母を呼び止めたとき、久々に化粧をほどこした母を見た。振り返った母の表情は街灯に照らされ白んでいた。突っ立ったままの私に猫でも追い払うような手つきで「しっー」と赤く塗られた唇を歪ませ八重歯を覗かせた。その晩母はなかなか帰ってこず私は台所の勝手口から続くガレージに座って母を待ち続けた。やってきたのは一匹の猫だった。僅かに届く街灯の薄いひかりに長い毛足の先が銀色に波打つ。うちに集まる野良猫とは違う灰色の毛の猫。どこからか猫が一匹、そしてまた一匹と現れた。うちの野良だ。灰色の毛を揺らしながら並ぶ茶トラとキジ猫に寺田さんの猫は交互に跨った。運動会でやる余った三人のピラミッドの組体操みたいだと私は黙って揺れる塊が発する呻めき声を聴いていた。
 夫はちょくちょく女装倶楽部に顔を出してはいるみたいだが中身は男でもある。今日見つけた赤いブラジャーは倶楽部で遊ぶ為の衣装だろう。夫の趣味に関して私は何も言わない。私の下着と一緒に並ぶ夫の色鮮やかなブラジャーにショーツ。私のより数が多い。今日の夫は長風呂だ。私はベッドを整え夫を待った。もう何本目だかわからない缶チューハイを飲みながら酔った頭の中で灰色の猫が揺れている。逃げ出そうと暴れる狂う雀はとっくに息絶えていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み