第三章・第二話 束の間、甘い刻《とき》
文字数 6,998文字
居留地に訪ねるという
「あいつの名前聞いた時、俺も同じこと訊いたよ、本人に」
「違うの? じゃ、混血とか?」
「確かに混血ではあるみたいだぜ。父上が
「アーニー?」
「あ、悪い。アーネストの愛称。まあ、
「ふーん。じゃ、その『サトウ』って名字は、日本由来のものなの?」
「それも違うらしい。父上の出身地で使われてる稀少姓だって聞いたぜ。ちゃんと英語の綴りもあるから、アーニーには日本人の血は入ってないらしい」
「英語って……」
「アーニーの故郷の言葉だよ。異国に行くなら、英語は最低限覚えたほうがいいと思う。米国人にも通じるから」
「ふーん……」
覚えず、微妙な声が漏れてしまう。
元々は、『異国に逃げる選択肢も考えてくれ』と、随分前に家茂が持ち出した駆け落ち話に、和宮自身が返事をしたようなものだ。だから家茂も、何の気なしに『異国語を覚えたほうがいい』なんて言うのだろうが、いざ落ち着いて話をすると、まだまだ複雑な心境もある。
もちろん、異国を嫌っていたのは兄帝であって、和宮自身ではない。和宮にとっては、異国を好きだと思う理由はないが、嫌う理由もまたないと、先刻気付いたばかりだ。
家茂から話を聞けば、異国に興味が持てるかと思ったが、感情はそう簡単ではないらしい。言語修得の話になると、ますます興味が遠退く気さえする。
ただ、楽しそうに話す家茂を見るのは、和宮としても楽しかった。いつもと違う彼の一面を見たようで、先刻彼にも言ったが、とても新鮮だ。
知らなかった一面と言っても、
「……なあ、
会話が途切れた間合いで、家茂が馬を寄せて来た。並足より遅い速度で馬を並べて歩きながら、彼がそっと和宮の手を取る。
「無理しなくていいぞ」
「え」
「本当は行きたくないんじゃないのか? 横浜にも、異国にも」
いきなり図星を指され、『そんなことはない』と否定もできない。否定しても、きっと彼には見抜かれてしまうだろう。
「……あの……」
「別に責めてるわけじゃない。だから……まず、お前が今思ってること、言ってみて」
家茂の顔をチラリと見れば、彼が言っていることは本心だとすぐ分かる。
思えば、いつだってそうだ。彼はいつも、和宮の気持ちを最優先に考えてくれる。建前でも、世間体でもなく、彼の体面でも気持ちでもなく、和宮のやりたいことを大事にしてくれる。
(……だったら、……あたしもそうあるべきじゃないの?)
ふと、自問が浮かぶ。
彼がいつだって和宮に寄り添ってくれたから、彼の傍は居心地がよかった。甘やかされるまま、泣いて甘えて、彼が好きだから離れたくなくて、つい『異国に行こう』と口が滑ったけれど、本心でないことで彼をぬか喜びさせたかも知れないと思うと、急に
家茂を心から愛しているし、それは心底本音だけれど、考えてみれば、和宮のほうは家茂を、彼の気持ちを優先したことなんてなかったのかも知れない。
「……ごめんなさい」
「
「あたし……あんたのこと、考えたことなかったのかも」
「……どういう意味だよ」
「あたしは、結局あたしだけの気持ちを優先して来たってことよ。あんたが文句も言わずに、不満も漏らさずに黙ってあたしに従ってくれたから、あたしはあたしを優先できた。でも、あんたは? あんたのやりたいことこそ、今あたしは訊かなくちゃいけないのに」
「……俺は、お前に不満を持ったことなんてないぜ。まあ、率直に言って、『皇族の
実際に不満らしきものを口にされると、内心へこむ。しかし、それを口にするのも、彼の誠実さなのだ。
和宮の気分を、まるで繋いだ手から察したように、家茂は微苦笑を漏らす。
「だからって、それがなかったらとは思わねぇよ。それも全部含めて、『
「家茂……」
「お前は今まで、お前だけが我が儘を通して来たって思ってるかも知れないけど、それは違う。俺がそうしたかったんだ。
聞いている内に涙が溢れて、止める間もなく頬を転がり落ちた。
家茂は、また苦笑して、馬を止めた。和宮の乗った馬の手綱も引いて足を止めさせると、和宮の頬へ掌を滑らせる。
「……今日は、帰ろうか」
「……ッ、でも」
「横浜は、また今度行こう。
「……ッ……バカ」
急に悪口を言われれば当然、家茂でなくても不快になるだろう。彼も例に漏れず、眉根を寄せ、若干唇を尖らせた。
「……何で突然『バカ』呼ばわりされなきゃなんないわけ」
「だってっ……あんた、どこまであたしを甘やかせば気が済むの!? 前から訊こうと思ってたけど!!」
唐突に、逆上する勢いで言いながら、和宮は彼の掌から離れるように顔を背け、目元をゴシゴシと
瞬時、呆気に取られたような
「家、」
「心外だな。俺は俺のやりたいようにやってるだけだぜ。さっきも言ったと思ったけど」
不敵に笑う家茂は、もういつもの彼だ。
「や、やりたいようにって」
「お前が喜ぶことなら何だってしてやるよ。幸せだって思ってくれるなら、俺はどんなことでもする。前にも言ったよな。俺はもう、身も心も命も全部、お前の
「み、『身も心も命も』なんて付いてなかった!」
「じゃ、今聞いたろ」
「だったら、京まで一緒に」
「それは却下だ」
「話が違う!」
「言い忘れたけど、二人が本格的に別れる危険は冒せない。それが例え、お前の望みだとしてもな」
「望みって……あたしは別れることなんて望んでない」
「だったら、江戸で待ってろ」
「どーしてそうなるのよ!」
噛み付くように訊くと、家茂は泣きそうに見える微笑を浮かべた。けれど、それは一瞬で不敵な微笑に塗り替えられる。
「そろそろ昼が近いから、軽く食事にしようぜ」
明後日の方向の答えが返り、和宮は唖然とした。しかし、家茂は構わずに「桃の井」と邦子のほうへ顔を向ける。
二人から少し離れていた邦子は、「はい、上様」と答えながら、馬を寄せて来た。
「そういうわけだから、
「承知いたしました。では、上様と宮様は、わたくしが戻るまで、わたくしの馴染みの料亭にいてくださいませ」
『いてくださいますか』ではなく、『いてくださいませ』――つまりは強制だ。
家茂も、それは感じ取ったらしい。逆らうと、遣いには立ってくれなさそうだ、と見たのか、「分かったよ」と短く答えて、肩を竦めた。
***
邦子が案内してくれた料亭で、家茂と和宮が食事を終えて少し経つ頃には、邦子に連れられた崇哉が合流し、四人は料亭を出た。
結局、昼食の間も、家茂はなぜ『別れたくなければ江戸で待っていろ』という理論になるのか、教えてくれなかった。ただ、普段、ほぼ全面的に和宮の意思を尊重してくれる家茂が、彼自身の意見を曲げない時は、必ず納得せざるを得ない理由がある。
となれば、彼が今回、どうしても和宮を江戸へ置いていくと言い張る理由は、遅くとも江戸出発前には話してくれるだろう。
そう思って(というより到頭諦めて)、和宮は取り敢えずこの二人きり(正確には従者が二人いるが)の外出を楽しむことに決めた。
雛市や、その後の熾仁との話し合いの時と違って、相愛になってから初めての、単純に二人で楽しむ為だけの外出だ。このあと、家茂と長く離れることになることも、今は考えまい。
「美味しかったね」
料亭を出てから話を振ると、昼食の感想だと分かったのだろう。料亭に入る前の話題は敢えて触れずに、家茂は頷いた。
「だな。普段は毒味の
「
「直したら直したで多分、味が落ちる料理もあるぜ」
「家茂って意外と味にうるさい?」
「こーら」
拳で痛くない程度に、コンと頭を小突かれる。
「ここでは『
「あ、そうだった。ごめん」
和宮は、慌てて口元を押さえて肩先を縮めた。
さっきからずっと『家茂』と呼んでいたのに訂正しなかったのは、まだあの辺りは人通りが少なかったからだろう。
「じゃ、街見物に行くか。何が観たい?」
訊きながら、家茂はさり気なく和宮の手を取った。
「んー……市場、とか?」
「市場?」
「うん。雛市みたいなの、今頃はないの?」
「んー……ちょっと前なら、
しかし、今月末になると、今年は家茂は江戸にいない。
江戸・京間の往復には、それなりに日数が掛かる。単純に行って帰って来るだけでも、今月末には間に合わないだろう。
まして、家茂の場合は、帝に会いに行き、今後の外交について、話し合いをしなくてはならないのだ。
「でも、日用雑貨とかの商店街ならあるぜ。行くか?」
会えない日々を思い、沈み掛けた思考をすくい上げるように家茂の声が掛かる。
「うん!」
顔を上げ、満面の笑みで頷いた和宮に、家茂も微笑して和宮の手を引いた。
家茂が連れ出してくれた商店街は、去年見た雛市と比べると、若干賑わいが劣るようだった。だが、日常生活に必要なものを売っている店が軒を連ねている所為か、それなりに人通りが多い。
惣菜屋や野菜、魚などを売る食べ物屋が続く通りを抜けると、服飾品が店先に並ぶ通りへ入った。
「あっ、菊千代! あのお店、ちょっとだけ見てもいい?」
和宮が指さす先には、
「……いいけど、見るだけだぞ」
「……何よぅ、その言い方」
「だってお前、去年の雛市のこと、忘れたのか? どの店でもいいよーにホイホイ買わされまくってさ。お前、実は詐欺に弱い類型だろ」
「さっ、詐欺だなんて――そんな簡単に騙されるわけないでしょ!」
頬を膨らせて唇を尖らせる和宮に、家茂はからかうような微笑を向ける。
「どーだか。第一、詐欺師が『詐欺師でございます』って言うわけねぇし、お前、何だかんだで結構人がよくて素直だから」
「それ、褒めてんの?」
「さーな」
ニヤリとどこか意地悪げな微笑を浮かべた彼は、和宮の額をツンと人差し指でつつくと、改めて和宮の手を引いた。
「行くぞ。見たいんだろ?」
「う、うん」
店先に歩み寄ると、やはり簪以外は見たことのない装飾品がズラリと並んでいる。
上のほうには、房飾りのような、どこに付けるのか分からない可愛らしい飾りが下がっている。腹部より少し低いくらいの高さに設えられた棚の上には、簪と、長い布の端に刺繍が施されたものが並んでいた。
「いらっしゃい」
身を
こういう笑顔の商人は、実に言葉巧みだ。気付いたらこちらは商品を手に、代金を支払わされているのは、去年の雛市で身に
それは分かっていたが、和宮はその場の疑問を解消せずにはおられなかった。
「あの、これは簪よね」
簪らしき棒飾りを手に取る。やはり硝子細工のようだ。滑らかな石のような手触りのそれが、棒状に整えられ、片側が細く尖り、もう片側が玉飾りのようになっている。
「そうですよ」
「ほかは、どうやって飾るの? 見たことないものばっかり」
すると女性は、細長い布を最初に手に取った。
「これも、髪に飾るものですよ。こうして」
と和宮の、頭頂部で結い上げていた髪の根本に当てる。
「そしてこちらは、衣服に飾ります」
房飾りを一つ取り上げ、女性は自分の胸元へ当てて見せた。
「
「朝鮮?」
「幕府が開かれた前後から、国交がある半島国だ。大陸にあって、清国〔中国〕と隣接してる」
家茂が横から口を挟んだ。
「徳川幕府支配の前にこの国を統治してた、豊臣秀吉が
「そっか……そうだよね」
和宮は、口元へ手を当てて、眉尻を下げた。
国と国の
「じゃあ、これもその、朝鮮の?」
和宮は、輪っかのように細工された硝子飾りを指さした。
「はい。これは指輪と言って、指にはめるものです。こうして」
女性は、答えながら硝子飾りを指へ通す。
「金銀細工もあるんだな」
話に入って来た家茂に、女性が頷いた。
「ええ。こちらも朝鮮から入って来たものと、
女性は、硝子飾りを指から外して、元通り売場へ戻す。
彼女が朝鮮の品だといった指輪は、外側が丸みを帯び、指に当たる部分が真っ直ぐに整えられている。色は、
金か銀でできた細工のそれも、意匠は同じだった。
他方、蘭国のものと説明されたそれは、一見、本当に細い輪っかだけのように思えたが、よく見ると、凝った彫り模様が施されている。
「……
「え」
不意に名を呼ばれて顔を上げた時には、左手を取られ、薬指に蘭国製の銀細工の指輪が通されていた。
「い、……菊千代?」
家茂、と呼びそうになって、慌てて呼び直す。しかし家茂は、和宮の顔と付けた指輪を、
「きつくないか?」
「う、うん……ちょうどいい、けど……急に何?」
和宮の問いに答えることなく、家茂はほかの指輪にもじっと目を落としている。かと思うと、また和宮の指にはめた指輪へ、目を戻した。
「やっぱり、これがいいな」
「えっ」
「もう一つ、朝鮮製のから好きなの選べよ。買ってやる」
「ええっ?」
和宮は、目を丸くした。
「えっ、だって……菊千代、見るだけだって」
「気が変わった。西洋じゃ、結婚したら、夫婦がお互いに指輪を贈り合う風習があるって、アーニーから聞いたの、思い出したんだ」
だからこれは、と挟んで、家茂は和宮の指にはめた指輪を、一旦引き抜く。
「……まあ、俺の自己満足だ。西洋の風習なんて、蘭国のものでも嫌だったら言って。無理強いはしたくないし」
「ううんっ、いる!」
家茂が抜いた指輪を摘んだほうの手首を握り、和宮はブンブンと首を横へ振った。
「菊千代。それ、どの辺にあったの?」
「えっ……ああ、ここかな」
家茂が指した辺りの指輪を、和宮も凝視する。
家茂の持つ指輪に目を凝らすと、簡素な銀細工に細かな模様が彫ってある。花の意匠だが、何の花か、種類は分からない。
恐らく、造り手の意図としては、花の種類をはっきりさせてしまうと、付ける季節を限定してしまうからだろう。
(花だと明らかに女性向けの装飾だもんねー……いや、家茂なら似合いそうだけど)
本人に聞かれたら、何を言い返されるか分からないことを脳裏で呟くと、和宮は改めて売り物のほうへ視線を落とした。
その中から、蔓草の意匠の模様が彫ってある銀細工を取り上げる。
「じゃ、あたしからも菊千代に」
彼の左手を取って、同じように薬指にはめる。
「どう?」
「……ちょうどいいみたいだ」
クス、と彼の唇に苦笑が浮かぶ。
「朝鮮製のは要らない?」
当たり前のように問うと、彼の苦笑が深くなった。
「朝鮮の風習では、既婚でも指輪を付けるのは女性だけらしいから」
「あ、そうなんだ。菊千代、よく知ってるね」
「朝鮮との外交は昔からのことだし、そうなると管轄内だからな」
「ふーん……」
半分、指輪のほうへもう意識が言っていた和宮の返答は、自然生返事のようになる。
散々、あれが可愛い、これも綺麗と迷った末に、薄桃色の二連の指輪を選んだ。その
©️神蔵 眞吹2024.