立入調査
文字数 1,910文字
「労基 が来た?」
稲生 悟 はチェック中の採用書類から顔を上げた。部下の一瀬 由里香 は緊張した面持ちで頷いた。
労基――労働基準監督署は、労働に関する法に違反する企業を取り締まる機関である。企業を訪問して法令違反がないかを調査し、その結果に応じて改善命令を出す。
言うまでもなく、法の遵守は企業の義務である。しかし全く違反のない企業はまれだ。労働時間を例に取ると、原則1日8時間、1週40時間を超えてはならないとされるが、人員不足や業務過多で守れていないところが大多数である。そういった実態を監督署は指摘してくるのだ。
そして監督署の調査には、定期調査と申告調査の2パターンがある。定期調査は事前に訪問の連絡があり、企業は十分に準備して臨むことになるが、申告調査は予告なしにやって来る。こちらは労働者から申告があった場合だ。今回の立入について人事部は連絡を受けていない。つまり、勤務している誰かが監督署に連絡を入れたことになる。
「どこ?」
思い当たる事業所は多い。だが一瀬の口から出たのは意外な答えだった。
「赤羽店です」
「まさか!」
稲生が即座に言ったのは、赤羽店だけは異例中の異例の優良店だからだ。半年前に現店長の荒木 護 が赴任してから、労働環境は抜群に改善されている。荒木は外勤と内勤を行ったり来たりしている“二刀流”だ。書類の提出期限を破ったことはなく、事務部門では『〆切まもるさん』の愛称で親しまれている。
「ですよね」
「うむ……状況は訊いた?」
「はい。出勤簿とシフト表と賃金台帳の提出を求められたので、保管してあるデータを見せたそうです。その場で検査は終わり、タイムカードの打ち忘れについて指導票を出すとのことでした」
ほっとする。指導票は、法令違反ではないが要改善と判断された場合に出される書類だ。調査では必ず何かしら指導事項があるもので、法令違反――是正勧告書が出なければそう大きな問題ではない。
「荒木さんに思い当たる節は?」
「ないそうです。今の従業員とは良好な関係を築けているつもりだと。先日の満足度アンケートの結果もそれを裏付けているので、間違ってはいないかと。それとこれは荒木さんの主観なんですが、労基も何だか腑に落ちないような顔をしていたと。こんなはずではって感じがしたそうです」
目星をつけていたのが外れた、というところか……考え込んだ稲生へ、一瀬は言った。
「誰かが嘘の申告をしたんじゃないでしょうか。例えば――」
「一瀬君」稲生は遮った。その先に出るどんな言葉が――いや名前が出るか気づいたのだ。
「今は言うべきじゃない」
「ですが……」
「ないとは言えない。だが決めつけるのは早計だ」稲生は一瀬に、そして自分にも言い聞かせるように言葉を継ぐ。
「荒木さんとて完璧じゃない。事実、監督署が動いたんだ。それに従業員の全員が全員、何の不満もないわけじゃない。アンケート結果も100%ではないんだから……とりあえず、指導票が届くまでは様子見だ」
「わかりました」
一瀬は席に戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、稲生の手は社員名簿を取っている。稲生はページをめくる。
荒木が赴任するまで、赤羽店の店長だった社員。コミュニケーション不足により従業員間の雰囲気が非常に悪くなり、それが業績にも影響を与えたため、店長を解任され異動になった。その社員は木更津店で勤務しており、現在は役職なしである。自業自得だが、悔しさが歪んだ憎しみに姿を変えることは珍しくない。
やがて稲生はその社員を見つける。
牛窪 倫子 。
(彼女が……?)
無表情な明朝体は、何も答えをくれなかった。
牛窪倫子から退職願が提出されたのは、赤羽店の立入調査から一週間後のことだった。
理由は、一身上の都合。部長にもそれ以上は語らず、説得も受け付けなかった。退職願は受理され、手続きは人事部に移された。
「牛窪さんが辞めるそうですね」退職願を手にした稲生に、一瀬は声をかけた。
「やっぱり……」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。だがもう過ぎたことだ。これ以上詮索しないほうがいい」
「そうですね」
一瀬は溜め息をつく。真相は分からない。だがもし彼女であったのなら、まだけじめをつけるだけの良心が残っていたのだと信じたい思いだった。
浮かない顔の部下に、稲生は静かに言葉をかける。
「私たちの仕事には、白黒で塗り分けられないことがたくさんある。ただ、考えることだけは止めないように。いつかは自分に還ってくるから」
「わかりました」
一瀬はしっかりと返事をした。
「そうだ、指導票が届いたぞ。これから改善策を考えよう」
「はい!」
元気のいい返事に、稲生は相好を崩した。
労基――労働基準監督署は、労働に関する法に違反する企業を取り締まる機関である。企業を訪問して法令違反がないかを調査し、その結果に応じて改善命令を出す。
言うまでもなく、法の遵守は企業の義務である。しかし全く違反のない企業はまれだ。労働時間を例に取ると、原則1日8時間、1週40時間を超えてはならないとされるが、人員不足や業務過多で守れていないところが大多数である。そういった実態を監督署は指摘してくるのだ。
そして監督署の調査には、定期調査と申告調査の2パターンがある。定期調査は事前に訪問の連絡があり、企業は十分に準備して臨むことになるが、申告調査は予告なしにやって来る。こちらは労働者から申告があった場合だ。今回の立入について人事部は連絡を受けていない。つまり、勤務している誰かが監督署に連絡を入れたことになる。
「どこ?」
思い当たる事業所は多い。だが一瀬の口から出たのは意外な答えだった。
「赤羽店です」
「まさか!」
稲生が即座に言ったのは、赤羽店だけは異例中の異例の優良店だからだ。半年前に現店長の
「ですよね」
「うむ……状況は訊いた?」
「はい。出勤簿とシフト表と賃金台帳の提出を求められたので、保管してあるデータを見せたそうです。その場で検査は終わり、タイムカードの打ち忘れについて指導票を出すとのことでした」
ほっとする。指導票は、法令違反ではないが要改善と判断された場合に出される書類だ。調査では必ず何かしら指導事項があるもので、法令違反――是正勧告書が出なければそう大きな問題ではない。
「荒木さんに思い当たる節は?」
「ないそうです。今の従業員とは良好な関係を築けているつもりだと。先日の満足度アンケートの結果もそれを裏付けているので、間違ってはいないかと。それとこれは荒木さんの主観なんですが、労基も何だか腑に落ちないような顔をしていたと。こんなはずではって感じがしたそうです」
目星をつけていたのが外れた、というところか……考え込んだ稲生へ、一瀬は言った。
「誰かが嘘の申告をしたんじゃないでしょうか。例えば――」
「一瀬君」稲生は遮った。その先に出るどんな言葉が――いや名前が出るか気づいたのだ。
「今は言うべきじゃない」
「ですが……」
「ないとは言えない。だが決めつけるのは早計だ」稲生は一瀬に、そして自分にも言い聞かせるように言葉を継ぐ。
「荒木さんとて完璧じゃない。事実、監督署が動いたんだ。それに従業員の全員が全員、何の不満もないわけじゃない。アンケート結果も100%ではないんだから……とりあえず、指導票が届くまでは様子見だ」
「わかりました」
一瀬は席に戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、稲生の手は社員名簿を取っている。稲生はページをめくる。
荒木が赴任するまで、赤羽店の店長だった社員。コミュニケーション不足により従業員間の雰囲気が非常に悪くなり、それが業績にも影響を与えたため、店長を解任され異動になった。その社員は木更津店で勤務しており、現在は役職なしである。自業自得だが、悔しさが歪んだ憎しみに姿を変えることは珍しくない。
やがて稲生はその社員を見つける。
(彼女が……?)
無表情な明朝体は、何も答えをくれなかった。
牛窪倫子から退職願が提出されたのは、赤羽店の立入調査から一週間後のことだった。
理由は、一身上の都合。部長にもそれ以上は語らず、説得も受け付けなかった。退職願は受理され、手続きは人事部に移された。
「牛窪さんが辞めるそうですね」退職願を手にした稲生に、一瀬は声をかけた。
「やっぱり……」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。だがもう過ぎたことだ。これ以上詮索しないほうがいい」
「そうですね」
一瀬は溜め息をつく。真相は分からない。だがもし彼女であったのなら、まだけじめをつけるだけの良心が残っていたのだと信じたい思いだった。
浮かない顔の部下に、稲生は静かに言葉をかける。
「私たちの仕事には、白黒で塗り分けられないことがたくさんある。ただ、考えることだけは止めないように。いつかは自分に還ってくるから」
「わかりました」
一瀬はしっかりと返事をした。
「そうだ、指導票が届いたぞ。これから改善策を考えよう」
「はい!」
元気のいい返事に、稲生は相好を崩した。