終章 始まりの花喰い鳥

文字数 7,612文字

終章 始まりの花喰い鳥

「何!ついにブッチャーが製鉄所から出て行くの?しかも行き先は銘仙の工場。」

杉三も蘭も顔を見合わせる。これをみて、水穂はやっぱり止めてあげればよかったかなと思う。

「そうだよな。やっぱり杉ちゃんも蘭も、かわいそうだと思うよな。本人はやる気満々で、織元の新山融さんもとても喜んでいたから、手を出せなかった。」

「いや、どんな職業でも、入社祝いというものはしなきゃいけない。多分彼の事だから、派手な物品は嫌がるだろうから、何にしようかな。」

勝手に母美千恵がテーブルの上に置いていた、ギフトショップのカタログをパカンと開いて、

「どれにしようかな。結構落ち着いたものがいいだろうな。」

なんて言いながら、結構楽しそうに入社祝いを探し始める杉三だった。

「全く気が早いなあ。」

と笑っている蘭も、嫌な顔をしているかというとそうではなさそうだ。

「二人とも、嫌じゃないのかい。今回、わざわざ彼をかわいそうというか、ある意味危険地域と呼ばれるところへ送り出して。これから、侮蔑的な発言だってされるかもしれないし、関係のないことを無理やり押し付けられて、辛い思いをすることだってあるだろうよ。むしろ、そういう事のほうが圧倒的に多い世界に、本来であればその必要のない人をやってしまったというのは、見ている側にとってはつらくてたまらないよ。」

「いや、大丈夫だ。お前は当事者だから、確かに悲しい気持ちしか残っていなかったのかもしれないが、今は憲法で人種差別の撤回は保障されているんだし、法の下に平等という言葉もあるんだから、いざとなればそこをばねにして生きていける。それに、彼の事だから、そういう用語を教えなくても、強く生きていけるような気がするよ。心配なのかもしれないが、多分、必要ないんじゃないの。」

水穂の発言に蘭はしっかりと返した。

「それに、銘仙の着物だって、お前が考えているほど粗末に扱われているようではなさそうだぞ。」

「そうそう。カールおじさんもそう言っていたよ。いくら格が低いので、改まったところには着ないようにと注意をしても、かわいいからと言って、平気で着て行ってしまう人が多くて困っていると。ま、今は着物の格なんてどうでもいいという人のほうが多いから。それとおんなじだと考えればいいんじゃないの?」

「専門的に言ったら、日本は敗戦ということで、一度それまであった伝統は全部崩れ去って消えているという事実もあるので、そこを考えるとまた違ってくると思うよ。」

蘭はなかなか雄弁だ。

「そうそう。いつまでも戦前のころの思想を持ち出してはいかん。蘭がさっきも言ったけど、空っぽになったということはよいものが入ってくるきっかけでもあるのだけど、どうもそれができなかったというのが日本社会じゃないのかな。そのごちゃまぜの戦渦を無理やり生きていかなきゃいけないのが若い人でしょ。だったら、少しでも苦しまずに生かしてやれるようにしなきゃいけないんじゃない。」

「杉ちゃんに言われちゃおしまいだ。」

「いったいどうしたの、ふたりとも。そんな専門家みたいな発言するようになっちゃって。」

思わず二人の変わりぶりに水穂は驚いてしまった。

「知らない。僕がやっていることは皆馬鹿の一つ覚えだ。」

杉三の答えは、定番だ。

「小久保先生が送ってくれた資料に書いてあったんだよ。今でも時々航空便で本をお願いしたりしてるんだ。」

という事は、蘭と小久保さんの交流はまだ続いているのか。

「あの時は大変だったんじゃない?あの佐藤一族のお嬢さんとの破談で。」

「まあねえ。当初は、息子さんをなんであんなに軽薄な子供にしたのか、すごく後悔して、仕事が手につかなかったと言っていたよ。でも、僕もせっかく始めた勉強をこんなことで終わらせたくないから、時々航空便でレポートを出したりしているんだけどね。」

「蘭も偉いよな。そういう引き下がらないところは、さすがベルリン芸術大学まで行けた理由の一つだよな。」

「ま、ブッチャーみたいに、がり勉すぎて、日常生活ができなくなったということはないように気をつけろよ、蘭。しっかし、蘭が持っている粘り強いところを呼び出したのは誰だろう?」

杉三がからかうようにそういったので、水穂は一瞬ぽかんとしてしまったが、

「ああ、そういうことか。そう言われると照れくさいな。」

と、だけ言った。

「照れくさくなんかないよ。そういう風に、いい刺激を作ってやることもできるんだ。そういう人が、汚いとかダメな身分と自分を卑下してはいかん。さて、続きを考えようぜ。ブッチャーの入社祝いを決めなきゃ。」

杉三にそう言われて、水穂もそうすることにした。

「だけど、何を贈物にしたらいいんだろう?」

就職した経験のない杉三は、入社祝いなんて何を出したらいいのか思いつかないのだ。

「そうだなあ、定番としてはネクタイとか財布とか、腕時計とかそういう物じゃないかな。」

蘭は一般的なことを言うが、蘭自身も会社勤めというものはしていないので、正直知らなかった。

「そういうところは本当に苦手だな。着物の製造業が、ネクタイなんて、必要になると思う?」

「あ、すみません。」

杉三に言われて、蘭はまたがっかりしてしまう。まあ確かに、スーツを着て出勤することはまずない。

「そうだねえ。女性着物では、伊逹襟がネクタイに該当すると聞いたことがあるが、男性ではあまり伊逹襟は付けないよね。腕時計だって、機屋さんなんだし、くっつけていると機を織る作業の邪魔になる。今蘭が挙げてくれたもので一番近いものは財布なのかなあ。」

水穂は蘭を擁護するように言った。

「財布なんて粗末でいいんだよ。お金は持っていてもすぐになくなるもんだから、入れておくのに立派な物は必要ない。」

これも杉三に否定されてしまった。

「じゃあ何を出したらいいんだろう。ちなみに僕が刺青師として開業した時は、師匠に手彫り用の鑿をもらったことがあるが、それでは入社祝いではなく、職人の開業祝いだし。」

「まあ、昔の職人と違って、会社で働くのではなく、自営業に近いからね。そういう場合は、一番身近な道具をもらうのが一番うれしいんだろうが。」

水穂が蘭の話に同調すると、

「決まった!それだよ!」

杉三がでかい声で言った。

「なんだよ杉ちゃん。手彫り用の鑿をあげても仕方ないでしょ。」

「違うよ。門出を祝う吉祥文様だ。お前、そういう文様は一つか二つは知ってるら。それを、ブッチャーの腕の一部にでも。そうすれば、いつでも入社した時の気持ちを忘れずにいられるよ。」

「あ、なるほどね。それはいいかもしれないね。門出というと、何だろうね。紅葉が赤ちゃんの手に準えて、原点を忘れるなという意味になることは知っているが、、、。あと、若者を応援する柄の代表格は、杉ちゃんが良く着ている麻の葉だよね。逆に亀甲は高齢者への敬意になってしまうので、ちょっと違うのか。」

「ちょっと待ってよ二人とも。彼が受け入れてくるもんかな。刺青というものはある意味では、アウトローの世界になってしまうぞ。」

まあ、確かに須藤聰という人は、働くことに何よりも美意識を持っているので、そういうアウトローの世界には偏見を持っても不思議ではない。

「いや、意外にそうでもないかもよ。江戸時代には、やくざのものというわけではなさそうだったしねえ。」

「まあね。そもそも、銘仙の工場に入るということは、ある意味平穏を捨てたことにもつながる。」

杉三と水穂はそんな事を言っている。

「少なくとも知らないわけではないだろ。だったら頼むよ。蘭が得意な総手彫り。」

「そうだねえ、、、。」

杉三にそう言われて、蘭は、さんざん迷ったが、結局彼に対する入社祝いは、他に何をあげたらいいのかも思いつかないので、そうするしかないと思った。

「じゃあ、水穂頼む。須藤さん、こっちまで連れてきてくれ。」

「わかった。了解したよ。」

数日後。ブッチャーこと須藤聰が、蘭の仕事場にやってきた。蘭は、彼が刺青というと嫌がるのではないかと思ったが、彼は、意外にもそのほうが自分を鍛えるという意味ではいい入社祝いになると言った。

「じゃあですね。僕からの入社祝いとして、幸運を運んでくると言われる花喰い鳥を彫ります。文字通り、花を銜えた鳥の事ですが、古代ペルシャから、伝わっている由緒正しい吉祥文様です。鳥は鶴、鳳凰、オウム、オシドリ、尾長、などが選べますが、どうします?」

基本的に、花喰い鳥の候補としては、若い女性であれば、清楚な鶴を選ぶ人が多く、既婚の女性であれば、夫婦円満のオシドリを選ぶ人が多い。逆に、若い男性はその力強さから、鳳凰を最も多く選ぶことが多いのだが、

「そうですね。鳥の種類があまり想像できませんが、俺は一番身近な鳥である尾長でお願いします。」

と、聰は答えた。

「尾長で本当にいいんですか?」

「ええ、俺は大して偉いわけではないですし、鳳凰みたいな立派な鳥を、背中に背負っても何の意味もないと思います。」

尾長かあ。言わなきゃよかった。まあ確かに花喰い鳥の候補として尾長やヒヨドリなどが使われたこともあるが、それにしても地味だ。

「意味がないと言いますが、こういう人生の門出のようなときなんですから、鳳凰や鶴とか、そういう聖なる鳥を彫ってもいいのではないですか?」

「いいえ、俺は、儀式的なことより、日常的なことのほうが生きていくにははるかに大切だということを知っています。だから、かっこいいものを背中に入れるというよりも、身近でわかりやすい鳥を背負って、毎日規則正しく働くことこそに、喜びがあるような人生を送りたいと思います。」

「そうですか。わかりました。じゃあ、そうしましょう。総手彫りなので、少々痛いかもしれませんけど、我慢してくださいよ。」

「はい。」

聰は、Tシャツを脱いで、台の上にうつぶせになって寝た。

「半端彫りだけは、決していたしません。」

そう気負うと、かえって半端彫りで終わってしまうことが多くなるのだが、蘭は、それは言わないでおいた。

「行きますよ。」

蘭は、針を取りあげた。そして、与えられたキャンパスに、墨のついた針を刺していった。紙の画用紙や、布のキャンパス以上に、絵をかくのは難しい素材であり、しかも失敗の許されない作業であったから、真剣そのものだった。とりあえず、墨を使って、図柄の輪郭線をかいていくことを筋彫りというが、時にこの作業で泣いてしまう人も出ることがあるほどである。蘭もそれを心配したが、不思議なことに、彼は一回も泣かなかった。

「よく平気でいられますね。いまどき珍しい。」

思わず感心してそういってしまうと、

「いや、男ですから、ちっとやそっとの事で泣きはしませんよ。さっきも言った通り、半端彫りはしませんから。」

と相変わらず強い口調で言うのだった。

まあ、ずっと緊張したままでは痛い印象でおわってしまうと思うので、時々作業をしながら、話しかけることもよくある。会話なんてとてもできない人もいるが、少なくとも、それは問題なさそうである。

「でも、すごいじゃないですか。就職先が見つかったんですから。」

「あ、はい。とにかく機の事なんて全く知らないから、初めは見習いみたいな形で、一生懸命頑張ります。そして、機屋さんとして認めてもらったら、どうか偏見を持たれずに、着用できる方法を研究してみます。でないと、本当にあの着物たち、かわいそうだと思ったんです。何の罪もないのに、立場が低いとされたら、着物も悲しむでしょう。」

「そうですか。じゃあ、手を出さないと迷惑が生じて、自分に不利になるとかそういうことではないの?」

「そんなことありません。自分の事じゃなくて、俺はあのかわいい着物たちが、本当にかわいいと思ってもらえないのが問題だと思うんで。」

「よかった。」

不意に蘭はそういった。

「よかったって何がですか?」

「本当はそっちでしょ。」

「そっち?」

「ええ。きっと過去のことで、ご自身も損をしていると思いますから、時折働けない者食うべからず的なものが出てしまうようですけど、本当は、他人を差別的にしたりすることはないですよね。それよりも、本当にかわいそうだと思うことができるから、大丈夫だって、青柳教授は言っていましたよ。そこをなくして、損得ばかりで考えたら、人間はおしまいですもの。まあ、現実問題、この世界では、感性と損得がごちゃまぜなので本当のやさしさなんて、捨てたほうが良いのではないかと思うことのほうが多くなるのかもしれないけど、ああいう、差別的に扱われた地区は、損得ばかりで動くことは比較的少ないですから。教授が、そういうところへいけと言ったのは、本当の良いところを取り戻してほしかったからだと思うんですよね。」

蘭は、さらに針を刺した。

「そうですかね。俺は、知能が低いから、うまく使い分けができるようになれないので、どっちかを捨てるしかできないかと思ってしまったことはざらにあって。」

「まあ、そうでしょうね。水穂に聞いたけど、お姉さんが、精神疾患持ってらしたんですってね。それで、ご両親が本当に苦労されて、貴男は、すごく寂しい生活だったから、それで、勤勉こそ美徳で、ロボットみたいに働くことを理想としたんでしょう。でも、それは今の社会では馬鹿にされる一因でもありますよね。だから、生活しにくくなったんでしょう。ですけど、勤勉も必要な時はありますが、他人に対して親切にするほうが、もっと大切なんじゃないですかね。ほら、不思議なオルガンの話をご存じありませんか?あれを読めば、本当に大事なものは何か、よくわかりますよ。」

「はい、ご存じだと思うんですが、姉はいじめられたせいで、生け花とかそういうものにあこがれて、ものすごい打ち込んだんですが、ああいうものは金がかかって、親が無理やりやめさせたりしたんですよ。でも、人間は変なもので、一度夢中になるとやめることはなかなかできないですね。それで、親と毎日毎日たたき合いをしてました。だから、俺は、姉の偉大なる間違いから、絶対にそのような生き方をしないと心に誓いました。でも、そうすればするほどつらくて仕方ないのもまた事実で、俺は、もうこの時代に生きているべきではなかったのではないかと思って。まったく、いくら人の事は無視しようと思ってもできないので、もう自分が情けなくて仕方ないですよ、いて!」

思わず熊蜂に刺されたのと同じような痛みが来た。蘭が、突き彫り用の鑿を刺したのである。

「あ、すみません。俺、答えを間違えました。」

「お姉さんも、貴男も罪はありませんよ。どっちが正しいのかというか、余分なこと、変なことばっかり教え込んで、肝心なところを何も教えないのが悪いのです。規制が何もないからいけないのですが。昔と違って、これはこうという指針がはっきりしなくなりましたから、かえって、困りますよね。」

蘭はもう一度鑿をさしたが、二回目なので今度は何も言わなかった。

「まあ、それを作った人たちを責めることはできないので、その中で生きていかなきゃならないんですが、時には、ものすごい不条理にぶつかったり、あまりにも冷たい人たちの連続で、もう本当にダメなんじゃないかと思う時があるのかもしれない。そういう時に、この花喰い鳥の意味を思い出してください。これが、本当の刺青の目的だと思います。単に、暴力団が道具として使用するのではなく。」

これこそ蘭が刺青師としてお客さんに言っていることである。

「わかりました!俺はいつまでも尾長として生きていきます。ただの尾長ではなく、花をもって行けるような尾長になります。」

ちょっと意味が違うんだけどね、と思ったが、蘭はあえて訂正しなかった。

そのまま、しばらく世間話をしながら、なおも施術作業は続いていく。いよいよ、毛彫りとかぼかしとか、そういう細かい作業に入っていき、痛みは格段に増していくのだが、聰はやっぱり泣かなかった。むしろ、蘭のほうが感心してしまうくらいだ。なんでこんなに平気な顔をしていられるのだろう。

「いたいなら、無理しなくていいですよ。こっちも手加減するようにしますから。」

心配になってそういうと、

「いや、結構です。俺は姉と家族が口論していたり、時に暴力的なケンカになったことも何度も見ているから、そのほうが痛いです。っていうか、こんなものより、もっと痛いです。」

と返ってきた。

これにより、精神疾患というものが、何とかして根絶するように、何か対策を取ってもらえないかと思わずにはいられない蘭だった。

翌日。背に花喰い鳥、即ち尾長の絵を入れてもらった須藤聰は、喜び勇んで製鉄所を後にした。懍にも水穂にも丁重に挨拶して、一人一人の利用者に餞別と言って簡素な筆記用具などをくばるなどの態度から、彼はやはり勤勉で、同時に心の優しさも持ち合わせていた男なのだった。彼は、新山織物の工場近くにある安いアパートを借りて、そこで生活することになった。そのほうがかえって精神的に安定が保てるし、彼の良さを発揮できることは確実だった。家族が誰も迎えに来なかったのを、水穂は少し心配したが、聰本人は、多分姉のことで精いっぱいなので、そんな暇はないのだろうとにこやかに言い、俺はそのほうが楽ですよと、あっさりと笑っていた。

彼は、自分が出ていくときは、見送りしなくていいと言ったので、その通り玄関には誰もこなかった。誰もいない玄関に、彼は大きな声でありがとうございました!と挨拶して最敬礼して製鉄所に背を向け、後ろも振りむかずに次の就職先へ向かっていった。

本人が、出ていくところは絶対に誰も見るなと言っていたが、一人、こっそり見ていたものがいた。佐藤絢子である。

彼女の場合、彼のように簡単に自分のことが解決するとは思えない。自分が家を出ていくと言えば、天地がひっくり返る大騒ぎになるだろう。

それをしないようにお願いすることから始めなければならないが、それだけでも疲れてしまいそうだった。

でも、そうしないと、また小久保という人に騙されてしまいそうになるかもしれなかった。

とにかく、やってみよう。私が私であるために。

何をしたらいいかわからないがきっといつかわかる日が来るだろう。

そう思いながら、一人自室に戻っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み