第七章

文字数 7,809文字

第七章

数日後。

「ご馳走様。」

水穂は、食器をくまさんに渡した。

「よかった。小鉢だけでも食べてくれるようになりましたな。それだけでも安心しました。」

くまさんはそこだけはほっとしたが、もうせき込み始めたので、これでは意味がないのではないかと、疑ってしまう。

「すみません。ほこりが入っただけだと思います。」

「いや、そういうことじゃなくて、心配なものは心配です。また、食べ物を拒否し始めたのかと。」

「そんなことありません。あれだけ怒鳴られれば、いやでも食べるようになりますよ。」

といって、笑いかけたが、不安になってしまうくまさんだった。

ちょうどその時、病室のドアが開いて、

「ご気分はいかがですかな?」

と、沖田先生が入ってきた。

「あ、お食事が終了されたところでしたか。」

「はい。完食にはまだまだ遠いですが、少しずつ食べるようにはしようと、心がけています。でないと、また、怒鳴られてしまいますから。」

とはいうものの、やはりせき込んでしまうのであった。

「先生、これでは、十分に回復していないのではありませんかね。」

くまさんは心配してそういうと、

「ええ、仕方ありません。もう、私たちにできることはここまでなんです。私たちができることは、血液の成分を変えてやることです。つまり、破壊された内臓をどうのこうのとするのは、私たちにはできません。」

沖田先生は、耳の痛い話を始めた。

「なんですか。それじゃあ、すぐに彼は別の科に搬送ということになるのですか。そうなると、どこの病院にお願いすればいいのですかね。」

「いえ、それもどうなのかと思いますよ。現代の医学では、一人の医者が一人の患者さんの全部を治すということは、まずできないのですよ。たまに、大規模病院で、複数の医者がチームを組んでということはできますが、それはおそらく、大物政治家とか、有名な芸能人でないとできないでしょう。」

こればかりは、確かにそうだった。時折テレビドラマでそういう患者さんが放送されることはあるが、実際にそういう医療を受けるには、かなりの財力が必要になる。

「そうかもしれませんが、せめて新しい科を紹介してやるとか、そういうことはできませんかね。」

納得いかないくまさんは、まだそんなことをいった。

「いいえ。本当に必要なことは一番初めに伝えなければなりません。医療的に言ったら、確かに複数の科で連携して、時には入退院を繰り返して、ということも可能なのかもしれませんが、そうしてしまうとかえって大事なものから引き離してしまうような気がするんです。いろんな病院たらいまわしにされて、そこでトラブルを起こされたら、患者さん本人もつらいでしょうしね。それではなく、周りの方々も、病院に振り回されて、破綻をきたすこともあり得ます。磯野さんは、ああして怒鳴ってくれるほどの、素敵な仲間がいるわけですから、病院に閉じ込めてしまうよりも、あの人たちと一緒に生活していたほうがいい。信頼できる人物がいるなら、その人たちのもとへ帰ったほうが、患者さんも周りの人も、安心できるものです。」

「ま、まあ、確かにね。病院たらいまわしにするのは、確かに良くないということは理解できます。でも、ご家族だって、患者さんを一日でもはやく生かしてやりたいと思うから、病院に預けるわけではないですか。それに、答えてやることも必要なのではないですか?」

くまさんは、とりあえず医療従事者として、よく言うセリフを口にしたが、

「いいえ、磯野さんは、ここに長くいるよりも、外のほうが良いのではないですか。この間のことだって、ああして怒鳴ってもらわないと、再び食事をすることはなかったのではないですか。怒鳴ってくれたあの人だって、ことある度にこちらが協力を要請していたら、病院に不信感を持つと思いますよ。」

「そうですが、、、。」

「いえ、わかりましたから。もう気にしないで下さい。そういうことなら、悪いのはこちらです。近いうちに迎えを頼んで、すぐに帰ります。」

水穂は、沖田先生のいうことを予想してすぐにそういったが、沖田先生は首を振った。

「違いますよ。そういう意味でいったわけではありません。理由は、先ほど言った通りです。それに間違いはありませんよ。よく考えてごらんなさい。いろんな科の病院をぐるぐる回らされる生活を強いられたら、あなたも体に負担がかかって、回復がかえって遅れてしまうのではないでしょうか。」

そういうと、また別の理由を、すぐに類推することができた。

「そうですか。そういうことですか。それではもう僕も、何をやっても無駄ということですね。」

「ほらほら、そうして投げやりになると、また怒鳴られますよ。あんな風に、怒鳴ってもらえるのは、長続きするとは限りません。人間関係というのは不安定なもので、ちょっとのことですぐ破綻しますし、一度壊れたら、修復するのは難しいものです。多少つらいかもしれないですけど、ああして心から心配してくれる人がいるということを、常に忘れないでください。」

「わかりました。つまりそういうことなんですね。ある程度理由はつかめましたけど、口には出さないでおきます。でも、悲しいですね。もう僕も見込みがないというのに、口にだして言えないばかりか、周りに気を配って、怒鳴られないようにいきろ、なんて。」

「磯野さん、それは違いますよ。つらいかもしれないですけど、医者として言えば、今以上に回復するのは、極めて難しいです。ですが、あなたの周りには、すばらしい仲間がいるわけですから、その人たちに感謝の意を示すことは、きっとできますよ。どうかそこを忘れないで、最期まで生きるというか、生き抜いてください。生きようとする姿を見せれば、周りの人は、きっと助けてもらうことになりますよ。人間、介護していると、患者さんに振り回されて、疲れ切ってしまうこともあるけれど、生きようと必死になっている姿を見れば、疲れが取れることもありますよ。」

「そんなこと誰が、」

「医者というのはそういうものです。そうでなければ、この年まで続きません。」

水穂は、一瞬茫然としてしまった。

「だから、みなさん困ると思いますよ。あなたには、前向きになってもらわないと。医者だって困るんですからね、素人である、周りの人は、もっと困るじゃないですか。わかりますか?」

沖田先生の口調は優しいが、言っている内容は厳しかった。でも、これを感情的にならないで、口に出して言えるというのは、やっぱり老医師ならではの特技であった。でも、この事実は、患者さんにとっても、医者にとっても、受け入れがたい事実であり、両者が受け入れるのは、非常に難しいことであった。

「そうなると、俺たちのできることって、本当に限られたことしかないということなんですよね。あーあ、仕事がきついとか、給料が安いとか、そんな文句を言わないで、しっかり仕事しよう。」

くまさんは、何か考えながら、独り言のように言った。



一方そのころ。

病院の庭で点滴を引きずりながら、ぱくちゃんはジョチと話していた。

「仕方ありません。確かに、故郷でそのような暴動がおこるのは、お辛いことかもしれませんが、もう、漢族とあなたがたの争いは、今に始まったことではなく、古代から何百年も続いていますので、もう、泥沼化していますね。」

「はい。先ほどテレビで見ましたが、ちょうど移った映像が、家の近所だったものですから、あまりの変わりぶりに愕然としてしまいました。ちょうど、僕の家は、核実験をやったところのすぐ近くにあったの。」

一生懸命敬語を使用しているが、まだしっかり理解できていならしく、時折間違えてしまっているのが見て取れた。

「確かに、あの地区では、何十回も核実験が繰り返された時期がありましたね。それに、あのあたりに住んでいた住民は、ほとんど漢語を理解しておらず、識字率もさほど高くないので、退去命令が十分に伝わっていなくて、それなのに強行されてしまい、住民に健康被害が多発したと聞いています。それなのに、政府は謝罪もしなければ、医療の提供すらしなかったとか。それでは、暴動が頻発しても仕方ないでしょう。」

「うん。僕たちは、なぜか知らないけど、いやな顔して見られるのが当たり前なんだよね。」

「そうですねえ。歴史的に言ったら、古代の匈奴から始まって、漢族の最高王朝と言われた唐を滅ぼしたのも、あなたたちだと言われていますからね。」

「そうなんだよ。僕の兄さんがそういってました。学校に行けてうれしいなと思ったら、そういうことをいきなり言われて、いじめられてもういやだって。だから僕も学校にはいかなかったの。だって、兄さんの話では、どうせいじめられて、原因を作ったんだから、出て行ってくれと言われるだけです。先生も漢族だし、ほかの人もほとんど漢族です。そんなところで、関係のない種族の勉強をしても、かえって役に立たないだけだって、散々話していたから、行く気にならなかった。」

ぱくちゃんはそういって頭をかじった。

「そうですね、多民族国家というのは、そういうところが難しいんですね。ある民族では善であることが、別の民族には悪とされることも、よくあるでしょう。学校では、あなたにとっては不快なことを、ほかの子に倣って、強制的にやらされるかもしれない。」

確かに、そういうことであった。それによっていじめが発生してしまい、学級崩壊に至ることもあることもまれではなかった。日本ではなかなかない事例だが、外国ではよくあることで、結局、民族によって経済格差ができてしまう原因でもある。それに、その民族であるからということで、ひどく自信をなくし、生きる意欲さえなくすことも珍しくない。あるいは、何か成功したとしても、有力な民族に盗られてしまい、原点は彼らにあってもそのルーツが知られることなく終わってしまうことも数多い。

「でも、たった一つだけ、自慢できることがあるんです。僕は、ラーメンを作ったことだ。ラーメンは、もともと、僕たちが日常的に食べていたものを、漢族が勝手に改造した料理だからだ。もちろん、これは教科書には載っていませんが、僕たちが作ったんだと、今でも信じています。」

なるほど。とジョチも納得した。今や日本どころか、世界的な料理になっているラーメンであるが、その原点は、中国国内で、少数民族が日常的に食べていたものを、改造したのが始まりだとは、聞いたことがある。

「だから僕は、ラーメンの勉強のために、こちらに来させてもらいました。でも、その間に、家族はみんな暴動に巻き込まれて亡くなりましたけど。」

なるほど、いつの時代にも、こうして国家の犠牲になる少数民族はいるんだな、と、ジョチは一つため息をついた。もしかしたら、ぱくちゃんの多血症も、核実験の影響なのかもしれなかった。

「ちょっとあんた。いつまでここにいるの?こんなところにいないで、早く部屋にかえって、安静にして頂戴。」

一人の若い女性が、庭にやってきた。頭にそれとわかる帽子をかぶっていたので、すぐに料理人とわかった。

「あら、この人はどちら様でしょうか?」

ジョチがぱくちゃんに聞いてみると、

「あ、ああ、僕のかみさんです。」

ちょっと恥ずかしそうにぱくちゃんは答えた。ずいぶん釣り合わない奥さんをもらったものだ。なんともかわいらしい感じの女性だった。確かに、外国人が好みそうな顔というか、ちょっとぷくっとした、お福ちゃんという感じの顔をしている。

「はじめまして。鈴木亀子です。よろしくお願いします。」

にこやかに挨拶する彼女は、やはりお福ちゃんという感じの顔だった。

「あ、はい。曾我と申します。焼肉屋ジンギスカアンの理事長をしています。」

ジョチが形式的に挨拶をすると、

「や、やだ。すごい人じゃないですか。あたし、あのお店憧れなんですよ。あたしたちはまだ駆け出しですけど、お宅の店のような立派なところにしたいねって、ずっとお手本にしているんですから。」

と、亀子は嬉しそうに言った。

「そうですか。まあ、店をやっているのは実質的には弟なので、僕は飾り物ですけどね。それより、お二方にお伺いしたいのですが、何か商売でもされているのでしょうか?」

ジョチが冷静に聞くと、

「はい。あたしたちは、ラーメン屋なんです。作るのはもっぱらこの人で、あたしは手伝い人程度ですけど。この人が、日本のラーメンとは又違う、本格的なラーメンをつくるんだといいますので、あたしも一緒にやろうかなと思いまして。でも、せっかく店をオープンできたと思ったら、この人がいきなり多血症でばったりなんて。あーあ、人生なかなか花はつかめないわ。」

とは言うものの、彼女は明るく答えた。

「その店はなんと言う名で、どこにあるんでしょうか。」

「はい、この人の名を取って、ラーメンイスマイールといいまして、松本にあります。」

「ラーメン食べたいの?だったらぜひ来てよ。うまいの作るからさ。」

亀子がそう答えると、ぱくちゃんが嬉しそうに口をはさんだ。

「もう、そういう事いうんだったら、ちゃんとお医者さんのいうこときいて、早く病院から出て頂戴。こっちにいるから、いつまでもお店を再開できないんでしょ。それに、退屈だ退屈だといって、やたらに病室を抜け出して、すぐに誰かにちょっかいを出すから困りますって、看護師さんも言ってたわよ。あんた、病気なんだから、よくなりたかったら、ちゃんと安静にして、お医者さんの指示に従って。」

「へええ、今時珍しい奥さんですね。そんな勝気な女性は、日本ではなかなか見られませんよ。まあ、ひとつアドバイスするのなら、彼のような発展途上国の人は、動き回っていて、当たり前なんですよ。安静なんて、よほど重症でなければしませんし、周りもさせないでしょう。機械化されていないのですから、何でも人手でないとできませんので、欠員が出てしまえば日常生活ができなくなります。だから、こういうところにきても、退屈で仕方ないとしか、感じられないんですよ。」

亀子がそう注意すると、ジョチはそう付け加えた。まあ、これは異国の人であるから、ある程度は仕方なかった。

「そうだけど、ちゃんとお医者さんの指示は守って頂戴。売店買ってきたどら焼きばっかり食べて、体に異常でもでたらどうするの?それだけじゃないでしょ、重症の免疫異常のある患者さんに、無理やりどら焼き食べさせて、彼が大変なことになったって、看護師さんに怒られちゃったわ。彼が、どら焼きを詰まらせたりでもしたら、どうするの。そうい

うことも考えなくちゃ。寂しいからって、すぐに他人に声かけたりしちゃだめよ。もう、気をつけて。」

「はい、、、すまん。どら焼きは一番好きなお菓子なんだけどな。」

「だけど、誰でもどら焼きが好きというわけじゃないのよ。それをちゃんと考えなきゃ。」

「すまん!ごめんなさい。」

どこの国でも夫婦の優越関係はこうなっているのかとジョチは笑いたくなってしまったが、同時にあることを思いついた。

「すみません。お二人にお願いがあるのです。お二人であれば、民族問題に多かれ少なかれ関わっていたと思うので、こういう問題に協力していただけることは、あまり抵抗はないのではないでしょうか。」

「お願い?」

「あたしたちみたいな一般市民に、理事長さんから何をお願いされるのでしょうか?」

ぱくちゃんと亀子は互いの顔を見合わせる。

「はい。お願いします。実はその、ご主人が無理やりどら焼きを食べさせて、非常に迷惑をかけてしまった、患者さんといいますのは、、、。」



そのころ。

「はー、こんな田舎だとは思わなかった。久留里線と同じ田舎電車の帝王と言われているそうだが、こんな不便な駅だとは思わなかったよ。」

ブッチャーは、水郡線終着駅で電車を降り、第一声として、まずこの言葉を言った。それほど、この地域は田舎なのである。まるで、戦前にタイムスリップしたくらいだ。

「しかも、二重廻しを着てくるべきだったなあ。これでは、さむくてしょうがない。ああ、失敗だ。」

とりあえず、カバンを開けて、地図とタブレットを取り出した。そして、恵子さんの実家の住所を入力し、タブレットに表示されたとおりに歩いてみる。

しかし、とにかく、田舎道。周りは森ばかりで、ところどころに畑があるのみだ。

「あった。あの家だ。」

ブッチャーは、「前田」という表札のある、小さな家の前で足を止めた。家の前は林檎畑で、老人が林檎を収穫しているところだった。

「あの、すみません。お宅の娘さんで恵子さんという方がいると思うんですけどね。」

ブッチャーの顔をみて、老人は、ぽかんと彼を見た。

「そうだけど、あんたさん、うちの恵子に何か用ですかね?」

「あ、はい。恵子さんに手紙を預かって来ましたので、お渡ししたくて来ました。一度顔を見たいなあと思って、直接伺ったわけですけど。」

「ああ、恵子でしたら、さっき前に家内と一緒に病院に行きました。ここは辺境なもんですから、病院には一時間以上かかるんですよ。電車も、ちょっとしかないし。夜にならないと、帰ってこないと思いますが。」

「あ、そうですか。それなら仕方ありませんね。じゃあ、お渡ししてくれませんか。顔を見たいと思いましたが、今日中に帰って結果報告しないといけないので、もう帰りますよ。恵子さんが、戻ってきましたら、須藤聰という男が、手紙を持ってきたと伝言してください。又来ます。」

ブッチャーは、そういって、素早く駅へ戻った。

恵子さんが、病院から戻ってきたのは、それから何時間もたった、夕食を食べた後だった。父から手紙を渡されると、はじめは半信半疑のようだったが、手紙の文面に書かれた模範的な文字を見ると、すぐに顔を変えて読み始めた。

「謹啓、暑い暑いといい続けてきた今年ではありますが、やっとさむいと感じることができるようになってきたようで、少しばかり安心しているこのごろであります。」

恵子さんは、声に出して読んだ。

「あの時は、お役御免なんて、怒らせてしまい申し訳ありません。目下、病院にて、造血肝細胞移植を受け、現在治療を受けております。時折咳き込むことはあるものの、出血することは殆どなくなりました。現在、理論的には通常の食事をしてもよいということにはなりましたが、どうしても、過去の記憶と相反して、体が食事を受け付けない日々が続いています。本当に、自己免疫性疾患というのは、文字通り、自分の体との闘いなのだなと思い知らされました。偉い人が言うとおり、人生において最大の敵とは自分自身なのかもしれません。いつか製鉄所に帰ったら、恵子さんに料理していただきますことを、楽しみに待っております。それでは、さむくなって参ります。ご自愛くださいませ。敬白、磯野水穂。」

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