#4
文字数 1,622文字
約一ヵ月前、九月二十六日の日曜日、午後二時過ぎ。この築奈の山中にある沼に男の死体が浮かんでいるのを、キノコ狩りに登ってきた地元のグループが発見した。携帯電話が幸い通じたのでそれですぐに通報され、事件はたちまち市内を騒がせた。
発見当初は山に登った男があやまって沼に落ち、水死したかと思われたが、あらためて見直せば男はスーツにネクタイを身につけ、とても山登りに来たとは思えない格好だった。さらに沼から引き上げられた死体の胸には鋭利な刃物で刺された跡がはっきりとあり、殺人とすぐに断定された。その後の調べで男は何者かに山中に運ばれ、沼に遺棄されたものとの判断が下される。
岩永は豚汁の椀を口に運びながら、まず常識を語ってみた。
「普通に考えれば山奥に死体を捨てるなんて、死体を隠す、またはなるべく発見を遅らせるためなんですが」
登山者がいたとしても足を踏み入れそうにない奥に埋めれば、死体はいつまでも発見されず警察が動く事件にならない。たとえ死体が発見されても、その時期が遅くなれば顔形や特徴がわからなくなって身許も判明しづらくなり、犯人にとって都合がいい。岩永のそばで濁る沼も、水深が四メートルは十分にあるといい、底にたまる泥も厚く、死体に重しでもつけて沈めれば発見は相当遅れそうである。
沼の近くには山道があって、季節によっては山菜やキノコを採りに登ってくる人間が通るというが、麓から二十分はかかる高さでは地元の人間でも頻繁にやってくる場所ではないという。
結果としては死体は沼に捨てられてから数日で発見されており、所持品に携帯電話や身分証こそなかったものの、身許もすぐに判明している。死体は吉原紘男、三十五歳、D県の大手建設会社で部長をしている男だった。
さらに容疑者もすぐに絞り込まれ、十月の九日には犯人として谷尾葵という三十歳の女性が逮捕され、殺害動機も明らかになっている。自供が得られ、まだ不明な点はあっても証拠固めの捜査が主になっており、事件としてはほぼ解決していると言っていい。本来ならば誰かが頭を悩ます事件ではなかった。
ヌシは蛇らしく先端が二つに割れた細く赤い舌を動かし、岩永に反論する。
「否、この場合は死体を隠すためではありません。当方はたまたま、その女が死体を沼に捨てるところを目撃したのです。夜も更けてから山中に入ってくる人間の気配に偶然気づき、近くにいたこともあり、何用であろう、と少し上の木陰から様子をうかがっていたのです」
夜の闇であってもヌシの目は昼と変わらず辺りを見通せるのだろう。岩永が妖怪達にここへ運ばれてきた時も、ヌシは周囲に明かりを置かず、その両目を光らせていたくらいだ。死体を捨てに来た犯人も、近くでこんな蛇の化け物に目撃されているとは思ってもみなかったろう。
「死体を捨てに来たのは、犯人として捕まった女性だったんですね?」
「はい、死体が発見され、警察やら何やらと山が一時騒がしくなりまして、さてあの件はどうなったか、と人里に出入りする狐どもに新聞などを持ってこさせたところ、当方の見た女が犯人として逮捕されたという記事を目にしました」
要するに警察は正しい人間を捕まえたわけである。
ヌシは続けた。
「当方が時折水飲み場とするこの沼に死体を捨てるなど業腹ではありますが、獣の死骸が浮くこともありますし、人がゴミを捨てていくこともあります。それゆえ定期的に山のあやかしどもに掃除させておりますから、それはいいのですが、やはり納得がいかないのです。まず死体の発見を遅らせるなら、沼に捨てるにも重しをつけ、深く沈めようとするもの。しかし女は何の重しもつけず、無造作に死体を沼へ落としたのです」
だから死体は沼に浮かび、早々に発見された。
「何より女は死体を沼に落としながら、はっきりこう呟きました」
ヌシは女の言葉を口にする。
「『うまく見つけてくれるといいのだけれど』と」
発見当初は山に登った男があやまって沼に落ち、水死したかと思われたが、あらためて見直せば男はスーツにネクタイを身につけ、とても山登りに来たとは思えない格好だった。さらに沼から引き上げられた死体の胸には鋭利な刃物で刺された跡がはっきりとあり、殺人とすぐに断定された。その後の調べで男は何者かに山中に運ばれ、沼に遺棄されたものとの判断が下される。
岩永は豚汁の椀を口に運びながら、まず常識を語ってみた。
「普通に考えれば山奥に死体を捨てるなんて、死体を隠す、またはなるべく発見を遅らせるためなんですが」
登山者がいたとしても足を踏み入れそうにない奥に埋めれば、死体はいつまでも発見されず警察が動く事件にならない。たとえ死体が発見されても、その時期が遅くなれば顔形や特徴がわからなくなって身許も判明しづらくなり、犯人にとって都合がいい。岩永のそばで濁る沼も、水深が四メートルは十分にあるといい、底にたまる泥も厚く、死体に重しでもつけて沈めれば発見は相当遅れそうである。
沼の近くには山道があって、季節によっては山菜やキノコを採りに登ってくる人間が通るというが、麓から二十分はかかる高さでは地元の人間でも頻繁にやってくる場所ではないという。
結果としては死体は沼に捨てられてから数日で発見されており、所持品に携帯電話や身分証こそなかったものの、身許もすぐに判明している。死体は吉原紘男、三十五歳、D県の大手建設会社で部長をしている男だった。
さらに容疑者もすぐに絞り込まれ、十月の九日には犯人として谷尾葵という三十歳の女性が逮捕され、殺害動機も明らかになっている。自供が得られ、まだ不明な点はあっても証拠固めの捜査が主になっており、事件としてはほぼ解決していると言っていい。本来ならば誰かが頭を悩ます事件ではなかった。
ヌシは蛇らしく先端が二つに割れた細く赤い舌を動かし、岩永に反論する。
「否、この場合は死体を隠すためではありません。当方はたまたま、その女が死体を沼に捨てるところを目撃したのです。夜も更けてから山中に入ってくる人間の気配に偶然気づき、近くにいたこともあり、何用であろう、と少し上の木陰から様子をうかがっていたのです」
夜の闇であってもヌシの目は昼と変わらず辺りを見通せるのだろう。岩永が妖怪達にここへ運ばれてきた時も、ヌシは周囲に明かりを置かず、その両目を光らせていたくらいだ。死体を捨てに来た犯人も、近くでこんな蛇の化け物に目撃されているとは思ってもみなかったろう。
「死体を捨てに来たのは、犯人として捕まった女性だったんですね?」
「はい、死体が発見され、警察やら何やらと山が一時騒がしくなりまして、さてあの件はどうなったか、と人里に出入りする狐どもに新聞などを持ってこさせたところ、当方の見た女が犯人として逮捕されたという記事を目にしました」
要するに警察は正しい人間を捕まえたわけである。
ヌシは続けた。
「当方が時折水飲み場とするこの沼に死体を捨てるなど業腹ではありますが、獣の死骸が浮くこともありますし、人がゴミを捨てていくこともあります。それゆえ定期的に山のあやかしどもに掃除させておりますから、それはいいのですが、やはり納得がいかないのです。まず死体の発見を遅らせるなら、沼に捨てるにも重しをつけ、深く沈めようとするもの。しかし女は何の重しもつけず、無造作に死体を沼へ落としたのです」
だから死体は沼に浮かび、早々に発見された。
「何より女は死体を沼に落としながら、はっきりこう呟きました」
ヌシは女の言葉を口にする。
「『うまく見つけてくれるといいのだけれど』と」