第57話 セーヌ河の上で

文字数 3,159文字

 「ダヴー!」
懐かしい声が呼んだ。

 パリのリール通り、コンティ通りとの角。くすんだ街並みを背景に、その人は、立っていた。

「よく来たな、ダヴー」

 3月22日。春爛漫のパリ。
 ドゼ将軍の宿泊しているホテル近くまで呼び出された。ボナパルト将軍に紹介してくれるという。


 彼が、ライン河畔を離れてから4ヶ月が経っていた。長い時間だった。俺にとっては、焦りと憧れと、苛立ちの日々だった。
 だが、これだけの時間がかかったわけなんて、わかりきってる。アンベール将軍(俺の上官)への配慮と、それから、ボナパルト将軍への推薦だ。
 アンベール将軍は、西インド諸島へ配属になった。もう、気兼ねは要らない。そして、対イギリス軍は、動き始めた。忙しいボナパルト将軍を捕まえて俺の実績を吹聴し、ようやく、引き会わせる段取りがついた、といわけだ。
 ドゼ将軍は、俺の為に、辛抱強く、気遣いと根回しを続けてくれていた……。


 「風呂に入って来たか?」
唐突に、彼は尋ねた。

「ううう」
低く、俺は唸る。
「ゆうべは、時間を無駄にしました。久しぶりでお湯に浸かったら、疲れ果てちまって、早くから、寝落ちてしまいました」

「うむ、ちゃんと、体を洗ってきたようだな」
 くんくんと鼻を鳴らしながら、俺の周りを一周して、ドゼ将軍が頷いた。
「仕方ないだろ。ボナパルト将軍は、おしゃれで、きれい好きなんだから」
「うーーーー」


 橋に差し掛かった。下を流れるのは、セーヌ河だ。随分ちっちゃな、こちゃこちゃした河だ。橋だって、いくつも架けられている。この河は、ライン河ではない。

 「新設されたイギリス軍は、目くらましだ。ボナパルト将軍が考えているのは、もっと大きく、途方もないことだ」

 ドゼ将軍が語り始めた。
 橋の上の人通りは、途絶えていた。聞き耳を立てている者は誰もいない。
 立ち止まり、河の流れを見つめながら、続けた。

「陸路からの征服ばかりを考えるから、行き詰まるんだ。海路でイタリア、ギリシャ、さらに、トルコまで移動できたら、時間が大幅に短縮できると思わないか? おまけに、人や物資の大量輸送が可能だ」

「海路での輸送? ですか?」
全く初耳だった。俺は面食らった。

「うん。今は和平が続いているが、オーストリアだって、いつまでおとなしくしているか、わからない。再び戦争となった時、バルカン半島に船で兵士を運ぶことができたら?」

 ドゼ将軍は言葉を切った。
 うきうきとした口調で続けた。

「ライン方面と、それから、トルコ方面から、オーストリアを、挟み撃ちできる」

「トゥーロンやマルセイユ(共に南フランス)から出航して、地中海を移動するわけですね」
俺は唸った。
「しかし、イギリスが……」

 地中海の西の入り口、スペインの突端、ジブラルタルは、イギリスの支配下だ。そして、フランスの南海岸は、常に、彼らの監視下にある。

 ドゼ将軍が、立ち止まった。
「だが、もし、エジプトと友好を結べたら? エジプトからなら、バルカン半島、いや、オリエントだって、すぐそこだ」

「エジプト!」
唐突に、俺は、読めた。
「ボナパルト将軍の狙いは、エジプトですか!」

「しっ!」
ドゼ将軍は、唇に指を宛てた。その瞳は、きらきらと輝いていた。
「これはまだ、絶対秘密だ。イギリスのやつらには、彼の狙いは、英国本土、あるいは、イタリア半島にあると思わせなければならない。君だから、教えた。他言は無用だ」

「しかし、エジプトとは……」

「そんなに突飛なことか?」
ドゼ将軍は笑った。鮮やかな笑顔だ。
「古代の英雄、アレクサンダー大王も、エジプトを征服したじゃないか」

「……」
 俺は、しげしげと、ドゼ将軍を眺めた。
 長年の憧れの上官を。

 暫く会わなかった彼は、少し、ふっくらしたようだ。戦場にあった時とは違い、なんだか、幸せそうなオーラに包まれていた。

「俺の夢は、海軍将校だったんだ。海軍へ入るには、学校の成績が、ちょっと足りなかったけど。今、その夢が叶おうとしているんだよ!」
「はあ」

「君を、巻き込んでしまったかな?」
俄かに、不安そうになった。俺の煮え切らない態度に気がついたのだ。

「今からでも間に合う。ボナパルト将軍の遠征に参加することを、君は、断ることだってできる。実のところ、エジプト遠征軍の装備には、不安がある。それは、確かだ」

「何言ってんですか!」
俺は憤った。
「あなたが行くなら、俺も行くに決まってます。ずっとそう言ってるでしょう!」

「うん。君ならそう言ってくれると思った」
 嬉しそうな、楽しそうな、その笑顔。

 彼が、旅好きなのは、知っていた。戦争の合間に、あちこち、見て回っている。この人は本当に、未知の土地を探検することが、好きなのだ。


 「ダヴー。君には、決まった女性はいるのか?」
唐突に、ドゼ将軍が尋ねた。
「はい?」

「エジプト遠征は長引く。妻や愛人を同行する者もいるそうだ。ただし、こっそりとだが」
「けっ! 女なんか!」

 思わず俺は吐き捨てた。ドゼ将軍が、慈愛深げな眼差しになった。

「君が、離婚したことは知っている。奥さんとは、1週間ほど一緒にいただけだったと聞いた。気の毒だったな、ダヴー」
「ううう、あなたにだけは、同情されたくない……」


「ひとつ、聞きたいのだが」
俄かに真剣な口調になった。顔を近づけ、尋ねた。
「君、結婚式には、いくらかけた?」

「はい?」
「だから、結婚というものに、いくらかかったのか、知りたいんだ」

 ひょっとして、ドゼ将軍、結婚を考えているとか? 彼は、今年、30歳になる(大台だ)。結婚。諦めてたわけじゃないのね。

「知りませんよ。母と妹が、全て手配してくれましたから。おおはしゃぎで」
 不幸に終わった、俺の結婚。母と妹には、悪いことをした……。

「ルイ金貨32枚くらいか?」
「え?」
「だから、結婚式の費用」
「知りません、ったら!」

 だが、ドゼ将軍は、しつこかった。
「仕方ないな。それじゃ、ルイ金貨32枚と仮定して、だな」
 いやに、32ルイにこだわる。

「1週間は、7晩あるから、合計14回で計算する」
「何の話です?」
「いや、一回、いくらかかったのかと思ってな」
「は?」
「君は、結婚から1週間でベルギー方面へ召喚された。戦地から帰ってきて即、離婚したわけだから、以降はノーカウントだ。従って32ルイを14で割ると……」
「63です! 割るのは、63だ!」
 強く、俺は申告した。ドゼ将軍が、眉を上げる。呆れ顔だった。
「嘘つくな! 一晩9回じゃないか」
「嘘じゃありません! これでも謙遜したんですよ! 本当は、70回と言いたいところを、あえて、63と!」

 俺は喚いた。ドゼ将軍は平然として、顎を撫でまわした。
「いずれにしろ、俺の方が断然、多い筈だ。君と違って、一週間ってわけじゃないからな。2年は続いたと思うぞ、確か。ルイ金貨32枚は、妥当な金額だと言える」

 俺はピンときた。
 さては、愛人と別れたのだな。あの、ルイーゼ・モンフォールという。
 ボナパルトの下とはいえ、今や、ドゼ将軍は、上昇気流にある。その彼を、女性の方から手放すとは考えられない。
 ドゼ将軍から、別れを切り出したのだ。

 だが、なぜ?
 考えられるのは、ひとつしかない。
 彼女の浮気が発覚したのだ! 彼が、ドイツへ遠征に行っている時、あるいは、ケール、ディアースハイムと、命がけで戦っていた時、とにかく彼が、長期で留守をしている間に、裏切られたのだ。
 軍人の宿命であろう。全く、忌むべきことだ。だが、俺の経験からして、これはもう、絶対、間違いない!
 
 32ルイは、手切れ金だ。
 そう考えると、パリ行きの費用さえ、ままならなかったのも、納得できる。イタリアでの任務で使い果たした、というのは、嘘だ。気の毒に、ドゼ将軍、有り金の殆どを、去っていく愛人に、むしり取られたに違いない。


 



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登場人物紹介

ルイ=ニコラ・ダヴー


後の帝国元帥。勇敢で正義感が強く、有能。

えーと、これでよろしいでしょうか、ダヴー様……。

ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼ


ライン軍将校。前衛突撃型。少数の精鋭騎兵の先頭で馬を走らせ、敵に突っ込むタイプ。

高潔で下劣、複雑な二面性を併せ持つ。

アンベール


モーゼル軍右翼司令官から、ライン・モーゼル軍師団長へ。ダヴーの上官。

サン=シル


ドゼの戦友、ライバル。詰将棋のような、確実な戦闘をする。ドゼより4歳年上。

ボナパルニスト諸氏が言うほど、変人じゃない気が……。軍人として、むしろ、常識人。



ブログ「サン=シル」

サヴァリ


ドゼの副官。

ボナパルト時代の彼の失策を考えるに、単純な人柄だったんじゃないかな。それだけに、ドゼへの献身は本物だったと信じます。



*アンギャン公事件で、サヴァリは、憲兵隊長を務めていました。公の処刑決行を指揮したのは、サヴァリです。

 →ブログ「フランス革命からナポレオンの台頭へ1」

ラップ


ドゼの副官。勇敢だが、とにかく怪我が多いことで有名。



*ラップ視点の2000字歴史小説「勝利か死か Vaincre ou mourir

 ブログ「ラップ/ラサール」

ピシュグリュ


ライン・モーゼル軍司令官。前年のオランダ戦では、騎兵を率いて、オランダ艦隊を捕獲した戦歴を持つ。



ブログ「フランス革命戦争4-2」、参照

モロー


ライン・モーゼル軍司令官。ピシュグリュの後任。赤子が母の後追いをするように、ドゼに従う。



ブログ「ジュベール将軍/モロー将軍」

マルソー


サンブル=エ=ムーズ軍将軍。ヴァンデでダヴーと出会う。ダヴーは彼を、妹の夫にと、虎視眈々と狙っている。



ブログ「フランソワ・セブラン・マルソー」

オッシュ


ジュールダンの後を引き継ぎ、サンブル=エ=ムーズ軍司令官に。ドゼは彼を、蛇蝎のごとく嫌っている。



ブログ「ルイ=ラザール・オッシュ」

オージュロー


ボナパルトのイタリア(遠征)軍からドイツ軍(ライン方面軍)司令官に。

ボナパルト嫌いの余り、作者はこの人を、良く描きすぎました。ご注意ください。

【作者より】


純粋な史実は、チャットノベル

ダヴー、血まみれの獣、あるいはくそったれの愚か者」を、ご参照ください。

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