第九話 記憶・前編

文字数 3,653文字

「せっかく温泉街に来たんだし、入らないなんてもったいないじゃないか!」
「高雄。そうは言いますけどね…呑気するために来たのではありませんよ?」
 高雄は、初めて九州に来る。北日本出身の彼にとってここは、一生に一度来るか来ないかという場所だ。だが真織の意見は違う。
(妲姫はどうせ水風呂にしか入りませんし、温泉なんて行っても仕方ありませんよ! それにここに蜂の巣が来るかもしれないのに、ゆっくりしている暇なんて!)
 焦りだ。海神寺に蜂の巣が強襲を仕掛けて来たのを見たので、ここにも来るかもしれないという不安。この世界に安息の地はないのかと、真織は思ってしまう。
「温泉嫌いは日本人じゃないぞ! 俺は入る。絶対に入るからな!」
「……その前に、泊まる場所を決めましょうよ」
 何故かは知らないが三人は、海神寺で旅費を多めにもらっている。だから宿やホテルは撰銭ができる。
 本当なら、ここに壱高と奏楽が先回りしていた。三人がこの温泉街に来れるぐらいの金を握らせれば、必ず増幸の思惑通りに事が運ぶ。それが禮導の予想外の行動で台無しとなった。
「私はあっちのがいいと思いますが?」
 真織が指さしたのは、いかにも高級そうなホテル。室数が多ければ、蜂の巣は自分たちを見つけられないという発想だ。
「俺はこっちがいいと考える」
 対する高雄の案は、小さな宿屋に泊まること。もしここに蜂の巣が現れたら、一発で発見されてしまうだろう。しかし、逆にこんな貧相な宿に泊まるとは、蜂の巣さえも思わないかもしれないし、その手の宿屋はホテルよりも多い。そういう意味では、有効な選択肢。
「決めかねますね…。では、温泉のレビューで決めますか」
 高雄の持っているタブレット端末で調べてみる。
「なんだ、結局真織も温泉に入りたいんじゃないか!」

 最終的に、女性に人気のあるという宿に決まった。
「予約してない磐井ですけど、泊まれます?」
 交渉の末、何とか二部屋確保できた。
「ふう~。疲れましたね…」
 新幹線で移動しただけだが、乗り換えがあるとどうしても疲れを感じてしまう。真織は湯船に浸かるよりも、横になりたかった。
「真織、温泉入って来ていい?」
 妲姫がそう尋ねた。
(今、彼女を一人にするのは危険が過ぎますね…。もしここに蜂の巣がいれば、絶対にこの機は逃さないでしょう…)
 だが、真織は考え方を変えた。
(いいや! この小さな宿で私と高雄の目に入らずに、妲姫を捕まえるなんて不可能に近いはずです…。そもそもここにいること自体がバレているとは思えません。あえて妲姫を泳がせましょう。そうすれば、蜂の巣が来たら撃退できる…)
 真織は、許可を出した。ただし条件付きだ。
「私と高雄が、風呂場の前にスタンバイしてますから、妲姫。何かあったらすぐに知らせて下さいよ?」
 隣の部屋の高雄を連れ出した。風呂場の前には、くつろげるスペースがある。そこで二人が待機する。
「あれ、真織は入らないの?」
「夕食後にしますよ」
「わかった。でもそれで丁度いいや」
 何やら、高雄は真織にのみ話があるようだ。

「このまま旅を続けて、いいのかな?」
「どういう意味ですか?」
「だってさ、妲姫の記憶が蘇ったらのことを考えたことある? もしかしたら、別人レベルで人が変わるかもしれないんだよ?」
「そう…ですね……」
 そのことは、聖霊神社でちゃんと話した。妲姫は、記憶を失う前の自分がどんな人間であったのか、どんな生き方を望んでいたのかなど、知りたいと宣言した。そのことを高雄に伝えると、
「それもあるけど、俺が言いたいのはそっちじゃなくて…」
「はい?」
 高雄は、自分の考えを述べた。
「もし妲姫が、何か危険な記憶を持っていたらどうする? それが原因で狙われているかもしれない。知ってはいけないことを知った、だから抹殺にかかる…なんて映画の中だけの話じゃないと思うんだ」
「それを含めて、妲姫は…」
「妲姫だけじゃない! 俺や真織はどうなる? 取り戻した記憶を、妲姫は躊躇なく俺たちに話すかもしれない。漏れてはいけない情報を俺たちが聞いたとわかれば、蜂の巣は俺らも狙いに来る…! それこそ情報源を断つために。アイツら、手段は選ばないだろう」
「そういう意味ですか…!」
 つまりは蜂の巣という問題が解決されない状態で妲姫の記憶が蘇ってしまうと、周りにいる真織や高雄たちにも危険が及んでしまうかもしれないということだ。
「今までは妲姫だけ狙ってたから、手加減してたかもしれない。けど、俺らもターゲットなら話は別だ。加減のない本気の力で来たら、相当ヤバいと思う…。今日の朝の騒動を見て、思ったんだ。本当に殺しにかかってきたら、止めようがないかもしれない」
 段々と、説得力が増してくる。
「妲姫の記憶が蘇って、ハッピーエンドってわけにはいかないよ…。妲姫も真織も俺も、元の日常生活に戻れるのかどうか……。常に狙われながら生活なんて、精神が破綻するよ! それこそ妲姫みたいに、記憶が飛ぶ可能性もあるんだ!」
 真織は、衝撃を受けた。まさに高雄が指摘する通りのことを考えていなかったのだ。
(言われてみれば、私も高雄もまだ高校生ですし、誰にでも日常はあります…。それはもちろん妲姫にも。でも相手の蜂の巣は、そんなことはお構いなし…。私はともかく、巻き込んでしまっている高雄にいい迷惑ですね…)
 だが、もう既に後戻りできない状況である気もするのだ。
「ですが高雄。今ここであなただけ帰れって言ったら、故郷に帰りますか?」
「まさか。帰れないよ。妲姫の記憶はまだ回復してないし、真織は地図に弱すぎる。二人を放っておくなんて、できない…」
「なら、何でこの話をしようと?」
 そこが、真織にとって一番の疑問点。そもそもだ、関わって身の危険があると言うのなら、最初からついてこなければ良かったのだ。始めは仕方なかったかもしれないが、戻るチャンスはいくらでもあった。お人よしに高雄は付き合ってくれたが、真織は何も、自分たちに彼を束縛する気はない。
「俺には、よくわからないんだ…。どうしたらいいのか…。旅をここでやめたら、真織たちに迷惑をかけるだけじゃない。俺自身にも後悔の念が残ってしまう。でもさらに深く進めば、危険地帯に突入する可能性もあるんだ。そこから後悔しても遅いだろう…?」
 高雄は悩んでいる。自分の中で葛藤しているのだ。進むべきか、止まるべきか。どちらを選んでも、心に一点の黒が残る。
(高雄に決めさせるのは、酷ですね…。ここは一つ、私が決めましょう。そうすれば、万が一嫌なことが起きたら、私の責任にできる…)
 真織は、言った。
「高雄。最後までついてきてください」
 高雄は無言だ、だが真織は続ける。
「ここまで来て、帰れとは言いませんよ。それに私は、あなたのことを信頼しています。元々、巻き込んだ私が悪いんですから、高雄が深刻に考える必要はありません。確かに、あなたの言う通り、身に危険が降りかかるかもしれません。けれど、一人で抗うよりは力を合わせましょう」
「………もし、事態が悪化したらどうする? それこそ本当に追い詰められるかもしれない…。その時は…」
「そんなこと、起こさせてたまりますか! 私の目が光を吸い込む限り、絶対に蜂の巣の勝手にはさせません! 黒幕を倒して、妲姫の記憶も蘇らせて、それで凱旋すればいいんですよ!」
 そして、真織は次のことを言う。
「高雄の力は、絶対に必要になります。妲姫だってあなたを信じてくれているんですよ、あなたが自分の道を信じないでどうするんですか! 悩んでウジウジするぐらいなら、行動しましょう。間違えたら、そこで止まればいいんです。誰も責めたりしないし、私はどんな結果になっても、あなたがついてきてくれたことに感謝します!」
 その言葉が、高雄の心を貫いた。
「…そうだよな。悩む暇があったら、足を動かさないと」
 貫かれた心は、高雄を動かした。
「わかった! 俺は最後まで逃げない。たとえ苦難がこの先に待ってようと、絶対に前を向き続ける。後悔なんてしない、俺の通った道にそんなものは、存在しない! 最後の最後まで、この旅を! 完遂してみせる!」
 真織はニッコリ笑った。
「その勢いです! それで最後まで行きましょう!」
 この時真織は、最初に遭遇したのが高雄で良かったと思っていた。もし彼でなかったら、ここまでついてきてくれなかっただろうし、これから先も行ってはくれないだろう。
「では高雄。ここでできることを模索しましょう。こちらには寺や神社はないようですが…」
「そうだね。となれば長居しても意味がないかもしれない。でもこの温泉街のどこかに、霊的な源泉が湧き出ているところがあるんだ。そこを見つければ…」
 二人の作戦会議は続く。妲姫がなかなか、温泉から上がって来ないからだ。
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