04 剣が一本増えたくらいで
文字数 3,540文字
少年がどういうつもりなのであろうと、徒手空拳ではろくに対抗できまい。錆びた剣とて丸腰と大して変わらないと、戦士の理性はそう言っていたが、勘は言っていた。
スフェンディアを手に取れと。
(奴も警戒してる)
ライノンを閉じ込め、余計なことを言わせないと同時に、剣にもシュナードの興味を向けさせまいとした。それだ、と奇妙な確信が湧いた。
(気を逸らす必要がある)
(だがどうやって――)
転がった剣は五歩は走らないと届かない位置にある。そちらに向かえば必ず気づかれるし、邪魔されるに決まっている。
「エレスタン様」
じっと黙っていたミラッサが控えめに声を出した。
「よろしければわたくしが」
「下がっていろと言ったろう」
少年は指示を変えなかった。
「お前には荷が重い。仮にもアストールの血筋だからな」
「買いかぶっていただいて、どうも」
戦士は唇を歪めた。「王陛下」や〈狼爪〉に続き、喜べない派手な呼称だ。
「ですがあいつは丸腰です。丸腰の相手を殺すような不名誉なことは私がお受けいたします」
(は、何とも忠義のあるこった)
(それに、名誉を気にする、だって?)
シュナードは正直、少し驚いた。
「駄目だ。これ以上は言わせるな」
「は……」
そうはっきり言われては下がらざるを得ないだろう。ミラッサは残念そうに頭を下げかけ、はっとしたように横を見た。
「エレスタン様!」
彼女は飛び出して広間の入り口に向かうと両手を広げた。
「いやあっ、何これえっ!?」
耳に飛び込んできたミラッサの悲鳴は奇妙に可愛らしく、思わずシュナードは大丈夫かと声をかけそうになった。
「誰だ」
少年の目がそちらに向いた。
だがシュナードは、そちらを見なかった。誰がきたのか、何が起きたのか、気にならないはずはない。
だがこの隙を利用しない手はなかった。
(好機だ!)
彼はスフェンディアに向かって飛び出した。
気づいた少年が目を剥いて、何度目になるのか戦士の方に手を振り下ろすのと、彼がスフェンディアに手を伸ばしたのはほぼ同時だった。
(届く!)
体勢を崩しすぎないようにしながら、シュナードは哀れにも転がったままでいたスフェンディアを掴み上げた。
(俺は馬鹿か、必死になってこんなもんを)
同時に思った。
(全力で振ったらそれだけで、さっき以上に粉々になりそうなのに)
そんなふうに感じていた。
見た目で、そう判断を。
(ん?)
だがその瞬間、彼の脳裏に蘇った音がある。
(床に落ちたとき、やたらいい音させてなかったか、こいつ)
砕けるどころか、形状も損なわれていない。待てよと彼は思い出した。
(最初は、見えてたんだ。とんでもない業物に。それが)
(――レイヴァスが手をかざした途端、だった)
幻影だったと少年は言った。だが、逆なら?
(スフェンディアは)
(錆びてなんかない )
その剣を再び手にしてから瞬きひとつの間に、シュナードはそこまで考えた。
いや、感じ取った。
そのとき不意に彼の視界は閉ざされた。とてつもなく眩しいものを直視したかのように目の前が真っ白になったが、痛みはなかった。
そう、少し前にも同じような光に包まれた。
それは彼が、この剣を抜いたとき。
誰かいる、と判った。レイヴァスでもミラッサでもない。現れたらしい誰かでもない。
現し身ではない。戦士はこうしたものを表す言葉を知らなかったが、ライノンにでも尋ねれば「波動」や「気」というような単語が返ってきただろう。
ありとあらゆる生き物が、そして稀にだが、物質や物体が個別に持ち、常に発しているものがあるのだと。
通常、人はそれを意識することなく生きているが、特殊な条件下では何の訓練もしていない人間であっても、それに気づくことがあるのだ、とでも。
『いつまで待たせる』
白い世界のなかでそれ が言った気がした。
はっきりした言葉というのではない。とても奇妙だったが、そのような内容の「感覚」をやわらかな布にくるんでそっと押しつけられたかのようだった。温 い湯でも浴びるように彼はそれを浴びた。
(これは)
(スフェンディアか? それとも)
シュナードは訝った。だが答えが出る前に声、或いは「感覚」が続く。
『新たなアルディルムよ、お前の望みは何だ』
(……望み)
(いまの、俺の)
答えは不思議なほどすっと浮かんできた。
彼は、どこにいるともはっきりしない「何か」に向かってこう答えた。
「俺の守らなきゃならん奴が全員無事であることと、なおかつ俺もせいぜい軽傷くらいで生き延びることだ」
それが彼の本心だった。
「英雄」やら「英雄」やらは分不相応だが、これまで偉そうに剣を振るってきた分くらいは、できることがあるはずだ。
できることをできないままに終わらせたくない。
「たとえここで倒れるにしても、やれることはみんなやってから」
彼が望んだのは、それだけ。
『いいだろう』
「何か」が了承したような「感覚」。
白い世界が消えた。いまのやり取りはほんの一瞬 の半分だけの間であったこと、何故だかシュナードには判った。
不気味なほど手になじんだ剣を神速でかまえると、彼は足を踏ん張った。その瞬間、見えない盾に打ちかけたときと似た衝撃が彼の全身に走る。
「なに……」
だが、耐えた。先ほどの右手よりも痺れない。
第一、こちらの攻撃を防がれた結果ではない。向こうの攻撃を――防いだ。
「へ、こいつは」
シュナードの手のなかで、スフェンディアは再び、真の姿を現した。
英雄が魔術王を退治し、そして封印するに当たって使われた、伝説の剣。
見た目には、言うほど派手なものではない。その柄にはひとつ大きな月長石がはめ込まれていたが、ほかに数々の宝玉が散りばめられているようなことはなかった。
しかし剣を操る者には、業物だとすぐに判る。
だがこれが「ただの業物」ですらないことは、とうに明らかだった。
磨き込まれたように眩い刀身には、彼の顔だって映り込みそうだ。
まるでそれは、鍛え上げられたときから、時間をその身に受けたことがないかのような。
「へ、へへ」
彼は引きつった笑いを浮かべた。
「使えないだの過去の遺物だの言って、悪かったな」
謝るように呟いて、シュナードは剣を握りしめた。
「幻影を破ったか」
ち、と少年の舌打ちが聞こえた。
「下らん小細工しやがって」
戦士は剣で少年を指した。
「それほど、この剣が怖かったってことか? ああん?」
挑発的に言ってやれば、少年の表情が険しくなった。
彼は次の魔術を警戒したが、視界の端に何かが映ってはっとした。
「おい、ミラッサ」
「痛い……痛いわ」
少女は右手を押さえてうずくまり、うめいていた。剣に手を伸ばす直前、彼女の悲鳴が聞こえたことを思い出す。
「驚いた。効くとはね」
言葉の通り驚いたようなその声にシュナードも驚いた。たったいま、彼に好機を作ってくれた「誰か」がそこにいた。
「カチエ! お前、どうして」
それは神殿の女剣士だった。
「頼まれてね」
彼女は短く言った。
「こういうのを持ってきてくれと」
「何だそれは」
「……聖水か」
少年が目を細めて、女の手元にある空の瓶を見た。
「その通り 。不浄の者に効果があるというのを疑ったことはないが、ごく普通の少女としか見えない相手に投げつけろとは」
ふう、と剣士は息を吐いた。
「助言があったとは言え、いささか覚悟が要った」
「助言? 何の話だ」
「あとにしよう。それがアストールの剣か?」
「――ああ」
シュナードはうなずいた。
「成程。私が思っていたのとはだいぶ違う展開になっているようだ」
言いながら女は剣を抜いた。
「『レイヴァスを守れ』という私の台詞は、的を外したものだったね」
それにはシュナードは、何も答えなかった。
「助太刀しよう。〈狼爪〉」
「だからそれはやめろ」
うなって、それだけ返す。
「ふ、ははは」
少年は黒髪をかき上げた。
「剣が一本増えたくらいでどうにかなると思っているのか? 確かにスフェンディアは少々厄介だ。それは認めよう。だがアストールだからこそその剣の力を使いこなせたのだ。街道警備すら続けられずに逃げ出した臆病者で三流の戦士に、何ができる」
「言ってくれるねえ」
戦士は眉をひそめた。
「俺は自称で二流だからな、客観的にはまあ、三流かもしれんさ。だがそれでも、剣の使い方は充分心得てるつもりだ」
スフェンディアを手に取れと。
(奴も警戒してる)
ライノンを閉じ込め、余計なことを言わせないと同時に、剣にもシュナードの興味を向けさせまいとした。それだ、と奇妙な確信が湧いた。
(気を逸らす必要がある)
(だがどうやって――)
転がった剣は五歩は走らないと届かない位置にある。そちらに向かえば必ず気づかれるし、邪魔されるに決まっている。
「エレスタン様」
じっと黙っていたミラッサが控えめに声を出した。
「よろしければわたくしが」
「下がっていろと言ったろう」
少年は指示を変えなかった。
「お前には荷が重い。仮にもアストールの血筋だからな」
「買いかぶっていただいて、どうも」
戦士は唇を歪めた。「王陛下」や〈狼爪〉に続き、喜べない派手な呼称だ。
「ですがあいつは丸腰です。丸腰の相手を殺すような不名誉なことは私がお受けいたします」
(は、何とも忠義のあるこった)
(それに、名誉を気にする、だって?)
シュナードは正直、少し驚いた。
「駄目だ。これ以上は言わせるな」
「は……」
そうはっきり言われては下がらざるを得ないだろう。ミラッサは残念そうに頭を下げかけ、はっとしたように横を見た。
「エレスタン様!」
彼女は飛び出して広間の入り口に向かうと両手を広げた。
「いやあっ、何これえっ!?」
耳に飛び込んできたミラッサの悲鳴は奇妙に可愛らしく、思わずシュナードは大丈夫かと声をかけそうになった。
「誰だ」
少年の目がそちらに向いた。
だがシュナードは、そちらを見なかった。誰がきたのか、何が起きたのか、気にならないはずはない。
だがこの隙を利用しない手はなかった。
(好機だ!)
彼はスフェンディアに向かって飛び出した。
気づいた少年が目を剥いて、何度目になるのか戦士の方に手を振り下ろすのと、彼がスフェンディアに手を伸ばしたのはほぼ同時だった。
(届く!)
体勢を崩しすぎないようにしながら、シュナードは哀れにも転がったままでいたスフェンディアを掴み上げた。
(俺は馬鹿か、必死になってこんなもんを)
同時に思った。
(全力で振ったらそれだけで、さっき以上に粉々になりそうなのに)
そんなふうに感じていた。
見た目で、そう判断を。
(ん?)
だがその瞬間、彼の脳裏に蘇った音がある。
(床に落ちたとき、やたらいい音させてなかったか、こいつ)
砕けるどころか、形状も損なわれていない。待てよと彼は思い出した。
(最初は、見えてたんだ。とんでもない業物に。それが)
(――レイヴァスが手をかざした途端、だった)
幻影だったと少年は言った。だが、逆なら?
(スフェンディアは)
(
その剣を再び手にしてから瞬きひとつの間に、シュナードはそこまで考えた。
いや、感じ取った。
そのとき不意に彼の視界は閉ざされた。とてつもなく眩しいものを直視したかのように目の前が真っ白になったが、痛みはなかった。
そう、少し前にも同じような光に包まれた。
それは彼が、この剣を抜いたとき。
誰かいる、と判った。レイヴァスでもミラッサでもない。現れたらしい誰かでもない。
現し身ではない。戦士はこうしたものを表す言葉を知らなかったが、ライノンにでも尋ねれば「波動」や「気」というような単語が返ってきただろう。
ありとあらゆる生き物が、そして稀にだが、物質や物体が個別に持ち、常に発しているものがあるのだと。
通常、人はそれを意識することなく生きているが、特殊な条件下では何の訓練もしていない人間であっても、それに気づくことがあるのだ、とでも。
『いつまで待たせる』
白い世界のなかで
はっきりした言葉というのではない。とても奇妙だったが、そのような内容の「感覚」をやわらかな布にくるんでそっと押しつけられたかのようだった。
(これは)
(スフェンディアか? それとも)
シュナードは訝った。だが答えが出る前に声、或いは「感覚」が続く。
『新たなアルディルムよ、お前の望みは何だ』
(……望み)
(いまの、俺の)
答えは不思議なほどすっと浮かんできた。
彼は、どこにいるともはっきりしない「何か」に向かってこう答えた。
「俺の守らなきゃならん奴が全員無事であることと、なおかつ俺もせいぜい軽傷くらいで生き延びることだ」
それが彼の本心だった。
「英雄」やら「英雄」やらは分不相応だが、これまで偉そうに剣を振るってきた分くらいは、できることがあるはずだ。
できることをできないままに終わらせたくない。
「たとえここで倒れるにしても、やれることはみんなやってから」
彼が望んだのは、それだけ。
『いいだろう』
「何か」が了承したような「感覚」。
白い世界が消えた。いまのやり取りはほんの一
不気味なほど手になじんだ剣を神速でかまえると、彼は足を踏ん張った。その瞬間、見えない盾に打ちかけたときと似た衝撃が彼の全身に走る。
「なに……」
だが、耐えた。先ほどの右手よりも痺れない。
第一、こちらの攻撃を防がれた結果ではない。向こうの攻撃を――防いだ。
「へ、こいつは」
シュナードの手のなかで、スフェンディアは再び、真の姿を現した。
英雄が魔術王を退治し、そして封印するに当たって使われた、伝説の剣。
見た目には、言うほど派手なものではない。その柄にはひとつ大きな月長石がはめ込まれていたが、ほかに数々の宝玉が散りばめられているようなことはなかった。
しかし剣を操る者には、業物だとすぐに判る。
だがこれが「ただの業物」ですらないことは、とうに明らかだった。
磨き込まれたように眩い刀身には、彼の顔だって映り込みそうだ。
まるでそれは、鍛え上げられたときから、時間をその身に受けたことがないかのような。
「へ、へへ」
彼は引きつった笑いを浮かべた。
「使えないだの過去の遺物だの言って、悪かったな」
謝るように呟いて、シュナードは剣を握りしめた。
「幻影を破ったか」
ち、と少年の舌打ちが聞こえた。
「下らん小細工しやがって」
戦士は剣で少年を指した。
「それほど、この剣が怖かったってことか? ああん?」
挑発的に言ってやれば、少年の表情が険しくなった。
彼は次の魔術を警戒したが、視界の端に何かが映ってはっとした。
「おい、ミラッサ」
「痛い……痛いわ」
少女は右手を押さえてうずくまり、うめいていた。剣に手を伸ばす直前、彼女の悲鳴が聞こえたことを思い出す。
「驚いた。効くとはね」
言葉の通り驚いたようなその声にシュナードも驚いた。たったいま、彼に好機を作ってくれた「誰か」がそこにいた。
「カチエ! お前、どうして」
それは神殿の女剣士だった。
「頼まれてね」
彼女は短く言った。
「こういうのを持ってきてくれと」
「何だそれは」
「……聖水か」
少年が目を細めて、女の手元にある空の瓶を見た。
「
ふう、と剣士は息を吐いた。
「助言があったとは言え、いささか覚悟が要った」
「助言? 何の話だ」
「あとにしよう。それがアストールの剣か?」
「――ああ」
シュナードはうなずいた。
「成程。私が思っていたのとはだいぶ違う展開になっているようだ」
言いながら女は剣を抜いた。
「『レイヴァスを守れ』という私の台詞は、的を外したものだったね」
それにはシュナードは、何も答えなかった。
「助太刀しよう。〈狼爪〉」
「だからそれはやめろ」
うなって、それだけ返す。
「ふ、ははは」
少年は黒髪をかき上げた。
「剣が一本増えたくらいでどうにかなると思っているのか? 確かにスフェンディアは少々厄介だ。それは認めよう。だがアストールだからこそその剣の力を使いこなせたのだ。街道警備すら続けられずに逃げ出した臆病者で三流の戦士に、何ができる」
「言ってくれるねえ」
戦士は眉をひそめた。
「俺は自称で二流だからな、客観的にはまあ、三流かもしれんさ。だがそれでも、剣の使い方は充分心得てるつもりだ」