第三項 メアリさん

文字数 3,620文字

 「シーブック君、ここを自分の家だと思ってくれたまえ。君はセシルの恩人だ。家族同然だよ。これメアリ、シーブック君をお部屋にご案内しなさい」
セシルの父親、ヴィルヘルムさんが僕をハグし、いろいろと絶賛してくれる。大人特有の表面的な笑顔で美辞麗句を並べてくれる。ただ、いろいろありすぎて、自分をモルモットとして扱う連中に囲まれていたから、僕は他人の悪意に敏感になっていた。この男が尋常ならざる憎しみを、僕に抱いていることがわかってしまう。まあ、それよりも恰幅のいいオヤジの加齢臭と、それを誤魔化そうとする香水の混合臭の方が気持ち悪かったけど……
 「畏まりました。旦那様。ではシーブック様、どうぞこちらへ。お部屋へご案内いたします」
メアリと呼ばれた美しいメイドさんがそう言って僕の荷物を運ぼうとした。穏やかで優しそうで、消えいってしまいそうな儚さを醸し出す女性だ。
「あの、荷物くらい自分で運びますよ」
僕ははメアリにそう言って、鞄を自分で運ぼうとしました。でも、すぐに彼女に諌められて
「いえ、これはわたくしの仕事です。シーブック様はどうぞお気になさらずに」
彼女の表情が微妙で、彼女に任せた方がいいんだろうって思いました。そうしないと、後で彼女が叱責されてしまうかもしれない……
「じゃあ、せめてその、シーブック様っていうのやめてもらえますか?僕はただの居候だし」
「いいえ、旦那様の大切なお客様と伺っておりますので、シーブック様とお呼びさせていただきます。どうかお許しくださいませ」
「……」
僕は困惑しました。いろいろと待ち受けていると想いましたが、まさか大切なお客様として持ち上げられるとは……もちろん、僕の意見は通らないのですが。
 案内されたお部屋はとってもステキでした。従軍中の独房のような狭い個室とは違い、高級ホテルのスウィートルームのようなお部屋でした。さてさて、この後何が待ち受けているのか……
 おそらくカメラやマイクが仕掛けられているでしょう。前の任務で、中東の爆弾テロと戦いました。そこで、一通りの盗聴器や爆弾の設置方法は学ぶことができました。だから、あえてカメラやマイクは無視します。僕がそれに気づかないと思わせておいた方が、相手を油断させられて、いろいろと都合がいい。
 でも、それ以上にこの豪華さは、何か別の意図があるんじゃないかって思わせます。
「すごい部屋だな~。ここだけで、僕の実家より広いかも。ベッドがフカフカだ」
僕はどうでもいい言葉を口にしながら、敢えてベッドで遊んでみました。ずっと無言では不自然だし、うかつな発言は相手に口実を与え、何をされるかわからない。このときから、僕の忍耐が始まるのです。就労も教育もなく、ただ高級な食事が用意されるだけの日々です。

 「何か、欲しいものはないかね?」
夕食のとき、ヴィルヘルムが僕に話しかけてきます。これから僕に贅沢をさせようと、欲しいものを聞いてくるのです。
「あの……身体を鍛えたいのですが、トレーニング・ルームとかって、あったりします?」
僕は知ってて聞きました。このお屋敷の敷地内に、明らかに体育館と言うか、スポーツジム的な建物があったのですから。ヴィルヘルムや警護兵が、日々そこで鍛錬をしています。だけど
「そうか……だが、残念ながら家にはないなぁ」
やっぱり!このおじさんは嘘をつくのです。そもそも、屋敷の中をほとんど見せてくれないのですから。
「体を鍛えるのが趣味なんですよね……なんというか、せっかく鍛えた大胸筋を無くしたくなくて」
そんな僕のちょっとナルシストな発言に、彼は一瞬戸惑ったようです。ただ、とりあえず誤魔化すことを優先したらしく
「もし、欲しい機材とかあったら言ってくれ。なんでも用意するよ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます。必要なものができたら、お願いさせてください」
 僕はそう言って微笑んで、やたらに豪華な食事を口にした。日に日に贅沢になっている食事。日に日に量が増えていく僕の皿。どうやら僕を太らせたいらしい。
 どうせ彼は、僕が求めるものを与えることはない。僕がお金を払おうとすれば止めるだろう。結局、彼は”彼が与えたいもの”しか、僕に与えないのだ。まったく、悪意が凄すぎて敬服するよ。だって、他に打ち込めることがあれば、やりたいことや大切なことがあれば、あんな風にはならない。よっぽど暇なんだろうね……
”他人を憎み出したら、暇な証拠”
そんな名言を聞いたことがあります。

 さて、僕はそれからトレーニングに打ち込みました。部屋に戻ると、世に言うタバタ式トレーニングを開始する。これは一気に心拍数が上がり、体力強化に最適です。ハードな全身運動を30秒ごとに動き
を変えて、何分間も続けるのです。これでなんとか基礎体力を維持しつつ、他には腹筋、腕立て、スクワットなどで筋力維持に努めます。唯一の悩みは、走れないことでしょうか。外出を自由にできない僕には、走り回る場所がないのです。広々とした庭が窓の外に広がっているのですが……
 この時点で僕は、まだ”争いの烙印”の扱いを研究していませんでした。銀色の悪魔を何回召喚できるのか?その回数を増やせるのか?威力を調節できるのか?他にはどんなことができるのか?などなど……
 まあ子供だったし、塞ぎ込んだ心で、狭くなった視野で、生き抜くのに精一杯だったしね。
 そんな毎日、身の回りのことはメイドさんがやってくれて、美味しい食事がいただけて、僕を堕落させようとする日々。なんだか変な我慢比べですが、僕は僕を保とうと必死だし、ヴィルヘルムは一向に堕落しない僕に苛立っていました。すると彼は、恐ろしい手段をとるのです。
 
 「シーブック様、シーブック様。メアリでございます」
ある日の晩、メアリさんが僕の部屋を訪れました。メアリさんは僕の身の回りの面倒をよく見てくれていて、このお屋敷で唯一好印象な方でした。そんなところが利用されたのか、彼女が道具にされたのです。
 「こんばんは。どうかされましたか?」
いくら面倒を見てもらっているとはいえ、深夜の訪問は初めてでした。なにかあったのかな?と心配になって、彼女を部屋に入れてしまいました。
 薄暗い部屋に入るとすぐに、彼女は抱きついて来ました。驚いて、小柄な彼女を見下ろすと、そこには美人メイドさんが、恥らいながら潤んだ瞳で僕を見つめていました。
「ど、どどど、どうしたんですか?」
僕はとても狼狽しました。だって、こんなシチュエーションとは程遠い生活をしていたのですから。
「失礼いたします」
そう言ってメアリさんは僕の右手をとり、自分の左胸に押し当てました。
「えぇ!?」
これには僕も驚いて、後ろにひっくり返ってしまいました。そんな僕を彼女は追撃します。よく見るとメイド服の胸元が開いていて、なんというか、とんでもない破壊力です。
 そんな僕を尻目に、彼女は服を脱ぎ始めました。
「あの、なんで脱ぐんですか?」
「えっ?その……着たままの方が……お好きですか?」
 ノックアウト!僕は完全にやられていました。女性とお付き合いをしたことがない僕、”彼女いない歴=(イコール)年齢”の僕には、その魅力に抗う術はありませんでした。ただ、経験がないがゆえに、彼女に触れる勇気がありませんでしたが……
 そんな僕の様子を、メアリさんは誤解したようです。僕がビビって動けないのを、必死に理性を保っていると勘違いしたようです。彼女は下着姿で僕に身を投げてきました。そのまま彼女と一緒に、ベッドの上に倒れ込みます。
 僕は嬉しいやらどうしていいやらで、混乱して動けませんでした。彼女を抱きしめることなんてもってのほかです。そんなとき、震える声で彼女が囁きました。
「お願い……追い返さないで……」
はっと彼女を見ると、彼女は泣いていました。
「お願いです……どうか、今夜だけでも……」
そう呟く彼女を、僕は力いっぱい抱きしめて、そのままファーストキスをしました。
 彼女は遣わされたのです。僕が堕落するように、女性に溺れるように……
 追い返したりしたら、どんな叱責が、どれほど酷い目に合わされるのか、すぐには浮かびませんでした。でも、日頃から接点が多い彼女、僕にとって比較的打ち解けている彼女が、利用されていることがわかります。そんなヒトがいれば、当然利用されてしまうのです。だけど僕は、このときの僕は、そういった配慮が出来ず、こんな状況に至ってしまうのです。
 「ありがとう」
そう言った彼女と交わす口づけは、とても甘くて、切ないものでした……
 そしてこの日から、彼女は毎晩僕の部屋を訪れました。僕は罪悪感を感じながらも、どうすることもできませんでした。そしていつの間にか、耽溺してしまうのです。
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登場人物紹介

主人公の少年。

他のシリーズでは「蓮野久季(はすのひさき)(21?)」と名乗っていた。

本名は明かされないが、2章以降では”シーブック”と名づけられる。

セシル・ローラン(17)

”恋人ごっこ”に登場し、蓮の辛い過去を暴いて苦しめた女性。

本編では、蓮と出会い、惹かれ、壊れる様子が語られる。

閉じた輪廻が用意した、蓮を苦しめるための女性。

リジル(14)

アルビジョワ共和国で戦火に見舞われ、両親を失った少年。

妹のフェルトを守るために必死で生きている。蓮と出会い保護された。

水のプラヴァシーを継承し、「恋人ごっこ、王様ごっこ」では”耐え難き悲しみの志士(サリエル)”となって戦った。

フェルト(5)

リジルの妹。戦争で両親を亡くし、また栄養失調から発育が遅れている。

リジルと蓮に無邪気に甘える姿が、蓮の中に眠る前世の記憶(前世の娘)を呼び起こす。

この幼女の存在が、リジルを強くし、蓮に優しさを取り戻させる。

クレナ・ティアス(24)

アルビジョワで蓮が出会う、運命の女性。

レジスタンスの参謀として活躍する、聡明な女性。

アルビジョワ解放戦争の終盤、非業の死を遂げ、永遠に消えない蓮の瑕となる。

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