昼前に休憩したい 2
文字数 3,932文字
黒髪の青年が話す記憶はどれもありふれた日常ばかりだった。
小さな家庭菜園で育てていた野菜が霜でダメになりそうだったので慌てて収穫し、その日から数日野菜だらけの食事をしたこと。家の外側の窓を拭いていたら誤って落ちてしまったけれど、一階だったのでコブを作るだけで終わったこと。週に二回行く近所のパン屋に気になる女の子がいること。春先に積もるほどの雪が降ったこと。流行りの色と形のコートを買ったのに、翌日に洗濯に失敗して色がまだらになってしまったこと。毎日寝る前に家の明かりを消して、中から星を眺めるのが趣味だったこと。
青年の口からつらつらと落ちていくそれらは全てが、何も珍しくないどこにでもありそうな生活の一部で、それを全て詳しく聞き出していく。
例えば「どんな名前の野菜を育てていたのか」「怪我をした時どこの病院に行ったのか」「なんていう名前のパン屋で、女の子はどんな子か」「何日頃に雪が降って、どのようにして溶けたのか」「具体的にどんな感じのコートを買ったのか」「窓からどんな星が見えたのか」。
話すこと全て、どんな些細なことであっても何かの質問をされ続けるので、最初こそ自分から話していた彼より、だんだんとカトレアの発言の方が増えていく。
そんな彼女をいつも見ているハーミットは二人きりの時、たまに「質問攻めの女王」などと揶揄したりするけれど、来客中でこういう聞き取りを行っている間は口を決して挟まずに、いつも黙って聞いていた。
質問を続けることに、会話を膨らませようという意図も、気遣いもない。
客から聞く話の多くは一見霊になった事情などとは何の関係ないどうでもいい情報ばかりだし、実際に案内する上でどうでもいい情報は多い。
質問をして増えるのは意味のない点ばかりだ。
だが、その一見無意味で無関係な無数の点から何かの形を作ることこそが、彼女が賢者たる所以である。それが不要な情報だったかどうか解るのは、常に全てが終わってからで、案内が終わるまでは得られるもの全てが手掛かりだ。特に彼女の場合、決してこの家から出られないという制約のお陰で、実際に己自身で見聞するよりも多くの情報を常に集める必要があった。
しかし。
代々の案内の賢者たちがカトレアと同じようにしていたかといえば否だ。
彼らは誰も、幽閉されていなかったから。
この家に彼女がいる理由は、案内の賢者であることとは全く一致しないものだった。但し彼女が賢者でなければ幽閉されることもなく既に殺されていた可能性は高い。
いかに時の権力者が望もうが全ての賢者は存在が重んじられる。賢者は賢者同士で守られ、下手な介入や一方的な命に関わる処断を行えば、例え交流がなくても他の賢者が黙っていない。賢いからこそ、賢者は一度権力に例外を許せばなし崩しになることを理解しているし、現在の自分たちだけでなく未来の為に動く。不審な処刑などを行えば最後、残された賢者たちが何らかの手段を講じて政治に介入してくる。政治が大きく動いた背景に賢者がいた事は少なくない。
過去からの賢者が守って築いてきた賢者の有り様は、過去の恩恵を受けている今の賢者達によって継続され続けている。
何もしなければ大人しく協力し続けてくれる賢者は、反面権力に対する砦であり、未だ崩されたことがない。
ここはそういう国で、故に色々と不都合な事実を知ってしまった彼女ですら冤罪で処刑されることもなく、表向きは王族への数々の暴言や普段からの背徳行為(心当たりはない)による罰則としての幽閉という扱いだけで終わっている程には賢者の地位は重い。命まで脅かされず生活が保障されている状態であれば、賢者たちが動くほどの理由にならないのも過去において確立されたものだ。ここで幽閉が解ける前に逃げ出せば、国家反逆までが疑われ、さすがに処刑の対象になり得るが。
だからこそ、この先も生きたいならば、彼女は賢者でなければならない。
賢者で無くなった瞬間に己の安全はないことを知っている。この命が惜しいとは思わないが、まだ遂げるべき事が残っている今、死んでしまうのは不味い。それさえなければいつ死んでも構わないのだが、己の信念を曲げたり誰かの命を軽視してまで刹那的に生きる気はないのだ。
だから賢者を続けている。
ここで生きる上で必要なものは食事から生活用品から全てが定期的に家に送られてくるし、それ以外に欲しいものがあれば荷物の受け取り口に手紙を残しておけば次回物資が来る際に用意されたりされなかったりする。余程高額なものでなければ頼んだものの殆どは用意されているので、恐らく国が賢者に出している給金がそれらの物資購入に当てられていると思われた。
そんな今の日常は、霊との雑談と、そこから割り出す行き先の確定。
ただし案内は賢者の資格とは全く関係ない。
「それで、雨漏りは直ったのかしら?」
「ええ、どうにか」
「その後は大丈夫だったの? また雨漏りした?」
「いいえ。多分大丈夫だったと思いますよ」
それは、激しい大雨が続いた時に彼のあまり新しくない家が雨漏りをしてしまい、雨の上がった日に近所の人たちから材料を貰って慌てて直した話だった。大工に頼んでも良かったけれど、同じような家がその時はたくさん出て大工も忙しかったので自分で直してしまった、と彼は笑った。
カトレアはこの家が雨漏りをしても直せそうにない。
「貴方器用そうよね」
「そうですね。家のことなら自分でやってましたし、簡単な家具なら全部自作してましたし。そうかもしれないですね」
「どんな家具を作れるの?」
「んー、普通に戸棚とか鳥の家とか郵便受けとか、まぁそんなやつですね。金持ちじゃないんで簡単に買えないし、必要に迫られれば作れるものは作ってました」
話を聞けば聞くほど、彼は基本善良で質素に暮らしていたらしい。ノーグは、本当にどこにでもいそうな街の青年だったようだ。別段目立つようなことは何もない平凡な暮らしを送っている青年。
だが、これだけ色々聞いていれば、見えない点もわかってくる。
「それだけ色々出来たなら、ご家族は喜びそうね?」
「いやー、どうなんでしょ?」
「喜ぶかどうかわからない?」
「思い出せないですねぇ」
日常の話については途切れず雄弁に語る彼は、家族に関して何も思い出さない。それと同じく、自分の仕事に関しても何も思い出さない。本当に驚くほど些細な出来事は覚えているのに、特定のものに関しては自分からは一切言及しないし、質問を投げても全く思い出せないようだった。普通ならどこかで家族や仕事が絡むような日常の内容の話ですら、そういうものが出てこないままで話が進む。
こういう霊は珍しくない。
彼らは生身でないが故に、記憶の一部を都合よく捨ててきていることが多かった。無くなっている記憶は人それぞれなので、そこに何があるのかそれだけではわからない。それが霊になった理由に絡んでいる場合もあれば、まったく無関係なこともある。
わからない記憶に何があるのか気にはするが、それが一番重要ではない。
「思い出したほうがいいんでしょうか?」
ことんと首を傾げて問うノーグ。彼女はそれに頭を横に振る。
「いいえ? っていうか、今の状態で思い出せないことを思い出すのは、無理だと思うわ」
「そうなんですか?」
「人の記憶は主に体の中に保存されてるの。今のあなたが思い出せるのは、霊になった時に自分で持ってきたものだけ。保存している身体と離れているから、今持ってきてない記憶を思い出すことはできないの。思い出そうにも、それを入れた引き出しが今のあなたにはないから」
「はぁ」
よくわかっていないのだろう、曖昧な返事。
けれど霊は元の存在と別人というわけでもない。ただ何かが思い出せないだけで、その過去を経て出来た今の性格に変わりはない。
もし不幸が重なって尖った性格は、その不幸な過去を置いて霊になったとしても尖ったままだし、何かきっかけがあって自信の持てない性格になっていると、そのきっかけの記憶を置いてきても自信が持てないままだ。生身の記憶喪失とは違って、記憶を思い出せない霊が、それを思い出せないだけで身体があった頃の性格が変わることはない。些細な癖や考え方、モノの感じ方や好き嫌いも同様だ。
彼らは、ただ何かが思い出せないだけで、生きてる時の己自身そのままで霊になっている。
それこそが大事な情報。
「食べ物の好き嫌いはある?」
「割となんでも食べますね。嫌いなものは、んー、固いものは苦手、かな?」
たくさんの点を集めるために、カトレアは質問をする。
「どんな? 干してカチカチになった物とか?」
「えっと、えーっと、あの、強く噛まないと食べられない感じの」
「あー、木の実とかでもたまにあるわよね、噛むとカリっていうか、がじっていうか、そういう感じの妙に固いの」
「そうそう、そういうのは好きじゃなかったですね。どんなに美味しくてもちょっと。それを柔らかく煮たとかならいいんですけどねぇ」
「わかるわー、硬いとそれだけで顎が疲れてイマイチ味わえないとかね」
「そうなんですよ……って、こんな話で何かわかるんです?」
カトレアが色々と質問をし始めてから、ノーグはこの言葉を既に数回繰り返している。もう頃合いかもしれない。
実のところ、そろそろ案内すべき行き先の見当はついてきたので、後はそれを固める為のいくつかの質問をして、自分の判断が正しいのかどうか確認するだけになっている。今回の相手は普段の客よりも行き先のわかりやすい情報が多かったから。
今回は思考に耽るような必要もなく出そうな答えに、カトレアはちょっとだけ物足りなさを感じた。
小さな家庭菜園で育てていた野菜が霜でダメになりそうだったので慌てて収穫し、その日から数日野菜だらけの食事をしたこと。家の外側の窓を拭いていたら誤って落ちてしまったけれど、一階だったのでコブを作るだけで終わったこと。週に二回行く近所のパン屋に気になる女の子がいること。春先に積もるほどの雪が降ったこと。流行りの色と形のコートを買ったのに、翌日に洗濯に失敗して色がまだらになってしまったこと。毎日寝る前に家の明かりを消して、中から星を眺めるのが趣味だったこと。
青年の口からつらつらと落ちていくそれらは全てが、何も珍しくないどこにでもありそうな生活の一部で、それを全て詳しく聞き出していく。
例えば「どんな名前の野菜を育てていたのか」「怪我をした時どこの病院に行ったのか」「なんていう名前のパン屋で、女の子はどんな子か」「何日頃に雪が降って、どのようにして溶けたのか」「具体的にどんな感じのコートを買ったのか」「窓からどんな星が見えたのか」。
話すこと全て、どんな些細なことであっても何かの質問をされ続けるので、最初こそ自分から話していた彼より、だんだんとカトレアの発言の方が増えていく。
そんな彼女をいつも見ているハーミットは二人きりの時、たまに「質問攻めの女王」などと揶揄したりするけれど、来客中でこういう聞き取りを行っている間は口を決して挟まずに、いつも黙って聞いていた。
質問を続けることに、会話を膨らませようという意図も、気遣いもない。
客から聞く話の多くは一見霊になった事情などとは何の関係ないどうでもいい情報ばかりだし、実際に案内する上でどうでもいい情報は多い。
質問をして増えるのは意味のない点ばかりだ。
だが、その一見無意味で無関係な無数の点から何かの形を作ることこそが、彼女が賢者たる所以である。それが不要な情報だったかどうか解るのは、常に全てが終わってからで、案内が終わるまでは得られるもの全てが手掛かりだ。特に彼女の場合、決してこの家から出られないという制約のお陰で、実際に己自身で見聞するよりも多くの情報を常に集める必要があった。
しかし。
代々の案内の賢者たちがカトレアと同じようにしていたかといえば否だ。
彼らは誰も、幽閉されていなかったから。
この家に彼女がいる理由は、案内の賢者であることとは全く一致しないものだった。但し彼女が賢者でなければ幽閉されることもなく既に殺されていた可能性は高い。
いかに時の権力者が望もうが全ての賢者は存在が重んじられる。賢者は賢者同士で守られ、下手な介入や一方的な命に関わる処断を行えば、例え交流がなくても他の賢者が黙っていない。賢いからこそ、賢者は一度権力に例外を許せばなし崩しになることを理解しているし、現在の自分たちだけでなく未来の為に動く。不審な処刑などを行えば最後、残された賢者たちが何らかの手段を講じて政治に介入してくる。政治が大きく動いた背景に賢者がいた事は少なくない。
過去からの賢者が守って築いてきた賢者の有り様は、過去の恩恵を受けている今の賢者達によって継続され続けている。
何もしなければ大人しく協力し続けてくれる賢者は、反面権力に対する砦であり、未だ崩されたことがない。
ここはそういう国で、故に色々と不都合な事実を知ってしまった彼女ですら冤罪で処刑されることもなく、表向きは王族への数々の暴言や普段からの背徳行為(心当たりはない)による罰則としての幽閉という扱いだけで終わっている程には賢者の地位は重い。命まで脅かされず生活が保障されている状態であれば、賢者たちが動くほどの理由にならないのも過去において確立されたものだ。ここで幽閉が解ける前に逃げ出せば、国家反逆までが疑われ、さすがに処刑の対象になり得るが。
だからこそ、この先も生きたいならば、彼女は賢者でなければならない。
賢者で無くなった瞬間に己の安全はないことを知っている。この命が惜しいとは思わないが、まだ遂げるべき事が残っている今、死んでしまうのは不味い。それさえなければいつ死んでも構わないのだが、己の信念を曲げたり誰かの命を軽視してまで刹那的に生きる気はないのだ。
だから賢者を続けている。
ここで生きる上で必要なものは食事から生活用品から全てが定期的に家に送られてくるし、それ以外に欲しいものがあれば荷物の受け取り口に手紙を残しておけば次回物資が来る際に用意されたりされなかったりする。余程高額なものでなければ頼んだものの殆どは用意されているので、恐らく国が賢者に出している給金がそれらの物資購入に当てられていると思われた。
そんな今の日常は、霊との雑談と、そこから割り出す行き先の確定。
ただし案内は賢者の資格とは全く関係ない。
「それで、雨漏りは直ったのかしら?」
「ええ、どうにか」
「その後は大丈夫だったの? また雨漏りした?」
「いいえ。多分大丈夫だったと思いますよ」
それは、激しい大雨が続いた時に彼のあまり新しくない家が雨漏りをしてしまい、雨の上がった日に近所の人たちから材料を貰って慌てて直した話だった。大工に頼んでも良かったけれど、同じような家がその時はたくさん出て大工も忙しかったので自分で直してしまった、と彼は笑った。
カトレアはこの家が雨漏りをしても直せそうにない。
「貴方器用そうよね」
「そうですね。家のことなら自分でやってましたし、簡単な家具なら全部自作してましたし。そうかもしれないですね」
「どんな家具を作れるの?」
「んー、普通に戸棚とか鳥の家とか郵便受けとか、まぁそんなやつですね。金持ちじゃないんで簡単に買えないし、必要に迫られれば作れるものは作ってました」
話を聞けば聞くほど、彼は基本善良で質素に暮らしていたらしい。ノーグは、本当にどこにでもいそうな街の青年だったようだ。別段目立つようなことは何もない平凡な暮らしを送っている青年。
だが、これだけ色々聞いていれば、見えない点もわかってくる。
「それだけ色々出来たなら、ご家族は喜びそうね?」
「いやー、どうなんでしょ?」
「喜ぶかどうかわからない?」
「思い出せないですねぇ」
日常の話については途切れず雄弁に語る彼は、家族に関して何も思い出さない。それと同じく、自分の仕事に関しても何も思い出さない。本当に驚くほど些細な出来事は覚えているのに、特定のものに関しては自分からは一切言及しないし、質問を投げても全く思い出せないようだった。普通ならどこかで家族や仕事が絡むような日常の内容の話ですら、そういうものが出てこないままで話が進む。
こういう霊は珍しくない。
彼らは生身でないが故に、記憶の一部を都合よく捨ててきていることが多かった。無くなっている記憶は人それぞれなので、そこに何があるのかそれだけではわからない。それが霊になった理由に絡んでいる場合もあれば、まったく無関係なこともある。
わからない記憶に何があるのか気にはするが、それが一番重要ではない。
「思い出したほうがいいんでしょうか?」
ことんと首を傾げて問うノーグ。彼女はそれに頭を横に振る。
「いいえ? っていうか、今の状態で思い出せないことを思い出すのは、無理だと思うわ」
「そうなんですか?」
「人の記憶は主に体の中に保存されてるの。今のあなたが思い出せるのは、霊になった時に自分で持ってきたものだけ。保存している身体と離れているから、今持ってきてない記憶を思い出すことはできないの。思い出そうにも、それを入れた引き出しが今のあなたにはないから」
「はぁ」
よくわかっていないのだろう、曖昧な返事。
けれど霊は元の存在と別人というわけでもない。ただ何かが思い出せないだけで、その過去を経て出来た今の性格に変わりはない。
もし不幸が重なって尖った性格は、その不幸な過去を置いて霊になったとしても尖ったままだし、何かきっかけがあって自信の持てない性格になっていると、そのきっかけの記憶を置いてきても自信が持てないままだ。生身の記憶喪失とは違って、記憶を思い出せない霊が、それを思い出せないだけで身体があった頃の性格が変わることはない。些細な癖や考え方、モノの感じ方や好き嫌いも同様だ。
彼らは、ただ何かが思い出せないだけで、生きてる時の己自身そのままで霊になっている。
それこそが大事な情報。
「食べ物の好き嫌いはある?」
「割となんでも食べますね。嫌いなものは、んー、固いものは苦手、かな?」
たくさんの点を集めるために、カトレアは質問をする。
「どんな? 干してカチカチになった物とか?」
「えっと、えーっと、あの、強く噛まないと食べられない感じの」
「あー、木の実とかでもたまにあるわよね、噛むとカリっていうか、がじっていうか、そういう感じの妙に固いの」
「そうそう、そういうのは好きじゃなかったですね。どんなに美味しくてもちょっと。それを柔らかく煮たとかならいいんですけどねぇ」
「わかるわー、硬いとそれだけで顎が疲れてイマイチ味わえないとかね」
「そうなんですよ……って、こんな話で何かわかるんです?」
カトレアが色々と質問をし始めてから、ノーグはこの言葉を既に数回繰り返している。もう頃合いかもしれない。
実のところ、そろそろ案内すべき行き先の見当はついてきたので、後はそれを固める為のいくつかの質問をして、自分の判断が正しいのかどうか確認するだけになっている。今回の相手は普段の客よりも行き先のわかりやすい情報が多かったから。
今回は思考に耽るような必要もなく出そうな答えに、カトレアはちょっとだけ物足りなさを感じた。