シェフの想い

文字数 2,655文字

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時刻は18:00。
ほとんど食されることがないまま、時間ばかりが過ぎてゆく。

多くの人々はこの後、二次会、三次会と遊宴が続くのだ。

この立食パーティは、お偉いさん方の顔見せ、序章に過ぎない。


18:30。アナウンスがこだました。

「ただいまを持ちまして、懇親会を終了させていただきます。ご退席ください。」

人々は、私たちにほとんど手をつけないまま、会場を後にした。

「ちょ、待てよ」往年のアイドルがここにいたらそう叫ぶかもしれない。

しかし、ぞろぞろと退出していく人々にそのような気持ちはない。

目の前の料理などは、飾りに過ぎないのだから。


「舐めるなよ、人間。」
私の体はワナワナと震えだした。

この震えは人間たちの肉眼で、判断できるほどのものではないとわかってはいるが、怒りに震えずにはいられなかった。

彼らは知っているのだろうか。

私たちを調理してくれているシェフの生い立ちを、苦労を、想いを。


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シェフは3歳のときに両親を亡くし、親戚の家に引き取ってもらった。しかし、その家は彼を手厚く迎えてはくれなかった。

親戚の子供たちからの度重なる暴力や、親族からの冷遇に耐えかね、彼は小学校に入学する直前に、何も持たずに家から逃げ出したのだ。

行政サービスに頼る術もあったが、とある理由で行政を嫌っていた彼は誰にも助けを求めることをしなかった。

彼は、家の裏山を進み、その先に広がる村を目指した。
その村では、誰もが分け隔てなく平等に暮らせるという噂があったのだ。

しかし、彼の見通しは甘かった。
村にたどり着くことなく、裏山の中で遭難してしまったのだ。

歩けど歩けど、木々ばかり。食料は、木の実しか見つからない。

結局彼は、村に向かうことを諦めた。

偶然見つけた湧水が出る洞穴の中で、助けを待つことにしたのだ。
無駄に動いて体力を失うよりも、じっと縮こまって体力を温存する方が上策だと判断した彼の判断は正解だったのだろうか。

彼は一切食事をとらなかった。
木の実や草はあったのだが、5歳の彼に、それが安全かどうかを判断する知恵はなかったからだ。

ただ洞穴の水だけを飲んで過ごした。

人の身体は通常の空腹状態を過ぎると、脂肪を燃やし始める。

そうしてブドウ糖を作り出すが、それも使い切ると今度は脳がブドウ糖の消費量を減らし、最終的には体内のプロテインを消費する。

その結果、急激に筋肉が衰え、体の機能が低下するのだ。

自分の体を食べて生き延びているような状態を何週間か続けたのち、彼は捜索隊に保護された。

その後、彼は親戚の家を離れ、児童養護施設に預けられた。

その時の飢えの経験は彼の脳裏から離れず、10年後、彼は料理人の門を叩いた。


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そんなシェフももう45歳になっていた。

美味しい料理を届けたい。
自分が食べることができないことで苦しみを味わったからこそ、料理で感動を与える仕事をしたかった。

その願いは叶い、高級ホテルの料理長を務めていた。

彼はその腕前で、丹精を込めて、私たちを調理した。

それもすべて、人々に満足してもらうため。

下ごしらえから換算すると、何十時間もかけて用意されたにもかかわらず、あなたたちは、見向きもしない。


あなたたちは、シェフの気持ちを知っているのか。

シェフだけではない。
飢えに苦しむ全世界の人々の苦しみを知っているのか。


「何がもったいないだ!世界に発信しているのは、理念だけではないか!」私はそう叫んだ。もちろん、その声は人間には聞こえない。

そして、その場で暴れたくなった。
突然料理が飛び跳ねたら人間たちは大慌てするだろう。しかし、そんなことは関係がない。

私は、彼らの態度が許せなかった。

あんまりじゃないか。

いくら飽食の現代と言っても、このような仕打ちはあるのか。
彼らに悪気はないのかもしれないが、これはシェフの気持ちを踏みにじる行為だ。


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私の怒りが沸点に達し、再度沸騰しかけたとき、ある一人の青年が私たちの目の前に駆け寄ってきた。

その青年は、苦虫をすりつぶした顔で、キョロキョロとあたりを見渡した。

そして、「勿体ねえ」と、つぶやくや否や、大量に食べ残された私たちを、大きな口の中に入れていったのだ。

まず、友人のスサモンこと、スモークサーモンさんが昇天した。
彼はよく、「俺は焼かれるよりも刺身のままがええ」と言っていたのを思い出す。

続いて、恋人のクレムーこと、クレームブリュレちゃんが昇天した。
彼女とはよく、「食べられるときは一緒にね」と甘い言葉を囁きあったものだ。

スサモンも、クレムーも、青年の彼の大きな口に吸い込まれていった。
二人とも、穏やかに、満足そうに、昇天していった。

次は私の番だ。私も彼に食されるのだ。
自然と恐怖はなかった。どうせまた輪廻して、この世界に戻ってくるのだ。
今世は、人間の胃で最期を迎えたいと思っていたのだから光栄だ。

しかし、神様は私に願いを叶えさせてはくれなかった。
青年は、そこで食事をやめてしまったのだ。

彼の隣では、上司が彼を睨んでいた。


淑女も、紳士も、上司も、青年も、誰もが会場を後にした。

広い遊宴の席に取り残された私たちを、静寂が包み込んだ。

これが、うたげのあとだ。


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ほどなく、いつもの彼女たちがやってきた。

給仕係の女性たちはいつものことだと諦めているのだろうが、その瞳は少しだけ曇っていた。

彼女たちは、チクリと痛む胸の抑えながら、私たちと皿を下げた。

そして、調理場の奥にて、私たちは残飯として廃棄された。
誰もが一緒くたになり、生ゴミとして、一生を終えるのだ。

シェフはそんな私たちを見て、哀しそうな顔をしていた。
しかし、どこか諦めているようにも見えた。

私たちは、遊宴のおまけなのだろうか。
仕方ないのだろうか。

いいや、違うはずだ。
全ての料理には、想いが込められている。
無駄にしていい料理などあるはずがない。


だからこそ、私は遊宴に参加した人々を決して許さない。
心無い食べ残しは、シェフの思いを、全世界の飢える人々を冒涜する行為だ。


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