第1話 壊れた家
文字数 8,323文字
「文子 ……どこにいるの」
「お婆さま。私はここにいるわ」
奥座敷。誰もこない部屋。寝たきりの老婆。文子は優しく手を取った。最近は目が見えなくなっている祖母。痩せ細った手。孫娘を手探りで探していた。
「ああ。お前の手は暖かい………いいかい。お前に大事な話があるんだよ」
そう言って祖母は布団に身を起こした。文子の手を握っていた。
「私はね。お前の身の上が心配なんだ。お前はこの家にいては、幸せになれない」
行きも絶え絶えの祖母。その目は真っ赤に充血していた。
「お婆さま。何を言うの」
「黙ってお聞き」
明治から続く医師の家、二階堂 家。現在は文子の父、二階堂毅 が院長を務めていた。息子が後を継ぎ幸せのはずの祖母。真剣な目で孫を見つめた。
「お前は先妻の娘だからといって、学校にも行かせてもらえず……娘時代なのに私なんかの世話をして……本当に可哀想なことをしたよ」
「そんなことないわ」
「……その水を取っておくれ」」
文子は祖母に水を飲ませた。
「はあ、はあ。いいかい。私はもうすぐ死ぬ」
「お婆さま?」
「文子……その引き出しを開けてご覧」
祖母の嫁入りの箪笥。着物の下に、通帳と判子があった。
「これは?」
「私の財産を。お前の名前にした……隠し持っていなさい」
最近、弁護士を呼んでおり不思議だった文子。これで合点がいった。
「どうしてこんなことを」
「私が死んだら。お前はこの家から一生出られない。今以上に奴隷のようにこき使われるだけだよ」
苦しみの声。祖母は筆を持てと文子に言った。
「何を書くの」
「私の言う通りにしなさい……『今までお世話になりました……』」
祖母が話す文面は文子が家出をするという内容だった。祖母の思い出がある家にいるのが辛い。これからは家族に迷惑をかけぬよう、一人で生きていく、と言う内容だった。
誰もが納得する名文。女学校を出て、看護婦をしていた祖母の死に際の叡智。文子は息を飲みつつ、祖母の指示通りにしていた。
「これでいい……そして、これ、この手紙だ」
「何ですか」
古い手紙。さすがに苦しいのか横になった祖母は話し出した。
「昔……この病院ができた頃、大怪我の人がいてね。私も看護をしてその人は治ったんだけど、ご家族はお金が払えなかったんだよ」
当時の医師の二階堂の祖父。優しい祖父はそんな人も許して助けていたと祖母は笑った。
「その人は神社の人だった。お金の代わりに、何か困った事があったらその手紙を持って訪ねて欲しいって言っていたんだ」
「隣町なのね」
「ああ……もうその人はいないかもしれない。でも逃げるならここから遠い方がいい。そこで、相談して仕事を探しなさい」
「お婆さま。もう休みましょう。疲れたでしょう」
年寄りの大袈裟な心配だと布団を掛けた文子。しかし祖母は強い力で孫娘の手を握った。
「文子。私の四十九日の間は、この部屋で、ずっと写経をしていなさい。そして、法要が済んだらすぐにお逃げ。すぐにだよ」
「わかったわ。心配しないで」
本気の祖母。どこか怖い気がした文子。しかし、祖母は本当にその数日後に亡くなった。
◇◇◇
「全く。こんな忙しい時期に死ぬなんて。どこまで私を苦しめる気かしら?」「……私は今日の学会に顔を出して午後に家に戻る。それまでお前が通夜を仕切れ」
「私が?面倒なことは全部私なんて」
病で死んだ先妻の後。後妻に入った照代。仕事人間の医師の夫、毅。働き盛りの四十三歳。彼に冷たくそう言い渡された元は看護婦でこの病院で働いていた照代は三十五歳。格式高い仕来たりは苦手であった。厳しい姑と対立した結果、それを引き継げるはずもない嫁だった。
地元の大病院の通夜。これをやる自信もなく、金切声を上げていた。
「文子にやらせろ。後は任せた」
「そんな」
毅にすれば、文子は母を看取った実娘。信用している事が照代には許せなかった。しかし、自分は妻として通夜をやらねばならぬ身。照代は文子に命令を飛ばした。
「何をグズグスしているのよ。私に恥をかかせる気?」
「申し訳ありません。あの、お母様。それに、もう弔問の方が見えています」
「は、早く言いなさいよ」
祖父の葬儀も手伝った文子。二度目の経験なので手順を心得ていた。病院関係者も手伝う通夜。腹違いの弟達も弔問客の中で挨拶をしていた。
弟、一郎は医学生。二郎はまだ高校生。二人とも英才教育を受け優秀だった。今は二十歳の女の文子には学問は不要とされ、彼女は尋常小学校しか出ていなかった。
そんな文子は日陰の身。今までずっと祖母の世話をしていた。親族でありながら通夜の席を取り仕切っていた。
そして通夜。翌日に葬儀が行われた。祖母の棺の前。涙したのは毅と文子だけだった。
◇◇◇
その後。弔問客が絶えない二階堂家。照代は必死に相手をしていた。この間、文子はいつもの家事をしていた。
医師の父は仕事人間。家のことは今まで亡き祖母に任せていた。そんな祖母が老齢し照代に任せるようになっていたが、実際、照代は遊んでばかり。家のことは文子が動かしていた。
「文子さん。仏壇の花は何?あんな安い花、恥ずかしいわ」
「わかりました。変えておきます」
頂き物の花。しかし機嫌の悪い照代の前。文子は謝った。
「気に要らないわね。お前、私を馬鹿にしているでしょう」
「そんなことは」
「うるさい!口ごたえする気なの!」
照代は文子を足蹴にした。倒れた身。その上に馬乗りになった。
「何よ、その目。何様のつもりなの?この家は私の家よ」
「やめて、お義母様」
日頃の己の不出来。反してうまく立ち回っている文子。先妻によく似た色白美人。照代は文子が憎くて、憎くて仕方なかった。
顔、頭を怒りに任せて打つ照代。文子は必死に手で防いだ。
「ふざけやがって。私を馬鹿にして」
「やめて下さい。お願い」
やがて疲れた照代。髪を乱し立ち上がった。
「はあ、はあ。今度馬鹿にするような態度なら、容赦しないから」
「……すいませんでした」
そんな文子。家事をした後、祖母の部屋で写経をした。この時間は父に許された時間だった。
……お婆様。お婆様の言う通りになってしまったわ。
般若心経。和紙の書に落ちたのは悲しみと、祖母の愛情の涙。もうすぐ四十九日の法要。文子は月夜に意思を固めていた。
◇◇◇
そして法要の席。亡き祖母の老弁護士が同席した。
「何ですって?保険金を解約していた?」
「はい。大奥様の意思でそうなっています」
四十九日の場。奥の間の親族会議。相続の話。照代は姑の財産に愕然としていた。その他の遺産も、姑は少ししか残していなかった。毅も驚いていた。
「父の遺産もあったはずだが。まさかこれしか残ってないとは」
「一体何に使ったのよ」
「これをどうぞ、生前の奥様の書を預かっていました」
姑が懇意にしていた老弁護士。直筆の手紙を見せた。照代は奪うように取った。
「『株投資で騙されました。財産を使い果たしてしまいました。申し訳ありません』って。これ、どう言う事ですか!」
「大奥様の遺書です」
「なんて事?死んでまで迷惑をかけて」
イラ立つ照代。毅はこれを制した。
「黙れ。騙されたのは二階堂家の恥。それにどうせ母にはそんな大金はなかったはずだ」
「でも。あなた」
「親戚の前だ。慎め」
毅の仕切りで静まった席。ここで親戚の大叔父が呟いた。
「まあ、それはもういいじゃないか。ところで。一郎君も二郎君も。優秀で素晴らしい。二階堂家は今後も安泰だろう」
元から相続に関係の無い大叔父。毅は小さく首を垂れた。
「ありがとうございます」
「跡取りは心配ないな」
二階堂の親戚。祖母を看取った文子を見ることもなかった。この日も下座で冷遇の文子。黙って話を聞いていた。
……誰も、お婆様を偲ぶ人はいないわ。
親戚たちは皆、病院関係者。そこで給与を得ている人ばかり。亡くなった祖母は祖父とこの病院を始めた功労者。生前の祖母は必死に働き、誰にでも優しくしていた。それを思い返す人はなく、仕事や金の話ばかりであった。
親戚は祖母の財産がないとわかると早々と話は切り上がった。
「納骨も終わりましたし。では、以上で」
母の死にも無関心な父の毅。それは二人の腹違いの弟達もそうだった。やがて悲しい四十九日の法要は終わった。
「夕飯の支度……文子。文子はどこなの。一郎」
「さあ。自分は知りません」
「何をサボっているのよ」
怒り心頭で家中を探す照代。台所、風呂、洗濯場、部屋。どこも清掃され「整ったまま。胸騒ぎの照代は必死に文子を探した。
そして。最後に奥座敷にきた。
「文子!お前、仕事を」
しかし、そこには誰もいなかった。姑の机の上。文があった。照代は震える手でそれを読み、絶叫した。
◇◇◇
その頃。文子は汽車に乗っていた。隣町の神社を目指していた。四十九日の法要後。すぐに家を出ていた。不思議と寂しさはなく、心は不安の方が大きかった。
……お金があっても。仕事を探さないと。
二階堂は名家。この名前だとすぐに居場所が知られてしまう。文子は思い切って、亡き母の『野田』姓を名乗ろうとしていた。
どんどん離れていく故郷。ほとんど家から出たことがない文子。進む景色に胸がドキドキしていた。これから先の運命。小さな風呂敷つつみ一つ。それを抱えて前を見ていた。
日が西に沈みかけた午後。隣町の小さな駅を降りた文子。バスに乗った。行き先は大森神社。
……神社だもの。とにかく行ってみよう。
農園が続く村はずれのバス停は終点だった。そこから降りて進む先。見上げると山の中腹にあるうっそうとした神社。文子は意を決して夕暮れの長い階段を上がっていった。
そしてやってきた神社の境内。その神社は痛みがひどく、損傷していた。
……誰も、住んでいないかもしれない。
思わず息を呑んだ文子。しかし、その奥にぼんやり灯が見えた。誰かが住んでいる、そう思った。彼女はゆっくりとそちらへ向かった。
古い木造建築。玄関を開けた文子。すると奥から声がした。
「なんだ。爺か」
声の主は男性。誰かと勘違いした様子。文子は声をかけた。
「あの。すいません」
「だ、誰だ!?」
声をかけると奥から聞こえた男の声。驚きの返事だった。
「帰れ!用はない!」
「すいません。私、お願いが合ってきたんです」
「知らぬ!とにかく帰れ!」
姿も見えない様子。とにかく怒っていた。
……どうしよう。手紙も読んでもらえないわ。
そろそろ暗くなる。他に行く宛のない文子。しかし、こう拒絶されてはここにはいられない。
奥の男の沈黙は拒否を示していた。文子はやってきた意味を告げようと手紙を玄関に置いた。
……やっぱり、お婆様の言った通りだわ。この手紙はもう頼れないわ。期待した私がいけなかったんだわ。
誰もいない玄関。頭を下げて文子は出てきた。外はすっかり夕暮れ。今夜の宿はない。
彼女はゆっくりと神社の階段を降りた。
……さっきのバス停は屋根付きだから。あそこなら一晩くらい、寝れらそうだわ。
誰もいない村の外れ。一人ぼっちの文子。真っ暗になる前にバス停まで戻っていった。単衣の着物、風呂敷包み一つ。夏の始め、静かな農村。虫の音、涼しい風、星の世界、文子はバス停へと疲れた足で歩いていた。
◇◇◇
「旦那様、誰かお客様でしたか」
「女が来たが、知らぬ」
「バス停に若い娘がいましたが。それですかね」
使用人の老人、清吉は玄関の手紙を彼に渡した。
「玄関にありましたぞ」
「なんだ、これは」
「その娘が置いたのではないでしょうか」
彼は機嫌悪そうにこれを読み始めた。
「『大森家の者よ。我、二階堂家に多大なる恩あり。よってこの文を受け取った大森家の子孫よ。必ずや、力となれ大森泰三 』とあるが。爺、知っておるか」
「泰三はあなた様のお爺さまです。二階堂?……そういえば」
爺は昔を思い出した。
「大昔。泰三様の息子、つまりあなた様のお父様は大怪我をしたんです。その時、私も一緒に隣町の二階堂病院に行きました。そこで命が助かったんです」
「それが、なぜこのようなことになるのだ」
「医者代を払えなかったんです。高い薬代でしたので」
彼はここで外を眺めていた。一番星が光っていた。
「して、親父達はどうした」
「その後、野菜など送っていたと思いますが。あの時の医者代は払ってないでしょうね」
床が落ちそうなこの屋敷。彼はため息をついた。
「……今更、何なんのだ。しかも、この俺に金を払えと申すのか」
「さあ?ですが、この手紙を持ってきた若い娘は、バス停にいましたよ」
「バス停?もうバスなど来ないであろうに」
彼はスッと柱時計を見た。爺は持ってきた野菜を広げた。
「その文。おそらく訳ありでしょうね。あの様子だと、バス停で明日まで待つのではないでしょうか」
「……若い娘。平気なのか、あんな場所で」
珍しく人に関心が出てきた様子。爺は気付かぬふりをした。
「さあ?熊でも出るかもしれないですな」
「熊って。お前。それでも良いのか?」
「良いも悪いも。旦那様が決めること。爺は知りませぬ」
「……くそ!」
彼は壁にかけてあったお面をとった。そして夜の境内を走り、階段を下っていった。
まるで忍者のような素早さ。森を、夜を、時間を、思いを駆け抜けて行った。そして、見つけた。
「はあ、はあ……おい。娘!」
声がしたので文子は恐る恐るバス停から顔を出した。
「きゃあ」
そこにいたのは狐のお面の男がいた。肩で息をしていた。
つづく
「おい。なんだこの文は!」
日暮れのバス停。寂しそうに泣いていた文子。目の前の男。和服に狐の面。一本下駄の着物姿。突然現れた男。文子は目を見開いた。
「すいません。私、祖母に言われ、その文を」
……若い娘か。泣いていたのか。ここで。
胸が締め付けられた男。それでも娘に想いをぶつけた。
「今更なんなのだ。この俺にどうしろと言うのだ」
夏の夜風。和服姿の一本下駄。顔は狐の面。興奮して怒る男。文子は怖くなった。
……とても怒っているわ。やっぱり、不躾 だったのね。
文子は立ち上がり、頭を下げた。
「突然で申し訳ありませんでした。私、亡くなった祖母に、それを持っていくように言われて」
泣いていた目。寂しい様子。彼の方こそ動揺していた。
……爺の申す通り、訳ありか。しかし、俺の屋敷など。
どうすれば良いのか。彼もわからない。そんな彼に文子は涙目で答えた。
「でも。もういいです。明日、ここを出るので」
夜更けの灯り、バス停のベンチ。夏の夜風が二人にひゅうと吹いた。
風呂敷ひとつの娘。狐の面はじっとをそれを見た。
「お前。ないのか行き場が」
直球。文子は思わず動揺した。
「で、でも。今夜はここで足ります。すいません。ご迷惑をかけて」
若い品の良い娘。どこか憂いを帯びていた。こんな場所で良いと話す彼女。そんなはずがないことはさすがにわかっている男。苛立ちのまま、仁王立ちをしていた。
……この娘御 では熊には勝てぬ……くそ。なぜ、俺がこんな事を……
人と関わるのが嫌な男。しかし。娘が事件に巻き込まれる方が面倒だと判断した。
「……来い。一晩だけだ」
「え?でも」
狐面の男は文子の手首を掴んだ。彼女の手は細い手だった。
「ここは熊が出る」
「え」
「食われるぞ」
「い、嫌です、それは」
面で不明だが、文子には彼が笑ったような気がした。
「荷物はそれか」
「はい」
男はむんずとそれを持ってくれた。そして二人で夜の土の道を歩いた。
なぜか手を繋いだままの狐男。その足の速さ、文子はとうとう根を上げた。
「すいません。もっとゆっくり」
「ああ。そうか」
彼はパッと手を離した。そして先を歩き出した。先ほどよりも暗い道。彼は慣れた様子で進むが、文子はよく見えなかった。
しかし、彼はどんどん進む。文子は声をかけた。
「すいません。待って下さい」
足の遅い娘。彼はもう待てなかった。
「きゃあ」
彼は文子をおぶった。そしてスイスイと境内を進んでいった。
その力強さと身の軽さ。文子は驚いていた。
……なんて逞しいのでしょう。
あっという間に二人は神社に着いた。
ここで降りた文子。彼はスタスタと玄関を開け入っていった。何も言われぬ文子。おずおずと中についていった。母屋の居間、その部屋の中央には囲炉裏があり火が入っていた。
「失礼します」
「ああ、娘さん。どうぞ、こちらへ」
そこにいた爺。使用人の清吉と言った。
「旦那様は奥の部屋です。気にせず今夜はここでお過ごし下さい」
「あの。清吉さんは、ここの神社の人ですか?」
白髪の年寄りは、農民の装い。囲炉裏の火の前で、優しく微笑んだ。
「私は通いの使用人です。ここには旦那様しかいません」
「先ほどの方ですね」
文子は彼がいるという奥座敷の襖を見ていた。
「ええ。旦那様は理由が合って、人には会いません。なのであなたも奥の部屋には行かないように」
「はい」
そう言って老人がかき混ぜる鍋。それは美味しそうな汁だった。
「貴女様の部屋は、あの離れの部屋です。雨漏りがしますが、今夜は平気でしょう」
「良いのですか?私、ご主人様に挨拶をしたいのですが」
清吉は首を横に振った。
「言ったでしょう。誰にも会わないと。さあ、これを食べて、お休みくだされ」
彼はそう笑顔で言うと、台所で何やら支度をし、本当に帰っていった。
囲炉裏の部屋はシーンとした。
……勝手に食べろと言われても。旦那様よりも先にいただくわけにはいかないわ。
椀と箸は二人分。おそらく彼も食べていない夕食。文子は思い切って彼の部屋に声をかけた。
「あの、旦那様。私が先にいただくわけには参りません。私は今夜は結構ですので。こちらにどうぞ」
返事のない様子。だが、想いは伝えた。文子は頭を下げて襖に礼をした。
そして蝋燭を片手に清吉に言われた部屋にやってきた。
……確かに古い部屋。でもお掃除をしてあるわ。
天井からは星が見える様子。しかし、布団が敷かれていた。
この部屋は廊下を曲がった先。そっと障子を開くと先程の囲炉裏の部屋が障子越しに影が見えた。
囲炉裏の火に揺れる姿。彼が食事をしているのが見えた。
……よかった。
障子を閉めた文子。安堵するとともに明日のことを思った。祖母の手紙があったが、頼りにするのは図々しいことだった。
……明日。お礼を言って。そして出ていこう。
決意を新たにした文子。四十九日の法要後の、この決行。知らぬ村、知らぬ神社。逃げるように歩いた一日で空腹。そのあまりの疲れで倒れるように寝てしまった。
◇◇◇
翌朝。彼は離れの部屋の娘を心配していた。
……なぜ晩飯を食わぬのだ。あまりに粗末で口に合わぬと申すのか。
青白い顔の痩せた娘。背負った時のか細さ。彼はイライラしていた。
あまりの心配。起きて来ない娘。面をつけた彼。彼女の部屋の前をウロウロ
した後、とうとう彼女の部屋の襖をそっと開けた。
……なぜ、布団で寝ておらぬのだ?
なぜか畳で寝ていた娘。男はその顔を見た。額に汗をかいていた。異常な汗。
そっと手を置くと熱があった。
……くそ!何でこんなことに。
だが気がつくと無意識に彼女を持ち上げそっと布団に下ろしていた。その身は軽いが、熱かった。この動き、娘は目を覚ました。
彼の狐の面に、もう驚かなかった。
「すいません?今、起きます……」
彼女はそう言って本当に体を起こそうとしたが、よろめいた。男は受け止めた。
「ごめんなさい」
「寝てろ」
「でも。そう言うわけには」
必死の娘。どうやら本気で起きようとしていた。男は彼女を腕に抱えた。
「そのままでは道倒れだ。お前は俺に葬式を出させる気か」
「そ、そんなつもりじゃ」
顔が赤い娘。息も絶え絶えである。意地悪な口の彼、それでも優しく娘を布団に下ろした。娘はめそめそ泣き出した。
「申し訳ありません。私……いきなり来て、ご面倒をかけてしまって」
「……」
……この娘。目を離すと本当に出ていくやも知れぬ。
困った彼は部屋から出ていった。そして清吉に事情を伝えた。今度は清吉が部屋にやってきた。
「旦那様から聞きました。どうぞ、おやすみ下さい」
「でも」
「旦那様は、あの手紙を読みました。先祖の御恩がありますので。どうぞ寝て下さい」
「……」
返事をする前に。文子は寝てしまった。それだけ彼女は疲れていた。
◇◇◇
囲炉裏の部屋。面を外した彼は看病してきた爺を待っていた。
「どうだ?まだ寝ておるか」
「はい。相当熱がありますね。お疲れではないですか」
「人の家にやってきて。寝込むとは。全く失礼な娘だ」
しかし心配している様子。清吉は彼の文句を無視し、部屋で用意をした。
「汗をかいてますので。奥様の着物を出しておきますね。それと庭でドクダミ草を採って」
「ドクダミだな。それは俺がやる」
彼はそう言って庭へスッと出ていった。清吉はその背を微笑ましく見ていた。
この神社の孫、源之丞 。彼は一人でこの神社に住んでいた。
誰も寄り付かぬ孤独な彼。そんな彼の人間的な気持ちの芽生え。爺は目を細めていた。
一『壊れた家』完
「お婆さま。私はここにいるわ」
奥座敷。誰もこない部屋。寝たきりの老婆。文子は優しく手を取った。最近は目が見えなくなっている祖母。痩せ細った手。孫娘を手探りで探していた。
「ああ。お前の手は暖かい………いいかい。お前に大事な話があるんだよ」
そう言って祖母は布団に身を起こした。文子の手を握っていた。
「私はね。お前の身の上が心配なんだ。お前はこの家にいては、幸せになれない」
行きも絶え絶えの祖母。その目は真っ赤に充血していた。
「お婆さま。何を言うの」
「黙ってお聞き」
明治から続く医師の家、
「お前は先妻の娘だからといって、学校にも行かせてもらえず……娘時代なのに私なんかの世話をして……本当に可哀想なことをしたよ」
「そんなことないわ」
「……その水を取っておくれ」」
文子は祖母に水を飲ませた。
「はあ、はあ。いいかい。私はもうすぐ死ぬ」
「お婆さま?」
「文子……その引き出しを開けてご覧」
祖母の嫁入りの箪笥。着物の下に、通帳と判子があった。
「これは?」
「私の財産を。お前の名前にした……隠し持っていなさい」
最近、弁護士を呼んでおり不思議だった文子。これで合点がいった。
「どうしてこんなことを」
「私が死んだら。お前はこの家から一生出られない。今以上に奴隷のようにこき使われるだけだよ」
苦しみの声。祖母は筆を持てと文子に言った。
「何を書くの」
「私の言う通りにしなさい……『今までお世話になりました……』」
祖母が話す文面は文子が家出をするという内容だった。祖母の思い出がある家にいるのが辛い。これからは家族に迷惑をかけぬよう、一人で生きていく、と言う内容だった。
誰もが納得する名文。女学校を出て、看護婦をしていた祖母の死に際の叡智。文子は息を飲みつつ、祖母の指示通りにしていた。
「これでいい……そして、これ、この手紙だ」
「何ですか」
古い手紙。さすがに苦しいのか横になった祖母は話し出した。
「昔……この病院ができた頃、大怪我の人がいてね。私も看護をしてその人は治ったんだけど、ご家族はお金が払えなかったんだよ」
当時の医師の二階堂の祖父。優しい祖父はそんな人も許して助けていたと祖母は笑った。
「その人は神社の人だった。お金の代わりに、何か困った事があったらその手紙を持って訪ねて欲しいって言っていたんだ」
「隣町なのね」
「ああ……もうその人はいないかもしれない。でも逃げるならここから遠い方がいい。そこで、相談して仕事を探しなさい」
「お婆さま。もう休みましょう。疲れたでしょう」
年寄りの大袈裟な心配だと布団を掛けた文子。しかし祖母は強い力で孫娘の手を握った。
「文子。私の四十九日の間は、この部屋で、ずっと写経をしていなさい。そして、法要が済んだらすぐにお逃げ。すぐにだよ」
「わかったわ。心配しないで」
本気の祖母。どこか怖い気がした文子。しかし、祖母は本当にその数日後に亡くなった。
◇◇◇
「全く。こんな忙しい時期に死ぬなんて。どこまで私を苦しめる気かしら?」「……私は今日の学会に顔を出して午後に家に戻る。それまでお前が通夜を仕切れ」
「私が?面倒なことは全部私なんて」
病で死んだ先妻の後。後妻に入った照代。仕事人間の医師の夫、毅。働き盛りの四十三歳。彼に冷たくそう言い渡された元は看護婦でこの病院で働いていた照代は三十五歳。格式高い仕来たりは苦手であった。厳しい姑と対立した結果、それを引き継げるはずもない嫁だった。
地元の大病院の通夜。これをやる自信もなく、金切声を上げていた。
「文子にやらせろ。後は任せた」
「そんな」
毅にすれば、文子は母を看取った実娘。信用している事が照代には許せなかった。しかし、自分は妻として通夜をやらねばならぬ身。照代は文子に命令を飛ばした。
「何をグズグスしているのよ。私に恥をかかせる気?」
「申し訳ありません。あの、お母様。それに、もう弔問の方が見えています」
「は、早く言いなさいよ」
祖父の葬儀も手伝った文子。二度目の経験なので手順を心得ていた。病院関係者も手伝う通夜。腹違いの弟達も弔問客の中で挨拶をしていた。
弟、一郎は医学生。二郎はまだ高校生。二人とも英才教育を受け優秀だった。今は二十歳の女の文子には学問は不要とされ、彼女は尋常小学校しか出ていなかった。
そんな文子は日陰の身。今までずっと祖母の世話をしていた。親族でありながら通夜の席を取り仕切っていた。
そして通夜。翌日に葬儀が行われた。祖母の棺の前。涙したのは毅と文子だけだった。
◇◇◇
その後。弔問客が絶えない二階堂家。照代は必死に相手をしていた。この間、文子はいつもの家事をしていた。
医師の父は仕事人間。家のことは今まで亡き祖母に任せていた。そんな祖母が老齢し照代に任せるようになっていたが、実際、照代は遊んでばかり。家のことは文子が動かしていた。
「文子さん。仏壇の花は何?あんな安い花、恥ずかしいわ」
「わかりました。変えておきます」
頂き物の花。しかし機嫌の悪い照代の前。文子は謝った。
「気に要らないわね。お前、私を馬鹿にしているでしょう」
「そんなことは」
「うるさい!口ごたえする気なの!」
照代は文子を足蹴にした。倒れた身。その上に馬乗りになった。
「何よ、その目。何様のつもりなの?この家は私の家よ」
「やめて、お義母様」
日頃の己の不出来。反してうまく立ち回っている文子。先妻によく似た色白美人。照代は文子が憎くて、憎くて仕方なかった。
顔、頭を怒りに任せて打つ照代。文子は必死に手で防いだ。
「ふざけやがって。私を馬鹿にして」
「やめて下さい。お願い」
やがて疲れた照代。髪を乱し立ち上がった。
「はあ、はあ。今度馬鹿にするような態度なら、容赦しないから」
「……すいませんでした」
そんな文子。家事をした後、祖母の部屋で写経をした。この時間は父に許された時間だった。
……お婆様。お婆様の言う通りになってしまったわ。
般若心経。和紙の書に落ちたのは悲しみと、祖母の愛情の涙。もうすぐ四十九日の法要。文子は月夜に意思を固めていた。
◇◇◇
そして法要の席。亡き祖母の老弁護士が同席した。
「何ですって?保険金を解約していた?」
「はい。大奥様の意思でそうなっています」
四十九日の場。奥の間の親族会議。相続の話。照代は姑の財産に愕然としていた。その他の遺産も、姑は少ししか残していなかった。毅も驚いていた。
「父の遺産もあったはずだが。まさかこれしか残ってないとは」
「一体何に使ったのよ」
「これをどうぞ、生前の奥様の書を預かっていました」
姑が懇意にしていた老弁護士。直筆の手紙を見せた。照代は奪うように取った。
「『株投資で騙されました。財産を使い果たしてしまいました。申し訳ありません』って。これ、どう言う事ですか!」
「大奥様の遺書です」
「なんて事?死んでまで迷惑をかけて」
イラ立つ照代。毅はこれを制した。
「黙れ。騙されたのは二階堂家の恥。それにどうせ母にはそんな大金はなかったはずだ」
「でも。あなた」
「親戚の前だ。慎め」
毅の仕切りで静まった席。ここで親戚の大叔父が呟いた。
「まあ、それはもういいじゃないか。ところで。一郎君も二郎君も。優秀で素晴らしい。二階堂家は今後も安泰だろう」
元から相続に関係の無い大叔父。毅は小さく首を垂れた。
「ありがとうございます」
「跡取りは心配ないな」
二階堂の親戚。祖母を看取った文子を見ることもなかった。この日も下座で冷遇の文子。黙って話を聞いていた。
……誰も、お婆様を偲ぶ人はいないわ。
親戚たちは皆、病院関係者。そこで給与を得ている人ばかり。亡くなった祖母は祖父とこの病院を始めた功労者。生前の祖母は必死に働き、誰にでも優しくしていた。それを思い返す人はなく、仕事や金の話ばかりであった。
親戚は祖母の財産がないとわかると早々と話は切り上がった。
「納骨も終わりましたし。では、以上で」
母の死にも無関心な父の毅。それは二人の腹違いの弟達もそうだった。やがて悲しい四十九日の法要は終わった。
「夕飯の支度……文子。文子はどこなの。一郎」
「さあ。自分は知りません」
「何をサボっているのよ」
怒り心頭で家中を探す照代。台所、風呂、洗濯場、部屋。どこも清掃され「整ったまま。胸騒ぎの照代は必死に文子を探した。
そして。最後に奥座敷にきた。
「文子!お前、仕事を」
しかし、そこには誰もいなかった。姑の机の上。文があった。照代は震える手でそれを読み、絶叫した。
◇◇◇
その頃。文子は汽車に乗っていた。隣町の神社を目指していた。四十九日の法要後。すぐに家を出ていた。不思議と寂しさはなく、心は不安の方が大きかった。
……お金があっても。仕事を探さないと。
二階堂は名家。この名前だとすぐに居場所が知られてしまう。文子は思い切って、亡き母の『野田』姓を名乗ろうとしていた。
どんどん離れていく故郷。ほとんど家から出たことがない文子。進む景色に胸がドキドキしていた。これから先の運命。小さな風呂敷つつみ一つ。それを抱えて前を見ていた。
日が西に沈みかけた午後。隣町の小さな駅を降りた文子。バスに乗った。行き先は大森神社。
……神社だもの。とにかく行ってみよう。
農園が続く村はずれのバス停は終点だった。そこから降りて進む先。見上げると山の中腹にあるうっそうとした神社。文子は意を決して夕暮れの長い階段を上がっていった。
そしてやってきた神社の境内。その神社は痛みがひどく、損傷していた。
……誰も、住んでいないかもしれない。
思わず息を呑んだ文子。しかし、その奥にぼんやり灯が見えた。誰かが住んでいる、そう思った。彼女はゆっくりとそちらへ向かった。
古い木造建築。玄関を開けた文子。すると奥から声がした。
「なんだ。爺か」
声の主は男性。誰かと勘違いした様子。文子は声をかけた。
「あの。すいません」
「だ、誰だ!?」
声をかけると奥から聞こえた男の声。驚きの返事だった。
「帰れ!用はない!」
「すいません。私、お願いが合ってきたんです」
「知らぬ!とにかく帰れ!」
姿も見えない様子。とにかく怒っていた。
……どうしよう。手紙も読んでもらえないわ。
そろそろ暗くなる。他に行く宛のない文子。しかし、こう拒絶されてはここにはいられない。
奥の男の沈黙は拒否を示していた。文子はやってきた意味を告げようと手紙を玄関に置いた。
……やっぱり、お婆様の言った通りだわ。この手紙はもう頼れないわ。期待した私がいけなかったんだわ。
誰もいない玄関。頭を下げて文子は出てきた。外はすっかり夕暮れ。今夜の宿はない。
彼女はゆっくりと神社の階段を降りた。
……さっきのバス停は屋根付きだから。あそこなら一晩くらい、寝れらそうだわ。
誰もいない村の外れ。一人ぼっちの文子。真っ暗になる前にバス停まで戻っていった。単衣の着物、風呂敷包み一つ。夏の始め、静かな農村。虫の音、涼しい風、星の世界、文子はバス停へと疲れた足で歩いていた。
◇◇◇
「旦那様、誰かお客様でしたか」
「女が来たが、知らぬ」
「バス停に若い娘がいましたが。それですかね」
使用人の老人、清吉は玄関の手紙を彼に渡した。
「玄関にありましたぞ」
「なんだ、これは」
「その娘が置いたのではないでしょうか」
彼は機嫌悪そうにこれを読み始めた。
「『大森家の者よ。我、二階堂家に多大なる恩あり。よってこの文を受け取った大森家の子孫よ。必ずや、力となれ
「泰三はあなた様のお爺さまです。二階堂?……そういえば」
爺は昔を思い出した。
「大昔。泰三様の息子、つまりあなた様のお父様は大怪我をしたんです。その時、私も一緒に隣町の二階堂病院に行きました。そこで命が助かったんです」
「それが、なぜこのようなことになるのだ」
「医者代を払えなかったんです。高い薬代でしたので」
彼はここで外を眺めていた。一番星が光っていた。
「して、親父達はどうした」
「その後、野菜など送っていたと思いますが。あの時の医者代は払ってないでしょうね」
床が落ちそうなこの屋敷。彼はため息をついた。
「……今更、何なんのだ。しかも、この俺に金を払えと申すのか」
「さあ?ですが、この手紙を持ってきた若い娘は、バス停にいましたよ」
「バス停?もうバスなど来ないであろうに」
彼はスッと柱時計を見た。爺は持ってきた野菜を広げた。
「その文。おそらく訳ありでしょうね。あの様子だと、バス停で明日まで待つのではないでしょうか」
「……若い娘。平気なのか、あんな場所で」
珍しく人に関心が出てきた様子。爺は気付かぬふりをした。
「さあ?熊でも出るかもしれないですな」
「熊って。お前。それでも良いのか?」
「良いも悪いも。旦那様が決めること。爺は知りませぬ」
「……くそ!」
彼は壁にかけてあったお面をとった。そして夜の境内を走り、階段を下っていった。
まるで忍者のような素早さ。森を、夜を、時間を、思いを駆け抜けて行った。そして、見つけた。
「はあ、はあ……おい。娘!」
声がしたので文子は恐る恐るバス停から顔を出した。
「きゃあ」
そこにいたのは狐のお面の男がいた。肩で息をしていた。
つづく
「おい。なんだこの文は!」
日暮れのバス停。寂しそうに泣いていた文子。目の前の男。和服に狐の面。一本下駄の着物姿。突然現れた男。文子は目を見開いた。
「すいません。私、祖母に言われ、その文を」
……若い娘か。泣いていたのか。ここで。
胸が締め付けられた男。それでも娘に想いをぶつけた。
「今更なんなのだ。この俺にどうしろと言うのだ」
夏の夜風。和服姿の一本下駄。顔は狐の面。興奮して怒る男。文子は怖くなった。
……とても怒っているわ。やっぱり、
文子は立ち上がり、頭を下げた。
「突然で申し訳ありませんでした。私、亡くなった祖母に、それを持っていくように言われて」
泣いていた目。寂しい様子。彼の方こそ動揺していた。
……爺の申す通り、訳ありか。しかし、俺の屋敷など。
どうすれば良いのか。彼もわからない。そんな彼に文子は涙目で答えた。
「でも。もういいです。明日、ここを出るので」
夜更けの灯り、バス停のベンチ。夏の夜風が二人にひゅうと吹いた。
風呂敷ひとつの娘。狐の面はじっとをそれを見た。
「お前。ないのか行き場が」
直球。文子は思わず動揺した。
「で、でも。今夜はここで足ります。すいません。ご迷惑をかけて」
若い品の良い娘。どこか憂いを帯びていた。こんな場所で良いと話す彼女。そんなはずがないことはさすがにわかっている男。苛立ちのまま、仁王立ちをしていた。
……この
人と関わるのが嫌な男。しかし。娘が事件に巻き込まれる方が面倒だと判断した。
「……来い。一晩だけだ」
「え?でも」
狐面の男は文子の手首を掴んだ。彼女の手は細い手だった。
「ここは熊が出る」
「え」
「食われるぞ」
「い、嫌です、それは」
面で不明だが、文子には彼が笑ったような気がした。
「荷物はそれか」
「はい」
男はむんずとそれを持ってくれた。そして二人で夜の土の道を歩いた。
なぜか手を繋いだままの狐男。その足の速さ、文子はとうとう根を上げた。
「すいません。もっとゆっくり」
「ああ。そうか」
彼はパッと手を離した。そして先を歩き出した。先ほどよりも暗い道。彼は慣れた様子で進むが、文子はよく見えなかった。
しかし、彼はどんどん進む。文子は声をかけた。
「すいません。待って下さい」
足の遅い娘。彼はもう待てなかった。
「きゃあ」
彼は文子をおぶった。そしてスイスイと境内を進んでいった。
その力強さと身の軽さ。文子は驚いていた。
……なんて逞しいのでしょう。
あっという間に二人は神社に着いた。
ここで降りた文子。彼はスタスタと玄関を開け入っていった。何も言われぬ文子。おずおずと中についていった。母屋の居間、その部屋の中央には囲炉裏があり火が入っていた。
「失礼します」
「ああ、娘さん。どうぞ、こちらへ」
そこにいた爺。使用人の清吉と言った。
「旦那様は奥の部屋です。気にせず今夜はここでお過ごし下さい」
「あの。清吉さんは、ここの神社の人ですか?」
白髪の年寄りは、農民の装い。囲炉裏の火の前で、優しく微笑んだ。
「私は通いの使用人です。ここには旦那様しかいません」
「先ほどの方ですね」
文子は彼がいるという奥座敷の襖を見ていた。
「ええ。旦那様は理由が合って、人には会いません。なのであなたも奥の部屋には行かないように」
「はい」
そう言って老人がかき混ぜる鍋。それは美味しそうな汁だった。
「貴女様の部屋は、あの離れの部屋です。雨漏りがしますが、今夜は平気でしょう」
「良いのですか?私、ご主人様に挨拶をしたいのですが」
清吉は首を横に振った。
「言ったでしょう。誰にも会わないと。さあ、これを食べて、お休みくだされ」
彼はそう笑顔で言うと、台所で何やら支度をし、本当に帰っていった。
囲炉裏の部屋はシーンとした。
……勝手に食べろと言われても。旦那様よりも先にいただくわけにはいかないわ。
椀と箸は二人分。おそらく彼も食べていない夕食。文子は思い切って彼の部屋に声をかけた。
「あの、旦那様。私が先にいただくわけには参りません。私は今夜は結構ですので。こちらにどうぞ」
返事のない様子。だが、想いは伝えた。文子は頭を下げて襖に礼をした。
そして蝋燭を片手に清吉に言われた部屋にやってきた。
……確かに古い部屋。でもお掃除をしてあるわ。
天井からは星が見える様子。しかし、布団が敷かれていた。
この部屋は廊下を曲がった先。そっと障子を開くと先程の囲炉裏の部屋が障子越しに影が見えた。
囲炉裏の火に揺れる姿。彼が食事をしているのが見えた。
……よかった。
障子を閉めた文子。安堵するとともに明日のことを思った。祖母の手紙があったが、頼りにするのは図々しいことだった。
……明日。お礼を言って。そして出ていこう。
決意を新たにした文子。四十九日の法要後の、この決行。知らぬ村、知らぬ神社。逃げるように歩いた一日で空腹。そのあまりの疲れで倒れるように寝てしまった。
◇◇◇
翌朝。彼は離れの部屋の娘を心配していた。
……なぜ晩飯を食わぬのだ。あまりに粗末で口に合わぬと申すのか。
青白い顔の痩せた娘。背負った時のか細さ。彼はイライラしていた。
あまりの心配。起きて来ない娘。面をつけた彼。彼女の部屋の前をウロウロ
した後、とうとう彼女の部屋の襖をそっと開けた。
……なぜ、布団で寝ておらぬのだ?
なぜか畳で寝ていた娘。男はその顔を見た。額に汗をかいていた。異常な汗。
そっと手を置くと熱があった。
……くそ!何でこんなことに。
だが気がつくと無意識に彼女を持ち上げそっと布団に下ろしていた。その身は軽いが、熱かった。この動き、娘は目を覚ました。
彼の狐の面に、もう驚かなかった。
「すいません?今、起きます……」
彼女はそう言って本当に体を起こそうとしたが、よろめいた。男は受け止めた。
「ごめんなさい」
「寝てろ」
「でも。そう言うわけには」
必死の娘。どうやら本気で起きようとしていた。男は彼女を腕に抱えた。
「そのままでは道倒れだ。お前は俺に葬式を出させる気か」
「そ、そんなつもりじゃ」
顔が赤い娘。息も絶え絶えである。意地悪な口の彼、それでも優しく娘を布団に下ろした。娘はめそめそ泣き出した。
「申し訳ありません。私……いきなり来て、ご面倒をかけてしまって」
「……」
……この娘。目を離すと本当に出ていくやも知れぬ。
困った彼は部屋から出ていった。そして清吉に事情を伝えた。今度は清吉が部屋にやってきた。
「旦那様から聞きました。どうぞ、おやすみ下さい」
「でも」
「旦那様は、あの手紙を読みました。先祖の御恩がありますので。どうぞ寝て下さい」
「……」
返事をする前に。文子は寝てしまった。それだけ彼女は疲れていた。
◇◇◇
囲炉裏の部屋。面を外した彼は看病してきた爺を待っていた。
「どうだ?まだ寝ておるか」
「はい。相当熱がありますね。お疲れではないですか」
「人の家にやってきて。寝込むとは。全く失礼な娘だ」
しかし心配している様子。清吉は彼の文句を無視し、部屋で用意をした。
「汗をかいてますので。奥様の着物を出しておきますね。それと庭でドクダミ草を採って」
「ドクダミだな。それは俺がやる」
彼はそう言って庭へスッと出ていった。清吉はその背を微笑ましく見ていた。
この神社の孫、
誰も寄り付かぬ孤独な彼。そんな彼の人間的な気持ちの芽生え。爺は目を細めていた。
一『壊れた家』完