第8話 小さな木の実 1

文字数 2,152文字

 あれは、私が付き合っていた彼を送っていったときのことだった。父と同郷の彼は気に入られ、よく家に来て飲んだ。酔った彼を私はアパートまで送った。近くのコインパーキングに、車を止めた。気分よく酔った彼を支える。
「早くやりたい……(こう)、あいしてるよー」
 隣の車から降りてきた男に聞こえただろう。恥ずかしい……目が合った。驚いた。知っている男だ。年は50を過ぎたばかりのはずだ。私の父と同じくらい。でも全然違う。背が高い。洗練されている……この男は……この男のことはよく知っている。同じ町内に住んでいる。豪邸の主人だ。何度も見たことがある。この男の息子のことはもっとよく知っている。私の同志だった。小学校の同級生。母親に捨てられたもの同志。この男の息子は私の初恋の人だった。
 その父親は妻に捨てられ一時期荒れた。私の父親と同じだ。しかし私の父親と違いすぐに再婚した。再婚した相手はもっともっとよく知っている。動物好きの私は彼女の父親の動物病院によく行った。猫の治療、去勢。まだ彼女は若かった。私はよく捨て猫を拾っては世話をし、彼女のところへ連れて行った。捨て猫の里親探し、彼女は……亜紀さんは仲間だった。亜紀さんは三沢君の義母になった。

 三沢君のおとうさん……

(こう)、知り合いか? オレもこんな車欲しいよー」
 男も気付いた。彼が何度も私の名を呼ぶから。コウ……嫌いではない。この男の後妻は褒めてくれた名だが……高級車の助手席から降りたのは女の子だった。髪の長い……下を向いていたので顔は見えなかった。薄暗くなっていたし、それに三沢氏は……隠した。慌てて隠した。彼の娘ではない。三沢君の妹はもっと背が高い。
 三沢氏は女の子を先に行かせて挨拶してきた。
「偶然だね。世間は狭い。香……さんだね。ハムスターやしきの……」
「ハムスター?」
 彼が聞き返す。
「ハムスターに交尾させて増やしていた」
 なんてことを……話題をそらせようとして……
「こうび? コウビ? 交尾……か」
 彼がバカみたいに繰り返した。
「ちゃんと避妊しろよ」
 酔った彼に三沢氏がちゃかし、彼は了解です、とふざけた。
「あの子は?」
「親戚の娘だ」
 明らかに嘘だ。私の顔色を読んだのだろう。罰が悪そうに去っていった。

 彼の部屋で抱かれた。心ここにあらず……三沢君のことを思った。会ったばかりの父親のことを。亡くなった母親のこと、中学3年の秋の、犬のシャーロックの死を。治のことも……
 酔って疲れた彼は眠りに落ちる。私はドアを閉めて鍵をかけた。パーキングに隣の高級車はまだあった。まだ戻っていない。まだあの少女と一緒なのだろうか?

 まさか、隠し子? 妻に捨てられた男が亜紀さんを裏切っている?

 車を出し途中で戻った。高級車はまだあった。隣はあいていた。なにをしようというのか? 私は待った。待って確かめてやる。聞いてやる。亜紀さんを裏切っているのか? と。

 彼から電話がきた。寝ちゃってごめん……おやすみ……明日電話するよ……
 窓が叩かれた。三沢氏が私を見た。窓を開ける。
「少し話そうか」
 私が助手席のドアを開けると三沢氏は乗り込んできた。
「彼は、名前は?」
「……」
「どこの家? 親は? ひとり暮らし?」
 なぜ私が質問攻めに? やましいことがあるから……
「さっきの女の子はどこの子ですか? 亜紀さんは知ってるの?」
「もちろん。君は英幸(えいこう)の同志だったな」
「ええ、母親に捨てられた同志です」
「気が強そうだ」
「ええ。亜紀さんに言いつけてやる」
 三沢氏は舌打ちをした。息子と同じ癖だ。なんともかっこいい舌打ち。
「困ったな」
「やっぱり隠し子なの?」
「英幸は知らないんだ」
「ひどい。亜紀さんを裏切るなんて」
「亜紀は知ってる」
「え?」
 三沢氏は携帯をいじり写真を見せた。亜紀さんと少女の写真。三沢氏と少女の写真。少女の顔を見て私は……
「見慣れるとかわいいんだがな……かわいくてかわいくて、愛しくてたまらない。しかし……やはりショックか?」
 三沢氏が話す。
「先天性の顔の奇形。あの子の父親は娘が生まれると姿を消した。母親は強い。強くさせた。強くならなきゃ許さない。あの子は何度も整形手術を受けた。私は明るく生きるよう育てた。私は親戚のおじさん……君の彼はひとり暮らしじゃ町内会には入っていないな。私は町内の催しには必ず出て……あの子を連れ出す。明るい子だよ。口達者で頭がいい。柔道を教えてるから誰もいじめたりできない……
 英幸(えいこう)の母親は海に溺れているあの子を助けて死んだ」
 三沢君が中学3年の時だ。
「母親は心中しようとした。娘と。英幸の母親が、私の前妻が、私の愛した女が助けた。自分の命と引き換えに。私はなんでもしてやる。あの子のために。幸子が助けたあの子のために。幸子の代わりに……英幸は知らない。英幸には黙っててくれないか」
「三沢君は優しい。あの子を見れば……」
「大変なのはこれからだ。年頃になれば絶望するだろう。君だったらどうだ?」
私には答えられない。

 あの日、私の車のあとを三沢氏は付いてきた。私の家の前で三沢氏は車を止め手を上げた。さよなら、おやすみ、と言うように。あの日から私は何度も何度も思い返す。私は三沢氏のことを思いながら彼に抱かれた。父と同じくらいの歳の男に恋をした。

 
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