23 アヴェ・マリアと冷たい扉

文字数 2,092文字

 望月は、否定された気分だったろう。
 りべかには、望月を否定した気などさらさらなかっただろう。
「じゃ、また明日ね」
 りべかは立ち尽くす彼の横を抜け、昇降口の階段を下りていく。
 あたしは望月に「さよなら」と声をかけ、りべかを追いかけた。

 翌日は、10月の第1木曜日だった。
 教会でもくもく会をする日だから、あたしはいつもどおり、放課後はりべかと一緒に港通り教会へ行くつもりでいた。
 りべかから携帯にメールが入ったのは、5時限目が終わった後の休み時間だった。
《望月が、私と昨日の続きを放課後に話したいんだって。先に教会行ってて》
《わかった。島川牧師にはうまく言っとくね。ちなみに、どこで会うの?》
《感謝! ワンゲル部の部室だって》
 一緒に行こうか?
 待っていようか?
 そんな言葉も浮かんだが、無粋(ぶすい)な気がして送信は控えた。

 事態のおかしさに気がついたのは、放課後、一人で下校しようとして、下足箱を開けたときだった。視界の隅を、望月の姿が横切ったように感じたのだ。
 追いかけると、やはりそれは望月だった。そして、彼は一人だった。
「望月くん!」
 大声で呼び止めると、彼はぎょっとした顔でふり返った。
「りべかは?」
「は?」
 なんで自分に聞くのかとでも言いだけに、彼は、
「知らないよ」
 と首をふる。
「だって、今日の放課後は望月くんに呼び出されてるって言ってたよ」
「知らないって」
 ものすごい、胸騒ぎがした。

「ワンゲル部の部室ってどこ」
 あたしは望月に詰め寄った。彼は逃げ腰に半身を開き、おどおどしながらも(あご)をしゃくって廊下の先をさした。
「1階の、東端の、階段下の、倉庫だけど。っておい!」
 聞き終える前にあたしはくるりと向きを変え、校舎の中をダッシュした。
「なんだよ、おい、ちょ、土足かよ」
 追ってくる望月など無視して全速力で廊下を駆けた。
 東側校舎の1、2階には3年生の教室がある。受験に向けてラストスパートに入った彼らはすでに下校し、廊下も教室も閑散としていた。

 まっすぐ伸びた長い廊下のどん突きにあるのが東階段で、コンクリートの階段の下の空間には小さな倉庫が設けられていた。倉庫の扉は金属製だ。
 あたしは全力疾走の勢いのまま、扉のノブをつかんで回して引っ張った。ゴウンという冷たい音が、ひと気のない校舎に響く。
 開かない。
 鍵がかかっている。
 扉をたたく。
 応答はない。
 りべかの携帯に電話する。
 あたしの携帯が呼び出しを始めるのと同時に倉庫の扉の向こうでりべかの着信音がかすかに鳴った。シューベルトのアヴェ・マリアだ。
 その瞬間、あたしはっきりと、倉庫の中に人の気配を感じ取った。
 やべ、という声、いやらしくひそめた息遣い。
 腹の底の怒りがはぜた。

「鍵は」
 ふり返り、すぐ後ろにいた望月に迫った。望月はたじろいで、
「いや、俺は持ってないって」
「探してきなさい!」
 怒鳴りつけたら彼はようやく脚を動かし、蹴躓(けつまづ)きながら離れて行く。向かう先は職員室か、あるいは逃げるのか。
 携帯であたしは1、1、0をプッシュした。
《はい、110番です。何がありましたか》
 落ち着いた女の声が出た。
「友達が閉じこめられていて、性的暴行をされているかもしれません。早く来てください」
 ためらいもなく言葉が出た。
《かもしれないとは、どういうことですか。今、何が起きていますか》
「たぶん、倉庫に閉じ込められています。中は見えないのでわかりません。でも危ないんです」
《倉庫に入るところを見たのですか》
「見てませんけど。でも扉の向こうで、りべ……いえ友達の携帯の着信音がしました」
 煮えたぎったものがこみ上げてきて、喉が詰まりそうだった。
《倉庫に誰がいるか、中で何が起きているかはわからないのですね。声は聞こえますか》
「何かあってからじゃ遅いんですよ! 早く来て助けてください」
《場所はどこですか》
 高校名を伝えた。
《もう一度、確認しますが、お友達が中で何をしているかは、わからないのですね》
 あたしの中で、何かが切れた。

「殺してやる」
《はい?》
「今から、倉庫にいるやつらを殺してやる。殺人予告ですよ、さあ来なさいよ、あたしを逮捕しに来なさいよ」
《……》
 自分でも聞いたことのない、(すご)みのある声が出た。
「殺すって言ってるんですよ。りべかに触れているクソ汚い男たち! あいつら殺してやる。本気だからね、早く来なさい、いや来いよ、早く来やがれ! クソヤロー!」
 110番の女の人が何か言っていた気もするけれど、あたしは怒鳴り散らして電話を切った。

 目の前の、重い金属製の扉にあたしは何度も体当たりを繰り返した。怒りがみなぎり、どんなものでもぶち破れる気がした。痛みなんて気にならなかった。
 空っぽの校舎に、激しい音が(むな)しく響いた。
 冷たくて硬いその扉は、あたしたちの人生を(はば)む、すべてのものの集合体に思えた。

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