第九話 櫛風沐雨、我が主の半生
文字数 3,266文字
とある邸 の前で、牛車が止まる。
(これだから、雨の日の外出は嫌なのだ……)
その牛車の中にいた男は苛立っていた。
宴 に呼ばれるのはいいが、俥 が何度か泥 濘 みに嵌 まった。揺れも酷 い。
自 邸 に帰るのに行きより倍かかり、亥 の正刻 (※午後二十二時)を告げる鐘鼓 が鳴り終わっての帰宅となった。
牛車を降りると、パシャリと足 許 で水が跳ねた。
濡れた指 貫 に眉を寄せ、男は引 き攣 った声を上げた。
「殿 、如 何 されました?」
「早 う、これを退 かせ。まったく気味が悪い」
牛 飼 い童 たちは、主 が〝これ〟というモノのほうに視線を送るが、一 様 に眉を寄せる。
「なにも――おりませぬが?」
「いるではないか? そこに」
牛飼い童たちは、ますます怪 訝 そうに首を傾 ける。
男は、自分だけが見えているものが何なのか怖くなった。黒い影のようなモノがすうっと上に伸びて、こちらを見てくるモノが。
(これならば……)
男は後 悔 していた。
いつもなら具 注 暦 (※その日の吉凶など書かれてある暦)を毎朝見ていたものを、なぜこの日は確認しなかったのか。
後悔はやがて嘆 きと変わり、男は雲 間 から覗 いた月を見上げていた。
ああ、なにゆえ――と。
◆
また、王都に骸 が転がった――。
朝からそんな話を聞かされて、かの青年は渋 面 で腕を組んだ。いくら怪 異 に詳しい職にあるとはいえ、まだ朝 餉 前 である。
「お前なぁ……」
「穢 れの都 ――なぁんてことになったら、お前も嫌だろう? 晴明」
晴明は人の心を軽く抉 ってくる男に「この野郎……っ」と思ったが耐えた。
そもそも、迷惑だと言いながらも邸 内 に入れているのは自分だ。来て欲しくないのなら、辻 という辻に呪 を飛ばせば、彼は晴明邸にはやってはこられない。
同じ路 を何度も往復することになるか、諦 めて自邸に帰るしかない。
それをしないということは、藤原冬真という男に心を許したということなのだろう。
「で、今度はどこなんだ?」
「東 洞 院 の藤 原 實 朝 さまの邸だ。亡くなったのは、その實朝さまさ」
東洞院は先 帝 ――、上 皇 の座 所 ・仙 洞 院 があるため、そう呼ばれる。その場所で〝穢れ〟を出したと、内裏では大騒ぎになっているらしい。
「なにせ、鳥 辺 野 (※貴人の墓所)に行く前に骨になったんだからな。これで北 家 の関係者が三人、この王都で骨になった。噂 好 きな連中がなんと言っているか、知っているか? 晴明」
「いや」
「藤 壺 の怨 霊 が北家を祟 っている――だそうだ」
藤原實朝は藤 原 嫡 流 である北家から派 生 した家の当主で、参 議 の地位にあるという。
その夜は宴に呼ばれた帰りで、前日の雨の影響により帰るのに時間がかかり、實朝は酷く苛立っていたらしい。
帰宅して暫 くして、北 の方 (※正妻)が實朝の様子が気になり、主 殿 に行くと、庭に青い華 が咲いていたという。
「――そこに實朝さまの骸があったというわけか」
「ああ、見事に骨になってな」
見た北の方は恐怖のあまり、寝込んでしまったらしい。
しかし、またも青い彼 岸 花 である。
間違いなく、この王都に〝それ〟はいる。いくら亡くなったからと、人はすぐに白骨にはならない。明らかに、何モノかが関わっている。
冬真が帰った後、暫く黙 考 していた晴明は十二天将を招 喚 した。
最近は自由気ままな天 将 である。人 界 に降りている誰からしらが応じるだろう。
『何か用? 晴明』
顕 現 した太 陰 に、晴明は半 眼 で彼女を見 据 えた。
「なんだ……それは?」
『なにってみればわかるでしょ?』
なんと彼女は、袿 を数枚重ねて羽 織 っていた。貴族の女性たちが着ているのを見た太陰は、着てみたくなったらしい。自分たちの存在は人界に影響すると言っておきながら、逆に影響されているのはどうだろう。
軽い頭痛を覚えた晴明だが即、脱げと命じた。
太陰も着てみたものの動きづらかったらしく、いつもの姿になった。
『それで?』
「都に妖 が侵入している。すぐに気 配 を探れ」
『わかったわ』
「太陰」
赤い髪をふわりと舞わせて背を向けた太陰を、晴明が呼び止めた。
『なぁに?』
「この間、お前が言いかけたことは何だったのだ?」
振り向いた太陰の目が一瞬見開かれ、答えるまで間が空く。
『……そうだったかしら? もう忘れたわ』
彼女はくるりと背を向けて、隠 形 した。
太陰が残した風が晴明の近くにあった几 帳 と御 簾 を揺らし、文 台 に置かれた書をぱらぱらと捲 った。
暫くすると、簀 子 縁 を歩いてくる足音が聞こえてきた。
先 触 れもなく、門 前 で断 りもしない、勝手に上がり込んでくるモノといえば人間では冬真ともう一人――。
「やぁ……」
狩衣に烏 帽 子 、手には釣り竿という姿で廂 の下に立つ人物に、晴明はやれやれと溜 息 をついた。
「まさか、その格 好 のまま阿 倍 野 からいらしたのですか? 父上」
◆◆◆
雨が降ったり止んだりを繰り返す王都の昊 は、この日は日 輪 が遠 慮 がちに雲から覗 いていた。雨は人界に恵みをもたらす一方で、河 を暴れさせるため厄 介 だろう。
鴨 川 に桂 川 、賀 茂 ・下 鴨 を流れる賀 茂 川 、王都や周辺には様々な河がある。
『なぁ?晴明 が昏 がりに沈んだらどうなるんだ?』
唐 突 に話を振ってきた同 胞 に、天将・太陰は目を瞬かせた。
晴明邸を離れた太陰はもう一人、異界から降りていた天将にして、北 の守 護 ・玄 武 と合 流 していた。
十二天将の中で陽 気 なほうの玄武が、神 妙 な面 立 ちでものを言ってくるのは珍しい。
『……完全に人ではなくなるでしょうね』
彼らも神だが人の未来 が見えるわけではない。もし晴明が昏がりに傾くとわかれば、天将は異界に去るしかないのだ。そのことは、晴明との約 定 で決 している。
『あいつの下に降りたこと、後悔していないか?』
『あなたはどうなの? 玄武』
『晴明に使われてみると楽しいこともあるが、大抵は無茶な命令だ。あいつ、俺たちが神だということを忘れていないか?』
『たぶん、考えていないと思うわ。私たちなら彼の心を覗 こうと思えば覗けるけど、あまりお勧 めできないわね』
恐らく晴明の心は、まだ迷いの中にある。
いつ再び、心に冥がりが生まれるか知れぬという思い。
人の中で最も冥がりの地に近い者として生まれた彼は、これからも迷い、戦って生きていくのだろう。その辛 い心の奥 底 を、太陰は覗く気にはならなかった。
人界に降りなければ人と接することも、その内 面 も知ることはなかった。
だからといって、後悔はしてはいない。
玄武は晴明に呆 れてはいるが、憤 っている様子はない。
『とりあえず、俺は晴明の一 端 が覗けてほっとしているが?』
にっと笑う玄武に、太陰は微 笑 み返す。
小 倉 山 東 麓 での一件――。
なにゆえと嘆いた大 髑 髏 、結 界 で動きと攻撃を封じたまではよかった。
黒い塵 となって風に飛ばされる――大髑髏 の最 期 。だが、そうはならなかった。
晴明は個々に集まる魂 に情 をかけた。彼らを救うために。
普通の陰陽師なら、その魂も塵となり、冥 府 へ送ることはしなかったであろう。
祓 うだけが陰陽師の務 めでないという晴明に、人の情がある以上、彼は冥がりに沈むことはないだろう。
『あの魂、どうなったんだろうな?』
『いくら晴明でも冥府の領域にははいれないわ。天将 たちも』
大髑髏の躯 から解放された魂 らが、はたして極 楽 へ向かうのか地獄へ向かうのか。
『人間っていうのは、俺たちに比べたら命はあっという間だな』
『そうね……』
あとどのくらい、晴明の式神としていられるのだろう。
晴明 もいつか年を取り寿 命 を迎 え、彼岸に渡る日が来る。
玄武が気 遣 わしげな視線を寄 越 す。
『泣いているのか? 太陰』
『馬 鹿 ね。目に塵が入っただけよ! 大体あの唐 変 木 、女 心 などわからないんだからっ』
『……なにかあったのか? 晴明の邸で……』
突然怒り出す太陰に、玄武が首を傾 げる。
『なにもないわっ!』
まさか、人の真 似 をして着 飾 ってみた、とは口が裂けても言えない太陰であった。
(これだから、雨の日の外出は嫌なのだ……)
その牛車の中にいた男は苛立っていた。
牛車を降りると、パシャリと
濡れた
「
「
「なにも――おりませぬが?」
「いるではないか? そこに」
牛飼い童たちは、ますます
男は、自分だけが見えているものが何なのか怖くなった。黒い影のようなモノがすうっと上に伸びて、こちらを見てくるモノが。
(これならば……)
男は
いつもなら
後悔はやがて
ああ、なにゆえ――と。
◆
また、王都に
朝からそんな話を聞かされて、かの青年は
「お前なぁ……」
「
晴明は人の心を軽く
そもそも、迷惑だと言いながらも
同じ
それをしないということは、藤原冬真という男に心を許したということなのだろう。
「で、今度はどこなんだ?」
「
東洞院は
「なにせ、
「いや」
「
藤原實朝は
その夜は宴に呼ばれた帰りで、前日の雨の影響により帰るのに時間がかかり、實朝は酷く苛立っていたらしい。
帰宅して
「――そこに實朝さまの骸があったというわけか」
「ああ、見事に骨になってな」
見た北の方は恐怖のあまり、寝込んでしまったらしい。
しかし、またも青い
間違いなく、この王都に〝それ〟はいる。いくら亡くなったからと、人はすぐに白骨にはならない。明らかに、何モノかが関わっている。
冬真が帰った後、暫く
最近は自由気ままな
『何か用? 晴明』
「なんだ……それは?」
『なにってみればわかるでしょ?』
なんと彼女は、
軽い頭痛を覚えた晴明だが即、脱げと命じた。
太陰も着てみたものの動きづらかったらしく、いつもの姿になった。
『それで?』
「都に
『わかったわ』
「太陰」
赤い髪をふわりと舞わせて背を向けた太陰を、晴明が呼び止めた。
『なぁに?』
「この間、お前が言いかけたことは何だったのだ?」
振り向いた太陰の目が一瞬見開かれ、答えるまで間が空く。
『……そうだったかしら? もう忘れたわ』
彼女はくるりと背を向けて、
太陰が残した風が晴明の近くにあった
暫くすると、
「やぁ……」
狩衣に
「まさか、その
◆◆◆
雨が降ったり止んだりを繰り返す王都の
『なぁ?
晴明邸を離れた太陰はもう一人、異界から降りていた天将にして、
十二天将の中で
『……完全に人ではなくなるでしょうね』
彼らも神だが人の
『あいつの下に降りたこと、後悔していないか?』
『あなたはどうなの? 玄武』
『晴明に使われてみると楽しいこともあるが、大抵は無茶な命令だ。あいつ、俺たちが神だということを忘れていないか?』
『たぶん、考えていないと思うわ。私たちなら彼の心を
恐らく晴明の心は、まだ迷いの中にある。
いつ再び、心に冥がりが生まれるか知れぬという思い。
人の中で最も冥がりの地に近い者として生まれた彼は、これからも迷い、戦って生きていくのだろう。その
人界に降りなければ人と接することも、その
だからといって、後悔はしてはいない。
玄武は晴明に
『とりあえず、俺は晴明の
にっと笑う玄武に、太陰は
なにゆえと嘆いた
黒い
晴明は個々に集まる
普通の陰陽師なら、その魂も塵となり、
『あの魂、どうなったんだろうな?』
『いくら晴明でも冥府の領域にははいれないわ。
大髑髏の
『人間っていうのは、俺たちに比べたら命はあっという間だな』
『そうね……』
あとどのくらい、晴明の式神としていられるのだろう。
玄武が
『泣いているのか? 太陰』
『
『……なにかあったのか? 晴明の邸で……』
突然怒り出す太陰に、玄武が首を
『なにもないわっ!』
まさか、人の