第20話 ママチャリ300kmの旅 その14(暗闇・後編)
文字数 1,298文字
本物の暗闇が、そこにあった。
その山へ入る坂道を見上げる。道は、見えなかった。
両端に生い茂った木々が、まるでトンネルのように道をおおい、一切の光を遮断している。
もともと入口手前までの道のりも外灯が少なく暗かったのに、それすらも明るいと思わせる闇が山の中にあった。
目先はただ黒く、輪郭も見えない。
こんなところを通らなければならないのか。
肉体的な危険はない。だが、ここを進むには純粋な勇気が必要だった。
入り口横を見ると、掲示板が立てられている。
目の前の山は『薩埵峠(さったとうげ)』というらしく、戦国時代にはこの山で激戦を繰り広げて多くの者が亡くなった、というようなことが書かれている。
――今、それを読ませるんじゃねえよ。
なおのこと進めなくなった。
しかし道を戻るにも、そもそもそこらへんに別の道があるわけでもないし、結局はどの道も山を抜けねばならなかった。だがこの山さえ越えれば、この先にはネットカフェのある街がある。この暗闇さえ切り抜けたら、万事解決する。
私は意を決して、歩む。
急な坂道なので自転車で駆け抜けるわけにもいかず、ひいて進む。
これがまた怖かった。
明かりは自転車のライトが頼りなのだが車輪が回って光るタイプのライトなので、ゆっくり進んでいるとまるでストロボライトのように点滅を繰り返す。
その点滅がまた恐怖を引き立てる。
次に光るときには目の前に誰か立っているんじゃないかと、まさにホラー映画の恐怖をあおる演出が現実で起きている。それが起きては、本当に困る。
少し進んでから振り返ると、入り口が明るく、小さく見えた。
ああ、これが希望から離れていく感覚なのだろうか。
振り返ったはいいが、今度は顔を前に戻すことにすら、怖気づいてしまう。
誰も目の前にいないでくれ、そう懇願しながらと前を向く。いるはずがないのに。
目の前には、ただ暗闇があるだけ。
それが一層に、嫌でも感覚を研ぎ澄まされる。
動き一つ、音一つ、あってほしくなかった。
ましてやこんな夜の山で、人や動物に出くわしたほうが、逆に恐ろしい。
そんな恐怖におびえる私を、あるものが救ってくれた。
――『御迷惑をおかけして居ります』
暗い坂道の途中で見つけた、工事中の立て看板。
黄色いヘルメットをかぶり、頭を下げる作業員のイラスト。
暗闇の支配する大自然と本能に煽られた想像力によって無限に恐怖が生み出されるこの空間に、人工物がありのままの無機質で割って入る。
人工物を見ただけで、これほどまでに心の安らぎを覚えたことはない。
人でなかったところがよかった。人を思わせる物だから落ち着けた。
それからは恐怖も薄れ、峠を越える。あとは自転車に乗って下るだけ。
嬉しいことに下山するまでの坂道には、工事用の点滅する赤いライトが伸びていた。その光を見たとき私にとってそれはもはや、あの電気的パレードに相当していた。
私は赤い点滅に沿って、一気に銀輪を転がす。
下山すると外灯が見えた。
もう恐怖は失せていた。
私は山のほうを一度だけ振り返り、それから、勇気の少し増した体で街を目指した。
つづく
その山へ入る坂道を見上げる。道は、見えなかった。
両端に生い茂った木々が、まるでトンネルのように道をおおい、一切の光を遮断している。
もともと入口手前までの道のりも外灯が少なく暗かったのに、それすらも明るいと思わせる闇が山の中にあった。
目先はただ黒く、輪郭も見えない。
こんなところを通らなければならないのか。
肉体的な危険はない。だが、ここを進むには純粋な勇気が必要だった。
入り口横を見ると、掲示板が立てられている。
目の前の山は『薩埵峠(さったとうげ)』というらしく、戦国時代にはこの山で激戦を繰り広げて多くの者が亡くなった、というようなことが書かれている。
――今、それを読ませるんじゃねえよ。
なおのこと進めなくなった。
しかし道を戻るにも、そもそもそこらへんに別の道があるわけでもないし、結局はどの道も山を抜けねばならなかった。だがこの山さえ越えれば、この先にはネットカフェのある街がある。この暗闇さえ切り抜けたら、万事解決する。
私は意を決して、歩む。
急な坂道なので自転車で駆け抜けるわけにもいかず、ひいて進む。
これがまた怖かった。
明かりは自転車のライトが頼りなのだが車輪が回って光るタイプのライトなので、ゆっくり進んでいるとまるでストロボライトのように点滅を繰り返す。
その点滅がまた恐怖を引き立てる。
次に光るときには目の前に誰か立っているんじゃないかと、まさにホラー映画の恐怖をあおる演出が現実で起きている。それが起きては、本当に困る。
少し進んでから振り返ると、入り口が明るく、小さく見えた。
ああ、これが希望から離れていく感覚なのだろうか。
振り返ったはいいが、今度は顔を前に戻すことにすら、怖気づいてしまう。
誰も目の前にいないでくれ、そう懇願しながらと前を向く。いるはずがないのに。
目の前には、ただ暗闇があるだけ。
それが一層に、嫌でも感覚を研ぎ澄まされる。
動き一つ、音一つ、あってほしくなかった。
ましてやこんな夜の山で、人や動物に出くわしたほうが、逆に恐ろしい。
そんな恐怖におびえる私を、あるものが救ってくれた。
――『御迷惑をおかけして居ります』
暗い坂道の途中で見つけた、工事中の立て看板。
黄色いヘルメットをかぶり、頭を下げる作業員のイラスト。
暗闇の支配する大自然と本能に煽られた想像力によって無限に恐怖が生み出されるこの空間に、人工物がありのままの無機質で割って入る。
人工物を見ただけで、これほどまでに心の安らぎを覚えたことはない。
人でなかったところがよかった。人を思わせる物だから落ち着けた。
それからは恐怖も薄れ、峠を越える。あとは自転車に乗って下るだけ。
嬉しいことに下山するまでの坂道には、工事用の点滅する赤いライトが伸びていた。その光を見たとき私にとってそれはもはや、あの電気的パレードに相当していた。
私は赤い点滅に沿って、一気に銀輪を転がす。
下山すると外灯が見えた。
もう恐怖は失せていた。
私は山のほうを一度だけ振り返り、それから、勇気の少し増した体で街を目指した。
つづく