第22話

文字数 2,245文字

 八月も半ばになった。
 吉田さんが川谷君と奈良へ出奔してから、二週間が過ぎている。
 私は自分を強く責めていた。まだ学生である二人の、思い付きのような駆け落ちを止められなかった。私に説得力がなかったのだ。
 今はそれで良かったと思っている。これは吉田さんの人生であり、私はただの傍観者に過ぎないからだ。そして、ただの傍観者としての役目は果たせたと考えている。今は学業第一だと、二人にうるさく言ったことも間違いではないだろう。私が話したことが、いつかは二人の役に立つことを望んでいる。
 そう考えることで心は軽くなってきた。おかげで最近の私は自分らしく暮らしている。何も変わったことのない、ある意味では空しい日々ばかりだ。でも、私はとりあえず健康であるし、何事もないこの生き方を愛している。
 途中でおいていた推理小説も、最近になって再び読み始めていた。
 今、私は物語の展開を頭の中で整理している最中だ。しばらく読んでいなかったから、忘れている箇所があるかもしれない。それでは推理がいっそう難しくなる。
 美しい令嬢の行方は今も分からないままだ。迷宮入りするかもしれないと世間は噂をしている。しかし、探偵は豪語する。
 『お嬢様はご無事だ。世間の皆様、騒がないでくれ。暫く休養なさるだけだ』
 ここで私は本にしおりを挟んだ。いったん、休憩だ。冷たいお茶を飲みたくなった。
 台所に行くと、家具を移動させるような音が聞こえてきた。ここ数日、右隣の部屋から足音や水が流れる音がよく聞こえてくる。女主人が来ているのだろう。さっきの物音から考えても、引越しが近いのかもしれない。もうすぐ、右隣の部屋からの物音は聞こえなくなりそうだ。
 二階からの騒音も嘘のように消え去った。床を踏み鳴らして踊るひとはもういない。
 倉井さんも単身赴任中ということだから、いずれは家族が待つ家に戻っていくのだろう。
 私ひとりがここに残されるのだ。
 私は天井を見上げた。川谷君が立てる騒音に苛々していたが、今となれば、それは私の近くに誰かが生きているという証だった。つくづくと思う。他人に関われば煩わしく、独りになれば生きる気力まで失せるのだと。
 夫と別居して故郷も離れた私だった。この町や職場に親しい友人はいない。やがて隣人達が一番に身近な存在となった。私は彼らを家族のように感じていた。彼らの生活の音を私は愛していたのだ。
 ああ、もう考えるまい。考えても仕方ないじゃないか、自分が選んだ道を歩くのなら。
 私は推理小説を引き寄せた。この本があるなら、今夜だけでも私は楽しく過ごせる。
「天下の大泥棒よ、私は今からあなたに会いに行く」
 本の函に手をかけると、玄関チャイムが鳴った。
 来客だ。時計をみたら、もう八時になるところだった。
 「誰なんや、こんな時間に迷惑やんか」
 私はぶつくさ言いながら椅子から立ち上がった。訪問者は少し急いでいるのか、チャイムを何度も鳴らす。せっかちな客だなと、インターフォンに映るひとを私は見た。
 少し驚いたあと、私はゆっくりと微笑んだ。
 「お久しぶりです」と、ドアを大きく開けて迎えいれる。
 「急に来てすみませんねえ」
 女主人は屈託のない笑顔で私に話しかけた。
 今日の『森林』は休みのようだ。いつもお団子の髪は後ろで一つにくくられ、ほとんど化粧をしていない。私は感動した。心の美しさからだろうか、女主人は子どものように純朴な顔をしたひとだったのだ。黒くて大きな瞳に透明感がある。
 「お入り下さい。散らかしていますが」
 「木内さんの部屋、散らかしたんは律子なんやろね。『立つ鳥跡を濁さず』なんて、あの子の頭にはあらへんもん。学校で習わんかったかな。ま、親の私も教えてへんけど」
 女主人はあっけらかんと話すのだった。私はなんと答えて良いか分からない。
 「木内さん。これ、食べてくれへん」
 そう言って、板こんにゃくと蜜柑ゼリーを私に差し出した。
「律子、あほやねん」
 女主人は溜め息をついてみせる。
 「冷蔵庫の中、放ったらかしで逃げていったわ」
 私は困っていた。大切な娘が残していったものだ。私が食べてしまって良いのだろうか。
 「嬉しいけど止めときます。これを私が食べるのって、あれやから」
 「あかんのよ、板こんとゼリー。つるつるしてんの、私は苦手。律子はつるつるが好きみたいやけど」
 女主人は板こんにゃくと蜜柑ゼリーを私の手に無理に押し込んだ。笑いながら私は受けとった。
 「食べもんだけやない。人間の好みも律子とちゃうから、実の母子でも苦労するんやろな。連れてくる友達とか彼氏、学生やのにお洒落以外興味がないような子ばっかり。私はそれが嫌いでねえ。律子とは喧嘩ばっかりしてたわ」
 急にしみじみと話し始める女主人。
 私の胸は苦しくなった。
 女主人は私の過去を知らない。私の娘も吉田さんと同じだった。母親の気持ちを分かろうとしない。本人のためと思った娘への忠告は、私との距離を作り上げてしまった。夫婦だけではなく、親子の間にもすれ違う心はあるのだ。
 女主人は急に静かな顔をした。
 「気、悪くしたみたいやね。変な話して、ほんとにすみませんねえ」
 「いいえ、変な話ではありません。他人に分かって貰いにくいだけです」
 そう話しながら私は不思議に思った。女主人になら、私は思うことを遠慮なく言えるようだ。
 「上がって下さい。『森林』ヘ行きたいとよく思っていました」
「悪いわねえ。こんな時間に」
 女主人は楽しそうに声を上げて笑った。










ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み