雨が止むまで
文字数 1,804文字
僕には身寄りがない。僕は耳が聴こえない。僕は目が見えない。
僕はもうすぐ三十路になるが、小学生の時に病気で音と光を失ったため、随分長いこと、静かな真っ白の世界で生きている。「大変ですね」と言われるが、僕自身は苦労は余り感じていない。平均的な一人暮らしも出来ている。
仕事もある。ドイツ語翻訳が僕の生業だ。今は便利な世の中で、画面に表示された文字を読み上げるソフトと、点字入力が可能なキーボードを使えば文章を作ることが出来る。社会と隔絶されているわけでもない。
そんな僕のところに、一人の青年がやって来たのは、八月の暑い盛りの夜のことだった。
「外は雷雨が酷い。如何か雨宿りさせていただけませんか」
青年の言葉は何故か、玄関に向かって立つだけで、頭の中に響いてきた。
「それは大変だ。我が家で良ければ是非休んで行ってください。雨が止むまで」
どうやら酷いゲリラ豪雨らしい。出迎えるためにドアを開けるとひんやりして、青年が通った廊下はびっしょり濡れていた。足裏の感触で分かる。
何だか鉄臭い青年だなぁ、と思いつつリビングへ招く。
「おやおや、この家は真っ暗なのですね」
「ああ、すみません。僕は目が見えませんから、電気を点けていないのですよ。廊下の端にスイッチがあるはずですから、そこで御自由に点けてください」
「構いませんよ。私は光が苦手なのです。此処は素晴らしい家だ」
「そうなのですか? それにしても不思議だ、僕は耳が聴こえないのですが、あなたの声は良く聞こえるのです」
「私は良く声が大きいと言われますから。私が話しかけると皆うるさい、怖いと言うのですよ」
面白い人だなぁ、と思わず笑いつつシャワーを貸した。
また不思議なことに、青年は三十秒と経たずにシャワーを終えた。そして何故か、もう着替えも済ませていると言う。
僕は青年にコーヒー牛乳をふるまった。青年は大喜びで、こんなおいしいもの飲んだことはないと言った。
青年と話していると、不思議なことは続いた。
と言うのも、次に僕がシャワーを浴び、帰って来ると、
「お礼にやっておきました」
と青年が快活に笑い、いろいろなものが出来上がっていたのだ。
例えばテーブルの上にサバサンドが置かれていたり、僕がこの一週間頭を悩ませていた翻訳の仕事を全て終えていた。
青年ほど烏の行水ではないが、僕としてもシャワーは五分とかかっていないはずなのに――
「私はドイツ語を少し齧っておりまして」
「齧ったなんてレベルではないですよ、完璧に訳されている」
「実は旅をしている最中にドイツに立ち寄り、其処で一番長居しまして。さぁ、まだまだ雨は止みません。何かゲームをしましょう」
「良いですね! 僕はヘルパーや仕事の人がいてくれて人間関係が乏しくはないが、ゲームをするような気楽な友達と言うのがいないのです」
「ならば、私をその筆頭にしていただければ幸いです」
それから僕らはリバーシをした。リバーシは凹凸のついた特殊な仕様のもので、目が見えなくても遊ぶことができる。
「最近はゲームもバリアフリーなのですねぇ」
青年は感心の溜息を吐く。
「いやいや、これはもう十年以上も前に買ったものですよ。しかも、まだまだ世の中バリアフルですよ」
「辛いことがあったら私が聞きましょう」
青年は旅をしているらしく、その知識は豊富で、失敗談もあったりなどして話はどんどん盛り上がり、思い出のツーショットを撮るまでに至った。僕は見えないのだけれど。
その調子で僕は青年に愚痴をこぼしているうちにうたた寝してしまい――翌朝。
翌朝、僕を揺り起こしたのは警察官だった。
廊下が血でぐっしょり濡れて、シャワー室に血の跡が残り、夥しい量の血の着いた牛乳瓶が残り、僕の周りも血だらけで、僕がリバーシに突っ伏していたものだから、編集者がぎょっとして、通報したらしい。
実際、僕は無傷で居眠りしていただけだったのだが。
青年の気配は、もうどこにもなかった。
青年と撮った写真を編集者に見せると、身体が半分千切れ、頭蓋骨の七割が開き、腐った脳みその飛び出した血だらけの人影がピースサインで写っているそうだが、僕の目には何も見えない。だから僕は、また雨を期待してしまう。あの面白い青年をまた連れてきてくれるのではないかと。
僕はもうすぐ三十路になるが、小学生の時に病気で音と光を失ったため、随分長いこと、静かな真っ白の世界で生きている。「大変ですね」と言われるが、僕自身は苦労は余り感じていない。平均的な一人暮らしも出来ている。
仕事もある。ドイツ語翻訳が僕の生業だ。今は便利な世の中で、画面に表示された文字を読み上げるソフトと、点字入力が可能なキーボードを使えば文章を作ることが出来る。社会と隔絶されているわけでもない。
そんな僕のところに、一人の青年がやって来たのは、八月の暑い盛りの夜のことだった。
「外は雷雨が酷い。如何か雨宿りさせていただけませんか」
青年の言葉は何故か、玄関に向かって立つだけで、頭の中に響いてきた。
「それは大変だ。我が家で良ければ是非休んで行ってください。雨が止むまで」
どうやら酷いゲリラ豪雨らしい。出迎えるためにドアを開けるとひんやりして、青年が通った廊下はびっしょり濡れていた。足裏の感触で分かる。
何だか鉄臭い青年だなぁ、と思いつつリビングへ招く。
「おやおや、この家は真っ暗なのですね」
「ああ、すみません。僕は目が見えませんから、電気を点けていないのですよ。廊下の端にスイッチがあるはずですから、そこで御自由に点けてください」
「構いませんよ。私は光が苦手なのです。此処は素晴らしい家だ」
「そうなのですか? それにしても不思議だ、僕は耳が聴こえないのですが、あなたの声は良く聞こえるのです」
「私は良く声が大きいと言われますから。私が話しかけると皆うるさい、怖いと言うのですよ」
面白い人だなぁ、と思わず笑いつつシャワーを貸した。
また不思議なことに、青年は三十秒と経たずにシャワーを終えた。そして何故か、もう着替えも済ませていると言う。
僕は青年にコーヒー牛乳をふるまった。青年は大喜びで、こんなおいしいもの飲んだことはないと言った。
青年と話していると、不思議なことは続いた。
と言うのも、次に僕がシャワーを浴び、帰って来ると、
「お礼にやっておきました」
と青年が快活に笑い、いろいろなものが出来上がっていたのだ。
例えばテーブルの上にサバサンドが置かれていたり、僕がこの一週間頭を悩ませていた翻訳の仕事を全て終えていた。
青年ほど烏の行水ではないが、僕としてもシャワーは五分とかかっていないはずなのに――
「私はドイツ語を少し齧っておりまして」
「齧ったなんてレベルではないですよ、完璧に訳されている」
「実は旅をしている最中にドイツに立ち寄り、其処で一番長居しまして。さぁ、まだまだ雨は止みません。何かゲームをしましょう」
「良いですね! 僕はヘルパーや仕事の人がいてくれて人間関係が乏しくはないが、ゲームをするような気楽な友達と言うのがいないのです」
「ならば、私をその筆頭にしていただければ幸いです」
それから僕らはリバーシをした。リバーシは凹凸のついた特殊な仕様のもので、目が見えなくても遊ぶことができる。
「最近はゲームもバリアフリーなのですねぇ」
青年は感心の溜息を吐く。
「いやいや、これはもう十年以上も前に買ったものですよ。しかも、まだまだ世の中バリアフルですよ」
「辛いことがあったら私が聞きましょう」
青年は旅をしているらしく、その知識は豊富で、失敗談もあったりなどして話はどんどん盛り上がり、思い出のツーショットを撮るまでに至った。僕は見えないのだけれど。
その調子で僕は青年に愚痴をこぼしているうちにうたた寝してしまい――翌朝。
翌朝、僕を揺り起こしたのは警察官だった。
廊下が血でぐっしょり濡れて、シャワー室に血の跡が残り、夥しい量の血の着いた牛乳瓶が残り、僕の周りも血だらけで、僕がリバーシに突っ伏していたものだから、編集者がぎょっとして、通報したらしい。
実際、僕は無傷で居眠りしていただけだったのだが。
青年の気配は、もうどこにもなかった。
青年と撮った写真を編集者に見せると、身体が半分千切れ、頭蓋骨の七割が開き、腐った脳みその飛び出した血だらけの人影がピースサインで写っているそうだが、僕の目には何も見えない。だから僕は、また雨を期待してしまう。あの面白い青年をまた連れてきてくれるのではないかと。