第3話 エリックもしくはトーマス

文字数 3,715文字

 さてテーブルに案内してくれた陽気な若者は、エリックだったかトーマスだったか、まぁ、そんな感じのいかにもアメリカンな、ノリのいいウエイターだった。そばかすに赤い髪、黒縁(くろぶち)の丸い眼鏡(めがね)がよく似合う。
 彼のなめらかな動きは、一時(いっとき)も止まる、ということがない。魔法のようにナプキンが広げられ、知らない間にメニューが開いてある。手つきはショーの最中の手品師よう。その上、丸眼鏡の奥の柔和な目に、お天気キャスターのような善良な笑顔。ちょっといい人そう過ぎないか。私たちはかえって警戒心を強めた。
 なのに彼はひっきりなしにしゃべりかけてくる。立て板に水トーク、しかもジョーク付き。スピードにはまるでついていけないが、私たちは愛想笑いを浮かべつつ、必死に聴き取りを試みた。
 そんなこちらの状況を知ってか知らずか、彼は、自分のジョークにひとしきり自分でウケてから、さて、オーダーは、と聞いてきた。

 なにおう

 こっちは君のジョークを理解しようと必死だったんだ、メニューなんか見てますかい。わかってもらわないでいいジョークだったんなら披露(ひろう)するんじゃない。マナーを知らんのかトーマス(いやエリックだったかも)。
 ジョークにうるさい大阪人は、これで妙に落ち着いた。椅子(いす)に深くかけなおし、ゆっくり選ぶから、と彼に告げ、メニューの研究に入ったのだった。



 さて本日の目当ては最初からストーンクラブである。出来れば日本流にあっさりと素材そのものの味を楽しみたい。
 メニューを探すこと数分、あった。スチームド・クラブ、パスタ添え。値段は50ドルちょい、と決して安くないが、まぁ、カニは日本でも高い。私たちは決意を固めると、相変わらずじっとしてないで周囲のテーブルをひらひらと飛び回っているエリック(もしくはトーマス)を呼んだ。
 おもむろにメニューを指差し、ソースは別添(べつぞ)えか聞いてみる。バターソースとあるが、これが全体にかかっていたら味なんてわからないからだ。別で入れ物に入ってくることがわかり一安心。そして私はここで、最も根本的な質問を試みた。

 クラブ、はカニか。

 単語上はカニでも、外国では何が起こるかわからない。私は自信をもって指をハサミにし、ザ、クラブ、イズ、ライク、ディス,イズントイット? とやった。トーマスの動きがとまった。わからなかったか。仕方がない、私は今度は丁寧(ていねい)に両手をハサミにし、バルタン星人状態で、もう一度聞いた。
 クラブってこんなんでしょ? 
トーマスは理解した。一瞬虚(いっしゅんうつ)ろになった表情が笑顔に戻り、オーイエス、カニね、と彼は、「彼にとってのカニ」のジェスチャーを返してきた。

——カルチャーショックだった。
トーマスのカニは、両手の指を顔の(まわ)りにひろげ、ワシャワシャすることで表現されていた。カニといえばハサミ、というのは万国共通の常識ではなかったのだった。



 
 ストーン・クラブに集中しよう。
ストーン・クラブというぐらいだから、やっぱり甲羅(こうら)は石のように固いのだろうか。大きさはどれくらいなんだろう。
 カニがやってくるまでの間、私たちは今度は不安ではなく、期待で落ち着かなかった。周りをきょろきょろ見ていると、次から次へと巨大なステーキが運ばれている。あばら骨付きのやつもある。いずれも一皿頼んだら、家族4人で取り分けて、さらに家で待っている犬にたっぷりまだ肉の残った骨をやれる、というぐらいの大きさだ。日本でなら。
 ここアメリカでは、レストランの気前がいいのか、カスタマーの要求度が高いのか知らないが、しかし、それは一人前である。私の家では、そんなサイズの皿は、みんなで取り分けて食べる手巻き寿司の時ぐらいにしかみかけない。
 私たちは心底(しんそこ)、トーマスがすすめたサイドメニューを断っておいたのは正解だったと(うなず)き合った。メインのカニだけでもパスタ添え、とあったし、例えそれが大皿の端っこにちょこっと付け合わせ程度であるとしても、テーブルには既にパンが2種類盛られている。
 パン? いやこれはアメリカ人にとっては、ただの「付きだし」なのかもしれない。クラッカーのようなのと、小さな四角いほかほかのケーキのようなこれは、他のテーブルにあるしっかりした巨大なパンにくらべたら、おやつのようなものに見える。


 それにしても、あまりシーフードを頼んでいる人はいないようだ。アメリカ人は面倒くさいのを嫌うというが、カニの身をほじくりかえす、なんてやっぱり性に合わないのだろうか。
 と、そこへトーマスがスパナを持って登場した。大工道具には詳しくないので、ペンチなのかもしれないが、銀色に輝くそれは、いかにも重そうだ。それをトーマスは私とスミ子にそれぞれセットした。思わず手が出て、重さを測ってみる。トーマスがにやりとして、そう、これで(から)を割るんです、と手真似(てまね)と擬音語で表現してくれた。

 高まる期待と、スパナ登場以来ふたたび(よみがえ)ってきた不安の中、ついにカニが登場した。
 やっぱり、というか、大きい。もうもうと湯気のたつそれは、黒々と光る先端が特徴的な、巨大なカニの爪。つまりハサミ部分のみ。なのに大きい。4つほど皿からはみだして盛られている。甲羅部分はない。このハサミを支えるたくましい腕の太さに比べたら、ズワイガニなんてマッチ棒である。見るからに固そうな(から)に包まれているが、既に適当なところで割る、というか(くだ)かれていて、食べやすそうな赤い身の部分が(のぞ)いている。テーブルに置かれたスパナは非常用、というか遊び心みたいなものなのかもしれない。トーマスは私たちをビビらせて面白がっていたのだろうか。これを面倒だというなら、アメリカ人は一生ズワイガニなんて食べられない。


 さあもうきょろきょなんてしていられない。歓声をあげる私たちに、トーマスは、ほら、カニでしょう、と顔の(まわ)りで指をワシャワシャさせた。彼は、いい奴なのだ。私たちとしてはもうトーマスになんて(かま)ってられない心境なのだが、トーマスはなおも、ソースはこれで、指はこれで拭いてください等、世話を焼きたがる。もう一度(から)を割る様子を熱演し、ようやく彼はお食事楽しんで下さい、と例の善良スマイル全開で、去っていった。



 カニの味は、もう絶品である。私などがこれまでの生涯で一番、などといってもたいしたものではないかもしれない。でも、このカニをムシャムシャ食べているときが多分それまでの生涯で一番幸せだった。

——ムシャムシャ。

 これは誇張ではない。カニをムシャムシャ食べるなんて、日本で可能なんだろうか。細い足から身をつつきだすのに格闘し、なおかつガマンしてそれをお(わん)いっぱいになるまで続けてから、その後おもむろに座りなおし、満を持して一気にかきこむ、これしか思いつけない。お金持ちなら、カニしゃぶを3つぐらいまとめて口に入れるという手もあるかも、いやその場合でも歯で身をしごかないといけないから頬張(ほおば)る、といった感じではない。()でたてを追求すれば、カニ缶は問題外である。やはり、最初の方法、ケチな努力を払った上でのあれしかありえないはずだ。
 これに比するにストーンクラブは、スパナだかペンチだかは必要だけれど、案外簡単にかつ豪快に(から)が割れると、あとはいいですか、フォークで身が食べられるのです。フォークで。並べられていたでっかいディナーフォークを身に突き刺すと、もかっ、という感じで親指大、いや人差し指と中指を合わせた大、の可食部がついてくる。あつあつのカニの身を、口いっぱいに頬張(ほおば)れる幸せ。

 添付のバターソースは、半分終了したあたりでちょっとかけると、また美味しい。そして付け合わせのパスタは、想像していたとおり、立派に一皿分くらいの量のマカロニであった。これも残さず食べて、皿がカニの(から)ばかりとなって、幸福なディナーは終了した。




 私たちがめいっぱい膨らんだお腹を()でさすって()め息をついていると、ひらりとトーマスが現われた。満足して頂けましたか、と、トーマスは相変わらず笑顔全開である。ええもうとっても、と鷹揚(おうよう)にうなずき、私はおなかをたたいてみせる。おなかいっぱいです。もうぱんぱん。
 なのにトーマスは笑顔のまま、じゃ、デザートはいかがですか、コーヒーは、とくる。彼は職務を忠実に果たしているなだけなのだが、私たちはつい、期待に応えられないのを申し訳なく思ってしまう。しかし、横を通っていく他のウェイターが(ささ)げ持って行く巨大ケーキを見た以上、ここはきっぱりと断らなければ、私たちの健康に関わる。残念そうなトーマスに私はお勘定を頼んだ。

 ザ、ビル、プリーズ

 トーマスは黒いケースに挟んだ伝票を置いていってくれた。さて、今こそチップの出番だ。私たちは(チップ分を入念に計算した上で)、ケースにお札を挟み、トーマスを呼んだ。お釣りは、と言うトーマスに、いいえ、とスマートに答えた。決まった。
 しかし、本当はお釣りを受け取った上で、チップを別に置くべきだったのかもしれない。いやもう考えまい。トーマスがあの笑顔で送ってくれている。
 私たちは、何だか湧いてきた素晴らしい達成感とともに、レストランを後にしたのだった。
 
 帰国はもう、明日の朝。




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登場人物紹介

私 バッグは斜めがけ派 24才

スミ子 ヒョウ柄水着の似合う女 23才

エリックもしくはトーマス 28くらい


ペドロ ロペス サンチョパンサ およびメンドーサ 4人合わせて200才前後

サボテンの精 あるいはアロエおじさん 年齢不詳

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