答えなき問い
文字数 4,762文字
「じゃあ、本題に入ろうか。この仕事は、タイミングが重要だ」
ニコライは、机に肘をついて手を組み口角を上げる。
「体外での培養は順調に進んでいる。後は、どれだけ健康に育てられるかだ」
この時、アランは真剣にニコライの話を聞いており、その様子を背後からエルが見つめている。
「技術的な面に関しては、君が難しいことを考える必要はない。今から説明をしたって、簡単には理解できる様な内容でもないしね」
そう言って笑うと、ニコライは頭を左に傾けて言葉を続けた。
「君は、もう逃げることが出来なくなったんだし、ちゃんと仕事をやり遂げてみせてね?」
冷たく言い放つと、ニコライは書類の上端を持って前後に振った。
「前にも言ったけど、失敗しても君には危害を加えないから安心してね。まあ、あくまでも、君には……だけど」
ニコライは、そう言ってから机上に書類を置き、その上に左手を乗せる。一方、アランは無言で唇を噛み締め、浮かんだ言葉を飲み込んだ。
「そんな顔をしないでよアラン君。君には、なんの危害も加えないんだから」
そう言ってのけると、話し手は柔らかな笑みを浮かべてみせた。
「ここに呼ぶ子の数は、地域ごとに制限してある。逆に言うなら、誰かが使えなくなったら、その子が来た地域から招集するんだ」
そう言うとニコライは口角を上げ、アランの目を真っ直ぐに見つめる。
「そうしたら、人手の少ない地域は大変だよね。なんたって、新しく人を育てなきゃならないんだから。僕は、直接関わらないから困らないけど」
それを聞いたアランと言えば、無言のまま思考を巡らせた。
「さて、君の意志は確認出来たし、少し雑談でもしてみようか」
ニコライは、そう話すと聞き手の考えを窺う様にアランの目を見つめた。一方、彼に話し掛けられた者は、少しの間を置いてからニコライの意見を受け入れる。
「ありがとう、アラン君。それで、君の仕事とはあまり関係のないことなんだけど……君は、人間は何故二本脚で立つと思う?」
そう問われたアランと言えば、面食らった様子でニコライを見た。そして、アランは顎に手を当てて考える仕草をし、それから自信のなさそうな声で答えを返す。
「その方が、何かと便利だからでは無いでしょうか? 四つ脚で歩いたら、その分視界は低くなりますし」
アランの話を聞いたニコライは頷き、微笑みながら言葉を発する。
「そう、君の言う通り便利なんだ。人間は、肉食獣の様な鋭い爪も、大地を蹴って疾走できる蹄も持たない。だけど、二本脚で立つことによって前脚を地面から解放し、手へと進化したそれで道具を作ることには長けている」
そこまで言って唇を舐め、ニコライはドアの前に立つ者へ目配せをした。すると、彼の仕草に気付いたエルは、音を立てぬようにして部屋を出た。
「それは、人類の繁栄に役立った反面、環境を破壊することにも繋がった。どんなことであれ、良い一面と悪い一面がある」
ニコライは、そう伝えると首を傾げ、口角を上げてアランを見上げる。
「ここで、僕から新たな質問。人間の腕は、本来何の為にあるのだと思う? アラン君の考えを聞かせてよ」
そう問い掛けられたアランは、困った様子で自らの腕を見下ろした。一方、そんな彼の様子を見たニコライは、目を瞑って細く息を吐き出した。
それから数分の間があり、アランは途切れ途切れに言葉を発する。
「仕事をする為……でしょうか? 少なくとも、私はそうです。力仕事でしか、役に立てないことも……まあ、多かったですから」
自信なさそうに返すと、アランは目線を泳がせた。
「成る程、ね」
ニコライがアランの回答に反応した時、部屋を出たエルが戻ってくる。彼は、ティーセットが乗せられたトレイを持ち、アランを避けながらニコライの方へ進んだ。
その後、エルは手慣れた様子でカップに紅茶を注ぎ、ニコライの眼前に差し出した。すると、ニコライはカップの取っ手に指を掛けて礼を述べ、淹れたての紅茶で喉の渇きを潤した。
「アラン君はあれだね、ワーカーホリックの疑いがあるね」
そう言ってからカップを置き、ニコライは微笑しながらアランを見つめる。対するアランは、思いがけぬ一言に驚いたのか、僅かに口を開けて瞬きをした。
「真っ先に仕事が浮かぶだなんて、それだけ仕事が好きな証拠、じゃない? まあ、君の発想力が弱いだけとも言えるけど」
ニコライは、そこまで言って舌を出し、横に立つエルに目配せをする。すると、エルは空のカップに紅茶を注ぎ、彼がポットを置いたタイミングでニコライが口を開いた。
「とりあえず、紅茶でも飲んでリラックスしなよ」
その一言を合図とする様に、エルは紅茶の注がれたカップをアランに手渡す。一方、アランはカップを受け取ると礼を述べ、それから温かな紅茶を一口飲んだ。
「アラン君が、ワーカーホリックかは置いておいて……体が温まったことだし、話の続きをしようか」
言って目を細めると、ニコライはゆっくりと息を吸い込んだ。
「考えてもみなよ、アラン君。僕達みたいな大人なら、仕事をするのが普通かもしれない。だけど、子供……それも、小さい子供は、仕事をしないものでしょう? まあ、可愛いのが仕事って言うなら別だけど」
そこまで言って紅茶を飲み、ニコライは話を続けていった。
「じゃあ、なんの為にかって?」
ニコライはアランの居る方へ向けて腕を伸ばし、目を細めて笑顔を作る。
「誰かを抱き締める為じゃない? こういう風に、さ」
ニコライは、そう言って腕を引き寄せ、胸の前で交差させてみせた。この際、彼はアランの反応を窺いながら体を動かし、対面に立つ者が困惑した表情を浮かべたのを確認してから口角を上げる。
「あれ? アラン君は、僕の意見を馬鹿にしているのかな? 何を夢見がちなことを言ってるんだ……って」
そう問われたアランは、ニコライの問いを否定するように首を振った。そして、慌てて口を開くと、たどたどしい話し方で言葉を発する。
「いえ、そんなことは。ただ、思いつきもしなかった話でしたので」
アランの反応を見たニコライは、どこか満足そうな表情を浮かべた。そして、顎に手を当てて目尻を下げると、アランを見つめながら口を開く。
「牛や馬は、生まれて直ぐに立ち上がろうとする。そして、人間に近いとされる動物達は、生まれてから直ぐに母体へしがみこうとする」
ニコライは、そこまで言って息を吐き、尚も話を続けていった。
「それは、生き残る為の手段として、遺伝子に刻み込まれているものだろう。被食者は、逃げる能力が無ければ食われてしまう。育てて貰わねば生きられぬ動物は、そうしなければ飢えてしまう」
この際、アランは真剣にニコライの話を聞いており、話し手は彼の様子を確認しながら言葉を紡いでいく。
「では、人間は生まれて直ぐに何が出来る? 立ち上がることも出来なければ、しがみつくことも出来ない。地面を這うことさえ不可能だ」
そう言って冷笑すると、ニコライは体重を椅子の背もたれに預けて手を組んだ。
「そう、何も出来ないんだよ、産まれたばかりの人間はね。だから、大人が抱きしめてやらなければならない。そうしなければ、生き延びることすら叶わない」
ニコライの話を聞いたアランは、話し手の方を見ながら頷いた。
「獣に育てられた子供の話って有るけどさ……あれって、捏造らしいよね? まあ、有る程度固いものを食べられるようになってからなら、別かも知れないけど」
そこまで言って鼻で笑い、ニコライは背もたれから上体を離して机に肘をついた。
「と、まあ……人間と動物の違いって、産まれたての何も出来なさが一番じゃないかとも思うんだ。そして、何も出来ないからこそ、保護すべき人間が抱きしめてやらねばならない。だから僕は、人間の腕は抱きしめる為にあると考えたんだ」
ニコライは、そう言ってから目を瞑り、細く息を吐き出した。
「ま、これはあくまで僕の考えだし、それが全てって訳じゃないけど」
その話を聞いたアランと言えば、どこか面食らった様子で話し手を見た。すると、ニコライは目を細く開いて首を傾げ、アランの考えを窺う様に問い掛ける。
「あれ、意外だった? 君の意見を否定したのに、僕が言いきらなかったことが不思議なのかな?」
ニコライは、そこまで話してから口角を上げ、アランの目をじっと見つめた。
「別に、僕は考えの全てを強要するつもりはない。ただ、ここでの規律を乱す考えが嫌いなだけだ」
そう言って目を細め、ニコライはカップに手を伸ばして紅茶を飲み干す。この際、空になったカップには直ぐさま紅茶が注がれ、ニコライは彼の部下に対して礼を述べた。
「集団生活において規律は絶対だ。そうでなければ、様々な場所から綻びが生じる」
ニコライは、そこまで言ったところで、注がれたばかりの紅茶を一口飲んだ。
「その綻びは小さくとも、放置すればいずれ大きくなるだろう。だから、僕はその綻びを許さない」
そう付け加えてからカップを置き、ニコライはカップの縁を指先でなぞる。
「例えば、カップに罅が入ったとしよう。それだけで見た目は悪くなるし、罅が大きくなれば使い勝手も悪くなる。そして、その罅が大き過ぎれば、カップとしての役目を果たすことすら出来なくもなる」
ニコライは、指先でカップを軽く弾き小さな音を立てた。
「それに、その罅のせいで誰かが怪我をしたら、たまったものじゃない」
そう言ってカップの取っ手を指先で撫で、ニコライは柔らかな笑みを浮かべる。
「だから、罅が入ったカップは早めに廃棄するんだ。二度と使えないよう、粉々に砕いてから……ね」
ニコライの話を聞いたアランと言えば、得体の知れない恐怖に背中を震わせた。一方、話し手はまだ温かな紅茶で喉を潤す。
「勿論、罅が入らないよう、カップは丁寧に扱う。だけど、幾ら使用者が気をつけていても、罅が入る時は入るんだよね」
そこまで言って溜め息を吐き、ニコライは使用中のカップを見下ろした。
「お気に入りのカップに罅が入ったら、凄く残念だよね? だから、出来ることなら直して使いたい。でも、無理な方が多いんだよ、実際には」
ニコライは、そう言ってからアランの目を真っ直ぐに見つめた。
「形ある物は何時か壊れる。だけど、壊れないよう対策をしておくことは、出来るよね?」
そう問うと首を傾げ、ニコライは聞き手の反応を待つ。一方、彼に問われたアランと言えば、粘り気の増した唾液を嚥下した。
「そう……ですね。その何時かを先延ばしにするには、丁寧に扱うことを始め、保管の仕方を工夫する等の方法がありますし」
この際、アランの声は掠れており、彼は咳払いをすると残っていた紅茶を口に含んだ。その様子を見たニコライは楽しそうに目を細め、静かにアランの話を聞いている。
「ですから、出来うる限り壊れないよう扱うのが最善かと」
アランは、そう言葉を加えると微笑した。対するニコライは、満足そうに頷いてから話し手を見る。
「そう。そうやってやれば、リスクを減らせる。カップだけでなく、人の心へ入る亀裂にも……ね?」
そう言ってのけると、ニコライは口角を上げて首を傾げた。一方、そんなニコライの仕草を見たアランは押し黙る。
「さて、これ以上引き止めるのもなんだし、お開きにしようか」
ニコライは、そう伝えるとエルに目配せをした。すると、彼の仕草に気付いたエルは部屋の出入り口へと静かに向かう。
エルの移動中に、アランはニコライの意見を受け入れた。そして、エルが部屋のドア横で立ち止まった時、アランは持っていたカップをトレイへ置きに向かう。その後、アランはニコライに礼を言って退室し、自らの部屋へ向かっていった。
ニコライは、机に肘をついて手を組み口角を上げる。
「体外での培養は順調に進んでいる。後は、どれだけ健康に育てられるかだ」
この時、アランは真剣にニコライの話を聞いており、その様子を背後からエルが見つめている。
「技術的な面に関しては、君が難しいことを考える必要はない。今から説明をしたって、簡単には理解できる様な内容でもないしね」
そう言って笑うと、ニコライは頭を左に傾けて言葉を続けた。
「君は、もう逃げることが出来なくなったんだし、ちゃんと仕事をやり遂げてみせてね?」
冷たく言い放つと、ニコライは書類の上端を持って前後に振った。
「前にも言ったけど、失敗しても君には危害を加えないから安心してね。まあ、あくまでも、君には……だけど」
ニコライは、そう言ってから机上に書類を置き、その上に左手を乗せる。一方、アランは無言で唇を噛み締め、浮かんだ言葉を飲み込んだ。
「そんな顔をしないでよアラン君。君には、なんの危害も加えないんだから」
そう言ってのけると、話し手は柔らかな笑みを浮かべてみせた。
「ここに呼ぶ子の数は、地域ごとに制限してある。逆に言うなら、誰かが使えなくなったら、その子が来た地域から招集するんだ」
そう言うとニコライは口角を上げ、アランの目を真っ直ぐに見つめる。
「そうしたら、人手の少ない地域は大変だよね。なんたって、新しく人を育てなきゃならないんだから。僕は、直接関わらないから困らないけど」
それを聞いたアランと言えば、無言のまま思考を巡らせた。
「さて、君の意志は確認出来たし、少し雑談でもしてみようか」
ニコライは、そう話すと聞き手の考えを窺う様にアランの目を見つめた。一方、彼に話し掛けられた者は、少しの間を置いてからニコライの意見を受け入れる。
「ありがとう、アラン君。それで、君の仕事とはあまり関係のないことなんだけど……君は、人間は何故二本脚で立つと思う?」
そう問われたアランと言えば、面食らった様子でニコライを見た。そして、アランは顎に手を当てて考える仕草をし、それから自信のなさそうな声で答えを返す。
「その方が、何かと便利だからでは無いでしょうか? 四つ脚で歩いたら、その分視界は低くなりますし」
アランの話を聞いたニコライは頷き、微笑みながら言葉を発する。
「そう、君の言う通り便利なんだ。人間は、肉食獣の様な鋭い爪も、大地を蹴って疾走できる蹄も持たない。だけど、二本脚で立つことによって前脚を地面から解放し、手へと進化したそれで道具を作ることには長けている」
そこまで言って唇を舐め、ニコライはドアの前に立つ者へ目配せをした。すると、彼の仕草に気付いたエルは、音を立てぬようにして部屋を出た。
「それは、人類の繁栄に役立った反面、環境を破壊することにも繋がった。どんなことであれ、良い一面と悪い一面がある」
ニコライは、そう伝えると首を傾げ、口角を上げてアランを見上げる。
「ここで、僕から新たな質問。人間の腕は、本来何の為にあるのだと思う? アラン君の考えを聞かせてよ」
そう問い掛けられたアランは、困った様子で自らの腕を見下ろした。一方、そんな彼の様子を見たニコライは、目を瞑って細く息を吐き出した。
それから数分の間があり、アランは途切れ途切れに言葉を発する。
「仕事をする為……でしょうか? 少なくとも、私はそうです。力仕事でしか、役に立てないことも……まあ、多かったですから」
自信なさそうに返すと、アランは目線を泳がせた。
「成る程、ね」
ニコライがアランの回答に反応した時、部屋を出たエルが戻ってくる。彼は、ティーセットが乗せられたトレイを持ち、アランを避けながらニコライの方へ進んだ。
その後、エルは手慣れた様子でカップに紅茶を注ぎ、ニコライの眼前に差し出した。すると、ニコライはカップの取っ手に指を掛けて礼を述べ、淹れたての紅茶で喉の渇きを潤した。
「アラン君はあれだね、ワーカーホリックの疑いがあるね」
そう言ってからカップを置き、ニコライは微笑しながらアランを見つめる。対するアランは、思いがけぬ一言に驚いたのか、僅かに口を開けて瞬きをした。
「真っ先に仕事が浮かぶだなんて、それだけ仕事が好きな証拠、じゃない? まあ、君の発想力が弱いだけとも言えるけど」
ニコライは、そこまで言って舌を出し、横に立つエルに目配せをする。すると、エルは空のカップに紅茶を注ぎ、彼がポットを置いたタイミングでニコライが口を開いた。
「とりあえず、紅茶でも飲んでリラックスしなよ」
その一言を合図とする様に、エルは紅茶の注がれたカップをアランに手渡す。一方、アランはカップを受け取ると礼を述べ、それから温かな紅茶を一口飲んだ。
「アラン君が、ワーカーホリックかは置いておいて……体が温まったことだし、話の続きをしようか」
言って目を細めると、ニコライはゆっくりと息を吸い込んだ。
「考えてもみなよ、アラン君。僕達みたいな大人なら、仕事をするのが普通かもしれない。だけど、子供……それも、小さい子供は、仕事をしないものでしょう? まあ、可愛いのが仕事って言うなら別だけど」
そこまで言って紅茶を飲み、ニコライは話を続けていった。
「じゃあ、なんの為にかって?」
ニコライはアランの居る方へ向けて腕を伸ばし、目を細めて笑顔を作る。
「誰かを抱き締める為じゃない? こういう風に、さ」
ニコライは、そう言って腕を引き寄せ、胸の前で交差させてみせた。この際、彼はアランの反応を窺いながら体を動かし、対面に立つ者が困惑した表情を浮かべたのを確認してから口角を上げる。
「あれ? アラン君は、僕の意見を馬鹿にしているのかな? 何を夢見がちなことを言ってるんだ……って」
そう問われたアランは、ニコライの問いを否定するように首を振った。そして、慌てて口を開くと、たどたどしい話し方で言葉を発する。
「いえ、そんなことは。ただ、思いつきもしなかった話でしたので」
アランの反応を見たニコライは、どこか満足そうな表情を浮かべた。そして、顎に手を当てて目尻を下げると、アランを見つめながら口を開く。
「牛や馬は、生まれて直ぐに立ち上がろうとする。そして、人間に近いとされる動物達は、生まれてから直ぐに母体へしがみこうとする」
ニコライは、そこまで言って息を吐き、尚も話を続けていった。
「それは、生き残る為の手段として、遺伝子に刻み込まれているものだろう。被食者は、逃げる能力が無ければ食われてしまう。育てて貰わねば生きられぬ動物は、そうしなければ飢えてしまう」
この際、アランは真剣にニコライの話を聞いており、話し手は彼の様子を確認しながら言葉を紡いでいく。
「では、人間は生まれて直ぐに何が出来る? 立ち上がることも出来なければ、しがみつくことも出来ない。地面を這うことさえ不可能だ」
そう言って冷笑すると、ニコライは体重を椅子の背もたれに預けて手を組んだ。
「そう、何も出来ないんだよ、産まれたばかりの人間はね。だから、大人が抱きしめてやらなければならない。そうしなければ、生き延びることすら叶わない」
ニコライの話を聞いたアランは、話し手の方を見ながら頷いた。
「獣に育てられた子供の話って有るけどさ……あれって、捏造らしいよね? まあ、有る程度固いものを食べられるようになってからなら、別かも知れないけど」
そこまで言って鼻で笑い、ニコライは背もたれから上体を離して机に肘をついた。
「と、まあ……人間と動物の違いって、産まれたての何も出来なさが一番じゃないかとも思うんだ。そして、何も出来ないからこそ、保護すべき人間が抱きしめてやらねばならない。だから僕は、人間の腕は抱きしめる為にあると考えたんだ」
ニコライは、そう言ってから目を瞑り、細く息を吐き出した。
「ま、これはあくまで僕の考えだし、それが全てって訳じゃないけど」
その話を聞いたアランと言えば、どこか面食らった様子で話し手を見た。すると、ニコライは目を細く開いて首を傾げ、アランの考えを窺う様に問い掛ける。
「あれ、意外だった? 君の意見を否定したのに、僕が言いきらなかったことが不思議なのかな?」
ニコライは、そこまで話してから口角を上げ、アランの目をじっと見つめた。
「別に、僕は考えの全てを強要するつもりはない。ただ、ここでの規律を乱す考えが嫌いなだけだ」
そう言って目を細め、ニコライはカップに手を伸ばして紅茶を飲み干す。この際、空になったカップには直ぐさま紅茶が注がれ、ニコライは彼の部下に対して礼を述べた。
「集団生活において規律は絶対だ。そうでなければ、様々な場所から綻びが生じる」
ニコライは、そこまで言ったところで、注がれたばかりの紅茶を一口飲んだ。
「その綻びは小さくとも、放置すればいずれ大きくなるだろう。だから、僕はその綻びを許さない」
そう付け加えてからカップを置き、ニコライはカップの縁を指先でなぞる。
「例えば、カップに罅が入ったとしよう。それだけで見た目は悪くなるし、罅が大きくなれば使い勝手も悪くなる。そして、その罅が大き過ぎれば、カップとしての役目を果たすことすら出来なくもなる」
ニコライは、指先でカップを軽く弾き小さな音を立てた。
「それに、その罅のせいで誰かが怪我をしたら、たまったものじゃない」
そう言ってカップの取っ手を指先で撫で、ニコライは柔らかな笑みを浮かべる。
「だから、罅が入ったカップは早めに廃棄するんだ。二度と使えないよう、粉々に砕いてから……ね」
ニコライの話を聞いたアランと言えば、得体の知れない恐怖に背中を震わせた。一方、話し手はまだ温かな紅茶で喉を潤す。
「勿論、罅が入らないよう、カップは丁寧に扱う。だけど、幾ら使用者が気をつけていても、罅が入る時は入るんだよね」
そこまで言って溜め息を吐き、ニコライは使用中のカップを見下ろした。
「お気に入りのカップに罅が入ったら、凄く残念だよね? だから、出来ることなら直して使いたい。でも、無理な方が多いんだよ、実際には」
ニコライは、そう言ってからアランの目を真っ直ぐに見つめた。
「形ある物は何時か壊れる。だけど、壊れないよう対策をしておくことは、出来るよね?」
そう問うと首を傾げ、ニコライは聞き手の反応を待つ。一方、彼に問われたアランと言えば、粘り気の増した唾液を嚥下した。
「そう……ですね。その何時かを先延ばしにするには、丁寧に扱うことを始め、保管の仕方を工夫する等の方法がありますし」
この際、アランの声は掠れており、彼は咳払いをすると残っていた紅茶を口に含んだ。その様子を見たニコライは楽しそうに目を細め、静かにアランの話を聞いている。
「ですから、出来うる限り壊れないよう扱うのが最善かと」
アランは、そう言葉を加えると微笑した。対するニコライは、満足そうに頷いてから話し手を見る。
「そう。そうやってやれば、リスクを減らせる。カップだけでなく、人の心へ入る亀裂にも……ね?」
そう言ってのけると、ニコライは口角を上げて首を傾げた。一方、そんなニコライの仕草を見たアランは押し黙る。
「さて、これ以上引き止めるのもなんだし、お開きにしようか」
ニコライは、そう伝えるとエルに目配せをした。すると、彼の仕草に気付いたエルは部屋の出入り口へと静かに向かう。
エルの移動中に、アランはニコライの意見を受け入れた。そして、エルが部屋のドア横で立ち止まった時、アランは持っていたカップをトレイへ置きに向かう。その後、アランはニコライに礼を言って退室し、自らの部屋へ向かっていった。