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文字数 3,967文字

朝六時に起きて朝食の準備をする。
準備と言っても卵とベーコン、ソーセージを焼き、付け合わせとしてコールスローサラダを盛り付けるだけだ。あとはパンをトーストして、コーヒーを淹れる。
ここは東シナ海を望む高台にある小さなカフェだった。
打ちっ放しのコンクリートの上から無造作に貼った傷だらけの木板は、この建物を改築する際に出た廃材だと聞いた。
店内には七人まで座れるL字のカウンター席と、四人用のテーブルが三つある。更に窓際にはソファ席があり、こちらは最大六人まで座れる。
それらは大きさ材質もすべて異なる不揃いなデザインで、ほとんどはオーナーが地元のリサイクルショップで入手したものだった。中には米軍関係者が帰国の際に手放した家具も混ざっているらしく、言われてみればどこか異国らしい風合いも感じられた。
今朝は早くから気温が上昇し、窓の遠く向こうを行き交うタンカーや漁船が陽炎で滲んでいた。
窓際のソファは座高が低い為、他のテーブルからの景観を邪魔せずに済む。そのソファもどこかの病院の控室にありそうな衒いのないデザインだった。
不協和音の中にこそ真の調和がある――。オーナーはそう嘯いた。

入口の左側にトイレがあり、廊下の奥がゲストハウスになっていた。
海に面したコンパクトなツインルームが三部屋と、六人まで収容可能なドミトリーが一室あるだけの小さな宿だ。
トイレ、シャワーは共同で朝食付き。いわゆるベッド&ブレックファストのシンプルなサービスだが、場所柄か、通年平均して利用客は途切れなかった。
朝食を提供するカフェはゲストハウスの受付も兼ねており、営業時間は朝の七時から午後四時まで。従業員は俺一人。あとはオーナー夫婦がいるだけだ。
今朝は開店の十分前に気の早い客が現れた。一昨日から宿泊している三十代の中国人カップルだ。彼らが中国のどこから来たのかは知らない。上海なのか、福建なのか、或いはもっと田舎か――。敢えて訊いてはいないし、訊くつもりもない。
その後、自転車で全国を旅している二十代の男性二人組と、リタイア後の一人旅だと言う年配の男性客に給仕した後、客足は一旦途絶えた。宿泊客は他に日本人の大学生カップルが一組いる筈だが、まだ寝ているのだろう。
通常、カフェの仕事は昼前にオーナーに引き継ぐ。その後は部屋の掃除とベッドメイクをし、シャワールームやトイレも綺麗にする。また必要があればオーナーの古いレガシィワゴンを運転して買い出しに行くこともあった。
俺はいわゆる住み込みの従業員だった。当初、ランドリールームにしようとしていた約二畳の細長い個室が〝寮〟として充てがわれた。
そこに折り畳み式の簡易ベッドを置いて、客室用のリネン類と共に毎日寝起きしている。
そこは文字通り鰻の寝床だった。部屋には小さな天窓が一つあったがクーラーはなく、冬場以外は常に扇風機を回し続けた。
カフェはそれなりに繁盛した。窓から見える美しい東シナ海の画像が時々ネット上で拡散され、日本人のみならず、中国や台湾、韓国からも客が訪れたからだ。
その為、仕事は決して楽ではなかったが、コーヒーを淹れて、ケーキを切り分け、たまにサンドウィッチを作る程度ならば過度なストレスもなく続けられた。
朝早く起きて働き、夜はなるべく早く眠る。そうやって規則正しい生活を送ったおかげで健康状態は大分ましになった。
自然と薬の量が減り、その内飲まなくなった。
周期的に倦怠感や躁鬱に悩まされはしたが、それも次第になくなっていった。
十分な睡眠と穏やかな時間が心と身体を整えてくれたのだ。

店内の壁には三十数センチ四方の木製の額縁が、適度な距離を置いて計五枚飾られていた。
額縁の中身は古いジャズのアナログレコードだ。かつてLPと呼ばれた十二インチのヴァイナル盤。それらは完全にオーナーの趣味で、中身は時々入れ替わった。
今は店の奥からホレス・シルバー『ソングフォーマイファーザー』、ジョン・コルトレーン『バラード』、デューク・ジョーダン『フライトトゥデンマーク』、デクスター・ゴードン『ゴー』が並んでいた。
そして入口のすぐ脇、店に入って最初に目につく場所に飾られているのが、ケニー・バレル『ムーンアンドサンド』だった。
この額縁だけは常に変わらない。何故ならデトロイト出身の著名なギタリストが一九七九年に発売した傑作が、このカフェ兼ゲストハウスの名前の由来となっており、言わば看板の体も成しているからだ。
満点の星空と満月の下、砂漠に横たわるフルアコースティックギター。どこか叙情的でロマンチックなアルバムに相応しい、繊細なイラストに思わず惹き寄せられた。
「ケニー・バレルならそうだな、若い頃は『ミッドナイトブルー』の方が好きだった」
背後から掠れた野太い声が響いた。この店のオーナーだ。俺は振り向かずに尋ねた。
「今は何故こっちが好きなんです?」
「どうしてだろうな。昔は肩肘張って、ブルージーな音楽こそジャズの真骨頂だと思っていたからだろうな。それはそれで間違っちゃいないし、一つの魅力だとは思う。だが今は違う」
そこでようやく俺は振り向いた。
「どう違うんですか?」
神原雅之(かんばらまさゆき)は半分以上が白くなった無精髭を撫でながら言った。
「ハッキリはわからん。人は変わるし好みも変わる。俺もお前も変わるんだ」

ゲストハウス『ムーンアンドサンド』は沖縄県中頭郡読谷村(おきなわけんちゅうとうぐんよみたんそん)の高台にあった。
広島の建設会社の持ち物だった築三十三年二階建ての元保養所を、神原曰く破格の値段で手に入れ、半年かけてリフォームした。その大半は神原一人で黙々と作業したそうだ。
建物の構造は一階がカフェとゲストハウスで、二階がオーナー家族のプライベートな居室となっていた。
カフェの内装や家具はコスト重視で有り物を揃えたらしく、決して高級感はなかったが、不思議と落ち着くし、むしろそのアンバランスさが却って雰囲気の良さを醸し出していた。
俺が沖縄に来たのは二◯一六年の春――。懲役代わりの三ヶ月間の入院治療を経て、身元引き受け人の神原のもとに身を寄せたのだ。
驚いたのは神原が再婚していたことと、その相手が元『ギルティーローズ』のベーシスト、サイコこと藤崎佐代子だったという事実だ。
更に二人の間に一歳六ヶ月になる長男が誕生していたことにも面食らった。
正直、俺は幻滅していた。ムーンシャインにいた当時から神原と藤崎の噂は耳にしていたが、俺は鼻にもかけず笑い飛ばしていたからだ。
俺の知る神原がそんなみっともない公私混同をする筈がない、そう信じていたのだ。
裏切られた――。その思いから俺は本心を包み隠さず二人に伝えた。すると神原は如何にもばつが悪そうな表情を浮かべた。
「黙っていてすまなかった。お前には正直に話しておくべきだった」
妻の佐代子は長男の瑛多を胸に抱き、あやしながら悲しそうに微笑んだ。
「ごめんなさい。謝るしかない。だって結局助けられなかったんだもの。その為に私は居たのに。一番大切な役目だったのに。努力が足りなかったのよ。私の力不足――。なんとかしたかったけど、本当にごめんなさい」
そう言って静かに涙を零した。
俺はその言葉と涙で真実を悟った。つまり俺は大きな勘違いをしていたのだ。藤崎は神原の愛人なんかじゃない。最初から神原の恋人だったのだ。
ギターの相原梨乃(あいはらりの)とドラムの鵜野貴子(うのたかこ)、この二人の演奏力は申し分なくバンドに必要な要素だった。しかし性格がきつ過ぎるがゆえ、人間関係をこじらせて前のバンドを潰していた。
そして冬子は若く人一倍繊細だった。だからいつもそばにいて支えてあげられる存在が必要だったのだ。
神原はその役目を自分の恋人に託した。
その結果、冬子は藤崎に慣れ親しみ、姉妹のような関係になったのだと言う。
傍から見て冬子と藤崎が度々揉めているように見えたのは、つまり一種の姉妹喧嘩に近いものだったのだ。冬子は藤崎に甘え、時に反抗し、そうやって精神バランスを保っていたのだろう。
藤崎佐代子はグラビアモデル出身で、音楽に関しては高校時代にバンドを少しやっていただけの素人に過ぎず、相当な努力をして、どうにか格好がつく程度の演奏スキルを身につけた。
しかし今ではベースギターを見るのも触るのも嫌だと言う。その理由は単に楽器の練習が辛かったからだけではない。俺同様過去を思い出してしまうことが辛いのだ。

当時、藤崎も冬子のドラッグを案じていた。
冬子は日を追う毎に時間に遅れるようになり、約束を破ることも増えていた。また連絡が取れないことも多く、頻繁に嘘を吐くようにもなった。更に藤崎は冬子の体臭の変化にも敏感に気付いていた。
だからドラッグを止めろと諭したが、本人は決して認めず、むしろドラッグの話題になると露骨に機嫌が悪くなった。時には何日も口を利かなくなった。
またリノやウノに対する嫌悪感や敵対心はもはや隠しようもなく、最後は憎しみ以外の感情が残っていなかった。
「どんなに嫌われてもいいから強引にやめさせるべきだった。あの男から引き剥がすべきだった」
あの男とは冬子の恋人、元『トリガー&バレット』のキョウイチこと簑島祐太郎(みのしまゆうたろう)のことだ。
事件後、簑島は保護責任者遺棄罪と覚せい剤取締法違反で起訴されその結果、執行猶予付きながら覚せい剤取締法違反のみ有罪判決が下された。
また世間からはドラッグで恋人を死なせた犯罪者と看做され、バンドは活動休止に陥り、以降、本人は表に出ていない。一説によれば簑島祐太郎は群馬県の資産家の息子であり、実家に戻って引篭のような生活をしているようだ。
しかし俺にはどうでもいい話だった。ただ簑島祐太郎が毎日後悔に苛まれ、苦しんでくれていることだけを願った。
決して穏やかな時間など過ごさず、心が晴れたりもせず、毎日不安に怯えて絶望し、精神に異常をきたして欲しい。望むのはそれだけだ。
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