三~五

文字数 17,710文字

 三
 7月25日15時34分
 横浜市青葉区あざみ野
 レースのカーテンの隙間から森野美子は外を見ていた。
 バケツを引っくりかえしたような雨だった。年々激しくなる一方のゲリラ豪雨だったが、こんなのははじめてだ。空の蛇口が壊れてしまったかのようで、強い雨脚のせいでマンション前の坂道が白く煙っている。さっき買い物に出かけたときは炎天下のうだるような暑さだった。湿度もひどく、五分も歩かぬうちに熱中症のような気持ちの悪さに襲われた。それなのにたった数分でこのありさまだ。タッチの差で帰宅して救われた。
 ふいに高校時代を思いだした。男女共学の県立高校だった。夏休みがはじまったばかりのこの時期、部活で学校にいるとき、大雨が降りだすと妙に興奮した。台風が接近しているときなど、強風に耐える校庭の木々や窓の隙間を通して聞こえるびゅうびゅういう風のうなり、それに屋上に上っては、信じられない速度で変化する雲のようすを見あげ、みんなでぞくぞくした。傘がまるで役だたない突風と大雨のなかに踏みだして下校するのも、意外と楽しかった。そういうときにかぎって女の子たちはカッコいい先輩とか憧れの男子のことで盛りあがり、起きるはずのないロマンスに浸ったりしたものだ。
 だがアラフォーよりアラフィフ世代が近くなったいま、美子がなにより気にしなければならないのは娘の冨美香のことだった。自転車で二十分ほどのところにある私立の女子高の二年生だ。夏休みだったが、きょうは部活でなく、数学の補習のために朝から登校していた。もうすぐ帰宅するはずだ。十分ほど前(補習終わった。帰るよ~)とラインで連絡があった。たとえ母親のDNAは受け継いでいても、傘もささずに雨のなかでダンスを踊るなんてまねはあの子はしないだろうし、友人関係でひどい悩みを抱えているいま、そんな目立つようなことを学校でできるわけがなかろう。そう思うとあまりにふびんで母の胸はずきりと疼いた。補習を終えてクラスメートの目から逃れるようにして自転車置き場に向かい、きっといまごろは駅前あたりで必死になってペダルを漕いでいるのだろう。ずぶ濡れになりながら。
 (雨すごいでしょ。どこかで雨宿りしてきなさいね。すぐやむはずよ)
 いつもならすぐに返信がきたが、きょうは来ない。しかし十分もしないうちに本人が帰ってきた。玄関で息をきらせている。ずぶ濡れどころでない。海に落ちたかのようだった。途中でスマホを取りだすひまも惜しんで家路を急いできたとみえる。
 「あらら、たいへんじゃない。バスタオル持ってくるから、靴下脱いでそこで待ってなさい。入ってきちゃだめよ」
 「おかあさん……」
 「待ってなさい。制服もぜんぶそこで脱いじゃないなさい」
 「おかあさん……!」切羽詰った声だった。美子は洗面所から顔を出して玄関を見た。
 冨美香は母親に背を向け、ドアののぞき穴をのぞいていた。
 「なにしてるのよ、あんた」
 「しぃっ! 静かにして。聞こえちゃう」
 美子は乾いたバスタオルをつかんで玄関にもどった。「どうしたの? フミちゃん」
 「ストーカーよ」泣きだしそうな声で娘がいう。
 「え……ストーカー……? なんなのそれ」
 「マンションの駐輪場で自転車置いたとき、へんな視線に気づいたの。なんかすっごくじとぉっとした感じ。怖くなってダッシュでなかに入ったんだけど、ダダダッて足音がして」
 「ついてきたの?」
 「そうよ。もう怖くて。エレベーター待っていられなかったから、階段使ったんだけど、うしろから追いかけてくるのよ」
 「男の人……?」
 「見てないわよ。怖くてそれどころじゃなかったんだから」
 「それでどうなの? だれかいるの? 外に」
 「わかんないよ。ここからじゃそんなに広く見えないから」
 だが十年前、ちょっと背伸びをして購入したこのマンションは当時としては高級仕様で、各フロアの廊下はすべて内廊下式だった。だからプライバシーが守られる反面、足音が無用に壁と天井に反響してしまう。ある意味、防犯装置のようなもので、外にだれか来ているならわかるはずだ。美子は玄関に下り、サンダルをつっかけた。「なかに入ってなさい」バスタオルごと娘を無理やり押しのけた。
 「ちょっと、気をつけてよ、ママ。すぐそこにいたらどうするの」
 たしかにその通りだ。美子はのぞき穴をまずはたしかめた。
 だれもいない。
 美子は防犯用にいつも置いてある金属バット――夫がたまに草野球に持参するもの――を握りしめた。
 「やめてよ、ママ」
 「だいじょうぶよ。チェーンかけとけば」そう言って美子はチェーンロックをかけたままドアロックを外し、すこしだけドアを開けてみた。見える範囲に人影も人の気配もなかった。そのとき近くでドアが開く音がして、自分よりもずっと若い隣の奥さんがあらわれた。
 「すいません」美子は声をかけた。「そこに……だれかいます?」
 「は?」
 いきなりドアの隙間から妙なことを訊ねられ、隣人の妻は面食らった。美子はあわてて説明した。「外にだれかいるような物音がしたものでして」
 隣人は周囲を見回してからけげんそうにいった。「だれもいませんよ」
 美子はチェーンロックを外し、恐るおそるドアを押し開けた。隣人の言うとおりだった。美子は念のため廊下をすみずみまでたしかめた。そしてエレベーターを待ちながら不審そうな目をちらちらと向けてくる隣人にていねいに礼をいい、家に引っこんだ。金属バットを置くなり、大きくため息をつく。
 「ほんとよ、ママ。すぐそこまでついてきたんだって。階段に隠れているんじゃないかな」
 「たしかめてきたわよ。だれもいなかったわ」
 「うそじゃないもん。マジ怖かったんだから」
 「管理室に聞けばわかるわ」美子はインターホンで管理室を呼びだし、常駐する管理人さんに事情を話してみた。しかし十分ほどして折り返し連絡が来たが、十二台ある防犯カメラの映像に不審者は映っていないという。駐輪場から森野宅のある六階までかけあがってきたのは、娘一人だけだった。
 美子は心配だった。
 わたしね、いじめられてるんだ――。
 一か月ほど前、泣きながら打ち明けられた。悲しいとか嫌悪とかいうのでなく、娘が流したのは困惑と悔しさの涙だった。それもそうだろう。二年生になって新しい友だちができたと喜んでいた。そのクラスメートたちからある日突然、完全に無視され、陰湿ないやがらせも受けるようになったのだ。わけがわからない。出口の見えない日々がつづいている。夏休みになって本当は学校にだって行きたくなかったはずなのに、家計に負担をかけまいと予備校の夏期講習でなく、学校の補習を受けるといいだしたのだ。
 そうしたストレスがついに娘をおかしくしてしまったのだろうか。びしょ濡れの服を脱ぎ、冨美香がシャワーを浴びている最中、アールグレイでアイスティーを淹れながら美子は唇をかんだ。学校でのようすについて、夫が担任教師に電話で訊ねてもみたが、終始逃げ腰でらちがあかなかった。二学期になればなんとかなるよ。冨美香は親を気づかってそう口にした。だが果たしてそうだろうか。考えるだけで暗い気持ちになる。許されることなら、この手でいじめっ子たちの首を絞めてやりたかったが、親の前では気丈に振る舞う娘の手前、おかしな考えは頭から締めだしたほうがいい。
 「ママはだいじょうぶだった? この雨」Tシャツとハーフパンツに着替えた冨美香は窓の外を見た。さっきの雨がうそのように真夏の午後の陽射しがもどっていた。
 「ぎりぎりで間に合ったわ。傘持っていなかったからあぶなかった」
 冨美香はアイスティーのトールグラスをあおった。「超びっくりよ。あんなのはじめて」
 「なにが?」
 「熱かったの、雨が。お湯みたいだった」
 「うそ。お湯だなんて」
 「マジなんだな、それが。いま浴びたシャワーとおんなじぐらいだった。六十度だっけ、設定してあるのって」
 「設定温度なんてそんなに正確じゃないわ。でもだいたいそれくらいなんでしょう。そんなに熱かったの」
 「そうよ。なんか街中がお風呂になったみたいで、妙な感じだった。みんな体から湯気が出ていたもん」
 たしかに雨が降っているとき、外が煙って見えた。「そんなことってあるのかしら。たしかに暑かったけどね、きょう。なんかいやだわ。異常気象ね」

 自分の部屋にもどってから冨美香は外を見た。早くも乾きはじめた通りに不審者がうろついているようすはなかった。でもマンションに着いてから追いかけられたのはまちがいない。防犯カメラにだれも映っていないなんて絶対おかしい。透明人間でもないかぎりありえないじゃない。それともわたしの妄想だったって言うの?
 エアコンがきいてきて気持ちよくなってきた。補習ぶんの復習をしようかと思ったが、ひどい雨にあたり、どきどきしたせいもあってなんだか疲れてしまった。すこしだけ昼寝しちゃおうかな。夏休みなんだし、時間はいっぱいある。ずっと一人でいられるんだし。冨美香はエアコンを弱くしてからベッドに横になった。
 どれくらいたっただろう。
 夢を見ていた。ふしぎな現実感がある。自分の部屋がくっきりと見えた。ベッドでは冨美香自身が胎児のように体を丸めている。それを宙に浮きながら見つめている感じだった。
 人の気配がした。
 さっき何者かに追い立てられたときの恐怖がぶり返してきた。すぐ近くだ。冨美香は左の肩口をこわごわ振り返り、心臓がとまりそうになった。
 外人の男の子だった。
 年は冨美香とおなじぐらいだろうか。白人のティーンエイジャーだ。アイドル歌手のようなかわいらしい顔だちだった。やわらかな直毛の金髪が額に自然にかかっている。夢に外人が出てきたことなんてない。でもこの子は悪いことはしないだろう。なんとなくわかった。というか手に取るように彼のことがわかる気がする。夢ならではの感覚だ。どうせぜんぶ自分の脳が作りだしているのだ。
 「ハロー」英語が通じるにちがいないと思い、声をかけてみた。
 相手の声は冨美香の頭のなかにすべりこんできた。日本語だった。
 「たすけにきた」
 やっぱりわたし、つかれてるんだ。もう限界なのかな。そう思ったらまた悲しくなった。
 「わたしはフミカ。あなたは?」
 男の子は返事をしない。かわりに冨美香の前にふわりと移動して向き合う格好になった。かごのようなものをストラップで肩からさげている。かごのなかでカサカサと這うような音がした。よく見えないがなにかがいる。鳥肌がたち、冨美香はあとじさる。それを追いかけるようにかごのなかで羽音がした。硬い外羽を広げ、内側のやわらかな羽を震わせて飛びたとうとしているのだ。
 ギィ――。
 恐ろしい鳴き声が聞こえたとき、ベッドの冨美香が体を起こした。ふらふらと立ちあがり、机のひきだしを開けてなにかを探しはじめた。

 「夕飯何時ごろにする」台所から美子が訊ねたが、聞こえなかったようだ。自室からあらわれた娘は玄関に向かった。「出かけるの?」
 返事はない。美子は包丁をまな板の上に置き、濡れた手のまま玄関のほうに首をのばした。「買い物?」
 冨美香は濡れたスニーカーを素足のまま履いた。ようすがへんだった。
 「ちがう靴にしなさいよ。濡れてるじゃない」べつの靴を出してあげようと美子は玄関に駆け寄った。美子ははっとした。冨美香は夫の金属バットをつかんでいた。
 そのとき娘と目が合った。美子はどきりとした。射貫くような視線というわけではない。ただ、恐ろしかった。青ボールペンのインクを落としたような色の静脈が網目状にひどく浮かびあがり、白目がほとんどなくなっていたのだ。

 「いらっしゃいませぇ」
 自動ドアが開くなり、レジの隣で揚げ物を作っていた落合葉子は機械的につぶやいた。聞こえようが聞こえまいがかまわない。なにか言ったことがわかれば店長に注意されはしない。夏休みに入ってシフトを倍に増やした。平日は三日間、昼十二時から夕方六時まで入れている。夏休みだけで楽勝で十万稼げるし、バイトだから万引きだってしほうだいだ。
 入ってきた客はまっすぐにレジに近づいてきた。女だ。目もあげずにもう一度「いらっしゃいませぇ」とつぶやいた。めんどくせえ。葉子は舌打ちした。聞かれたかもしれないが、かまうものか。から揚げもフライドポテトもいま作ってるところ。ほしかったら待ってなさいよ。それともタバコ? あとにしてよ。いま手が油でぎとぎとなんだから――。
 客がレジの前に立った。むっかつく。いま忙しいんだって。ようやく葉子は顔をあげた。
 え……なんで……。
 冨美香だ。
 絶対に来るわけないのに。あたしがここでバイトしてるって知ってるはずなんだから。
 こっちを見ている。葉子はとっさにベルボタンを押してバックヤードにこもる店長を呼びだそうかと思った。しかし客の応対までを店長にまかせたら、あとでねちねちいわれそうだ。だったらがまんしてレジ打ちぐらいしてやろうか。いちいち口なんか聞く必要ないんだし。
 フライヤーをきりあげ、葉子は無言のままレジに移動した。目を合わせないよう視線を落としたら、冨美香の手元が目に入った。カッターナイフを持っている。こんなのうちに置いてあったっけ? 日曜大工に使うようなわりと大ぶりのタイプだ。親の手伝いでもさせられてるのかな。それとも手首でも切るのかしら。それなら大歓迎だけど、お金払う前から包装破るのはやめてくれるかな。最低限のマナーじゃない。まあ、万引きじゃないぶんいいけどね。
 冨美香は突っ立ったまま、カッターをレジ台に置こうともしない。刃が飛びだしていた。
 なんで?
 むかつく女が店に入ってきたときよりも強い疑問をおぼえた。思わず葉子は目をあげ、息をのんだ。
 目が真っ青だった。
 「どうしたの……」
 葉子の問いかけを冨美香は無視した。かわりに異様な両眼の奥でかすかに感情の炎を揺らめかせた。強盗……葉子はとっさにベルボタンに手をのばした。早く来て、店長――。
 それがまだ十七歳になったばかりの落合葉子の人生最後の思考だった。焼けるような痛みが顔じゅうに走ったときには、もうなにも考えられなくなっていた。

 四
 7月25日18時12分
 東京都渋谷区恵比寿
 医者からは一日の最大摂取量は180ミリグラムだときびしく言われている。それ以上摂ると、胃腸障害や最悪の場合、腸管出血を引き起こす恐れがあるというのだ。でもそういうのって何日も連続で服用したような場合のことだろう。水城奈央はマッサージ店の狭いロッカールームで鎮痛剤を二錠服用した。このところ許容量を超える服用がずっとつづいている。じっさいおなかがしくしくと痛む。あきらかな副作用だった。でも飲まないと正直、頭が割れそうに痛んで仕事にならない。前はこんなにひどくなかったのに。
 ドアがそっと開き、店長の月野が顔をのぞかせる。「倉岡さん、見えたわ」
 「わかりました」もうひと口、ミネラルウォーターを口にふくんでから奈央は、施術ベッドの並ぶ店のほうに向かった。
 薄いカーテンの向こうで施術着に着替え、背中を丸めてベッドの端に腰かけていたのは、太めの中年女性だった。「倉岡さま、はじめまして。水城ともうします。よろしくおねがいいたします」
 「遅れちゃってごめんなさいね。田園都市線がとまっちゃったのよ。キャンセルだけはしたくなかったから渋谷からタクシー乗っちゃったわ」
 「お気遣いもうしわけありません」
 「あざみ野で人身事故だって。電車のなかでずいぶん待たされちゃった」
 「どちらからですか」
 「青葉台から乗ったの。会社は銀座なんだけど、そっちで仕事があってね」
 「また会社にもどられるんですか」
 「よしてよ。きょうはこのまま直帰させてもらうわ。そのつもりで予約入れたのよ。だけどあなた」倉岡は、明るい感じの声音とは裏腹のいささか心配そうな目を奈央に向けてきた。「意外とお若いのね。もっとベテランの方かと思ったわ」
 奈央は客からよくそう言われる。二十八歳だったが、ショートカットで童顔のため二十歳そこそこの新米に見られてしまうのだ。客の心配も理解できる。六十分七千円の料金は恵比寿では標準的だが、それに指名料として二千円をプラスしている。暴利とも言えそうだが、それが取れるのは奈央だけだった。口コミで奈央の評判を聞きつけて客が殺到している。予約は三か月先までいっぱいだった。
 奈央はカルテに目を落とした。倉岡香澄。四十六歳。管理職らしい。「六十分で承っております」深々とお辞儀をすると、体の幅が奈央の倍以上ある相手はごちそうを前にした子どものように期待に目を輝かせた。
 「もう全身がガチガチなの。年のせいもあるけど、パソコンの座り仕事が立てこんでいてね」
 「ボディ中心でよろしいでしょうか」答えはわかっていたが、いちおうは訊ねてみた。
 「いえ、ヘッドマッサージ中心でおねがいしたいわ。上手なんでしょう、あなた。ネットで見たわ。それで指名したのよ。ずいぶん待たされちゃった」倉岡は恩着せがましく口にした。
 「お待たせしてもうしわけありません。それではヘッドマッサージ中心にはじめさせていただきます」口コミには(ヘッドのゴッドハンド!)(施術後の頭の軽さにビックリ)などと書きこまれている。月野からは、ヘッドマッサージ十五分で三千円の新メニューを提案されている。それで回転率をあげて稼ごうというのだ。だがそんなことをしたら奈央のほうがまいってしまう。きっと薬も効かなくなって、しまいには痛みの元を自力で封じようと、線路に頭を横たえることになるだろう。だから店長の提案はやんわりと断って、できる範囲で仕事をつづけるしかない。この力に気づいて以来、だれに触れても感じることができた。向こうからこちらに入ってくるのだ。まるで救いをもとめて飛びこんでくるかのようだった。それを無視することはできない。母との約束だった。
 いつものように最初はうつ伏せになってもらい、ボディマッサージから入った。背中は表面こそやわらかいが、体の奥がこわばっている。芯があるようだった。「けっこう硬いですね」
 「たぶん頭のほうから来てると思うの」まるで少女を誘惑するレズビアンのように倉岡はもとめてきた。やれやれ。きょうはもう薬は飲みたくないのに。
 十五分ほど背面をほぐし、仰向けになってもらう。倉岡は自ら白状した。「会社でたいへんなのよ。ストレスで」
 首筋から後頭部に指を這わせた瞬間、奈央にもわかった。女性も男性もそうだ。中間管理職のサラリーマンというのはみんなこの手の苦悩を抱えているのだろう。頭蓋骨に走る継ぎ目に沿って指先にゆっくりと力をこめる。じわじわと左右の手のひらが熱っぽくなっていく。指先がゴリゴリしたものをとらえた。継ぎ目の向こう側だ。MRIなんかを使ったところで、そこにはなにも映らないだろう。腫瘍などの目に見える病変ではない。いわばそれぞれの人が抱える心の澱だった。人によってその大きさや硬さやでこぼこ具合が異なる。奈央は目を閉じ、十本の指先にさらに力をくわえた。
 ずぶりという感触とともに指が骨にめりこむ。細く長い、ピアニストのような指が十本とも、まるでメスのように深々と客の頭のなかに侵入した。
 「あぁ……いぃ……」頭も目元もタオルですっぽり覆われたまま、倉岡は恥ずかしげもなくうなった。嬌声のようにも聞こえ、奈央のほうが恥ずかしくなった。でも彼女だけではない。奈央の施術を受ける者はみんなそうだった。「効くわぁ。やっぱ口コミどおりね」
 「ありがとうございます」
 もちろんじっさいには指はめりこんでいない。あたりまえだ。入るわけがない。しかし奈央の見えざる指先はすでに多層からなる脳の薄膜を破り、新皮質と旧皮質からなる塊にまで到達していた。それを慎重に両の手のひらにのせ、こわばっている部分を探ろうとゆっくりと転がすようにしてもみしだいていく。
 突如、目の奥に白い光が走り、奈央はぎゅっとまぶたに力を入れた。
 雑然とした印象のオフィスだった。壁や天井の照明の具合から見て、かなり年季の入ったビルのようだった。その端っこにあるくすんだパーテーションの向こうに倉岡香澄はいた。新聞社の編集部らしい。
 「なんでわたしほどの人間がそんな仕事をしないといけないんですか」
 デスクをはさんで反対側から身を乗りだしてきた同年代の女にすごまれ、倉岡は激しい嫌悪感をおぼえた。奈央と言葉をかわしたときのような明るく大らかな印象は失せ、ピリピリして肩に力がこもっている。青白い怒りの炎のせいだ。
 「そろそろ新しい仕事にチャレンジするのもいいかと思って」
 あなたのためになる、とまでは口にできなかった。モンスター社員をへんに刺激するのを倉岡は本能的に恐れていたからだ。でも本当は、会社のためにもいまの仕事から離れてほしい。それが本音だった。直属の上司である倉岡は業務命令として異動を言い渡すことができた。だが相手は記者として過度の自信に満ちていて、二十年近くつづける取材部門からの離脱を意味する通告にプライドを傷つけられたと思い、狂ったようにすごんできた。じっさいには記者というより、そもそも社会人として失格だというのが衆目の一致するところだった。特定の取材先にいい顔をして、先方を持ちあげる提灯記事しか書けないレベルの低い社員だ。それでいて知識をひけらかして自己陶酔にひたる。なんらかの形でその自尊心が傷つけられると、強烈な被害妄想から怒り狂い、手がつけられなくなる。そこにしたたかな計算が垣間見られることもあり、それを放置する上司に対する同僚たちの不平は募る一方だった。
 この女だけは絶対に許さない。
 倉岡ははっきりと心に誓った。しかしそれを表に出せず、なだめすかすような言葉を探ることしかできなかった。
 「いまわたしを外したら、会社にとって損失になりますよ。だってこの新聞社でいちばん原稿がうまい記者がいなくなるんですから」
 奈央はそれをパーテーションの上からのぞき見ていた。新聞記者の仕事がどういうものか想像がつかない。でもこの女性記者の尻ぬぐいを倉岡がどれだけ押しつけられてきたか、それがどれほどの不愉快さと屈辱感をもたらしてきたか、奈央はまさに手に取るようにわかった。それが心に暗い影を落とし、頭皮から首筋にかけてのコリを生み、頸椎と脊椎の神経を通して全身に不調をもたらしているのだ。
 ここだ。
 奈央は熱を帯びた手のなかで転がる球体の一部にひときわ凝り固まっている場所を見つけた。まるで石ころのようだった。表面でなく内側に向かって硬直が広がっている。奈央はその周囲に指先をあて、気持ちを集中させた。脳のしわを慎重にかき分け、ずぶりずぶりと深みへ入っていく。
 目の前に問題の記者がいた。
 倉岡のかわりに奈央が対峙していた。誤った自信に満ちあふれたその顔を見つめ、いまや燃えるように熱くなった両手で患部を包みこんだ。挑みかかるようににらみ返してきた相手はいきなり弾かれたようにいすの背にのけぞる。奈央はさらに脳の奥へと触手をのばす。そして倉岡の心の澱を完全に掌中におさめ、乾ききった土くれのようにぼろぼろに崩しながら自らの内に取りこみ、吸収していった。
 「あぁ……あぁ……」
 首筋と胸元に大粒の汗を浮かせながら倉岡はあえぎつづけた。いまにも昇天しそうな感じだ。これをほかの客に聞かせると、つぎの予約につながる。しかしこのとき客は倉岡ひとりだった。受付カウンターで月野店長が一人でほくそ笑んでいるだけだった。
 本物の超能力者なら、念を送ることでストレス源となっている相手そのものをこの世から抹殺することだってできるのだろう。だがそこまでの能力は奈央にはないし、そんなものはいらなかった。客の心に同期し、たまった澱をかきだし、傷口に軟膏を塗り、その後の日々を穏やかに過ごせるだけの防御壁を築いてやれればそれでじゅうぶんだった。引き受けた苦悩は奈央のなかで始末されていく。
 ただ、最近では消化がうまくいかないのか、術後に頭痛が残るようになっていた。痛みが消えぬうちにまたつぎの客が来る。悪循環だった。それで鎮痛剤の量が増えているのだ。このままつづけていていいのかな。奈央は悩みはじめていた。二年前に勤めはじめたころは素っ気なかった月野は、自ら奈央の施術を体験したこともあって、いまはいろいろと気づかってくれる。でもそれは奈央が一番の稼ぎ頭だからだ。月野は心の底から信頼できる人物ではない。それにいっしょにいるセラピスト仲間のなかには、嫉妬してひどいうわさを流す人もいる。潮時はいつか見極めるべきだった。でもこの先どうやって食べていけばいい。ほかに取りたてて技能や資格があるわけじゃないし、恋人だっていなかった。この力に気づいて以来、他人に心を許すことに潜在的な不安が生まれていた。せっかく仲良くなり、親密な間柄となったところで、相手の邪悪な一面を垣間見させられたときの衝撃に耐えられる自信がなかったのだ。
 気づいたのは、小学五年生で生理がはじまった直後だった。公園でクラスメートの女の子と遊んでいたとき、偶然、彼女の額に手が触れ、ビジョンが見えてしまった。家庭の苦しみだった。暮らし向きは悪くないが、両親の関係が悪く、父親が母親に暴力を振るっていた。離婚して母子家庭になるのが秒読みだった。その後、奈央は友人の額にもう一度手を置き、苦しみを吸いあげた。かわりにあたえたのは生きる勇気かもしれない。
 そのことはだれにも言わなかった。十三歳のとき母が倒れ、病床でそっと額に手をのばしてみた。精神的な苦しみだけでなく、病気そのものを除去することはできまいかと子どもながらに思ったのだ。それで母のほうが気づいた。
 「あなたも受け継いだのね」
 知らなかった。能力は、かつて占い師の一族だった母方の女に代々伝わる秘技だった。父もうすうす気づいていたようだが、いっさいに口にしなかった。あえて伝えるものでなく、自分で見つけだすもののようだった。
 「自分のために使ってはだめ。人のために使いなさい」それが母の最期の言葉だった。
 奈央はこれを先祖からの不思議な贈り物だと思うようにしている。しかしじっさいにどう使ったらいいのかつかめぬまま大人になった。父に相談したこともあるが、昔から変わらぬやさしいまなざしで見つめてくるだけで、答えは教えてくれなかった。いまにして思えば、父は自分たちのことを畏れていたのかもしれない。去年、父が亡くなったとき、奈央はふとそんな気がした。
 「また予約するわ」会計をすませ、倉岡は満面の笑みを浮かべた。「なんかもうスキップしちゃいそうなぐらい体が軽いの」
 お気持ちもらくになりましたか。そう訊ねたい気持ちをこらえ、奈央は倉岡をサロンから送りだした。
 「へぇ、すごいな、これ」月野がタブレットに食い入っていた。「校長室に籠城だって」
 ニュースサイトだった。横浜の私立高校で、二年生の女生徒が刃物と金属バットを持って職員室に乱入したらしい。わずか一時間ほど前の出来事だったが、大ニュースになっていた。学校は夏休みが始まったばかりだったが、たまたま女生徒の担任ら五人の教員が出勤しており、一人が意識不明、もう一人が重傷だった。女生徒は担任の女教師を校長室に連れこみ、そのまま鍵をかけて籠城しているという。
 「見て、これ」月野はニュース映像を再生した。警察による立ち入り禁止のロープの手前からロングショットで校長室を映している。半開きのカーテンの隙間から床に仰向けに倒れた女性が見える。ほんの十分ほど前に撮影され、テレビで流れた映像だった。「もう殺されているんじゃないかしら」
 「怖い……なんなのかな……」
 「学校に不満があったんでしょ。だけどこんなの聞いたことないわね」テロップでは、あざみ野の高校と伝えられていた。
 ふいに奈央は両手に熱感をおぼえた。まるで施術中のような感覚だった。
 あざみ野か……。
 どこか引っかかりをおぼえた。いったいわたし、なにと同期しているのだろう。いやなざわめきが胸にわきあがった。タブレットに食い入る店長をよそに奈央はロッカールームにもどり、小ぶりのリュックから錠剤のパッケージをふたたび取りだした。

 五
 7月25日東部時間5時32分(日本時間19時32分)
 米ノースカロライナ州フォート・ブラッグ陸軍基地
 地下六階の研究室にもどってくるなり、ヘンリー・グプタは掌紋認証式の二重扉の向こう側に急いだ。マジックミラーでたしかめるかぎり、クリスはいつものように紺のパーカーにグレーのスウェットパンツ姿で、ソファでくつろぎながらタブレットに向かっていた。十六歳の若者とは思えぬほど落ち着きはらい、相変わらずのポーカーフェイスだ。
 「思ったよりも早かったのですね、ドクター・グプタ」息を切らせて部屋に入ってきた博士の緊張を解きほぐそうとするかのように、クリスは穏やかな口調で声をかけてきた。
 「きみのそばにできるだけいたいのでね。行きも帰りも軍用機を使わせてもらったよ。でもかならずしも乗り心地のいいものでない。尻が痛くてたまらんよ。五十過ぎの体には今夜の旅はかなりこたえた。いますぐ家に帰って眠りたいぐらいだ。どうせ寝つけないだろうけどね」
 「ぼくも一度でいいから乗ってみたいですよ。飛行機というやつに」
 その質問には答えずにグプタはソファの前に立ちつくしたまま訊ねた。「ところでクリス、あの雲はやはり雨を降らせたようだね」
 「博士の予想どおりですね。その後なにか起こりましたか」クリスにはタブレットをあたえている。メールなどの発信は制限しているものの、ネットにはつなげるから世界中の情報を得ることができる環境――アダルトサイトにだってつなぎ放題だ!――にいる。だからこの一、二時間のうちに日本のニュースサイトでどんな事件事故が伝えられているか、十中八九、把握しているはずだ。それにグプタがこの八年つづけてきた観察記録から推察するなら、クリスはもっとべつの方法を通じて、いま日本で起きていることがほかのだれよりも手に取るようにわかる。その確信があった。
 「ブラックデザートとおなじようなことになっている。ただ、あの田舎町とはくらべものにならないがね」吐き捨てるように言い、グプタはクリスの隣に腰を下ろした。六十平方メートルほどの広い部屋を見まわす。天井には監視カメラが四基設置され、いまもきちんと作動している。扉を開けるにはグプタの掌紋認証が必要だったし、グプタの身になにか起こればすぐに銃を持った警備員が突入してくる。クリスは二十四時間、完全な監視下に置かれていた。だがここにはじめて連れてこられたときからクリスはおとなしかった。というより無抵抗だった。むだな抵抗はためにならないと思ったのだろう。思慮深く、慎重だった。グプタを介して学ぼうと考えたのだろう。
 クリスたちがここにいることを知るのは米国内でもわずかだ。陸軍の施設をCIAが拝借し、管理もCIAが全面的に行っている。公式にはクリスたちは米国内の矯正施設に収容されていることになっていたし、研究のくわしい内容について軍にはいちいち知らせていない。だからこそグプタからの一報が複雑な経路を経てペンタゴンにもたらされたとき、事態に対する主導権をCIAには握らせまいとゲルドフが騒ぎだしたのだ。
 たしかに国防副長官が憂慮すべき問題だった。しかしいまもっとももとめられるのは、適切な情報開示と冷静な外交判断だった。
 クリスが立ちあがった。四十八チャンネルが見られるCATVに加入済みのテレビと歴史書がずらりと並ぶ書棚の間にあるスチールデスクには、熱帯魚用の横幅一メートルほどの水槽が置かれている。そこに近づき、クリスは腰をかがめてなかのものに見入った。
 グプタはインド系だが、インドに暮らしたことはもちろん、旅行で訪れたこともない。移民三世となる生粋のニューヨーカーで、前職はカリフォルニアのNASAエイムズ研究センターだった。いずれも自然豊かな土地柄とは縁遠く、ゆえに少年時代からグプタは昆虫というものに特段の興味がない。たとえ科学者であっても、専門の宇宙物理学には生物学の知識はたいして必要がなかった。だからクリスの長年変わらぬ趣味にはなかなか共感できなかったし、むしろ国家予算を投じて購入するよう時折要望してくる特定の種――熱帯性のばかでかい蛾のたぐい――については、これまでただの一度も聞き入れたことがない。
 だから水槽のなかで飼われているのは、クリスお気に入りのカミキリムシの一家を中心に、スタッフの子息が基地の近くの森で捕まえてくるバッタやカマキリぐらいで、ときとしてそこにカブトムシやクワガタがくわわるのがせいぜいだった。だが最後はいつもカミキリ一家だけになる。みんな餌食となってしまうのだ。
 「こうなることは博士にもわかっていたはずです」水槽に手を突っこみ、ひときわ大きなオスのカミキリをつかみあげ、まるで美術品でも鑑定するかのようにあちこちから眺めまわした。かつて痛々しくむくれあがっていた頬の傷痕はこの八年間で巨大なほくろのように変化している。
 「きみとはもう長いことおなじ時間を過ごしている。だからこれまで聞かされてきた話はすべて、ようはきみが作りあげたフィクションの断片に過ぎないのではないかと、つい思ってしまうんだ」
 「そう思いたい気持ちは理解できます。けど博士は心の底で、ぼくが話してさしあげたことをじつに冷静に分析していたはずだ」クリスは二の腕にカミキリムシをたからせ、レーダーアンテナのように旋回する二本の触角をいらだたしげに見つめた。「ぼくは気ままな旅人なんかじゃない。時が来ればどこかに行ってしまうなんてことはないんですよ。いずれはあなたたちと相容れなくなる。ずっとそう言ってきたつもりですがね」
 グプタはため息をついた。「その点については、わたしの認識不足というか思いこみが強過ぎたようだ。時が解決してくれるとの期待もあった」
 「八年なんてぼくからしたら瞬きする間ほどもない。時がとまっているも同然だ」
 「きみは鏡で自分を見たことがあるだろう。みるみる成長したよ。そういうのをわたしたちは時の流れと呼んでいる。せいぜい八十年かそこらしか生きられない生物なりのささやかな時間の楽しみ方なんだ」
 クリスはあきれたような顔で博士のほうを見た。「食べものに関してはもうしぶんないと思います。おいしいものを毎日食べて、伸びすぎるぐらい身長が伸びた。いまじゃグラノラバーの食べ過ぎで太りぎみかもしれない」部屋にはランニングマシンなど運動器具もそろっている。クリスはテレビを見ながらそれで汗を流すのをここ何年かは日課にしているから、見た目はすらりとして健康的だ。それでもストレスを感じないといえばうそになるのだろう。
 「ずっと監禁しているのだ。それくらいしてやらないともうしわけないからね」
 「地球上でもっともぜいたくな刑務所ですよ、ここは。マフィアの親玉だってこうはいかないでしょう」
 「皮肉だな」
 「でも死刑だけは執行されない。人類史上、千載一遇の機会を失うことになりますからね。ただ、以前から話しているとおり、ぼくは時が満ちるのを待っていた。博士もそのことにもうすこし注意を払うべきでしたね」
 「正直に言うなら、そういうところが人間の限界なのだ。そこで相談なのだが、時の訪れとそれがもたらすものについて、いよいよ本気で話し合わないといけないみたいなのだがね」
 「博士にはとても感謝しています。でももはや話し合うことはなにもない」
 グプタはもう一度大きくため息をついた。予想どおりの反応だったからだ。窓のない地下の研究室にこもっているとときどき滅入ってくる。だがそんなときでもクリスと話していると、ふっと心が軽くなることがあった。それは彼という存在が、人類にとって未知の希望に思えたからだ。しかしもはや遅いのかもしれない。悔しさにも似た焦燥感に駆られ、苦々しく訊ねる。「だったら一つだけ聞くが、きみはいったいこれからどうしたいのかな」
 クリスはカミキリを腕にたからせたままグプタの顔を見すえ、冷たく微笑んだ。「あなたたちの可能性についてじっくり見極めるつもりです」
 グプタはクリスを残して研究室にもどった。膨大な資料を山積みにしたデスクをかきわけてキーボードをつかみだし、デスクトップパソコンに世界各地の天体観測基地から集まってくる観測データを表示させた。グプタがたしかめたかったのは、電波望遠鏡による高速電波バースト(ルビ、FastRadioBurst)の記録だった。地球から数十億光年のかなたから時折放たれるエネルギー放射のことで、いくつかの天体から周期的に放出され、地球にまで届いていることが観測されている。一回の放射は瞬間的なものだが、その間に太陽五億個ぶんものエネルギーが発生すると考えられている。その残滓を電波望遠鏡がキャッチするのだ。
 その正体について、高密度の星どうしの衝突だという者もいれば、強力な磁場を持つ星のフレアだという者もいる。星が崩壊してブラックホールになるときのエネルギーだという説もある。明確な答えはまだないが、いずれにしろ宇宙の起源とその広がりを考えるうえで非常に注目されている天文現象だった。
 FRBに関しては、エイムズ研究センターにいた頃からグプタも研究をつづけているし、世界でも有数の研究者であるとの自負はある。だがこの八年間の経験を踏まえれば、その本質を見極めることよりも、それが果たす役割を考えるべきだった。
 「新しいのは届いていないな」グプタはひとりごちた。FRB121203は、おおいぬ座の方角に三十億光年離れた矮小銀河内の星だった。最初に観測されたのは二〇〇九年七月十八日、東部時間午前十一時二十九分。その後観測されることなく八年を経て、いまから一か月ほど前に思いだしたようにキャッチされたのである。
 グプタはキーボードに暗証番号を打ちこんで別画面に遷移した。CIAの協力員としての立場ではアクセスが認められないが、これだけは使わせてほしいと上に掛け合って許可を取りつけた軍事衛星画像のデータベースだった。端緒となったのはクリスとのふとした会話だった。三年前のことだ。さらにグプタは、その膨大なライブデータを基に大気中のエネルギー密度の変化を割りだすプログラムを構築していた。それをいま作動させ、思わずうなり声をあげる。恨み節をクリスに聞かせようとしているかのようだった。
 やはりだ。
 衛星画像には映らないが、ちゃんと分析すればわかる。急速に変化する大気のなかに潜むようにしてエネルギーレベルが一定の場所があった。
 日本の近く、関東地方の沿岸だ。しかも数時間前に雨を降らせたものとは規模が格段にちがう。
 電話が鳴った。
 カニンガムからだった。いっしょにペンタゴンに出向いたCIA職員、グプタの唯一の相談相手であり、お目付け役の男だった。「国防長官もゲルドフと同意見だそうです」いきなり結論を告げてきたのは、時間の節約というこの元グリーンベレーならではの配慮でもあったし、地球外生命体の存在に関するユニーク過ぎる意見のせいで、エイムズ研究センターでもかなり浮いた存在だった研究者に、それ以上四の五の言わせぬための最善の方策でもあった。
 それでもグプタはいきりたった。「同盟国がどうなってもいいというのか」
 カニンガムは冷静を装った。「これは安保条約とは無関係です。それにまだ状況が完全に把握されているわけじゃありませんよ。あまり想像力はたくましくしないほうがいいと思いますが」
 「早急な対策を立てるのはこっちのためにもなるんだぞ」
 「博士もごぞんじでしょうが、一か月前から準備は整えてあります。すでにオペレーションがはじまっています。博士に日本に向かってもらうべきか、逆にサンプルをこちらに移送すべきか、ペンタゴンと協議中です。決まりしだいお伝えします」
 グプタは学者だ。知識をもって解決できることなら人の役にたてるが、自らの知識がおよばぬ領域となると手も足も出ない。役だたずの人間ということだ。ゲルドフたちを納得させるだけの解決策が見つからぬいま、グプタは歯ぎしりをしながら電話を切るほかなかった。
 憤然としてグプタはパソコンの画面を切り替えた。広さが多少狭いものの、クリスが暮らすのとおなじタイプの部屋が画面に三分割してあらわれた。上の階、地下五階から三階までのフロアに一室ずつ設置された部屋のようすだった。いずれもクリスの部屋と同様の掌紋認証式のロックがついており、厳重な監視下に置かれていた。なにより床も壁もあらゆる電磁波の侵入を妨害できるよう工事がほどこされている。はじめて彼らがここにやって来たときにはなかった設備だが、三か月もしないうちに隔離収容の必要性――それも完全隔離だ――にグプタが気づいたのだ。
 ジェーンもバリーもトーマスもそんな状況下でも機嫌はさほど悪くなかった。というよりこの八年間、無表情のままで、口を開くのは食事のときだけだった。
 ジェーン・クロフォードは看護師だ。ここに連れてこられたときは二十四歳で、まもなく高校時代の同級生と結婚する予定だった。あの日は、病院の屋上に大量のリネンを干さねばならなかった。当時四十八歳のバリー・ランズデールはレンタカーチェーンの店長で、事故車両を従業員のかわりにトラックで修理工場に運ぶ最中だった。保安官のトーマス・ベイリーは定年退職を一週間後にひかえ、慣れ親しんだブラックデザートの町であと何人に自分の制服姿を見せることができるか、公園のベンチで遅いランチを取りながらひとり感慨にふけっているときだった。
 ブラックデザートは混乱し、最終的にクリスをふくむ七人の身柄が生きたまま確保された。八年後のいま、生き残っているのはクリスとジェーン、バリー、トーマスの四人だけとなった。
 グプタのパソコンのなかで、三人ともぼんやりとテレビを見ていた。そしていずれもまったくおなじタイミングで天井の監視カメラを見あげる。真実はどうなのかグプタにも明言はできなかった。だが彼らはもはや彼らであって彼らでない。そう確信していた。いっさいの感情が伝わってこない冷たいまなざしを見ればわかる。ほかの何者かが衣服のように彼らの体をまとっているだけのようだった。グプタはそこにクリスを感じることがあった。しかし唯一言葉をかわすことのできるサンプルである青年でさえも、暗い瞳の奥にべつの存在がうごめいているとわかるときがあった。
 あなたたちの可能性についてじっくり見極めるつもりです――。
 クリスと対話できるのはグプタだけだった。それは研究者の特権というより、向こうが自分を選んだと考えたほうがいいのかもしれなかった。ならばもうしばらくやつの言うことに耳を傾けるべきなのだろうか。
 でもやつが見極めるわれわれの可能性とは、いったいなんのことだろう。
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