スーレの睡り

文字数 4,375文字

 リュバ・ジンは夢を見たのだった。

 暁闇に独り目覚めた彼は、夢の呼び声に導かれるままにひっそりと臥所を抜け出し、未だ微睡む集落を後に樹林に分け入った。

 片時も手放さぬ愛用の槍を携えて、彼は音もなく木々の間をすり抜けてゆく。誇り高い戦士であり練達の狩人である彼の、しなやかな筋肉に覆われた敏捷な躯は、樹林に溶け込み、気難しい精霊たちを騒がせずに歩くすべを身に付けている。

 いつしか空が白み、湿地の泥からはひそやかな蒸気が立ち昇って、低くたゆたった。窪地に溜まった靄の中に巨木の梢越しの曙光が差し込むと、夜の間眠っていたベルサの花たちが重たげに首をもたげて、重なり合った花弁をはらりと解く。あちらでもこちらでも、乳色の靄の底に、薄紅を滲ませた花が次々と開きはじめる。粘つく泥にまみれたリュバ・ジンの裸足の踵が、わだかまる靄を乱して花々の間を浮き沈みしながら、幻のように窪地を過ってゆく。頭上で鳥が唄い始めた。

 やがて昼の熱気が大気に立ちこめ、湿地には虫柱が立った。黙々と歩き続けるリュバ・ジンの漆黒の膚が汗に濡れて光る。汗ばんだ膚に温められた泥と踏みしだかれた草の匂いが絡みつく。

 大樹の天蓋を透かして降り注ぐ陽光にまだらに彩られて、リュバ・ジンの引き締まった肢体は、ふと、樹下を過ぎる豹に似る。膚の上を通り過ぎる金色の光の斑と滑るような身ごなしのせいだけではない。リュバ・ジンの心は今、己が人であることを忘れかけている。それが樹林に受け入れられるための狩人たちの秘密だ。樹林に溶け込み獣に近づいた狩人は、人間の気配が薄くなるため、獣たちに恐れられずに獲物に近づくことが出来る。けれど、完全に獣になりきってしまってはならない。心のどこかに常に人である自分がいて、必要な時にはいつでも瞬時に己に立ち返ることが出来なければならない。獣に近づきすぎた狩人は、樹林に取り込まれてしまう。経験の浅い若い狩人が稀に陥る樹林の罠だ。樹林の精霊は、芳香を放つ花が虫を誘うように、瞳に媚を湛えた娘たちが若者を誘うように、若い未熟な狩人を誘う。取り込まれぬよう、けれど騒がせて機嫌を損ねぬよう、狩人たちは、気まぐれな女を扱うような注意深さで樹林にその身を滑り込ませる。

 小さな流れを跨ぎ越え、絡まりあった蔓草を押し分けて、生い茂る下草の陰に小暗い湿地を隠した樹林の奥深く、リュバ・ジンは分け入ってゆく。足元の朽葉の下で青光る甲虫が蠢き、葉陰にきらめく水溜りには虹色の蝶が水を求めて群れ集う。

 光は移ろい、影が躍り、樹冠に隔てられた蒼穹では日が天頂に差し掛かった。温気に蒸れた林床は、朽ちゆく樹木の芳香を物憂く垂れ込めさせる。

 リュバ・ジンは足を止め、水を蓄えた草蔓を小刀で切り落として滴る樹液で喉を潤し、腰に下げた袋から取り出した僅かな干し肉と手近の枝から摘み取った果実、それに瑞々しいラシの茎を小刀で切り開いて掴み出した乳白色の髄で簡素な食事を摂った。そしてまた、歩き始める。彼ら身軽で強靭な樹林の狩人たちは、僅かな食糧で丸一日でも疲れることなく樹林を駆けることができる。実際、彼は、大きな獲物を追って日がな一日樹林を彷徨ったことが幾度もある。

 けれど、今日、彼が追っているのは、獲物ではなく、ただ、明け方の夢の痕跡だった。

 明け方の夢が、樹林の向こうから、彼を呼んでいる。

 ――呼んでいる、呼んでいる……。

 呼び声の残響を聴いたような気がして金色の眼差しをふと彷徨わせ、一瞬遠くに意識を飛ばしたリュバ・ジンは、己の足が小枝を踏み割る音に我に返って、歩行に注意を戻した。細心の注意無しに樹林を歩くのは、聖なる樹林を冒涜し狩人の誇りを汚す愚行だ。リュバ・ジンは己を愧じた。

 あたりの景色が見慣れぬものになっていることにふいに気づいて、リュバ・ジンは戸惑った。集落から一日で歩いてこられる距離に、このような地形があっただろうか。

 けれど、一瞬心を掠めた疑念は、身の裡をいっぱいに満たす夢の呼び声に押しのけられて、すぐに霧散した。

 己がどこに向かっているかも知らず、ただ、何かに引き寄せられるままに、リュバ・ジンは歩き続ける。いつのまにか覚めない夢に入り込んだような心地で、ひたすらに足を運び続ける。進むにつれて、彼の中で、夢の呼び声は強さをいや増し、いまや全身を満たして脳裏に鳴り響き、すべての思考を霞ませて彼を衝き動かしていた。

 ――俺は、行かなければならないのだ。何故かは知らない。それでも、行かなければならないのだ。

 狂おしい衝動に駆られて、いつのまにか彼は飛ぶように樹林を駈けていた。

 ――待っている、待っている。俺を待っている。もうすぐ、もうすぐ会える……。だが、何に?


 突如、白熱の光が眼前に溢れた。

 幾重にも重なる緑の帳の最後の一枚を押し分けた瞬間、彼は、樹林を抜け出していたのだ。

 仄暗い樹林からいきなり遮るもののない蒼天のもとに飛び出した彼は、とっさに閉ざした瞼を掌で覆い、次いでその掌を庇に少しずつ眼を開いた。

 灼熱の昼光が、襲い掛かるように彼の頭上に降り注いでいた。

 そこは、一面の荒野だった。生きているものの気配すらない乾いた荒野にただ灰色の岩だけが烈日に曝されて無数に連なる荒涼の風景が、見渡す限りどこまでも続いているのだった。

 樹林に、涯はないはずだった。少なくとも、集落から歩いていける範囲に樹林が終わる場所があるはずはなかった。今まで、集落からどの方向に何日歩き続けても、樹林が途切れたことはない。緑の陰なす樹林は、彼らの世界のすべてだった。樹林は世界であり、世界は樹林であった。――そのはずだった。

 けれど今、彼の背後で唐突に樹林は途切れ、眼前には見知らぬ荒野が広がっている。

 自分は夢を見ているのではないかと、リュバ・ジンは訝った。

 空は青白く光り、大地は灰褐色に乾いてひび割れ、動くものといえば時折の僅かな風に移ろう砂以外には何一つ無かった。

 ふいに、今背後を振り返ったらそこに樹林は無いのではないかという、奇妙な恐れが彼を捉えた。

 もしかすると、今目の前にある荒野ではなく、背後にあったはずの樹林こそが、夢だったのではないか。自分は今まで、ずっと夢を見ていたのでないか。生命のざわめきに満ちた湿潤な樹林は己の見ていた夢であり、今眼前にある荒涼の光景こそが世界の真相なのではないか――。

 圧倒的な熱と荒々しい光の氾濫に、目眩がする。

 リュバ・ジンは振り返らなかった。荒野の彼方から、夢の呼び声が今までに無いまでの強さで響いて、彼に前進を促したのだ。

 見えない糸に引かれるように、彼は荒野に足を踏み出した。

 簡素な樹皮のサンダルを足裏に括りつけただけの素足が、たちまち熱い砂にまみれる。容赦なく押し寄せる剥き出しの熱気がじりじりと膚を灼く。

 遠目に小さいと見えた岩々は目の前まで来ると一つ一つが思いがけないほど大きく、よく見れば元は人の手の入った石材のようでもあって、無秩序に見えた連なり方も、巨大な建造物が崩れ落ちた跡にも見え、まるで遠い昔に打ち捨てられた壮大な石造りの都の跡かとも思われた。が、リュバ・ジンはもう、そのことに何の関心も覚えなかった。脳裏に響く呼び声はますます近く大きく、ほとんど本当に耳に聞こえているような気がするほどはっきりと高まって、あらゆる思考を締め出し、彼を駆り立てている。巨大な岩の間を縫って、リュバ・ジンは進んでゆく。

 熱に浮かされたように歩き続けた彼は、一つの巨石の前で足を止め、その頂を見上げた。

 そこに、いる。その向こうに。彼を呼んでいたものが。

 立ちつくす彼の目の前で、突然、岩の上に、もう一つの巨大な岩がせり上がった。

 一瞬灰色の岩と見えたそれは、岩ではなかった。岩のようにごつごつした、硬く乾いた皮膚を持つ、巨大な生き物の首だった。

 たった今砂の中から生まれ出たというようにさらさらと砂を振り落としながら、長い首がゆるりと持ち上がり、巨大な頭部の両側面に、二つの巨大な眼が開く。眩い黄金の双眸が、射るように真っ直ぐに彼を見据えた。


 ――(ドラカ)……!


 リュバ・ジンの全身を激しい歓喜が貫いた。

 竜の眼の中で炎がくるめき、雄大な翼が重たげに打ち振られた。岩が罅割れるように口が開いて、人のものではない不思議な言葉で厳かに何事かを呼びかけた。細長い瞳孔を持つ金色の眼に、彼の姿が映っている。リュバ・ジンと竜、両者の、共に黄金の眼差しが、ひたと互いに据えられる。

 では、おまえが俺を呼んでいたのか――。

 リュバ・ジンの胸は熱く打ち震えた。

 力強くしなやかな首が、彼に向かって悠然と差し伸ばされる。

 そう、やはり、自分のあの樹林での今までの人生はすべて夢だったのだ。今、この瞬間の、乾いた大地と目の前の竜こそが、現実なのだ。この竜と出会うためにこそ、俺は生まれてきて、今ここに在るのだ。――おお、竜よ。俺の竜よ! 今こそおまえと一つになろう……。


 リュバ・ジンは逞しい胸を反らして高く掲げた両腕を抱くように広げ、近づいてくる竜の首を恍惚として待った。

 爛爛と燃える黄金の眼差しが、開かれた巨大な赤い口が、見上げる彼の視界いっぱいに迫る――。




 その日から、リュバ・ジンを見たものはいない。リュバ・ジンがどこに行ったのか、誰も知らない。

 集落の長老は、悲しげに首を振って言うのだった。

 リュバ・ジンは、眠るときに頭の傍にスーレの花を置くのを忘れたから、夢に呼ばれてしまったのだ。樹林の夢に呑まれてしまったのだ。立派な戦士であったのに、優れた狩人であったのに、愚かなことだ。残念なことだ。樹林は時々、奇妙な夢や、危険な夢を見るのだよ。それに取り込まれると、帰ってこられなくなる。だから、よいか、眠るときには、樹林の夢から己を守る為に、スーレの花を枕辺に置くのを忘れてはならぬ。なかでも年若い者、夢想がちな者、不遇をかこつ者、血気に逸る者は、特に気をつけることだ――。


 それからしばらくあったある日、枕頭の花を寝相の悪い兄弟にうっかり蹴り飛ばされてしまった一人の子供が、夢に、竜に乗って天を翔けるリュバ・ジンの姿を見た。

 子供の夢に降り立ったリュバ・ジンは語った。

 子供よ、スーレの香りは、夢を見ない為ではなく、夢から覚めぬ為にあるのだ。覚めぬほうが幸せな夢もあるのだよ。だから、これからは、決してスーレの花を忘れるな――。


 子供はその夢のことを、誰にも話さなかった。
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