前編 山中にて

文字数 2,469文字

主任! すごいもの見つけましたよ!
ここは某県某村の山の中。
広葉樹の生い茂る明るい森で、作業服姿に身を包んだ私――牧野しずくは、興奮を抑えきれずにいたのです。
なんだ牧野、急に大きな声出して。
熊でも出たか

ちがいます! これ見てくださいよこれ。ああっ、踏みつぶさないでくださいね!

――これか?
矢崎主任の見つめる先。そこには高さ十センチほどの、黒みがかったとても小さな花が二つ、咲いていました。

そうです。「ハルザキヤツシロラン」っていう植物なんです。

これでも一応、蘭(ラン)の仲間なんですよ。

土の中の菌から栄養をもらって生活している植物で、光合成をしないから、葉緑素がないんです。

だからこんな色をしているんだな。

で、これは貴重なのか?
はい! 場所にもよるんですけど、この県のレッドデータブックでは一番貴重なランクIに指定されています!
ここに道路が通るとこの植物は確実に無くなってしまいますから、もう絶対保護しなきゃいけませんよ!
私のいまの仕事は、野生生物の調査です。
道路やダムの建設など大きな工事をおこなうとき、その場所に貴重な生物がいないか事前に確かめて、事業者に計画の変更や中止などを提案・実施するのが、私たちの仕事なのです。
環境アセスメントに代表されるように、野生の生きものに配慮した工事をすることは、このご時世、必要なこととして、おもに公共工事で認められつつあるのです。
今回は山を大幅に削る大規模な事業なので、タヌキやネズミなどの動物から鳥、ヘビ、カエル、昆虫など、生きもの全般にわたって調査をしてきたのでした。
もちろん、私の専門で、私の大好きな、植物も。
そんな植物が、こんなところにねぇ……。
ハルザキヤツシロランは、ここにあるスダジイのような常緑広葉樹の多い森で、土が腐植土に覆われた環境を好むんです。このあたりだとこうした木は薪の材料として昔に切られてしまっていることが多くて、いまはスギやヒノキの植林地になっているところばかりなので、環境自体が貴重――
あ、あの、すいません。私、マニアな人間なもので……引いてません?
いや、そんなもんだろ。この業界にいるやつらは。

だいたい、こんな変な仕事についている時点で、マニアな人間だ。

ということは、主任も?
主任は哺乳類の専門家ですよね。
専門家と呼べるほど大したものじゃないけどな。
日本にいる野生の哺乳類は基本、夜行性だから、日中に調べようと思うと足跡や食べ跡などの痕跡に頼るしかないんだが――
牧野は動物のフンをみつけて、興奮することはあるか?
ふん……フン!?

フンの臭いをかいで、テンションの上がることは?

え゛
い、いえ……なんですかそれ。
フンの臭いをかいで、このあたりでは貴重なキツネの獣臭と尿が混じったような臭いをみつけたときの興奮が、お前に分かるかときいている。
ちなみにこのフンの臭いをかぐ行為は、業界用語で「テイスティング」と呼んでいて
――すいませんでした。
分かればいい。――いや、別に分かってもらいたくもないけどな。
とにかく、これは学術的にも貴重なものということか。
よくやったな。
はい! ありがとうございます!
でも言葉とは裏腹に、このときの主任の表情はあまり浮かないものでした。
主任は私のみつけた植物「ハルザキヤツシロラン」の写真を撮り、位置情報をGPSで記録します。
本当は蛍光テープなどでマークしたいところなのですが、貴重な植物なので万一の盗掘に備えているのです。
牧野、お前が責任もって場所を覚えておけよ。次また来られるようにな。
はい!
あっ、あの人は?
ん?

――県道工事の担当者だ。現場を見にきたのか。

ああ、だれかと思ったら、ハナマルコンサルトさんじゃないか。お疲れさま。
お世話になっております。
あの、お、お世話になっております。
どうですか、生き物調査は。
昨日まではたいしたものは見つかってなかったですよね。

ええ。ですがちょうど今ここで、貴重な植物を見つけたところなんです。

貴重な植物?
はい! これなんですけど――
……これ?
ハルザキヤツシロラン、という蘭の仲間でして。
県のレッドデータブックでは一番高いランクに指定されているものなんです。
ここに生えているのが奇跡的なくらいです! これはぜひ保護しないと――
はぁ、そうなの。
うーーーーん。

男の人は腕を組みながら、ため息を漏らしました。

あの
どうかされましたか……?
なんでですかねぇ。
なんで抜いておいてくれなかったんですかね。
えっ
抜いて……?
それって、どういう――
これってそんなに有名な草なの? 私は聞いたこともないんだけど。
いえ、まあ、どちらかというと、マニアックというか……有名ではないです。
じゃあねえ、私の耳に入れないで、そちらで処理してほしかったなぁ。
これが無くなったところで、だれかが困るわけじゃないでしょ。
前の業者さんはそうしてくれてたけどねぇ。
処理って……。
つまり、見て見ぬふりをしろっていうことですか。
おい、牧野。
まあ、私からそうしろとは言わないよ。
でもそうしてくれた方が、工事が滞りなく進むだろう。
待ってください。
それっておかしくないですか?
え?
だってレッドデータブックのランクIですよ? どう考えたって保護するべきじゃないですか!
それを抜いてしまえって……。
移動できる動物とは違って、植物は動けないから、特に人間の方が気をつかわないといけないんです。
本当なら、道路計画を中止にするくらいの――
まて、牧野
でも主任――
まて!
っ!
――うちの者が、失礼しました。
いや……びっくりしたよ、まったく。
貴重な草だって言われてもねぇ。この小さい草一本で何億円という事業が止まったら、本当にシャレにならないよ?
その影響を考えてほしいんだけど。
申し訳ありません。
それでは別の場所に移植する、ということでいかがでしょうか。
方法は弊社で検討しますので。
ま、そうしてもらえれば助かるよ。
また報告してくれ。
それだけ言い残し、県道工事の担当者は山を下りていきました。
私は足元に咲いたハルザキヤツシロランの花を、不満顔のまま見下ろすしかありませんでした。
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登場人物紹介

牧野 しずく


幼いころから野山の花が好きで、大学では植物分類学の研究に没頭。

卒業後、貴重な植物を保護する仕事に就きたいと、野生生物の調査会社に就職するが――。

相手がだれでも言いたいことはすぐ口にしてしまうタイプ。

矢崎主任


牧野の先輩社員。業務の責任者。専門は野生の哺乳類で、キャリアは十年ほど。

ぶっきらぼうだが、後輩の面倒見は良い。

珍しい動物の足跡やフンを見かけると興奮するタイプ。

工事現場担当の人


県道工事の現場担当者。過疎化が進む村のため新しい道路の早期開通を目指している。

悪い人ではないのだが、自然環境への無関心さからか言葉にトゲがある。

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