前編 山中にて
文字数 2,469文字
ここは某県某村の山の中。
広葉樹の生い茂る明るい森で、作業服姿に身を包んだ私――牧野しずくは、興奮を抑えきれずにいたのです。
矢崎主任の見つめる先。そこには高さ十センチほどの、黒みがかったとても小さな花が二つ、咲いていました。
私のいまの仕事は、野生生物の調査です。
道路やダムの建設など大きな工事をおこなうとき、その場所に貴重な生物がいないか事前に確かめて、事業者に計画の変更や中止などを提案・実施するのが、私たちの仕事なのです。
環境アセスメントに代表されるように、野生の生きものに配慮した工事をすることは、このご時世、必要なこととして、おもに公共工事で認められつつあるのです。
今回は山を大幅に削る大規模な事業なので、タヌキやネズミなどの動物から鳥、ヘビ、カエル、昆虫など、生きもの全般にわたって調査をしてきたのでした。
もちろん、私の専門で、私の大好きな、植物も。
ハルザキヤツシロランは、ここにあるスダジイのような常緑広葉樹の多い森で、土が腐植土に覆われた環境を好むんです。このあたりだとこうした木は薪の材料として昔に切られてしまっていることが多くて、いまはスギやヒノキの植林地になっているところばかりなので、環境自体が貴重――
でも言葉とは裏腹に、このときの主任の表情はあまり浮かないものでした。
主任は私のみつけた植物「ハルザキヤツシロラン」の写真を撮り、位置情報をGPSで記録します。
本当は蛍光テープなどでマークしたいところなのですが、貴重な植物なので万一の盗掘に備えているのです。
男の人は腕を組みながら、ため息を漏らしました。
それだけ言い残し、県道工事の担当者は山を下りていきました。
私は足元に咲いたハルザキヤツシロランの花を、不満顔のまま見下ろすしかありませんでした。