第11話

文字数 2,171文字

 僕はエレベーターに乗って、すぐに保育棟に向かいました。棟の外にツグミの形跡がないことは昨日、確認済みです。それならまだ棟の中にいるはずです。
 すでに子どもを卒業している身でしたから、いったん棟の中に入れば、その内部は自由に行き来することができます。僕は、委員の方々の手配によって、棟の中に入ると、そのまま僕たちが最後に会った場所、三階の大部屋に向かいました。きっとそこにいる、と確信に似た直感が、脳裏にはっきりと存在して、僕の身体を動かしていました。
 棟内の昇降エレベーターが三階に到着して、扉が開きました。
 淀んだ空気が僕の全身に向けて流れてきました。生臭いにおいが鼻につきました。何かが発酵したような酸っぱいにおいもしました。僕の存在を感知して部屋の照明や空調がよみがえりました。
 灯りの下、捜すまでもなく、扉入ってすぐ目の前にツグミがいました。動かない、ただの肉塊としてそこに横たわっているようでした。思わず僕は手を差し出しました。もしかして、そう思うと指先が勝手に、小刻みに震えました。僕が早く気づいてやれなかったから、すぐに迎えにこなかったから、恐る恐る手を彼女に近づけました。
 ほおに触れました。冷たい、と思いました。でも冷え切ってはいない、とも思いました。叫びました、名前を。するとかすかに目が開きました。
「・・・イ・・カ・・ル?」
 ひび割れていた唇から、かすれた声が漏れてきました。
 僕はもう何も考えていませんでした。とっさにツグミを腕に抱えてエレベーターに乗り込みました。僕の腕の中でツグミは息も絶え絶えにつぶやいていました。小さくかすれた声でしたし、とぎれとぎれでしたが、ごめんね、と言っているように聞こえました。僕は応えずにエレベーターが一階に到着して扉が開くと同時に走り出しました。腕の中の身体が思いのほか軽く感じられて、僕を言いようもなく不安にさせていました。ツグミの身体に負担を掛けないように、なるべく静かに振動を抑えるようにしつつも、棟を出て、一番近くのエレベーター乗り場に向かって、可能な限り全速で走りました。始終、胸の中がざわついていました。その耐えがたいほどの騒がしさに否応なしに急かされました。少しでも速度を落とすと、一生後悔しそうな気がしていました。
 そしてエレベーターに乗り込んで、病院へ、と叫びました。急患だ、とも言いました。すぐにエレベーター内でスキャンが始まりました。 
 僕は激しく呼吸していました。肺が落ち着きを取り戻すまで、何度も何度も大きく息を吸い、吐きました。
 腕の中のツグミを抱き寄せました。壊れそうでした。少し力を入れるとつぶれてしまいそうな頼りなさを感じていました。
「ツグミ、死ぬな。生きろ」静かに言いました。でも応えはありませんでした。思わず唇を噛みしめました。少し口の中に血の味がしました。
 少ししてスキャンが終わりました。どこの病院のどの科に連れていかれるのか分かりません。でも、きっと適切な処置をしてくれる病院の最適な科に連れて行ってくれるだろう、と思っていました。でも扉が開いて目に入ったのは、セントラルホールに近い場所に建つ中央病院の、病院関係者や患者がたくさん行き交っているロビーの場景でした。
 僕はツグミを抱えたまま、人々の中に駆け込んで叫びました。
「急患です!助けて!早く、助けてください!」
 病院には似つかわしくない叫び声が、ぐわんぐわんと周囲に響きました。
「お願いです。誰でもいい、早くこのコを助けて!」
 その声に引き寄せられるように病院関係者があわてて集まってきました。
 看護師らしき人たちがストレッチャーを持ってきました。辺りは一気に騒々しくなりました。看護師の一人が僕たちのそばに寄ってきて、ツグミをのぞき込みながら、手に持った機械を額あたりにかざしました。
「脳波異常なし、心拍微弱です。意識混濁、重度の脱水症状、低酸素状態です」
 機械から浮かび上がる文字列を看護師が読み上げていました。奥から走り寄ってきた医師だろう白衣を着た男性がそれを聴いてから指示を出していました。
「よし、救急処置室に連れていくぞ。点滴と酸素供給装置をすぐ使えるように。君、そのコをここに乗せて」
 僕は言われるがままにそっとストレッチャーにツグミを乗せました。即座にストレッチャーの両側にいた看護師がツグミを奥の通路に向かって運んでいきました。僕はその集団について行こうと歩を進めましたが、あなたはそこで待っていて、と看護師の一人に制止されてしまいました。
「先生、彼女は、ツグミは助かりますか」
 ストレッチャーとともに移動しようとした医師に向かって、とっさに声を掛けました。
「ああ、大丈夫だ」
 そう言って医師は立ち去りかけましたが、少し振り返って僕の顔を見たとたん、思い直したように立ち止まりました。
「君にはいろいろ状況を訊かないといけないから、しばらくここで待っててくれ」
 顔の下半分をヒゲで埋めたその医師は、言い終わると同時に走り去りました。
 その背中を見つめながら、全身から力が漏れていくような感覚を抱きました。ヒザが急に折れ曲がって、その場に座り込みそうになり、数歩よろめいて近くの長椅子に腰を下ろしました。
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