第9話 マリアの思い出 3

文字数 2,472文字

「お前を手放さない、と言うならもっといいものを食わせろ。」
 彼女は、穴倉のような小さな、粗末な、汚れた土壁の、外から鍵のかけられた部屋で、堅いパンとわずかな肉と野菜が浮かんだ薄いスープを前にして、一人で罵った、もちろん声を出さずにだが。夜の余興と体の奉仕が無い時は雑用にこき使われているのに、これだけなのだ。それでも、パンにかじりつき、スープをいれた汚れた容器に口元に運んで飲んだ。
「天上の饗宴では…。」
 独り言を言いかけて、口をつぐんだ。天上での饗宴の記憶はほとんど消えて、微かに、ぼんやりとしか思い浮かばないのだ。何が起こったのか、周囲に広がる、昨日まで?ともに饗宴で共に酒を酌み交わしていたはずの神々の死体の平原と血の海、翼をもぎ取られ、切り刻まれた自分と下界に突き落とされた自分の記憶が断片的に残るだけでなのである。誰が、どのようにして、自分を、自分の仲間達をこんな目にあわせたのかは、全くと言っていいほど記憶が残っていない。残っている記憶も断片的なだけでなく、ひどくぼんやりとした、実体のないあやふやなものとなってしまっている。女神として、何をしてきたのかさえである。全ては妄想ではないか、とさえ思えてくる時すらあった。。ただ一つ、
「イシュタルが、殺戮と破壊の魔女だと、天が言う、女神がいう、あか・・人が言う、なれど我は知らず!・・・その我が差し伸ばすイシュタルの手を無視できようか、イシュタルのいない故郷に、国に帰ろうと思えるだろうか!断じて、否!女神よ、否だ!」
叫ぶような声を上げる血みどろの男が、自分を睨む姿だけが、何故か鮮明な記憶として残っている。逆に、その情景、言葉の記憶だけが、自分が女神だということを、存在を支えているのだ。その男の名前も、顔もあまり覚えてはいないのにだ。天界から瀕死の状態で落ちたあと、神族に拾われたが、奴らは女神ということは認識できなかった。神々は入れ替わり、彼女の存在記憶も失われたのだ。彼らは、彼女をどこぞの落ちぶれた他部族の神族だとみて、奴隷として酷使し、凌辱した。その後、売られ、脱走して捕えられ、再び売られ、今の主に二年前に買われた。少しずつでも力を溜めている。それを支えているのは、自分は女神だからという思いであり、自分が女神だということの根拠は、あの男の言葉の記憶なのだった。
 ゴセイ・ミョウ・ヨウという戦士が、この地域を押さえる大盗賊団の討伐の報酬の一つに自分を求めていることに、少し経って、彼女は何となく、主人とその家族、使用人からの罵倒からわかった。”期待などすまい。”と思いながら、”体を一回くらいは与えてから逃げるか。いや、あの赤毛女の嫉妬心が。”と考え、”何を考えている。”、何度となくそれをループさせていた。
「あいつは、たまたま運がよかったからあの盗賊団に勝っただけだ。それを自分の力だと過信しおって、若造が。今度はそうはいかんぞ。哀れに、八つ裂きになるんだ。あの赤毛の女と一緒にな。いい女だったな。もったいないがな。」
 そう言って彼女を凌辱していた主人が、
「あいつは戻って来ないぞ。期待しても無駄だ。わしが手を打ったのだ。あの青二才めが。お前は、わしのところにいるほどいい暮らしはできんぞ。わかっておるな。」
 彼女は、ひたすら頷きながら、”それならもっといいものを食べさせなさい!”と心の中で叫びながら、”あの二人が、あの200人以上いるという盗賊団を壊滅させたというのですの?”と驚いた。そして、彼女の主人が、裏の世界の連中とも関係を持っていることも知っていた。かなりの大金を積んで、かなりの数の、手練れの刺客を頼んでいるのだということがわかった。盗賊団より恐ろしいかもしれない。そもそも、あの二人で前回の盗賊団退治もやったわけではないかもしれない。かなりの人数を従えて、そいつらを率いてのことだったのかもしれない。そうだとすれば、数人の手練れの暗殺者が、彼を葬るのは容易かもしれない。だが、彼らが求めた報酬が少なすぎる。彼女の譲渡で揉めた以外は、これで退治できれば、文句の言いようがないくらい安上がりだと、市のお偉方は喜んだという。当然のことだ。彼女の主には、
「成功したらの話なのだから。」
と言って説得し、彼もこんな市にとって好都合な話に、自分が反対するのは評判が落ち、商売に差しさわりがあると思い、一応了承したのだ。もちろん、彼女を買い入れた時の代金は市が支払うこととなっていたのだからなおさらだ。その時は、まさか彼らが成功するとは思っていなかったのだが。
 しかし、その翌日、いつもの時間に部屋の鍵が開けられず、食事がもらえず空腹を耐えていた時、
「おい。出てきて、ついてこい。」
 開けられたドアの向こうにゴセイ・ミョウ・ヨウの姿が見えた。
 彼と隣に立つメドゥーサの後について、屋敷の大広間にいくと、主人と本妻、愛人達、その子供たち、そして屋敷内の使用人達が並んで立っていた。誰もがおびえた顔をしていた。その前に、市当局の役人と数名の従者が立ち、その足元近くに男女の首が8個無造作に置かれていた。
”刺客の首か。8人も返り討ちになったのか。”彼女は感心した。
「よろしいですか?」
 市の行政官が緊張した面持ちで、ヨウに尋ねた。ヨウがうなずくと、屋敷の住人達の方に向き直って、厳かに市の決定を伝え始めた。
 盗賊団を壊滅させた二人に、約束の報酬の一つである奴隷女を引き渡すこと。ゴセイ・ミョウ・ヨウに対して刺客を雇い、襲わせたことは許しがたい、市の名誉を汚すものであり、一族全員が重罪に堕とすところだが、ゴセイ・ミョウ・ヨウが寛大にも、明後日旅に出るまでの宿と世話を提供し、旅に必要な資金、物資を提供することで許したいとの申し出たため、市はその申し出を受け入れたという内容を告げ、正式に奴隷の譲渡手続きが、この場で行われた。
「では、必要なものを選ばせてもらう。よろしいかな?」
 ヨウの言葉に、市の担当者が頷いた。彼は、ヨウがやり過ぎないか見張ることも任務にしていたのだ。  
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