第50話 丘を降りたもうきん

文字数 2,283文字

 大鯛(だいたい)さまといっしょに灯台の操作をして晩ごはんを作って。
 それでお風呂もあるんだ。ユニットのとても狭いお風呂だけど。

「湯冷めしないようにね」
「はい」

 ボクと大鯛さまのやりとりを聞いてミコちゃんがクスッと笑ったんだ。

「ウチのお母さんと同じこと言ってる」

 そうか。おかあさんって、湯冷めしないように、って言ってくれるものなんだ。

「ねえ、ミコちゃん。ほかにないの?」
「えっ?」
「ミコちゃんのおかあさんがミコちゃんに言うこと」
「えっと・・・『お菓子ばっかり食べちゃダメ』とか」
「ふふ」
「『早く寝なさい』とか」
「そっか」
「でもね、一番よく言われるのはね」
「なあに」
「『ミコはいい子だね』かな」

 わあ。
 うらやましい・・・

「ねえ、大鯛さま」
「なにかしら、ミコちゃん」
「ボクトに言ってあげて?」
「ええ、もちろんよ」

 大鯛さまがね、ボクをぎゅうっ、て抱きしめてくれてね。

「ボクトくんは、いい子ね」

 頭を撫でながらそう言ってくださったよ。
 どうしてだかわからないけど、ボクはそのまま泣いちゃった。
 泣いて、いつのまにかね、眠ってたんだ。

 ピ・・・・・

 一音だけ耳に入ってきた音。
 多分その音の前にもっと多くの音があったんだろうけど、ちょうどボクが目が覚めた時にその最期の一音が聞こえたんだと思うよ。

 はっ、て気がついてボクはひとりで外に出たんだ。

 まだ暗かった。
 でも月が明るい、とても細いのに。
 その月の光にひらがなの『へ』の字みたいな影が見えたの。
 そのへの字は飛んでるんだ。
 しゅう、ってぐらいの速さ。
 追っかけるとね、丘の下り坂をどんどん降りて行くんだ。
 ボクは自分の足で駆け下りる。
 丘の細い道のおじぞうさまやお堂もこわくないよ。
 だって、これがボクらのほんとうの世界。
 おじぞうさまや神さまや神社のおやしろやお堂がほんとうの世界。
 ボクらが見ている電車も山も川も、おとうさんもおかあさんも、おにいさんもおねえさんもおとうともいもうとも、赤ちゃんも、そのもっと赤ちゃんも、ボクが結婚するはずの相手もその相手にとってのボクも、友だちも。
 ぜんぶぜんぶ夢なんだ。

 今ならわかるよ。
 理事長せんせいがボクにつけてくれた、夢見(ゆめみ)僕人(ボクト)っていう名前の意味が。

 だから、ボクは走ったよ。
 そのへの字を追いかけて。

 まるで神速(しんそく)さまのようなスピードで。

 海岸線のアスファルトを。
 気がつくと砂浜を。
 砂浜にね、踏み固められた一本道が走ってるの。
 きっとみんなもこの道を走ったんだ。だからだ。

 波が砂浜に、ザ・ザ、て寄せてきてまたすいへいせんの方に帰っていく様子が音で分かる。

 月は海の上にある。

 細かった月が、どんどん満ちてきてる。

 そっか。
 雲が、月の形を削ってたんだ。

 月からズレた雲が、まるで稲妻みたいに黄色く光ったよ。

 ああ、おかあさんの身代わりになって大鯛さまが操っておられる灯台のランプだ。
 すごいなあ、雲まで届く。

 ううん、きっとそれどころじゃないのさ。
 はるかこの海が隔てている向こうの大陸まで。
 その大陸の海岸線でボクと同じように月を見ている子の家の屋根まで。
 おそらくは、月と同等の明かりに見てとってくれるよ、その子も。

 その子がボクと同じように、すべてのことが夢まぼろしだって気づいたら、それがボクとその子が分かり合える世界。

 国も、肌の色も、性格も、いじめられる子もいじめる子さえも。
 全員、ああ、助かった、って心から思えるよ。

 への字は飛んでいく。
 ボクが見上げるまるで闇の夜空を。
 いつかミチルちゃんと日曜の朝にみた、連峰の稜線を漆黒に色濃く照らし出した、その黒よりももっと深い黒の空を。

「でんちゅうだ」

 みたことのない形だったけど、いっぱつでボクはわかったよ。
 木でできた電柱が砂浜に何本も何本も連なって立ってるの。

 電柱には電線がなくってね、ただ、朽ち果てそうな木の柱がずうっとボクが走る踏み固められた砂浜のロードに沿って並んでる。

「はっ!」

 ボクは、

を入れたの。そしたら見失いそうになっていたへの字に追いつくぐらいに加速できて、最後には見上げるボクの真上にへの字のお腹が見えた。

 への字はようやく着陸するよ。
 でも地面にじゃない。
 とうとう尽きる最期の木の電柱のそのてっぺんに、ふさあ、って羽で急ブレーキをかけて。

 ピ!

 って一声鳴いて、ヒョロロ・・・って絞った声で余韻を響かせてね。

 面積の少ない、木のでんしんばしらのその突端に、屈強な脚の筋肉と鋭い爪とで、しっかりと根付くようにとまった。

 (トンビ)さ。

 ボクはゆるくゆるくスピードを落としてね、思いっきり息をまず吐いた。
 そしたら今までボクの意思でもって止めてた汗がいっぺんに背中から手の毛穴から流れ出て、それ以上の量が額から流れ出て、ボクの前髪がおでこにべったりと貼りついた。

 でもボクはそんなのほったらかしさ。
 だって、トンビがその猛禽の力ある目で、有明の月に変わっていく夜空から朝の空に変わるその太陽の、お日さまの光が照らし出すそれを見つめているから。

 墓標を、見つめているから。

 母の名が、刻まれていた。

 ボクはすべてを了解した。

 事実を、事実と認識する。
 なぜならボクはもう戻らないから。
 ボクはこの夜と朝を境に、ほんとうの世界を生きていく決断をした。
 決心、だけじゃ済まない、行動したんだ。

 さあ、母に挨拶をしよう。

「母さん」

 ボクは片膝をついた。ミチルちゃんが作ってくれた、革紐と指輪のペンダントを外した。
 墓前にそれを置く。

「さよなら」

 ボクは走ってきたロードを、倍のスピードで駆け出した。
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