第四話「夜空」

文字数 3,612文字

 地下室の壁に掛けられた港の風景画を指して、エリスは外の話を聞きたいとせがむ。見れば、随分とその絵は色あせて、ところどころに指のあとがついていた。おそらくはずっと眺め、何度も指でなぞっていたのだろう。
「私もそんなに詳しいわけじゃないんだ。通り過ぎただけだから」
 フィリアの断りに彼女は首を傾げた。
「通り……? 森の外には『ミナト』以外にもいろんな所があるの?」
「……君はずっとここで、二人暮らしていたんだね? 外から来たのではなくて」
「ええ。それがどうかしたの?」
「……いや」
 この少女はずっとこの教会の中にいたのだ。実感がようやく湧いてきた。なるほど、確かにバーソロミューの言った通りだ。この子はたった一枚の絵画でしか外の世界を知らないのだ。彼は非常に小さい女の子を連れてこんな所にやってきたというのだろうか。一体何のために?
「で、私のことはいいでしょう? それよりもあなたの、みなとの話を聞かせて頂戴な」
 フィリアの思考は彼女の催促によって遮られた。積荷として通った程度だが、と前置きして話し始める。
「港っていうのは船が行き来する場所で……ああ、船ってわかる?」
「知ってるわ! ノアが作った大洪水を生き残るためのものよね!」
「それはとっても特殊な例」
「そうなの」
 改めて船と海の説明をしたが、まるで実感が湧いていないようだった。そもそも、「人がたくさんいる場所」というのがうまく想像出来ないらしい。「昼間には人が道を行き来している」の時点で驚いていた。まあ、ずっと廃村にいればそうなるだろう。フィリアは一度説明を止め、考えた。少したってから口を開く。
「エリス。夜は出ていいんだよね?」
「ええ、警告灯(ランタン)は持って行かなきゃいけないけど」
 どうして? と首を傾げる彼女にフィリアは提案した。
「今夜、外に行こう」
「……ええ!」
 作り置きの夕食を済ませ、ランタン一つを手に取って隠し扉を開く。地上に出るのは何日ぶりだろう。あの時に比べると月はいくらか太さを増していた。雲も出ていなかったから、そこまで暗さを心配する事もないだろう。
 危険がない事を確認して、地下のエリスに合図を送る。黒いコートを上から羽織ったエリスが続いて地上へと顔を出した。手を差し伸べれば素直に揃いのリボン付きがついた手が応える。
 近くでは木々が夜風にざわめき、遠くでは梟に狼、その他何かよくわからない生き物が鳴き交わしている。足元を見下ろせばランタンの赤い炎にあわせて伸びた二人の影がゆらめき、頭上を見上げれば静かに月が見下ろす。手を取り合って見上げた夜空は、かつて街の窓から見ていたのよりもはるかに星が明るく煌いて見えた。たぶん、街の明かりがないせいだ。
 それらが珍しかったのだろう。エリスは何度も周囲をきょろきょろと見回していた。
「夜に外に出るのは初めて?」
「ええ。お父様と一緒に外に出る時はもっと明るくて空が青かった」
 答えてから、彼女は「でもあなたと会ったときは夕焼けだったわね」とつけ加えた。
「そうだった。あの時はどうして地上に?」
「マリア様にご挨拶しようと思って」
「マリア様?」
 聞けばマリア様というのはあの教会に佇んでいた白い女性の石像のことだそうだ。聖母マリア様は私たちのお母さんでね、一緒に祈って神様にとりなしてくれるひとなの! とエリスは教えてくれた。
 どうやらあれは異教徒からの分捕りものではなかったらしい。今度バーソロミューが帰ってきたら聞いてみよう、と心に納めておく。そうして歩き、フィリアは適当な廃屋の前で足を止めた。
「これがいわゆる家ってやつだ。まわりの似たような建物は全部そう。普通の村はこれの一つ一つに家族が住んでる」
「私たちみたいに?」
「そう。入ってみる?」
 エリスが迷いなく頷いたので、近くで一番保存状態のいい家を探して侵入する。この程度の荒れ方ならかつて人が住んでいた頃も想像しやすいだろう。少なくとも、リビングにテーブルと椅子の残骸が残っている。
「床板が腐ってることがあるから気を付けて……何を探してるの?」
「この家はどこから入るのかなって。やっぱり簡単には見つからないものかしらね」
 そこか。「……大抵の家族は地上で生活する。この家ならここが食事をとる場所だ」
「そうなんだ。毎日空が見える暮らしっていうのも素敵ね」
 彼女は破れた窓から外を見上げた。しばらく夜空を眺めてから視線を降ろして並ぶ家々を見て「この全部に人がいたらさぞかし音が多いんでしょうね」と呟く。
「そうだね、昼間なら色々な音が混じりあって聞き分けられない程度にはなる。それでもあの絵の港町に比べれば静かなものだろうな」
「そうなの?」
「規模が違うよ。この村は小さい方だし」
 港町、あるいは市場の朝の騒々しさを説明する。実感は湧かないようだったが、ウミネコの鳴き声や汽笛については興味を惹かれたようだった。
「でも、あまり地上には住みたくないな。あんまり清潔じゃないし、風が吹き込んで寒いもの」
「エリス。言い忘れてたけど、これは人が去って久しい状態だ。人が住んでいる家はここにガラスが嵌っているから風は入り込まないし、たぶん床ももっときれいだ」
「そうなの。……きっと何もかもが違うんでしょうね」
 そう言ってエリスは窓から離れた。小さく身震いして手に息を吹きかける。夜が更けてかなり冷え込んでいるという事にフィリアはようやく気付いた。
「ごめん、大分夜も遅くなったね。帰ろうか」
 差し伸べた手に小さな手が重ねられる。驚くほど冷たい手だった。ひどく冷えた手をフィリアの手に重ね、エリスは眩いばかりの笑顔を浮かべた。帰路を照らすべく掲げたランタンの炎にも引けをとらないほど、暖かい笑みだった。
「今夜はありがとう。とっても楽しかった!」
「よかった。またいつか来よう」
「ええ!」
 二人は手をつないで夜道を歩く。教会の十字架を見上げて、フィリアはふと口を開いた。
「そういえば『何もかもが違う』って言ってたけど、一つ確かに同じものがある」
「なあに?」
「星の配置だ。どこが見えるかは違うけど、並びは一緒なんだ」
 エリスが隣で歩きながら星を見上げたのがわかった。自分もすこし目を上げたが、すぐに前を見据える。四十年にわたって放浪していた時もずっと見ていた空だ。見上げずとも配置は把握している。
 ずっとこれを頼りにして歩いていた。海を往く船乗りも、砂漠を進む羊飼いもそうだろう。星に導かれて求めるものに辿り着いたのだ。彼等にとっての福音、あるいは約束の地に。
「それだけで方角がわかるの?」
「見方を知っていればね」
「わたしにもわかるかしら」
 教会の扉をくぐりながらフィリアはちらりと小さいほうの扉に目を向け、記憶を呼び起こす。たしかあの部屋にあったはずだ。棚の上に並べられていたと記憶している。
「たしかバーソロミューが天球儀を持っていたはずだ。明日見に行く?」
「ええ!」
 教会の聖堂の中まで入ってしまえばエリスは手慣れた様子で十字架に駆け寄って仕掛けを作動させた。エリスは何の感動も戸惑いもなしに虚ろな暗闇へと足を踏み入れていく。
「フィリア? どうしたの?」
「……ああ。今行くよ」
 エリスに続いて階段を降りながら考える。この子にとてはこれが「ふつうの暮らし」なのだ。だがバーソロミューにとっては違うだろう。そしておそらく、エリスはその事に気づいていない。
 彼は、今ここにいない男は何を考えているのだろう。「作られた存在は罪だと思うか」と聞いた時、あの優しい父親は何を思っていたのだろうか。
「おやすみなさい、また明日」
「うん、おやすみ」
 挨拶もそこそこにフィリアは自室に戻り、独りで考える。異端の錬金術師。「人を模して造られた存在」。フィリアがそうであるように、エリスもまたバーソロミューに創られたものではないのか。
 馬鹿げた疑念だったが、どうにも思考回路からそれが離れてくれない。だって彼女の手は恐ろしくなるほど冷たいのだ。人とかかわりを持ったことはほぼなかったが、動かぬ人形、ただの玩具として子供に抱きしめられた事は何度もある。彼らは一様に暖かかった。
 ずっと考えないようにしていたが、彼女の体温は著しく低い。
 どうにも睡眠の真似事をやる気が起きなかったので、彼女は机の聖書に手を伸ばした。続きから読む気も起きないので適当にぱらぱらとめくっていく。ふと、詩編の一節に目が留まった。

――主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し
あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ
あなたの主権の栄光を告げ
力強い御業について語りますように――

 神とやらの手を経ずに造られた者は、一体何を語ればいいというのだろうか?
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登場人物紹介

自律思考型自動人形JnC-sPEV1


人の似姿。短い黒髪に青い目をした凛々しい少女……を模して造られた人形。

設計思想が「とにかく人間に近づく」であるため身体能力も少女程度。

思考プロセスは極めて人間に近く、疑似的なものとはいえ感情すら有している。

エリス


廃教会に住まう、白い髪に赤い目をした少女。

外の世界を全くといっていいほど知らない。それ故に無邪気で天真爛漫。

バーソロミュー


エリスの父親。二人で廃教会に暮らしている。本人曰く「異端者」。

医術の心得があり、それで生計を立てている(と娘には説明している)。

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