第1幕

文字数 872文字

 すこし弾んだ声が聞こえた。
 「君、なぜユダがキリストを裏切ったのか、わかるかい」
 僕は聞き流した。また、彼の戯言が始まったのだ。
 「愛、なのだよ」
 老人が自分で答えた。若干、自慢気である。
 少し、こちらが、恥ずかしくなる。なんだか、中学生みたいである。
 「ちゃんと、証拠もある」
 彼はねっとりとした声でそう言うとカバンから何やら取り出した。
 本、である。厚さは2,3センチ。
 付箋がやけに貼ってある。
 それの表紙には、うっすらと「新約聖書」と書いてある。
 「これはね、見ての通り聖書だよ。ああ、大丈夫。別に私は宗教を勧めようとはしていないよ。私自身、クリスチャンじゃあないし」
 そう言いながらぺらぺらとめくる。とある付箋に達する。
 「ああ、ここだ」
 バッと開いて僕に見せる。
 そこにはユダが自殺したということが書かれていた。そこに赤い線が引かれている。
 「ユダは自死を選んだ。なぜだと思う。彼はキリストに並々ならぬ感情を抱いていたのだよ。尊敬かもしれない。安心かもしれない。もしかしたら憎悪や嫉妬かもしれない。そういうものを引っ括めて愛と呼ぶ。いや、少なくとも私はそう呼ぶことにしている」
 彼は興奮しているように見える。最後の、言い切った時の表情はもはや恍惚としていると形容できる。彼はすっきりしているようだが僕にはさっぱりわからない。まあ、全く理解できないという点において清々しさはある。それにしても全く理解できない。憎悪は愛ではないし、嫉妬も同様だ。何でもかんでも愛とみなすのは考えることを放棄している。自分の作った極論に酔っているのだな。よく考えれば彼はもう御年77歳の後期高齢者じゃあないか。きっと考える力が退化しているに違いない。
 「うむ。君にはまだまだ早いようだね。おお、もうこんな時間じゃないか。さあ、君は家に帰りなさい。」
 冷たい風を感じた。
 そう言えばここは外だった。
 自分の体が多少なりとも熱を持っていることに気が付く。
 寒い。
 
 僕は頷いて家に帰った。
 家路はさみしい訳じゃない。楽しくもない。
 ただ家に帰った。
 


 
 
 
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