二十一~二十三

文字数 16,353文字

 二十一
 17時24分
 7階
 西条の言葉にだれもが凍りついた。
 同時にどこか溜飲が下がるような感慨もおぼえた。いま目の前で起きている現象を説明するなら、それ以外に想像がつかなかった。
 「簡単に言えばそうなります。しかしわれわれがイメージするものとはひどくかけ離れた存在です」
 「どういうことですか」奈央が訊ねた。自らにあたえられた能力について、理屈で考えようとするとき、いやでも宇宙的なものが介在しがちだったからだ。
 その思いを察したように西条がつづける。「グプタ教授とのセッションのなかで、クリスは自分が“高次元の意識体”であるとしばしば口にしています。それが三十億光年離れた先にFRB121203という星からやって来たということです」
 「意識体……って?」
 「肉体に基づかない、独立した存在ではないか。グプタ教授はそう言ってました」
 「存在って……肉体がないのでは、存在のしようがないのでは? 幽霊のようなものなのでしょうか」
 「近いと思います。突きつめるなら特殊な電磁波といったところではないでしょうか。光や音……宇宙にはそれら電磁波が満ちていますから」
 「でもそれが“意識”だなんて……」奈央は混乱した。
 「それについてはクリスがグプタ教授に説明してくれています。FRB121203もかつては地球とおなじく、知的生命体が暮らす星だったそうです」
 「それなら宇宙人だって言えるな」わきで話を聞いていた大石がつぶやいた。
 「やがて彼らは進化を遂げ、テレパシーが使えるようになった。つまり言葉を介さずとも他人と会話できるようになったのです。しかしそれはたんなる会話レベルにとどまらなかった。それまで別々だった意識と意識がつながり、一つになってしまった。自我の融合です。それが加速度的にすべての個体で起こった結果、たった一つの自我が生みだされることになった」
 松木が口走る。「一つの自我が複数の肉体を操るということですか」
 「そのとおりです。でも彼らの進化はさらにつづいた。一つの自我にとっては、肉体が複数ある必然性はありません。一部の肉体が滅びたところで、痛くもかゆくもない。究極、一つにまとまった自我に対応する肉体が一つあればいい」
 「個体の減少が起きたということですか。でもそれでは文明も滅びてしまうでしょう」
 西条は小さく鼻を鳴らした。予期した反応だったようだ。「では松木さん、逆にうかがいますが、地球上で爆発的に人口が増えているいま、わたしたちの文明はどうなっていますか。あなたの専門領域である自然環境はどうなっていますか。またわたしの分野で言うなら、地球をいくつ吹き飛ばすだけの核兵器が存在すると思いますか。この星の寿命は人間によってひどく脅かされている。その恐怖に耐えきれず、地球は大声で悲鳴をあげている。そう考えてみてもいいのではないでしょうか。宇宙全体から見れば、星なんて毎日どこかで生まれては死んでいる。些末な出来事です。それでも星の一生は、そこに暮らす小さな生き物のせいで左右されてはならないものでしょう。それをFRB121203にあてはめるなら、一つにまとまった自我が、もはや不要となった個体を消滅させるのも理にかなっている。そして自我は最後に残った肉体とも決別する道を選んだ」
 「それが高次元の意識体ですか」奈央は頭痛をおぼえた。たまらずリュックから薬を取りだし、人目も気にせずにペットボトルで飲みくだす。「宇宙人の体から飛びだした電磁波の塊だと言うのですか」
 「それ自体を宇宙人だと認めるべきなのでしょう。究極の進化ですよ。そう思いませんか。いまのわれわれの意識は脳という肉体に基づいている。そこから解放されるのですよ。たかだか百年も生きられない肉体から、人間の意識が自立するんだ」
 西条は一同の同意をもとめるようにそれぞれの顔を見まわした。もはやだれもがこわばった表情をしている。思っていることはおなじだろう。
 死だ。
 死を乗り越えるヒントがここにあるかもしれないのだ。
 だが疑問はもう一つある。こっちのほうが切実だった。なぜ彼ら宇宙人が地球にやって来たのかだ。
 それには西条がきちんと答えてくれた。「クリスがグプタ教授に語ったところによれば、いまから三十億年前、FRB121203は星としての寿命を迎えたそうです。それで高次の意識体、いわばその星を統べる神となった存在は脱出を試みた。ただ逃げだすだけではありません。ふたたび根づくことのできる安住の地を見つけるための旅です。そのために利用したのがFRBなのです。それで地球にたどり着いた」
 大石がたまらず口笛を鳴らした。「まさか三十億年の旅路だったってことかな」
 「いかに地球の文明が遅れているかわかりますよね」
 松木が訊ねた。「その宇宙からの高エネルギーが観測されたのは二〇〇九年なんですよね。いまから八年前だ。ルイジアナ州の田舎町で起きた殺傷事件というのももしかして――」
 「FRBの観測直後、謎の雨雲がブラックデザートという町の上空に出現し、短時間ですが大雨を降らせています。それがはじめての地球人との接触だったとクリスが話しています」
 「地球を侵略したいのなら、もっと直接的に攻撃できなかったのかな。電波を出すとかして」
 「松木さんの疑問はもっともです。しかしいくら高度に進化した存在であっても慎重な道を選んだようです。すでにこれまでの旅路で幾度も失敗してきたそうですから。なのでまずは人間というものがどういう生命体か調べようと思ったらしいです。それで地球環境にあわせて自然現象である雨を通じて相手の思考をジャックした。最初に奪われたのがクリスの自我です。そこで高次元の意識体は彼を拠点にした。クリスの記憶をたどり、さらに雨にあたったべつの者たちの記憶をも総動員してこの世界を理解し、人類との共存の道を探った。でもすぐに人類の愚かさに気づいた。己の欲望に溺れ、いまにも地球というかけがえのない星を破壊せんとしている。やがては人類も意識体へと進化する日が来るのだろうが、それまでに地球が持ちそうにない。それを放置していては、これまでの旅路がむだになるし、FRB121203の意識体には根づくべき第二の母星が必要だった。そこでクリスを奪った意識体は、人類の抹殺を決断した。それで起きたのがブラックデザートでの事件です。でも結果的に失敗に終わった」
 場所が過疎の進む田舎町だったうえ、一気に大量に降らせたため、雨粒にまぎれこませた意識体の分身の多くは地面に吸収されてしまい、最終的に変身――モンスターになったわけではなかった――にいたった者がきわめてすくなかったという。だからたったひと晩で警察に制圧されてしまい、クリス自身も身柄を拘束されることになったのだ。
 奈央が訊ねる。「その後クリスは、つまり彼に乗り移った意識体は、人類を攻撃できなかったんですか」
 「変身した者たちは身柄が拘束されているし、それ以外の意識体はすべて消えてなくなってしまったんです。電池切れみたいなものです。しかしクリスは平然としていたと言います。意識体はひと塊の船団のようなものでなく、FRBという流れに乗って断続的に届く連続体のようです。だからクリスはおなじ意識体がいずれ地球に降り注ぐとわかっていたのです」
 「それがあざみ野や今回の……でもそれはクリスのなかの意識体とおなじものなのでしょうか」
 「グプタ教授は一体のものだと話しています。二〇〇九年から八年後、つまり八光年離れていましたが、それもクリスが操れるものであることに変わりありません」
 「前回失敗した経験を生かして、こんどは人口密集地を狙ったってわけか」大石がうなるように口にした。
 「でもかならずしも成功したわけではなかった。むしろ今回のほうがクリスの焦りは大きかったかもしれない。それでやつもいろいろ考えたみたいです」
 「どういうことだろう」松木が首をかしげた。
 「進化度合いのギャップ――あざみ野の事件後、グプタ教授はそう説明していました」西条は肩をすくめてみせた。「究極の進化を遂げた意識体からすれば太古の昔に忘れ去ってしまった原始の感情が、地球人の脳内にはありありと残っていたんです。それが意識体による人類撲滅の試みのブレーキとなってしまった。ブラックデザートのときだってそうだったんです。クリスもそのときに気づくべきだった」
 「原始の感情って……?」
 「他人への怨念ですよ。それがあまりに強いため、人間の自我を完全に奪い去るまでの間、しばらくはその影響を受けることになった。だから感染者たちは、まずは自分が恨む相手を殺害しようとした」
 たしかにそうだ。奈央は記憶をたどった。義姉はまさに怨念を抱く相手に襲いかかったのだし、アザミノの被害者たちは一様になんらかの怨恨がもとで事件に巻きこまれていた。
 西条はつづけた。「しかもこの原始的な感情はある意味、抑制的でもあった。つまり恨む相手に復讐を果たさせたあとでさえ、意識体は乗り移った肉体を思うように操作できなかった。それはある意味、人類の長所でもあると思います。いくら異常犯罪が増えたからといって、無差別殺人にはどうしても抵抗があるんですよ、われわれは。適度な進化のせいで、さほど狂暴にはなれないのでしょう。その点、下等生物はちがいますから。己の飢餓を満たそうと際限なく食いつくそうとする」
 それを証明するかのように一匹の巨大カミキリがラウンジの広い窓にへばりつきながら、飢えた眼でこちらをうかがっているのに、奈央は気づいた。

 二十二
 17時42分
 7階
 奈央にうながされ、松木たちは窓の向こうのモンスターから見えない位置へと移った。だがここに人間がいることはすでにばれているだろう。そして何万という他の仲間たちにも即座に伝わっているはずだ。というより化け物の数がいくら多かろうと、それらを操る自我は一つ、クリスに最初に乗り移った高次元の意識体があるだけなのだ。
 松木は西条に答えをもとめた。「雨にあたった人間が無差別殺人を行うと高次元の意識体は想定したが、そうはならなかった。それで今度はクリスのペットに目を向けたというわけですか」
 「八時間ほど前にグプタ教授から連絡が入ったのですが、飼っていたカミキリムシをクリスがのみこんでしまったそうです。たいせつにしていたペットなのに。高次元の意識体がそうさせたのです。人間とは異なる獰猛な生きものを分析し、それを利用するために」
 「それでモンスターが生まれたというわけですか。意識体を媒介する霧に人間が触れることを通じて」
 「そうだと思います。教授によると、クリスは『人間には失望した』と言っていたそうです。クリスがもっと下等な生きものに目を向けたのは、その後だと思います。ただ、モンスターが日本で大発生している理由について、教授にたしかめたわけではありませんが」
 「教授なら対処法を知っているんじゃないですか……いや、通信できないんじゃどうしようもないか」
 「通信できたとしても土台無理な話です。教授は、体内に宇宙人を宿す若者が政府の手によって抹殺されることを恐れて数時間前、彼を収容施設の外に連れだしました。きっとクリスにそそのかされたのでしょう。ところが外に出るなり殺されてしまった」
 「クリスの手で……?」
 「おそらく」
 「クリスはいまどこに」
 「わかりません。彼の身柄さえ確保できたら、いまの事態を切り抜けるいい方法が見つかるかもしれないのですが」
 「すべてを彼が操っているのなら」大石が声をあげた。「そのクリスという男を殺す……つまり人間としての生命を奪えばいいじゃないか」
 「そのとおりです。だからCIAもFBIも血眼になって捜していることでしょう。しかし本当に殺せるかどうか。そこはわたしにも判断つきかねるところです」
 「宇宙人と対話できなくなることを恐れて日本を見殺しにするって言うんですか。アメリカは」松木が怒りをあらわにする。
 「かもしれない。でもいまそれを議論してもしかたない。とにかくやれることをやらないと」決然とした口調で言うと西条は奈央のことを見つめた。「わたしがあなたに会いに来たのは、どうしてクリスのことがわかったのか知りたかったというだけではありません。あなたの持つサイキックとしての能力を使って、クリスと接触していただけないでしょうか」
 奈央の顔色が曇った。それでなくとも薬を飲んだばかりだというのにつらい頼みだった。しかし松木にも西条の言わんとすることがわかった。すべてを操る意識体が宿るクリスは失踪中だが、そもそも意識体は唯一無二のものだという。いまこの場でわれわれに襲いかかるモンスターがそれによって操られているのならば、奈央がやるべきことは一つしかない。
 モンスターを通じて意識体に接触するのだ。
 彼女が先祖から受け継いだ超能力を使って。
 「そんな……」
 「無理ですよ。危険過ぎる」松木は即座に反対した。鋭い顎が何人もの命を奪うのをこの目で見ている。「だいいちやつは人間じゃない。意識なんてあるはずがない」
 「クリスの影響を受けているのはまちがいない。電磁波だかなんだかわかりませんが、その一端に触れることができれば――」
 「どうしよう……」奈央は両手を握りしめた。「麻酔銃かなにかで動きをとめられればいいのですけど。でなければ、きっと頭に触れる前に手を咬み切られてしまいます」
 「もちろんわたしたちが協力します。一匹をどこかに誘いこんで銃で動きを制圧します。肢をもいでしまえば捕まらずにすむ。頭の背後から手をのばせば、顎による攻撃を避けられると思います」
 奈央ははっきり拒絶した。「やっぱり無理です……怖い……」
 無理じいはできなかった。西条もそれ以上は口を閉ざした。重苦しい沈黙がたれこめた。あんな化け物の体に触れるなんてだれだっていやだろう。しかも命の危険をおかして。だがいまのままでは逃げ回る以外にたすかる道がないし、やつらはすでに建物内を徘徊している。逃げ場所そのものがどんどん減っていた。
 静寂を破る音が頭上で響いた。
 黒々とした巨大な甲羅のような背中がうごめいていた。だれにも気づかれずにいつの間にか天井を這って近づいてきていたのだ。スタジオ側から出現したようだ。
 異様に長い触角が一同に見つかったことを感知したらしく、化け物は羽を広げた。威嚇するようでもあったが、すぐに飛びたった。羽音が耳元でぶんとうなる。悪魔が咳きこむような響きだった。
 窓を背に怪物はラウンジに下りたった。後肢の爪でリノリウムの床をこすりながら、見あげるほどの巨体を一歩、松木たちのほうへ近づける。
 べつのところでも羽音がした。さらに二匹が最初の一匹の左右に飛来する。いったいどこに潜んでいたのだ。いや、襲撃から避難していた者たちが次々と変身しているとみたほうがいいだろう。社屋はすでに穴だらけでいたるところから霧が漏れ入ってきているのだ。松木たちは怪物たちと五メートルの距離で対峙した。三匹が居並ぶと、ラウンジに急に影がさした。即座に兼村二佐が自動小銃を構えた。
 「待て!」西条が叫ぶ。「撃つな! 窓が!」
 引き金を絞る寸前で兼村は銃口をターゲットから外した。たしかにいま撃ったら怪物の体を貫通した弾丸が窓を粉砕する。そうなれば霧が大量に入ってくるし、外の連中の侵入を容易にすることになった。知らぬ間に何匹も集まってきていたのだ。ラウンジの窓の外に。
 右端の一匹がいきなりジャンプして大石に飛びかかった。あまりのいきおいに大石はもんどりうって倒れ、その上に化け物がのしかかった。奈央とタニちゃんが同時に悲鳴をあげる。
 「スタジオに入るんだ!」松木が奈央たちに叫ぶ。
 一瞬の出来事だった。大石は抵抗一つできなかった。松木は、頼りがいのある同僚の胸に二本の牙のような顎がずぶりと突きたてられるのを目の前で見てしまった。
 その角度なら発砲が可能だった。兼村が化け物の頭に有無を言わせず連射し、青緑色のどろどろしたものが飛び散った。惨劇に興奮したのか真ん中にいた化け物がギィと鳴きながら兼村の頭上に飛来し、猛然とタックルを食らわせた。火炎放射器のボンベを背負ったまま兼村は倒され、小銃がスタジオのほうへすっ飛んでいった。
 化け物は兼村の上に覆いかぶさり、雄叫びのよう鳴き声をあげて鋭い二つの顎で首筋を挟んだ。それが閉じられるのと同時に西条が化け物の長大な腹部に発砲し、吐き気をもよおす硫黄臭をあげながらそこが八つ裂きにされた。だが一歩遅かった。長い顎の片方が兼村の首筋に深々と突き刺さり、動脈血が噴水のように噴きだしていた。
 「兼村!」部下の体にのしかかる怪物の死骸に西条が飛びつき、その下から部下を引きずりだそうとした。だが出血がひどく、兼村の顔はすでに真っ青だ。
 兼村を助けだすのに手を貸そうと西条のほうに足を踏みだしたとき、松木は車にはねられたような衝撃を背中に受けた。
 つぎの瞬間には後頭部を床に激しくぶつけ、天井を見あげていた。そこに真っ黒い逆三角形の顔が近づいてくる。左端にいたモンスターに襲われたのだ。六本の肢に捕らえられる寸前、松木は床を転がり、敵の攻撃から逃れた。
 覆いかぶさろうとした獲物に逃げられたものの、怪物はすぐに態勢を立て直して床に寝そべったままの松木に狙いをつけた。それに西条が気づき、小銃をかまえる。
 だが銃が火を噴く前に西条は背後から襲われた。先ほど腹を撃ち抜いた化け物ではない。べつの一体――四匹目だ――がどこからか出現し、西条に飛びついたのだ。腕に咬みつかれた西条は銃を落とし、そのまま押し倒された。それでも反対の拳で相手の顔面を殴りつけている。
 松木にも生命の危機が迫っていた。目の前五十センチのところに「蠅男の恐怖」さながらの一対の巨大な複眼があったのだ。なんのためらいもなく、純粋な生存本能に衝き動かされてあらゆるものを食いつくそうとしているのがありありとわかった。カミキリムシは大量発生すると、鬱蒼と生い茂る森の木をすべてだめにしてしまうほどの害虫だ。クリスによって巨大化させられたいま、主食は樹木でなく人間の血肉となり、はかり知れぬ食欲で骨までしゃぶろうというのだろう。
 「ちくしょう……」なんとか相手から逃れようとしたが、体は六本の肢で完全に動きが封じられていた。
 そのときだった。
 銃声とともに世界が真っ赤に燃えあがった。
 同時に松木は体が急に軽くなるのを感じた。気づいたときには、化け物は消えていた。
 タニちゃんだった。
 いったんは奈央とともにスタジオのほうに避難したのだが、男たちが襲われているのを見て目の前に転がってきた兼村の銃を拾いあげたようだ。それを使って西条を押し倒した四匹目に向かって発砲したのだ。連射モードだったせいで、弾丸は四匹目を八つ裂きにしただけでなく、よりによって床で息絶えた兼村の体まで貫いてしまった。それで火炎放射器のボンベが爆発したのだ。
 松木はふらふらと立ちあがったが、今度は世界が暗転した。燃え盛る炎が黒煙を巻きあげたのだ。一瞬、前後左右がわからなくなったが、すぐに気づいた。黒煙と炎のなか、咬まれた手首を押さえながら西条が自分の自動小銃を拾いあげ、呆然とするタニちゃんのもとへ走りよるところだった。
 松木に襲いかかっていた化け物は爆発で吹き飛んだわけではなかった。しっかりと天井にへばりついていた。
 「松木さん! こっちだ! スタジオに入るんだ!」西条が叫ぶ。
 はっとしてそちらに一歩踏みだしたとき、まるで爆発によって天井の一部がはがれ落ちるかのようにカミキリモンスターが舞いおりてきて、松木とスタジオの間に立ちはだかった。
 「急いで!」煙のせいで西条にはこっちの状況が見えていないようで、松木をせかしてきた。
 そうしたいのはやまやまだった。背後の危機にも松木は気づいていたからだ。おそらく爆風のせいだろう。黒煙ではっきりとは見えなかったが、窓が吹き飛ばされたみたいだった。カシャカシャと硬質なものが床をこする音が後方のあちこちで聞こえてきた。それだけではない。あの霧が音も立てずに忍び寄ってきている。
 「松木さん! 早く!」奈央だった。スタジオの入り口で開放した分厚い扉の端を押さえている。
 だがそこにたどり着くには目の前の怪物のわきを通り過ぎねばならない。やつの眼には赤々と燃えあがる炎が反射していた。巣を追われたスズメバチの攻撃力はすさまじいと聞いたことがある。それとおなじだ。生命の危機に瀕し、やつは全力で襲ってくる。
 松木はスタジオの入り口をたしかめた。扉は高さ約二・五メートル、幅約一・五メートル。銀行の金庫の扉のようで、その内側に入れば、なんとか化け物たちの攻撃は避けられそうだったし、なにより霧の侵入を防げる。だがまるで何人たりともそこに近寄らせまいとする警備員のように化け物が身構えているのだ。捕まらずに逃げこむのは至難の業だった。
 ふいにあるすっきりとした感慨が胸にわきあがった。
 なぜだ。
 松木は戸惑った。しかし頭の一部は、まるでアドレナリンがうまく回っていないかのように、恐ろしく冷静なままでいた。
 食い殺されるのはいやだった。あたりまえだ。気色悪いし、なにより激しい痛みにさいなまれるだろう。だったらやつに近づくなんてしなければいいではないか。背後には、魔法の霧が広がりだしている。このままじっとしていれば、それに憑りつかれ、やつらの仲間入りができるはずだ。しかしそれは外形的な話だろう。奈央の義姉はどうだった。クリスの来訪を受けたのではないか。もちろんそれはクリス本人ではない。彼の形をした高次元の意識体だ。
 松木は西条から聞いた話を反すうしていた。自分の自我が他人の自我と合一するとはどういう感じだろう。地球からはるか彼方の星で起きた高度の進化の果てに一つだけ残ったのが高次元の意識体だという。そしてそれは限りある肉体を必要とせず、いわば幽体離脱した状態で存在しつづける。
 死を超越しているのだ。
 つまり変身は死を意味しないのかもしれない。いや、死が神のもとに召されることを意味するのなら、おなじこととも言えよう。意識体と一つになるのだから。
 そうだ。
 死は肉体世界の終焉に過ぎない。
 その先に肉体を超えた神の世界があるのだ。意識体はその一部、もしくは気づきのためのヒントなのかもしれない。
 恐れることなどあるだろうか。
 ずっと考えていたのは紗江のことだった。
 次元の異なる世界に解き放たれたとき、もしかしたら彼女を感じとる、いや、合一できるのではないか――。
 そんな淡い思いを引きとめたのは晋治の顔だった。
 おれがいなくなったら、あの子は――。
 恐ろしい予感を振り払い、松木は目の前の化け物に向かって突進していった。

 二十三
 17時58分
 7階
 スタジオの入り口のところで松木が怪物に捕まった。
 だが決然とくりだした雄牛のようなタックルは、怪物のバランスを崩し、そのまま横倒しにすることに成功した。それでも鋭い左右の顎は、松木のこめかみをがっしりとくわえこんでいた。床の上で松木は両手でそれを握りしめ、必死にあらがう。頭と両手からみるみる血が流れだす。
 ギィィィ――。
 不気味な鳴き声が合図となって、奈央は西条とともに駆け寄った。松木の体を引きはがすよりも、怪物もろともとにかくスタジオに引き入れねばならなかった。ラウンジ側の黒煙はすでに薄れ、かわりに熱を帯びた白い霧とともに無数のモンスターたちが近寄ってきていた。
 松木は脚をこちらに向けてばたつかせていた。右脚を西条が、奈央が左脚をそれぞれつかみ、一気に引っ張る。だが怪物の体がおもりとなって扉を通過させるのはひと苦労だった。
 目と鼻の先まで、べつの怪物が近寄ってきたとき、扉をつかんで待機していたタニちゃんが猛然とそれを閉めた。がっちりと施錠するなり、タニちゃんはさっき乱射したばかりの自動小銃をふたたびかまえた。巨大カミキリはそんなことなどまるで気にせず、ただひたすら顎に力をくわえることに専念していた。いつの間にかその先端は、松木のこめかみでなく、やわらかな首筋まで下りてきていた。それでも松木は必死に顎を血まみれの両手でつかみながら、しっかりとした視線を奈央に送りつけてきた。それが奈央のなかの恐怖心を粉砕した。彼が命がけで戦っているのだ。人並み外れた能力をあたえられたこのわたしが座視するわけにはいかない。
 「待って!」
 奈央は、いまにも発砲せんとするタニちゃんを手で制した。そして怪物のわきにひざまずき、ためらうことなく左右の手のひらを真っ黒く膨れあがった両眼に直接あてた。高圧電流が流れたかのように怪物はぶるっと体を震わせ、顎にくわわっていた力が緩んだ。
 閃光が奈央を包んだ。
 それでも化け物の頭にあてがった手を放さなかった。奈央は目を閉じ、意識を集中する。すでに両手は相手の眼のなかに滑りこみ、どろどろしたゲル状のもののなかを探りだしていた。汚臭が鼻をつき、奈央は吐きそうになる。
 ふたたび閃光。
 こんどは色を感じとることができた。紫色の光に輝く雲の世界。
 音が聞こえる。
 音楽ではない。たんなる音。雑音に近いような、うるさい音。しいて言うなら――
 ギィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ……。
 それは宇宙の果てで交わされるなにかの交信音であるかのようだった。
 奈央の指先は小さな野球ボールほどの塊に触れる。それを両手で転がし、さらにそのなかに指を差しいれる。

 奈央は緑の森にいた。
 じっとりと湿度が高い。雨あがりのようだった。背の高い木々のまわりに中木が生えそろい、足もとにはシダ類がびっしりと広がっている。熱帯雨林のようだった。背後に人の気配がした。
 彼だった。
 虫かごをさげている。義姉のイメージにあらわれたときとおなじだ。奈央はそれに目を凝らす。大きなカミキリムシが一匹、窮屈そうにして内側からへばりつき、触角が一本、外に飛びだしていた。
 「予想していたとおりです」
 ふいに頭のなかに聞こえてきた。日本語だ。奈央の言語中枢を介して語られているようだ。
 「きっとあなたがやって来ると思っていました」
 「クリス……なの?」
 「いまはそう呼んでいただいてかまいません」片手を広げ、木漏れ日の差す森の小径に奈央をうながす。「彼の体を借りているので」
 奈央はクリスのややうしろを歩いた。いつ襲われるか警戒しないわけにいかなかった。しかし彼は終始穏やかで、まるで森の神秘を伝えるネイチャーガイドのような屈託のなさだった。
 「クリスはどうなってしまったのかしら……つまりクリスの意識は」
 「わたしとともにある」
 「でもあなたはあなたであって、クリスではないのでしょう」
 「ですね」
 「クリスを殺したの」
 「それはちがうと思います。クリス自身の自我というものはたしかに消えてしまった。しかしわたし自身、彼といっしょになったときに彼から影響を受けている。ですからわたしはわたしですが、クリスでもある。それが証拠にいまこうしてここにもどってきてしまった」
 小径を抜けると、古びたトレーラーハウスが並ぶ広場に出てきた。強い陽射しが砂利道を焼いている。
 「彼はここで育ったんですよ。虫たちもここの森で集めたのでしょう。母親に見捨てられ、父親には性的虐待を受けていましたが、それでもここが彼にとってのふるさとだった」青年はトレーラーパークの入り口近くにある真新しいセブンイレブンの庇の下にあるベンチに腰かけた。「前はこんな店なかったのにな。ジェシーの店があるだけだった。気のいい黒人のおやじさんの店だった。暑い日はときどき、冷えたコークを飲ませてくれた。ただでね」
 奈央も隣に腰かける。米国南部、気持ち悪くなるくらい蒸し暑いルイジアナの田舎町だ。彼のなかにあるクリスの記憶が奈央に訴えかけてくる。
 奈央は訊ねないわけにいかなかった。「どうして彼を選んだの」
 クリスはさらさらしたブロンドヘアをかきあげ、荒れ地の向こうに広がる緑濃い森に目をやる。それからひざの上に置いた虫かごをのぞいた。「見てください。さっき森で捕まえてきたんです。まったく恐ろしいですよ。こんなのが飛んできたら」それに答えるかのようにかごのなかの虫がひと声鳴いた。「べつに選んだわけではありません。八年前、はじめて雨となって落ちてみたとき、最初に接触したのがクリスだったんです。ほかにも多くの人間に接触してなかに入りこみました。そこで得られた情報をまとめて、この星の人々についてどうすべきか考えてみたのです。しかし結果的にうまくいかなかった」
 「そうこうするうちにあなたはグプタ教授のもとに連れていかれることになった」
 「教授はとても柔軟な思考の持ち主で、人類についてじっくり腰をすえて考え直そうと思っていたわたしにとっては、とても好都合な話し相手でした」
 「米軍の研究に協力するふりをしながら、時機が来るのを待っていたんでしょう」
 「この日がやって来ることは、最初から教授に話していましたよ。ただ、信じようとしなかっただけだ」
 「この日って……」
 「地球から人類が消える日ですよ」
 「あの霧をもたらした雲はどこまで広がるのかしら」
 「八年前とは、届いたエネルギー量がまるでちがう。膨大なんです。このまま地球全体を覆うでしょうね」
 「霧にあたった人はカミキリムシの怪物に変身し、変身しなかった人も怪物に食い殺される。そういうことかしら。最後は怪物だけが残る」
 「カミキリたちはわたしの手足です。もはや元の人間の意識は消えている。だから役目を終えたら個体として残っている意味はない」
 「死んでしまうということかしら」
 「そうです。クリスの肉体だってそうです。そもそもわたしの星では、進化の末に肉体は不要になっているので」
 「高次元の意識体ね」
 「よくごぞんじで。グプタ教授から聞きましたか」
 「地球の人たちが思い描く宇宙人のイメージとはかけ離れているわ」
 「頭と目玉の大きなエイリアンなら、わたしも多くの映画で見ました。人類の想像力の進化度合を考えればやむをえないことです」
 奈央はあたりをぐるりと見まわした。アメリカの南部か。はじめて見る光景だったが、日本の田舎とさして変わりなかった。幹線道路を猛スピードで車が行きかい、その向こうにどこまでも緑が広がっている。高い建物なんてどこにもない。森の一部は蛇行した川にのまれてバイユーと呼ばれる独特の地形になっているのは、日本人にはなじみがなさそうだが、それでも渓流や湿地帯の広がる森なら国内にもある。それに都会にいちじるしく遅れを取り、にっちもさっちもいかぬまま朽ち果てていくさまも、さして変わりはないだろう。物質文明の尺度からはとっくの昔に葬られている場所だ。だがそれもこれも、すべては人間という肉の塊がどう生き続けるかということが原点にある。
 「あなたの星ってどんなふうなのかしら」奈央は思いきって訊ねてみた。「てゆうか、名前とかあるのかしら、その星に」
 クリスは鼻を鳴らして苦笑した。「はるか昔、大進化を遂げる前の時代、つまり地球とおなじく無数の個体がひしめきあいながら暮らしていた時分には、みんなで呼んでいた名前がありました。もうほとんど思いだすこともありませんでしたけど」
 「なんていう名前?」
 「ラニ」
 「ラ……ニ……?」
 「はい」クリスは懐かしそうにその名前を口にして微笑んだ。
 「地球にもありそうな呼び名ね。どこかで聞いたことがあるわ」
 「ハワイ語でしょう」
 奈央は記憶の片隅をつつかれたような気がした。そうだ。たしかにハワイ関連のサイトで見たおぼえがある。クリスはスニーカーの爪先で地面の土にアルファベットを書きつけた。
 LANI
 「グプタ教授に聞きましたよ。ラニは天国という意味らしいですね。すばらしい場所ということなら、まさにそのとおりです。母なるラニはだれもが幸せに暮らす星だったし、自我と自我の融合や、肉体から独立した自我といった大進化さえもたらした。でもその星にも寿命があったのです。皮肉なものです。天国が死者の集まる場所という意味なら、これほどその呼び名がフィットするところはありません。かつてわたしが暮らしていた星は」
 「生まれた星がなくなってしまったことには同情するけど、だからと言ってべつの星を侵略していいということにはならないでしょう」奈央は弟を叱責する姉のような口調で告げた。そしてこれこそが現実的な解決法だとふんで提案してみた。「わたしたちと共生することはできないのかしら」
 クリスはゆっくりとかぶりを振った。「生存競争というものにいつまでも縛られすぎている」
 「それは生物界の自然現象だからある程度しかたないわ」
 「だからこそ進化すべきなんです」クリスは真顔だった。「それを乗り越えて他者にもっと気持ちを寄せていく。それこそが自我の融合、もっとわかりやすいあなたたちの言葉を使うなら“テレパシー”へとつながっていくのです。それなのに――」クリスは憤然として、この八年間にグプタやインターネットを介して見聞きしてきた人類社会の愚行を並べたてた。「いつだって自分や家族が中心だ。強欲のかぎりをつくして利益を得ようとする。その延長が見知らぬ他人、他国、他民族への不寛容さにつながり、徹底的に排除しようとする。そんな自分に酔いしれ、自己愛の極みのなかで裸の王さまへと肥大化していく。批判は決して許さず、周囲もやがてそれに合わせて自粛し、忖度していく。なにも大企業のトップや一国の為政者にかぎった話ではありませんよ。人に襲いかかるカミキリムシの化け物なら銃で始末できますが、人間のモンスターはそうはいかない。つまるところ自分が愛されていないと不機嫌なんですよ。だから愛を乞いつづける。他人を犠牲にしてでも。それがいまの人類でしょう。しまいには命の源である地球そのものを傷つけはじめている。なによりもそれだけは避けなければ。途方もない時間を費やしてようやく見つけた星なんです。わたしだって失いたくありませんから」
 クリスの言葉は奈央の頭の真ん中に響きつづけた。彼の言うような世のなかだとは思いたくない。しかし奈央自身だって幸せになりたい。そのためには他人とのあつれきは避けられないし、我を張ったことだって何度もある。生存競争なのだ。それを否定することがどうして進化なのだろう。
 だがクリスの言いぶんもわからないではない。
 私利私欲の果ての戦争が人類史から消えてなくなったことは、ただの一度だってない。身近なところでも、人は争ってばかりだ。はたで見ていて嫌悪感をもよおすことだってたびたびある。適者生存という進化論はもはやいまの世のなかでは破綻しているのではないか。
 奈央は揺れた。
 結局、個にとらわれたまま、人類は破滅する運命なのだ。ならば人類なんかより格段に進化したクリス、すなわち高次元の意識体に身をゆだねてしまうほうがいいかもしれない。
 クリスが空を見あげた。それにつられて奈央も目をあげた。
 雨が降りだしていた。
 いつの間にか空が暗くなっていたのだ。
 もしかしてこの雨は……。
 しだいに強まる雨はセブンイレブンの軒を越えて吹きこんでくる。奈央の頬や額にも滴が飛んできた。蒸し暑さが薄らぐ。風もそよぎだし、悪くない感じになってきた。いや、とっても気持ちがいい……。奈央は目を閉じた。心地よい疲労感が目の奥に広がる。
 いけない――。
 奈央は変化しはじめている自身に気づいた。目を開けると、もはやそこはルイジアナの田舎町ではなくなっていた。七色の光が猛スピードで飛び交う異世界だった。こんなに明るく美しい場所は見たことがない。ふいに奈央は、そこがクリスを統べる意識体がじっさいに存在する宇宙空間であることに気づいた。その刹那、耳をつんざく音がした。
 ギィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ……。
 振り向くとそこにクリスがいた。前よりもずっと近くにすっきりとした目鼻だちの顔があった。
 きっとあなたがやって来ると思っていました――。
 なぜかその言葉が頭のなかによみがえった。さっき森で会ったとき、クリスが口にした言葉だった。
 彼はわたしの能力を知っていたのではないか。
 だから日本に雲を発生させて、自分のほうからわたしに……会いに――。
 奈央はふつうの人間ではない。テレパシーを操ることができる。だからこうしてクリスにアプローチできるのだ。その意味では、彼により近い進化を遂げた同類と言えなくもない。
 オーロラが爆発したような宇宙空間で奈央は思いきって訊ねてみた。
 「あなた、本当はわたしが来るのを待っていたんでしょう。だからわたしもここまで生き延びられたんだわ」
 クリスの体がびくりとする。まんざらでもない同級生から突如告白された高校生みたいだった。
 「義姉のイメージに入りこんで、あざみ野であなたに近づいたとき、ものすごい痛みが腕に走ったの。拒絶感、敵がい心、そういうよくない感情を感じとったわ。けど、あれってようするに、驚いて取り乱してしまったってことなんじゃないかしら」
 頬を赤らめてうつむく白人青年が目の前にいる。へんな感じがした。全知全能の神とも言うべき意識体にもそんな感情があるなんて。
 奈央はたたみかけた。「たくさんの自我を自分の内に取りこんでも、結局、あなたは一人のまま。一人でいるってどんな感じかな」
 「それが進化だから……ラニでの……」
 「それによりあなたは、つまり高次元の意識体は、死を必然とする肉体から解放されたけど、一人ぼっちになってしまった。なんて言うかな、あなたは孤独な神さまなのね」
 「孤独か……もうずいぶん昔に忘れてしまった感覚のようだが」
 「じゃあ、あなたはこれからわたしをどうするのかしら。あなたの電磁波ネットワークの一部に取りこんでしまったあとでは、もうこうしておしゃべりもできない。永遠にね」
 クリスが顔をあげた。「あなたは特別だ。新しい進化の在り方を考えてもいいと思うのです」いきなり腕がのびてきて奈央は抱きすくめられた。義姉のイメージのなかで受けたときとおなじ、激しい衝撃が全身を走り抜けた。
 とっさに奈央は口走った。「わたしを連れていって……これも運命かもしれない。ただ、そのかわりに……」
 「そうはいかない」クリスは奈央を抱きしめながら耳元でささやいた。「この星を守るためにはやらなければならないことがあるんだ」
 周囲を取り巻く色合いが一気に増し、カミキリムシの鳴き声さながらの音は雷鳴のように耳を弄した。
 奈央は息をのんだ。
 体がふわりと浮かぶ感じがしたのだ。
 胸も脚も消えはじめている。
 た……す……け……て……。
 最後まで視界から消えなかったのは、左右の手のひらだった。
 だめだ。
 奈央は気力を振り絞った。人身御供を申しでたところでクリスに殺戮をやめさせることはできない。だったらこの手でなんとかしないと――。
 宙に浮いたようになった両の手のひらが白人青年の胸から肩、首筋、そして頬へとあがっていく。ついにこめかみを両手が挟んだとき、そこから一気に高熱が噴きだしてきた。ひるむわけにいかなかった。熱も痛みもすべてシャットアウトして気持ちを集中させ、指先に力をこめる。吸引するのだ。頭蓋骨を突き破り、脳があるべき場所を高精度の検査針のように探っていく。
 おかあさん……。
 消えゆく意識の片すみで奈央が叫んでいたのは、その言葉だった。
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