第五話「疑問」

文字数 4,215文字

「ほら、これが星図。昨日見ていたのはこのあたり。……これが昨日見た一番明るい星だ」
隣で目を丸く見開いてこちらの手元を覗きこむエリスに、フィリアは天球図のシリウスを示して見せた。日が沈んだので二人で地上の応接間にやってきたのだ。
「こっちの星座早見のほうがわかりやすいかな」
 早見表の円盤を回し、簡単に操作方法を説明する。季節と時間、場所を定めれば星空は一つに定まるということ。
 そういえばこちらの建物はここ以外にどんな部屋があるのだろうか。夢中で早見表を試しているエリスに断ってふらりと廊下に出る。
 狭い通路を抜け、一つ一つの部屋を見て回る。応接間、使われていない寝室、埃を被った本が並ぶ書斎。本当に居住区として作られたスペースだったらしい。そうやって部屋を巡るうちに、 二階の片隅にひとつだけ埃を被っていない扉があるのを見つけた。青草の原、湖のほとりで動物たちが憩うレリーフが刻まれた黒い扉だ。小柄な少女の機体をもつフィリアであっても背を丸めないと通れないであろうほど小さい。
 この部屋には何があるのだろうと取手に手をかけた。しかしドアノブが回らない。鍵がかかっているのかと思ったが、どこを探しても鍵穴のようなものは見当たらなかった。フィリアは少し考えて、エリスのもとに帰ることにした。そこそこ時間も経っている。
「おかえりなさい。何か面白いものはみつかった?」
 部屋に戻ると、エリスは父親の椅子に座って地図を眺めているところだった。さほど面白い物でもなかったらしく、すぐに机の上に戻して駆け寄って来る。
「まだわからないな。二階の黒い扉って何があるか知ってる?」
「ああ、あの小さな? わからないわ」
「そうか」
 半ば予測していた返答だった、やはりバーソロミューを待つしかあるまい。そう思っているとエリスが「あの扉はね」と続けた。
「私が謎を解けるようになるまで入っちゃいけないの。そういう風に出来てるんだって」
「謎?」
「ええ。確かわたしの部屋に残っていたはず。戻る?」
 フィリアは窓から空を見た。月が高く昇っている。
「そうしようか。晩ごはんの時間だし」
「そうだったわね。すっかり忘れていた!」
 彼女はそう言って暖かく笑った。地下に戻り、パンと具が少なくなってきたスープを温める。一体は食事を必要とせず、一人は小食なのですぐに夕食は終わった。そういえば、エリスが空腹や睡魔を口にしたのを聞いたことがない。
「待っててね、確かここらにしまったと思ったのだけれど」
 彼女はしばらく引き出しを漁り、小さな木箱と羊皮紙をフィリアの前に並べた。羊皮紙を見ると細かい字と入り組んだ図形が書き込まれている。一番下には「辺a,bの長さを求めよ」。初等幾何の問題だ。
「エリス。これについて説明はあった?」
「いえ、特に。『これが解ける頃になるか、私がいいと判断する頃になったらあの部屋に何があるか見せる』とだけ」
 こんなものをヒントもなしに解ける訳がない。普通の子供ならまず無理だ。要するに、バーソロミューはエリスに部屋を見せるつもりがないのだろう。少なくとも、今のところは。
「どう? 何かわかりそう?」
 エリスは期待を隠せない様子でこちらを覗きこんだ。
「今の時点ではなんとも。一晩借りてもいいかな?」
「ええ、何かわかったら教えてね」
 エリスは快く紙と箱を渡してくれた。おやすみ、と告げて部屋へと戻る。
「……でもあんまり夜更かししちゃ駄目よ!」
「はいはい」
 返事もそこそこに部屋に戻り、扉を閉める。フィリアはまず箱を振ってみた。中の紙がたてるかさかさという音だけが聞こえてくる。箱を指で軽く弾けば、極めて単純な響きが返る。そんなに複雑な機構ではなさそうだ。可逆の変化しか起きないだろう。実を言うと、フィリアには箱の開け方よりも閉め方の方が重要だった。バーソロミューの考えを無下にはしたくない。
 羊皮紙を眺め、とりあえず要求された辺の長さを目測で入れる。箱は空かない。よく見れば二等辺三角形とされている三角形の辺の長さが全部異なっていた。ちゃんと計算せよという事か。

 付き合ってられるか。機械には機械の数理がある。

 フィリアは逆三角関数を呼び出し、図中の角度を全て求めた。それから三角関数を呼び出して残された辺の長さを求める。普段歩いたり走ったりする時の計算に比べればはるかに簡単だ。それを繰り返し、導いた値を再び箱に入力すればカチリと機構が噛み合う音がした。丁寧に蓋を開け、折りたたまれた羊皮紙をつまみ出す。極めて単純な文章がそこにあった。
「食べる者から食べ物が出た。強い物から甘い物が出た」
 何の話かと記憶を辿る。比較的新しい領域に一致する文字列があった。士師記の一部、学習能力と危機管理能力に著しい欠如が見られる男の物語だ。サムソンと言ったか。文の前後を思い出し、続いて記憶したレリーフの図画を参照する。きっと、そういう事だ。
 見当がついたのでフィリアは紙を戻すと箱を閉じ、適当にダイヤルを回して鍵をかけた。それを机の上に置き、なるべく足音を立てないようにして暗闇の中を歩く。階段を登り、地上に繋がる扉に手をかけようとしたその時、警告灯がひときわ青い輝きを放った。
 この村の中に人間がやってきている。こんな真夜中に。フィリアは身を固くして炎を見つめた。青い輝きが階段に身を潜めたフィリアの姿を暴いている。
 この色が示すものは一つ。廃村への侵入者の存在だ。
 単に迷い込んだだけだろう。以前のフィリアと同じだ。夜を明かして、朝になったら出ていく違いない。ここには何もないのだから。
 この村に二人が隠れ住んでいる理由も、気づかれたらどうなるのかもフィリアにはわからない。それでもこの地下室は、この少女の存在は人に知られてはならないのだという確信だけがあった。人間がどれほど不寛容になれるか、フィリアはよく知っている。
 炎と共に思考も揺らぐ。部屋に戻ってエリスのそばにいるべきだろうか、入口を守っていたほうがいいのだろうか。もし相手が一人なら、万が一仕掛けに気づかれたとしても秘密を守る事は出来る。一対一なら仕留め損なう事はないだろう。人間は痛みを覚えると怯んで動きが鈍る。
 ますます大きく踊る青い炎を見据えながら時間を数える。内蔵された歯車だけが正確に時を刻み続けて約十分。教会の扉が開く音が聞こえた。耳を澄まして足音を解析する。一人分、まっすぐ聖堂へと入って来る。殺す息など元からないのに、息を殺すという単語の意味が理解できた気がした。
 足音の主はそのまままっすぐ祭壇の上へと上がった。まさか、と思考するのと同時に仕掛けが作動する。何故知っているのか?
 頭上の扉が開くのと同時にフィリアは地上へと飛び出した。ランタンを持って十字架前に立つ人影に向かって一直線に駆ける。
「なっ――」
 向こうがこちらに気づいて振り向くその前に、フィリアは飛び掛かった勢いのままに相手を押し倒した。侵入者の手から吹っ飛んだランプが聖母像の足元に転がる。フィリアは暗闇の中で不審な男に馬乗りになり、相手の腕を掴んで抵抗を封じた。小柄な体躯とはいえ、体は鉄で出来ている。乗ってしまえば振り払うのは難しい。
 自らの下でもがく不審者の首に手をかけ、軽く力を込めた。大人しくなったところで手を緩める。殺してはいけない。どうして地下の仕掛けを知っていたのか聞き出す必要がある。
 絞めたり緩めたりを繰り返すうちに、男は抵抗しなくなった。受光感度の補正を終え、弱々しく咳き込んでいる男の髪を掴む。こちらを向かせると見知った顔があった。道理で迷いなく地下室の扉を開けられるわけだ。
「……バーソロミュー」
「ぐっ……う、フィ、フィリア、か……?」
 どうすればいいのかわからなかったので、フィリアは記録された会話パターンに従って「おかえりなさい」と言った。
「……降りてくれないか、重いんだが」
 フィリアは慌ててバーソロミューから降りた。彼はよろよろと立ち上がり、聖母の足元に転がったランタンを拾いあげてこちらを見る。
「本当に君か。一体何のつもりだったんだ」
「警告灯が青く光ったので様子を見ていた。貴方にも反応するとは知らなかったんだ、悪かった」
 侵入口を知った人間がいるのならどうやって知ったのか確かめなければと思った。そう述べると「そうか」と短い答えがあった。
「随分と熱烈な歓迎だった」
「人間はこれを歓迎と呼ぶのか」
「皮肉で言ってるんだ」
 視線がさらに剣呑になる。相当機嫌が悪いらしい。間違いなく原因は自分だろうが。
「悪かったよ。貴方だと知っていたら何もしなかった」
「……まあ、いい。それにしてもどうやって気づいた? 君の部屋に変色炎は置いてなかったろ」
「偶然が重なってね。ちょうど地上に出ようとした所だった」
「こんな時間に?」
「人形に睡眠は必要ない。そして、日中外に出るなという指示があった」
「そうか」
 しばらく彼は何を言おうか考えているようだったが、結局やめる事に決めたようだった。
「言いたいことは山ほどあるが、夜中で僕もむちゃくちゃ疲れているし、神とマリア様の御前だ。また明日にしよう」
 彼は十字架と大理石の聖母にうやうやしく一礼した。またこの聖母だ、と思った時にはフィリアはその背に問いかけていた。
「バーソロミュー。人間は、どうして人は人間を模したものを作り、それを敬うんだ」
 彼は十字架を見上げたまま振り向くこともなく黙っていた。まあ即座に返事が返ってくるような類の質問でもないし、返答を期待出来る状況でもない。地下へ帰ろうと思った矢先だった。
「美しいからだよ。美しいから、真似したくなるんだ」
 フィリアは目の前の男を見た。疲れ果てた男の姿に似合わない、静かで芯の通った声だった。
「僕はもう寝る。君もそうした方がいい」
 彼は警告灯の色を元通りに戻すと「おやすみ」と告げて足早に降りて行った。フィリアも後に続いて自室に戻り、土のついた手を見下ろす。あの扉の向こうには何が隠されているのだろうか。そして、どうして彼は真夜中に土にまみれて帰ってきたのだろうか。
 彼女は土を落として寝台に横たわり、眼を閉じた。明日になれば何かわかるだろう。
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登場人物紹介

自律思考型自動人形JnC-sPEV1


人の似姿。短い黒髪に青い目をした凛々しい少女……を模して造られた人形。

設計思想が「とにかく人間に近づく」であるため身体能力も少女程度。

思考プロセスは極めて人間に近く、疑似的なものとはいえ感情すら有している。

エリス


廃教会に住まう、白い髪に赤い目をした少女。

外の世界を全くといっていいほど知らない。それ故に無邪気で天真爛漫。

バーソロミュー


エリスの父親。二人で廃教会に暮らしている。本人曰く「異端者」。

医術の心得があり、それで生計を立てている(と娘には説明している)。

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